メルヴの砂岩城
【カルメラ二十歳視点】
『セダ・ヴェルデ歴189年、リベルタス歴18年、2月16日 昼』
砂岩で造られた城壁が地平線に浮かび上がる。ロヴァニアからの十日の道のりを経て、私たちは交易都市メルヴに辿り着いた。遠くに見える城壁は、かつての土壁とは違い、砂岩造りへと変わりつつあるという。冬の風が砂を巻き上げ、私の頬を刺す。
「あれがメルヴ総督府です」
ナシームが指さす先には、砂岩でできた立派な建物が見える。西の宮殿ほど華美ではないが、実用的でありながらも品位を感じさせる造りだ。
「狐のハッサン総督が待っています。彼はあなたの話を聞きたがっています」
その言葉に、私の胸が締め付けられる。
(また男性と会うの……怖い……)
指先が震え始める。私は深呼吸をして、震えを押さえ込もうとする。
「大丈夫ですか?」
ナシームが心配そうに私を見つめる。私は小さく頷くしかできなかった。
「総督は人情に厚く、商人上がりの方。エンリケ皇帝とは違います」
それでも、男性を目の前にすると身体が勝手に反応してしまう。恐怖が背筋を這い上がり、喉が締まる感覚がある。
南門でメルヴ兵に通行証を見せると、すぐに通された。ナシームの持つ狐の紋章を見て、兵士たちは深々と頭を下げていた。
街は活気に満ちている。リヴァンティアとは違い、人々の表情は明るく、自由に語り合う声が響く。市場は色とりどりの布で覆われた露店で溢れ、様々な香辛料の香りが漂っていた。
「ここがリベルタス帝国の最西端の都市、メルヴです」
ナシームは誇らしげに説明する。
「ここでは『自由なバザール』が特徴です。少しの税を納めれば、誰でも商売できます」
確かに、街を行き交う人々には強制された秩序は感じられない。それでいて混乱もない。自然な調和が街全体を包んでいる。
総督府に着くと、衛兵が私たちを中へと案内した。広い廊下を進み、豪華な装飾が施された扉の前で立ち止まる。
「ナシーム殿、お帰りなさいませ! 総督が中でお待ちです」
衛兵の言葉に、ナシームは深く頭を下げた。
「カルメラさん、ここからが大事です。あなたの話をぜひ聞かせてください。ささいなことでも構いません」
私は喉の渇きを感じながら、小さく頷いた。
扉が開かれ、私たちは広間へと足を踏み入れる。
部屋の中央には、太った中年の男性が座っていた。彼は豪華な毛皮のコートを着ており、寒さ対策優先といった感じだ。彼の横には若い男性が立っており、父親に似た顔立ちをしている。
「ようこそ、メルヴへ! 狐のハッサンじゃワイ! そしてこっちが息子のラクダのサイードじゃよ!」
大きな声で自己紹介する男性に、私は反射的に後ずさりした。声の大きさと身体の大きさに、恐怖が体中を駆け巡る。
「総督、これが私が報告した西方からの逃亡者、カルメラさんです」
ナシームが静かに紹介する。
「ほう、セダ・ヴェルデの宮廷から逃げて来た娘さんかい? よく来られたのう!」
ハッサン総督が立ち上がり、こちらに近づこうとする。その動きに、私は思わず小さな悲鳴を上げた。
「やめて……近づかないで……」
私は壁に背を押し付け、全身が震える。息が荒くなり、視界が狭まっていく。
「父上、その態度が怖がらせているのでは?」
若い男性、サイードが静かに言った。彼の声には落ち着きがあった。
「む? ワシがなにか? ……ああ、なるほど……」
ハッサン総督は一歩下がると、静かに座り直した。
「ナシーム、説明せい」
ナシームは私の側に来ると、静かに語り始める。
「彼女はセダ・ヴェルデの宮廷で……皇帝エンリケ三世に……毎晩のように……」
言葉を選びながら、ナシームは私の過去を伝える。ハッサン総督の表情が次第に暗くなっていく。
「そうか……つらい思いをしたのじゃな」
ハッサン総督の声は、先ほどよりも静かだった。私はまだ震えが止まらず、床を見つめたままだった。
「サイード、サフィーナを呼んでくれ」
サイードはうなずくと、扉から出ていった。しばらくして、若い女性が部屋に入ってきた。長い黒髪と穏やかな目を持つ美しい女性だ。
「父上、お呼びですか?」
「ああ、サフィーナよ。こちらはカルメラさん。西方から来た方なんじゃが、男が怖いらしい。少し話を聞いてやってくれんか?」
