クラスメイトの彼女が二股をしていたので『ざまぁ』して愉悦に浸る俺と、その顛末
胸糞成分多めです。ご注意ください。
「このアマ!」
「クズ男、死ね!」
ここは、陰塵高校2年B組。
現在、醜くも2人の生徒が互いを罵り合っているところだ。
初めのうちはもう少し日本語で会話していた気がするが……
馬鹿共の語彙力なんてたかが知れてるし、そんな滑稽な様子もまた、1つの笑える要素となっている。
ところで、当たり前だが、高校とは学びの場である。
それなのになぜ、このような動物園みたいな状況が発生しているのだろうか。
―――その理由を第三者に説明するには、まずは『学びの場』という定義から考える必要があるだろう。
ぶっちゃけ、勉強なんてものは、実際のところ1人でも何とでもやれる。
……とまで言うと、流石に言い過ぎな気もするが、ネットが普及し、オンライン上で様々なコンテンツを利用できるこの現代においては、少なくとも、皆が同じ空間に集まって机に向かう必要はない。各々がオンライン配信された授業を受ければ済むことだし、何ならそれの方が通学時の移動時間を節約できて良いまである。
では、そんな時代にもかかわらず、俺たちが高校に通っているのは何故か。
―――それはつまり、クラスという場が、社会の縮図であるからだ。
将来勝ち組になれるのは、限られた人間のみ。その限られた側に立つためには、時に他人を蹴落としてでも、頂点へとのし上がる術を身に着けていなければならない。
俺たちは、この青春と呼ばれる時期を利用して、その方法とやらを学んでいるのだ。
どうすれば地位を上げられるのか。
どうすれば他者を引きずり落とすことができるのか。
そういった思考は、ある意味で、動物が本能的に争う状況と通じるものがあるといえよう。そしてそう考えれば、この動物園みたいな光景こそが、学び舎における正しい状態であるといえるのではないだろうか。
さて、俺が漠也というクラスメイトの男の机に忍ばせた1枚の写真。
それをきっかけに、現在クラスのトップカーストに君臨していた2人が、これまで皆の前では取り繕って隠していた互いの醜悪な部分を暴露し合い、最早収拾のつかない事態へと発展しているようだが…
『ハハハ!ざまぁみやがれ!!』
俺は心の中でそう呟きながら、その状況を見て、笑いを堪えることができずにいた。
♢♢♢
そんな俺には、実は、1年の頃から同じクラスで、密かに思いを寄せている女の子がいた。
彼女の名前は陽凪。普段はおとなしくて真面目な子だが、この学年で彼女のことを知らない奴はいないだろう。何故なら、彼女はこの学園で屈指の美少女として有名だから。
そんな彼女と、当時は地味だった俺との間には、本来であれば接点などあるはずもなかったのだが……。
俺は、偶然に居合わせたとある出来事をきっかけに、彼女とたびたび話すようになっていった。
陽凪と話しているときは、いつも温かい気持ちになれた。陰キャで口下手でつまらなかった当時の俺の話にも優しく付き合ってくれて、楽しそうに聞いては上品な仕草で笑い返してくれて、俺はそれが嬉しくて……気がついたら彼女に惚れていた。
しかし、俺は自分に自信がなかった。まるで太陽のように眩しい、彼女の隣に並ぶ自信が。
だから、俺は変わろうと思った。
地味で目立たない自分を捨てて、クラスカーストの上に君臨することを目標にした。
初めは、何をすれば上に立てるのかさえ、全くわかっていなかった。それでも、イケてる奴らのことを観察して、見よう見まねで立ち振る舞って、人気者の話にはちゃんと相槌を打って、そうやって俺は、少しずつ陽キャグループへと溶け込んでいくことに成功したのだ。
しかし結局、彼女に告白できるまでには至らなかった。
春休みはそのことを心底後悔したのだが……
2年生のクラス分けの張り出しで、俺と陽凪の名前が同じクラスにあるのを確認したときは、運と自分の日頃の行いの良さに感謝した。
そして決意したのだ。
今年こそは、イカしたカッコいい男になるって。
―――そんな時、その決意を後押しする出来事が起こった。1年の頃から同じクラスで、新しい2年のクラスでもトップカーストに君臨するであろう、樹理亜に、放課後呼び出されたのだ。
