心の門
【カルメラ二十歳視点】
『リベルタス歴18年、3月2日 夕刻』
青い光が消えると、不思議と私の体は軽くなっていた。まるで何年も背負っていた鎖の束が一気に解けたかのように。長い間縛られていたような重みが解け、心の奥に眠っていた感情が少しずつ目覚め始めたようだった。指先から足先まで、血が通うような温かさが広がっていく。
澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込むと、心までもが洗われるような清涼感があった。周りにいた女性たちが優しく微笑みかけている。ファリーナさんの小さな手はまだ私の手を握っていた。その温もりは、砂漠の太陽のように力強く、それでいて繊細だった。
「レオン、何をしたのじゃ?」
ファリーナさんが不思議そうにレオン様を見つめる。彼女の瞳には好奇心と敬意が混ざり合っていた。
「うん、悪い気持ちをね、封じただけだよ。応急処置みたいなものかな?」
レオン様は柔らかな声で答えた。赤い髪が部屋の光に照らされて優しく輝いている。その姿は、まるで夕陽に染まった晴れやかな空のように鮮やかだった。
「応急処置ですか?」
私は勇気を出して、レオン様の手をしっかりと握ってみた。指先が触れた瞬間、驚くほどの安堵感が全身を包み込む。不思議なことに、もう怖くない。むしろ暖かくて気持ちいい。ああ、もっと触っていたい。そんな思いが湧き上がる。
男性の手に触れても、あの恐怖が蘇らない。胸のつかえが解け、呼吸がこんなにも楽だったとは。
「これ、カルメラとやら? いつまでレオンに触っておるのじゃ? これは妾のじゃ!」
ファリーナさんが不満げに口を尖らせた。目は丸く、頬は少し膨らんでいる。彼女の声には嫉妬心と純粋な主張が混ざり合い、どこか愛らしささえ感じられた。
「あっ、すっ、すみません、つい……」
慌てて手を離す私に、アウローラさんが優しく微笑みかけた。彼女の佇まいには不思議と聖なる雰囲気が漂っていた。
「ふふっ、レオンくんったら、隅におけないのね。でもカルメラさん、レオンくんがやったのは本当に応急処置よ。そうね、心の門とでも名付けようかしら?」
アウローラさんの声は澄んだ鈴のように響く。その音色は、冬の澄んだ空気の中で輝く星のように純粋だった。神官の衣装が雪の白さと同じように輝いていた。
「うん、心の門だね。もしも、また原因に近づいてしまうと、門はあっという間に壊れてしまうよ」
レオン様は真剣な表情で説明した。彼の瞳には深い慈愛と少しの警告が混ざっていた。まるで年齢以上の知恵を持ち合わせているかのように。
「え? でも、もう西の皇帝に会うことはないと思いますし……」
私の言葉が途切れたとき、記憶の奥からエンリケ皇帝の冷たい目が一瞬よみがえる。胸がきゅっと締め付けられる感覚に、息が止まりそうになる。しかし、不思議なことに、それはすぐに遠のいていった。まるで厚い雲の向こうの出来事のように。
カイル皇帝が身を乗り出した。彼の動きは力強いが、威圧感はない。むしろ、熱い情熱を感じさせる。
「なあ、ちょっといいか? カルメラさん、いきなりこんな事を聞いて悪いが、砂漠の状況と、西の帝国について教えてくれねぇか?」
カイル皇帝の声には、兄のような優しさがあった。フェルナンド王子を少し思い出させる温かみがある。
「ええ、もちろん良いですわ」
そのとき、部屋のドアが開き、二人の男性が入ってきた。一人は威厳のある表情の男性で、もう一人は浅黒い肌に知的な眼差しを持つ人だった。風のようにさっと入ってきたのに、部屋の空気が一気に引き締まる。
「なんでもメルヴから情報がもたらされたと聞いてきました」
威厳のある男性が言った。彼の声は落ち着いていて、言葉の一つ一つに重みがある。
「リヴァンティアがいまどうなっているか分かりますか?」
浅黒い肌の男性が私に向かって尋ねる。彼はファリーナさんに少し似ている。同じ砂漠の血を引いているのかもしれない。
「バートル宰相とラシーム宰相です」
レオン様が小声で教えてくれた。彼の吐息が私の耳元をそっと撫でる。
私は深呼吸をして、これまでの旅で見聞きしたことを包み隠さず話した。息をするのも忘れそうなほど、言葉が次々と湧き出てくる。勝利にうかれるアークディオン、奴隷にされるリヴァンティアの民、そして一見平和に見えるものの、ザイナ姫の圧政のことも。
リヴァンティアで目撃した役人への冷徹な裁きの様子を説明すると、ラシーム宰相の顔が暗い怒りで歪んだ。彼の目には、故郷への思いと怒りが燃えていた。
