国境線
【ゼファー視点】
暗い色合いの戦務室に、重苦しい沈黙が流れていた。
俺ことゼファーは、広げられた地図の前で眉を寄せる。紙面には森の外周が赤く縁取られ、ゴブリンの目撃情報が星印で無数に記されていた。
「ゴブリンの出現地点が、我が領の奥地まで及んでいる……」
ため息が漏れ、先日の激闘が脳裏に蘇る。あの時は貴族神授領域を使い、かろうじて無血で追い返したものの、それが根本的な解決になっていないことは明らかだった。
「このままでは、再び衝突は避けられません」
リリーの透き通った声が、凝り固まった空気を切り裂く。彼女は地図を指し示し、問題の核心を突いた。
「国境線が曖昧なまま。これが問題の根源でしょう」
その言葉に、シドとヒューゴが深く頷いた。
「……確かに」
「吾輩も同感です。明確な境界が必要かと」
俺は頭を抱え、呻くしかなかった。
(俺はただの塩屋だったのに……どうしてこうなった)
平和に塩を作り、のんびり暮らしたかっただけなのだ。それがどうして、ゴブリンとの国境線を決めるなどという、国家レベルの大役を担うことになってしまったのか。考えれば考えるほど、胃がキリキリと痛む。
(殺し合いはもう、ごめんだ……)
俺は、剣よりも塩釜の方がよほど性に合っている、ただの塩屋なのだ。あぁ、煙がたなびくあの番屋に、今すぐにでも戻りたい。
「ゼファー様、交渉が最善です」
リリーの凛とした声に、俺はふと我に返った。
「交渉、か……」
剣を交える前に、言葉を交わす。考えてみれば、ゴブリンにも言葉があり、知性がある。もし、彼らと塩の取引さえできれば、共存だって夢ではないはずだ。そうだ、希望はある。
「リリーの言うとおりだ。国境を決めよう。ゴブリンとの」
俺が決断を下して顔を上げると、視線の先には仲間たちの安堵の表情があった。交渉の使者には誰を遣わせるか。答えは、初めから一つしかなかった。
「俺が行く」
その一言に、室内に軽い動揺が走る。
「しかし、男爵様が自ら危険な場所へ赴くなど……」
心配するヒューゴの声を、俺は手で制した。
「塩の専売権を与えられた男爵だからこそ、俺が行かねばならない」
交渉のテーブルで物事が決まらなければ、俺の権能が最後の砦となる。それに、塩を求めるゴブリンであれば、俺が直接出向くことで、信頼を築ける可能性だってあるはずだ。
「それでは、読み上げ隊を結成しましょう」
リリーが厳かに口を開いた。
読み上げ隊……それは、領地の新たな法や取り決めなどを、領民に口頭で伝えて回るための使節団だ。この土地には文字の読めない者も多いため、立て札を立てるだけでは不十分なのだ。
今回の任務では、作戦立案の中心となったヒューゴ、元騎士であり護衛役のリリー、そして森の地理に詳しい元村長のオルド。この三人に俺を加えた四人が、ゴブリンとの交渉に臨む読み上げ隊のメンバーとなった。
「ワシが先導を務めますぞ。森の道は、一度見れば忘れんのが特技ですからの」
オルド村長が、年季の入った杖をトンと床に突き立てる。七十を超える老人だが、その瞳には長年の経験に裏打ちされた知恵が宿っていた。
「リリーはサポートを頼む。万が一の武力衝突に備えてくれ」
「任せて!」
リリーが応えると、腰に提げた剣が薄明かりを反射してきらりと輝いた。元騎士である彼女は、この中で最も戦闘の才に長けている。
「ヒューゴは全体の護衛と指揮を頼む。シドには、俺たちがいない間の留守を任せる」
ヒューゴと、部屋の隅に控えていたシドが、力強く頷いた。
俺は地図を再度見つめ、一つ息をつく。
「俺は……まぁ、いつものように、なんとかなるさ精神でいく」
自虐的な笑みを浮かべると、部屋に苦笑が広がった。だが、誰もそれを否定しない。やはり皆、心のどこかで俺の『何か』に期待しているのだろう。塩煙の立ち込める日々を思えば、これも悪くはないのかもしれない。
