虹の滝
「キング、ヨブ、ツイテコイ……」
ゴブリンの代表者はそれだけ言うと、森の奥へと歩き始めた。
振り返る姿に明らかな意図があった——付いて来いと。
残された我々は顔を見合わせる。
緊張感が空気を震わせていた。
「……キングを呼ぶ、と言ったのでしょうか」
ヒューゴが低い声で呟く。
一方でリリーは、小さく頷いた。
「『王に、用がある。ついてこい』という意味かと。一生懸命に人間の言葉で伝えようとしたのでしょう」
彼女は耳をすませるように言った。
オルド村長も杖を握り直し、「王に謁見とは、思いがけぬ幸運じゃな」と呟く。
王に謁見か——それは思いもよらぬ展開だった。
俺は仲間たちの表情を確かめ、決断を下した。
「行こう。これが交渉の第一歩だ」
警戒しながらも、我々はゴブリンの後を追った。
やがて木々が急に開け、まるで異世界のような景色が広がる。
巨大な樹木が天蓋のように空を覆い、地面には色鮮やかな花々が咲き乱れていた。
その中心には、巨大な滝が流れ落ちている。
太陽の光を受けて、滝壺の水面は虹色に煌めき、幻想的な輝きを放っていた。
「これは……」
息を呑む。自然の美しさに圧倒される感覚。
「虹の滝!」
オルド村長が畏敬の念を込めて呟いた。
「伝説の滝です。ゴブリン族が聖地として崇めている場所とされていますが、その存在を確認した人間は稀。わたしも噂でしか知りませんでした」
その滝壺の向こうから、一体のゴブリンが現れた。
他のゴブリンたちより一回り大きく、鎧のような皮膚に覆われた体躯。
鋭い眼光と堂々とした立ち振る舞い。その存在感は、人間の王にも負けない。
「ゴブリンキング……」
俺は思わず呟いた。
確かに——目の前にいるのは、ゴブリンの王に違いない。
「ようこそ、人間たちよ」
驚くべきことに、ゴブリンキングは流暢な人間の言葉を話した。
その声は低く、しかし知性を秘めた響きを持っていた。
「我が名は、グリーングラス。この森の守護者にして王だ」
グリーングラスは俺を見据え、突然声を張り上げた。
「少し試させてもらおう! 貴族神授領域!」
緑の光が彼の周囲に広がる。
権能——ゴブリンにも権能を持つ者がいたのか!
「くっ! 貴族神授領域!」
反射的に俺も権能を発動した。
青白い光が交差する瞬間——
『パリンッ』
ガラスが砕けるような音とともに、双方の権能が打ち消しあって消えた。
一瞬の静寂の後、グリーングラスの豪快な笑い声が響き渡る。
「フハハハハッ! これでは下級ゴブリンが敵わぬわけだ。面白い人間よ、あらためて歓迎しよう!」
「試されたのか? 俺たちは合格か?」
「ああ、見事な反応だった」
グリーングラスは頷き、滝壺の近くの平らな岩へと我々を招いた。
腰を下ろすと、彼は静かに語り始める。
「人間たちよ、なぜ我が国に足を踏み入れた?」
厳しい問いだが、理不尽さはない。
むしろ当然の質問だった。
「俺たちは国境線を決めたいんだ」
率直に答える。
「お互いの領域を明確にすることで、不要な争いを避けたい。オーロラハイドという街を治める者として、平和的な共存を望んでいる」
「国境線……」
グリーングラスは滝を見つめながら、言葉を選ぶように間を置いた。
「我々も人間との争いを望まぬ。だが、既に人間はゴブリンの聖地に踏み込んでいる。それを許せるかという問題がある」
彼の言葉に、俺は頷かざるを得なかった。
確かに、侵入者は人間の方だ。
「その通りだ。だからこそ、きちんとした境界が必要なんだ」
誠意を込めて告げる。グリーングラスと視線が交差する。
その瞳の奥には、人間への複雑な感情が見え隠れしていた。