サフィーナという女性は、私をじっと見つめると、静かに近づいてきた。
「カルメラさん、大丈夫ですよ。誰も傷つけませんから」
彼女の声は穏やかで、温かい。私は少しずつ、震えが収まっていくのを感じた。
「よかったら、別の部屋でお話しましょう。女だけで」
サフィーナの提案に、私は小さく頷いた。ハッサン総督も同意し、私たちは小さな応接室へと案内された。
窓から柔らかな日差しが差し込む明るい部屋だった。サフィーナはお茶を用意すると、私の向かいに座った。
「西からいらしたのですね。大変な旅だったでしょう」
彼女の優しい言葉に、私は少しずつ心を開き始めた。お茶の温かさが、凍えた心を溶かしていく。
「はい……セダ・ヴェルデの宮殿から逃げてきました」
「そうでしたか。ここでは安心してください。メルヴは自由の入口なんです」
サフィーナの笑顔に、私は救われる思いがした。
「でも、男性が…恐いんです」
「それは当然のことです。無理に克服しようとしなくていいと思いますわ」
サフィーナは私の手を握り、優しく言った。
「でも、レオン様ならきっとあなたを助けられるはず」
「レオン様?」
「リベルタス皇帝の弟様です。彼は特別な力を持っています。心を癒す権能です」
彼女の目は輝きに満ちていた。
「彼ならきっと、あなたの心の傷を癒してくれるわ」
サフィーナとの会話の後、私たちは再びハッサン総督との話し合いの場に戻った。今度は緊張しながらも、少し落ち着いて話を聞くことができた。
私は見聞きしたことを語る。
セダ・ヴェルデの主な産出品は絹であること。
お茶などの栽培が盛んなこと。
フロンダという街を占領したが、統治に手を焼いていること……
夜になるとエンリケ皇帝に……
私はそこまで話して、頭を抱えて震えてしまう。
「カルメラ殿、あなたの話を聞いて決めました! オーロラハイドへ向かいなさい!」
ハッサン総督は大きな声で言ったが、今度は以前ほど怖くは感じなかった。
「レオン様に会えば、その心の傷も癒えるやもしれん。我らがメルヴの騎兵隊が護衛をつけよう!」
彼の言葉に、私は初めて希望を感じた。
「本当で……ございましょうか……」
「もちろんじゃ! メルヴ総督、狐のハッサンの名にかけて約束する!」
総督は胸を叩き、力強く宣言した。サイードも頷きながら、父親の決断を支持しているようだ。
「ナシーム、このまま彼女と共にオーロラハイドへ向かうがよい。最高の騎兵を十名つける」
「かしこまりました、総督」
ナシームは深く頭を下げた。
翌日、私たちは新たな旅の準備を整えた。メルヴを出発する朝、寒さはより厳しくなっていた。サフィーナが暖かい服を用意してくれる。
「オーロラハイドはここよりもずっと寒いの。これを着て」
彼女は厚手の毛皮のコートや毛糸の下着を私に手渡した。
「サフィーナさん、ありがとう」
私は心からの感謝を込めて言った。
「気をつけて。そして、良くなったらまた会いましょう」
サフィーナは私を優しく抱きしめた。
メルヴの東門から、私たちの一行は出発した。ナシームと十名のメルヴ騎兵に守られ、私たちはオーロラハイドを目指す。冬の厳しい旅路だが、心の中には小さな灯りがともり始めていた。
(レオン様……あなたは本当に私の心を癒せるのでしょうか)
『リベルタス歴18年、3月2日 夕刻』
十五日の旅を経て、私たちは雪に覆われた丘の上に立っていた。風が雪を巻き上げ、視界は時折霞む。それでも、遠くに見える三重の城壁は圧倒的な存在感を放っていた。
「あれがオーロラハイドです」
ナシームが静かに言った。
「リベルタス帝国の首都です。あなたの旅の終着点」
白い雪に覆われた大都市。その美しさに、私は言葉を失った。あんなにも長く、苦しい道のりを経て、ようやく辿り着いた場所。
雪が舞う中、私たちはゆっくりと城壁に近づいていく。
(ここで、私の新しい人生が始まるのでしょうか)
心の中で問いかけながら、私は息を白く吐いた。
雪にかすむオーロラハイドの城壁が少しずつ大きくなっていく。そして、その先に待つ未知の運命を、私は静かに受け入れる覚悟を決めていた。
「とても面白い」★五つか四つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★二つか一つを押してね!