翌朝、俺たち読み上げ隊は、まだ薄暗い中を出発した。オルド村長の確かな足取りを頼りに、ゴブリンが目撃されたという森の奥深くへと進んでいく。
木漏れ日が差し込む緑のトンネルの中は、獣の鳴き声や鳥のさえずりが響き渡り、息をのむほどに美しい。だが、この場所がつい先日までの戦場だったと思うと、自然と喉が渇いた。
「このあたりは、以前ゴブリンの居住地があった場所のようです……」
しばらく進んだ先で、オルド村長が広場のような場所を指し示し、足を止めた。見ると、そこには住居の跡らしき、壊れた木材や奇妙な文様の石のタイルなどが散乱していた。
「もぬけの殻か」
俺は周囲に視線を巡らせる。
「先の戦闘で全滅したか、あるいは、どこかへ引っ越したのでしょう」
ヒューゴが冷静に現状を分析する。
「引っ越した、か……」
もしそうなら、彼らはどこへ行ったのだろうか。次の居住地は、一体どこに……。
言いようのない不安が胸をよぎった。ゴブリンは人間に近い思考を持つという。もしかしたら、すでに俺たちの動きを察知し、どこかで待ち伏せているかもしれない。
「慎重に進もう。リリー、警戒を強化してくれ」
「かしこまりました」
リリーは周囲への注意を怠らず、一歩ずつ丁寧に歩を進める。森の静寂が深まるにつれ、緊張感が増していった。
どれほど歩いただろうか。不意に、先頭を歩いていたオルド村長が、すっと右手を挙げ、俺たちを停止させた。
「あそこです。木陰にゴブリンが……」
オルドの指す方向に目を凝らすと、木々の影に五、六人のゴブリンが潜んでいるのが見えた。その手には、粗末ながらも武器らしきものが握られている。
「慎重に近づくぞ。敵意がないことを示さねば」
俺は声を落として指示を出し、自ら武器を収めて手のひらを見せた。敵意がないことを示すための仕草だが……果たしてゴブリンにも通じるだろうか。
ゆっくりと近づいていくと、相手もこちらの存在に気づき、動きを止めた。鋭い歯を剥き出し、警戒に満ちた目がこちらを睨んでいる。
(頼む、戦いにならないように……)
心臓が早鐘を打つ。距離が十メートルを切ったあたりで、一体のゴブリンが、すっと前に進み出た。
そのゴブリンは、他の個体よりも一回り大きく、筋肉質な体躯をしている。顔には戦闘で負ったであろう傷が幾筋も刻まれているが、その眼光は鋭いだけでなく、知性の光も感じられた。
やがて、そのゴブリンが独特の言葉を発した。以前に聞いたゴブリン語よりも、発音が明瞭に聞こえる。もしかすると、彼らの中でも代表格となる者は、より洗練された言葉遣いをするのかもしれない。
「グ、ゴブ、ゴブ……」
言葉を探るようにゴブリンが何かを呟き続ける。俺も意を決して一歩踏み出し、静かに語りかけた。
「我々は敵ではない。平和を望む者たちだ。君たちと国境線について話し合いたい」
俺の言葉が通じたのかは定かではない。ただ、ゴブリンの表情に、ほんの微かな変化が見えた気がした。剥き出しの獰猛さの中に、僅かながら好奇心の色が混じったような……そんな気がしたのだ。
交渉はまだ始まったばかりだ。それでも、最初の接触を武力衝突なく終えられたことは、小さいながらも確かな一歩前進と言えるだろう。
「キング、ヨブ、スコシマテ……」
ゴブリンの一行はそれだけを告げると、再び森の奥へと姿を消していった。言葉の正確な意味は不明だったが、「待て」という単語だけは、かろうじて聞き取れた気がした。
俺は深く息を吐き、ゴブリンたちが消えていった森の奥を見つめた。塩煙の村で始まった俺の物語は、今、思いもよらぬ場所へと進もうとしている。
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