「そうか……あいつは死んだか……」
ラシーム宰相の言葉には、哀しみと諦念が混ざっていた。彼の肩が僅かに落ち、苦い表情を浮かべる。
カイル皇帝は椅子に深く腰掛け、しばらく考え込んでいた。彼の眉間にはシワが寄り、まるで帝国全ての重みを背負っているかのようだった。
「なあ、結論から言おう。オーロラハイドから出せるのは重装騎兵千、これだけだ。あとはメルヴで兵をそろえてくれ」
その言葉には、帝王としての決断の重さが込められていた。
「えっと、たった千の兵で何ができるのでしょうか? わたしが西の皇帝のところに居た時、将軍が数万の兵でフロンダを落とした自慢をしてましたわ」
私の疑問に、レオン様が前に出た。彼の動きはしなやかで、若さの中に確かな自信を感じさせる。
「それについては、僕から説明するよ」
「え、ええ」
「千名が一日に消費する食料は何日分かな?」
レオン様の質問は穏やかだが、その目には鋭い光が宿っていた。
「えっと、一日分でしょうか?」
「うん、それじゃあ、馬の脚だと、メルヴまで十五日かかるよね。千人が十五日なら?」
彼の問いかけは、まるで学校の先生のようだった。でも、その眼差しには軽蔑ではなく、導きたいという思いが見える。
「十五日分ですわ」
「じゃあロヴァニアまでは? リヴァンティアまでは? すごいかかると思わない?」
レオン様の言葉に、私は少しずつ理解していった。大軍を動かすことの難しさを。頭の中で計算が進むにつれて、目の前に広がる現実が見えてきた。
「た、たしかに……」
私の言葉に、ファリーナさんが肩を震わせた。彼女の瞳には、故郷への切ない思いが満ちていた。
「妾とてはがゆいのじゃ。リヴァンティアを取り戻す兵力はあっても簡単には動かせぬ」
ファリーナさんが悔しそうに拳を握る。小さな手に込められた力に、彼女の決意が感じられた。その表情には、失われた国への深い思いが刻まれていた。
部屋の中は一瞬静かになり、窓の外から雪が舞う音だけが聞こえた。白い結晶が夕暮れの空を舞い、オーロラハイドの冬の厳しさを物語っている。
「そこでだ。フェリカから兵を借りたいと思う。そうすればロヴァニアから兵を出せる」
カイル皇帝の言葉に、レオン様が頷いた。二人の表情には、これから始まる戦いへの覚悟が浮かんでいた。
「うん、たぶんエドワードおじいちゃんなら兵を貸してくれると思うよ」
レオン様の声には、家族への信頼が滲んでいた。
「また、知らない土地へいくのでしょうか?」
私の声は少し震えていた。新しい冒険への期待と不安が入り混じる。旅は楽しいけれど、また見知らぬ場所へ行くことの恐怖も消えない。
「ああ、いやいや、まだ冬はあけてない。あと一か月くらいはゆっくりしてくれ」
カイル皇帝の優しい言葉に、私の心は少し落ち着いた。彼の瞳には、人を思いやる優しさが宿っていた。
「そうだね。それまでは美味しいものでも食べながら治療に専念しよっか」
レオン様も続けた。彼の優しさが、まるで暖かな毛布のように私を包み込む。
私の胸に暖かいものが広がる。この場所には、私を守ってくれる人たちがいる。長い旅路の果てに見つけた、安らぎの場所。
「ふふっ、癒しの力ね。洗脳の権能をこんなふうに使うのは素晴らしいわ……」
アウローラさんが微笑んでいる。彼女の瞳には神秘的な輝きがあった。そして突然、彼女は真剣な表情になった。まるで啓示を受けたかのように。
「ねえ、レオンくん。アナタ教皇になってみない?」
「きょっ、教皇?」
レオン様の驚いた声に、部屋中が静まり返った。誰もが、アウローラさんとレオン様を交互に見つめている。ロウソクの炎が一瞬揺れ、影が壁を踊った。
窓の外では雪が静かに降り続けていた。白い結晶が窓ガラスにぶつかり、やがて溶けていく。私の心の中にも、温かな光が少しずつ広がっているようだった。凍りついた記憶の氷が解け始め、新しい感情が芽生えてくる。
(私の心の門……ここなら、守られるかもしれない)
心の奥でそうつぶやいた。
静かな雪の夜、オーロラハイドの黒の城で、私の新しい人生が始まろうとしていた。幾千里の旅を越え、恐怖の日々を抜けて、ついに見つけた安らぎの場所。
窓辺に近づき、夜空を見上げる。雪雲の切れ間から、一筋の月明かりが差し込んでいた。それは、まるで私の未来を照らす光のようだった。
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