「我々ゴブリン族は、かつてこの地を追われたこともある。『虹の滝』は我々の祖先から受け継いだ聖地。これだけは譲れない」
彼の言葉に、俺は深く頷いた。
ふと、閃くものがある。
「そこで提案なんだが——この虹の滝を国境線にしてはどうだ?」
「ほう?」
グリーングラスの眉が僅かに動いた。
「滝はどちらの国にも属さない中立地帯とする。人間とゴブリンの境界であり、同時に交流の場としてはどうだろう」
沈黙が流れる。
風が吹き、水滴が舞い、木々がざわめいた。
やがてグリーングラスはゆっくりと頷いた。
「……それは良い考えだ。虹の滝を中立地帯とし、人間とゴブリンの友好の象徴とする」
彼の同意に、胸の奥で何かが軽くなる。
これで争いを避けられる——そう確信できた。
「我々も平和を望む。人間の中にも理解を示す者がいることを知り、嬉しく思う」
グリーングラスの表情が柔らかくなる。
「我々の村を見てはどうだ? 誤解を解く第一歩となろう」
そう言ってグリーングラスは立ち上がり、先導した。
我々は滝の水しぶきを浴びながら、彼の後を追った。
***
ゴブリンの村は、想像と全く異なっていた。
家々は木や岩で作られ、まるで森の一部のよう。
至る所に彫刻や色鮮やかな布が飾られ、文化の豊かさを物語っていた。
「見事な村だ」
素直に感嘆の声を漏らす。
村のゴブリンたちは最初こそ警戒していたが、王の傍らにいる我々を見て、次第に警戒を解いていった。
広場に集められた焚き火の前で、グリーングラスは宣言した。
「今宵は祝宴だ! 人間との和平を祝して!」
ゴブリンたちは歓声を上げ、太鼓を叩き始める。
リズムに合わせて踊るゴブリンたち。意外なほど陽気で、芸術的だった。
料理も並んだ。肉と魚、森の根菜と果実。
味付けはシンプルだが、素材の旨さが存分に生かされていた。
酒も振る舞われ、口に含むとスパイシーな甘みが広がる。
「美味い」
素直に言葉が出る。
焚き火を囲みながら、ゴブリンたちは歌を歌い、物語を語った。
古来の伝説、長く続いた苦難、そして人間との関わり——彼らの歴史が紡がれていく。
リリーはゴブリンの子供たちに剣術の型を教え、ヒューゴは戦の話で盛り上がり、オルド村長は古老たちと密談していた。
皆、不思議なほど打ち解けていた。
俺もまた、グリーングラスと並んで座り、塩の話をした。
塩は彼らにとっても貴重品だという。ならば交易の可能性もある。
会話を重ねるほど、偏見が溶けていくのを感じた。
彼らは野蛮な生き物などではない。
我々と同じように感情を持ち、文化を育み、社会を築いていた。
ただ姿形が違うだけで、本質は変わらなかった。
***
夜が明け、我々は村を後にする。
グリーングラスと共に国境となる虹の滝まで戻ると、彼は厳かな口調で言った。
「ここに、人間とゴブリンの新たな歴史が刻まれる。二つの民の交わりの始まりだ」
俺もまた、手を差し出し、彼と握手を交わした。
ゴツゴツとした手の感触。しかし、その温もりは人間と変わらない。
「オーロラハイドの塩を、近いうちに届けよう。友好の印として」
「楽しみにしている。我らも森の恵みを分かち合おう」
別れを告げ、オーロラハイドへの帰路に就く。
振り返ると、グリーングラスを先頭に、ゴブリンたちが手を振っていた。
塩田から始まった物語は、思いもよらぬ方向へと展開していた。
だが、これもまた新たな一歩だと思う。
さて、街に戻れば、国境線の報告をせねばならない。
そして塩の生産も増やさねば。
ゴブリンとの交易という、新たな可能性が開けたのだから。
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