「優之介、アタシと付き合いなさいよ」
彼女は何の前置きもなしにそう言った。
勿論、すぐに断ろうと思った。俺には陽凪という好きな人がいるのだから。
だが……
「アンタ、最近変わったよね」
そう言うと樹理亜は笑った。
俺のことを、俺の今までの頑張りを見ていてくれて、彼女はそれを肯定してくれたのだ。
―――この一言は、まさに俺が心の底から欲していた言葉だった。
だから……ギャルのような見た目で、正直好みではなかったはずの彼女が、その日の俺にはいつになく綺麗に映った。
樹理亜は、自分と付き合うことには多くのメリットがあると言った。彼女はこの辺りの店とか詳しいし、色んな遊びを知っている。だから、たとえいつか別れることになっても、俺にとってはきっと、いい経験になるって言った。アタシがアンタをさらに変えてみせる、って。
俺は自分に自信が持てるように変わりたいって思っていたし、これも陽凪に相応しい男になるための良い練習の機会だってことを、髪型とかちょっとダサいけど元が良いし正直好みだよ、って言葉とともにイカした彼女に言われたら、悪い気はしなかった。
それでも、俺と樹理亜が付き合っている間に、他の男子に陽凪を取られてしまわないかということが気がかりではあった。だが、樹理亜に、
「あの子を落とせるようないい男がこのクラスにいる?」
って訊かれたら、確かにそんなやつはいるわけがないから大丈夫だろう、と思った。
事実、新しいクラスであるこのB組は、1年のときと比べたら冴えない奴が多いクラスで、イケてる男子と言えば唯一、チャラそうな見た目の漠也くらいだった。
このクラスでなら、俺でもクラスカーストのトップに立てるのではないか、なんて思っていたところだったから、樹理亜の告白は俺にとって、まさに渡りに船だった。
付き合ってからの樹理亜は、本当に俺に色々なことを教えてくれた。デートでの食事代は全額男が持つものだとか、女子という生き物は記念日が好きだからちゃんと把握して、付き合ってから◯ヶ月後とかには必ずプレゼントを用意するべきだってこととか、サプライズも好まれるから日ごろから考えておくように、とか。
ついでに、樹理亜は俺のことを夜の街にも連れて行ってくれた。初めての経験だったが、彼女は積極的にリードしてくれた。こんな醜態を陽凪の前で晒すことにならずに済んでよかったと、あのときは本当に樹理亜に感謝した。
俺にとっては何から何まで知らなかったことばかりで、こんな無知なままで陽凪に告白しなくて良かった、と心の底から思った。樹理亜と付き合い始めてから、やたらと出費が増えたが、その分はアルバイトのシフトを増やすことでカバーした。
だが、俺の予定がバイトで埋まるうちに、樹理亜と一緒の時間は減っていき、ついには彼女の6月の誕生日を祝うレストランの予約を忘れてしまい、彼女の逆鱗に触れることとなる。そのお詫びに、高校生にしては少し高級なネックレスをプレゼントしたのだが、当然のことながら彼女はそんなことでは許してはくれなかった。
俺はなんとかして樹理亜の信頼を取り戻そうと、必死になって次なるプレゼントの案を考えていた、そんなときだった。
俺は見てしまった。
樹理亜と、クラスで一番のイケメンでチャラい容姿をした漠也が、腕を取り合って二人で歩いている姿を。
―――つい動揺してしまった俺だったが、すぐに2人の後をつけた。誤解かもしれないからだ。
しかし……あいつらは路地裏へ行くと、唇を重ねた。そして、その後歩き出した方角には……流石に心当たりがあった。
あの日のホテルへと消えていくのを見届けて、俺は確信した。
樹理亜は二股をしてる、ってね。
その結論に至ったときの俺は、ああ、俺はあいつに相応しい男になれなかったんだな、って自分を責めたさ。
俺が樹理亜の大事な日の計画を忘れていたから、許されないことをしたから、愛想を尽かされたのかな、って。
だけど、俺はもう一度チャンスが欲しかった。良い男になるための、チャンスが。
俺が本当に好きなのは陽凪だし、これで練習期間は終了でも別に構わなかったのだが、ちゃんと自分に自信を持ったうえでこの関係を終わりにしたかった。
