sinθ≒0.695
午後の1番最初の競技は走幅跳である。つまり、たつ兄の活躍の場であるが。お昼休みもしっかり満喫していたたつ兄を思い出す。ウォーミングアップとかしなくていいんだろうか。走幅跳には、陸上部の短距離走専門の部員も参加すると聞いた。いくらたつ兄とはいえ、簡単に勝てるとは思わない。
走幅跳は3本跳び、そのうちの1番成績の良いものを使う。つまり2回までは失敗していいのだ。2回までは"ウォーミングアップ"に使える。ということだ。1年生から順に跳び、3年のたつ兄は1番最後に跳ぶ事になった。きっと交渉して1番後ろに行ったに違いない。1人3本跳ぶとはいえ、競技の時間は短い。観客席の1番見やすいところは女子でごった返している。俺は、フィールドの砂場の横に行った。ラインズマンと記録員などを砂場で挟み反対側に立った。運営の特権である。
「あ!りんくん!りんくんも見に来たんだね!」
なぜ、琴葉がここに…?
「特等席貰っちゃった!」
琴葉が陣取るのは、砂場の後ろ側で、走ってくる選手の正面に位置する。まぁ、概ねどうやったのかは理解できる。美術部として走幅跳の選手を題材にした絵を描きたいとか言ったのだろう。記録用に写真も撮ると言ってしっかり一眼レフまで用意している。きっと、たつ兄以外の選手は撮る振りするだけだろうが。
「ちゃんと走高跳の時も特等席で写真撮れるからね!」
俺のはいらんだろ。ほら。たつ兄の順番来るぞ。
琴葉に目配せすると、慌てて立ち位置に戻って行った。たつ兄の1本目の記録は6m70cm。いや、十分スゴすぎる記録だなこれ。俺のベスト記録に近い。俺もそろそろ7mの大台を突破したい気持ちはあるが。しかし、やはりたつ兄は2本目まではウォーミングアップに使う予定みたいだ。なんなら、歩数合わせも今やっているかもな。頭上の観客席からは黄色い歓声がやまない。これでも充分すぎる記録だからな。陸上部員は圧巻の7m20cm。きっとベストはもう少し跳ぶのだろう。3本もあればまだ記録は伸びそうだ。
たつ兄は2本目も7mに届かない記録で跳んだ。陸上部員も1本目の方が記録が良かったようだ。この2人の一騎打ちの様相を呈してきた。たつ兄だけでなく、陸上部員にも少なくない歓声が飛ぶのでやる気も出るみたいだ。
運命の3本目。たつ兄は、観客席に体を向け、両手を上げた。頭上で手を合わせるとはっきりとパチンと音が出た。何度も拍手をし、観客を煽る。たつ兄に合わせて観客席から手拍子が鳴り始める。少しずつリズムを早くし、たつ兄は構えて走り出した。手拍子以外の音が消えた競技場。ぐんぐんと加速するたつ兄。踏切板をふむ音がはっきり聞こえた。きっと観客席には届かないが、近くで見ていた俺やラインズマン、琴葉などは聞こえていただろう。明らかに前の2本とは違う音だった。体が斜め上へ投げ出される。その姿は透明な階段を登るようで、空中を歩くようで美しかった。まさに、たつ兄の背中からは翼が生えているように見えた。踏切板を踏んだ後は、手拍子もやみ、競技場全体で静かにたつ兄が跳ぶ姿を眺めていた。着地したあと砂煙から立ち上がる姿に競技場全体から再びの拍手喝采が送られる。
記録7m80cm。高校生の日本記録にも迫る、迫真の跳躍であった。