樹理亜が好きとかじゃなく、男として負けた自分自身を許せなかったのだ。
だから週明けの月曜、俺は樹理亜に頭を下げた。今思えば、あんなクソ女に頭を下げる必要なんてなかったのだが。
そして―――俺を見た彼女の反応は、あまりに残酷なものだった。
『アンタとは付き合ってない』
俺は彼女に、はっきりとそう告げられたのだ。
意味がわからなかった。大体、付き合おうと話を持ち掛けてきたのは、樹理亜の方だったのだし。
だが、いざ彼女にそう言われたとき、俺は樹理亜と付き合っているという痕跡を何も持っていないということに初めて気がついた。
あいつは、いつも俺と一緒のときに写真を撮ろうとしなかった。こういうことは、記憶に留めておくのがロマンチックなんだよ、とか言われて。唯一、残っているのは初めてのホテルで撮った、ツーショットだけ。
L○NEをしても恋人とは思えない程に素っ気ないメッセージが返ってくるだけだったし、おうちデートは断られて、待ち合わせはいつも「駅」とか「9時」とか一言だけで、デート中は全部奢りで……
俺は馬鹿だった。こういう状況になって初めて、樹理亜がおかしいということに気づいたのだから。
そして、初めからお金目的だっただけなんだって理解したとき……
―――俺は彼女に対して、激しい憎悪の感情でいっぱいになった。
絶対に復讐してやる
そのどす黒い思いが、俺の生きる唯一の力となった。
その日を境に、俺がこの3ヶ月で築き上げたクラスでの地位は、一気に地に落ちた。
クラスカーストトップの樹理亜の実力は伊達じゃなかった。
漠也とは1年の頃から付き合っていたと、彼女は皆の前で宣言した。彼女の友人はそれにうんうんと頷いていたから、俺はずっと騙されていたというわけで……
そしてクラスメイト中から虚言癖のあるクズ呼ばわりされた挙げ句、俺は捨てられた。
思えば樹理亜はクラスでは俺に話しかけてきたことはなかったし、クラスの皆にとっては俺ばかりが樹理亜に話しかけていたという解釈になっていた。だから、俺が恋人だからと思ってやっていた振る舞いも、勘違いしてる樹理亜のストーカー野郎ってことにされた。
悔しかった。
だが、樹理亜との思い出はどれも形に残っていなくて、あったのはホテルに一緒に行ったときの一枚の写真だけだった。
後から思えば、あの時だけ写真を撮ろうなんて言ってきたのは変だった。もしかすると金づるの俺が異変に気づいて、別れを切り出したときのために、簡単にはそうさせないようにするための切り札だったのだろうか。
しかし……
俺は、逆にあの写真を利用してやろうという発想に辿り着いた。
俺と樹理亜が、例のホテルのベッドの上で身体を露にした状態で撮ったツーショット。
この写真を見たら、漠也はどう思うだろうか。
ショックもあり、この案を実行するか俺は一週間ほど悩んだ。学校も休んだ。
だが、クラスカーストの最底辺にまで落ちた俺には、もうこれ以上失うものは何もないということに気がついた。
―――だから、今日、俺はついにこのカードを切ることを決意したのだ。
漠也の机の中に仕込んだ一枚の写真を見て、彼は声を荒らげた。
当然だ。……というか、彼もまた被害者か。
誰も二股されて喜ぶやつなんていない。
いたらそれはただの変態だ。
そんな漠也を見て、樹理亜の顔は青ざめた。
―――しかし、それも一瞬。すぐさま彼女は反撃に出た。
「だからコイツとは本気じゃねーんだって!コイツが無理矢理……というか、金を払うっていうから仕方なく付き合ってやっただけで」
「テメーはいつも俺にだって金を払わせるよなあ?金さえ払えば誰にでもホイホイついていくってか?尻軽女の言いそうなことだよなあ?」
「っ……!じゃあアンタがこの前駅前のデパートで一緒にいたこの女は誰なのよ!?」
……これ以上はもう、説明する必要がないだろう。
そして、今に至る。
俺は、この光景を見て、心底清々しい気持ちになれた。
まるで一週間前に俺をコケにしたときは愛し合っているかのような口振りだった樹理亜と漠也だが、今では互いに日頃の悪事をさらけ出しながら罵り合っているのだ。それはつまり、そこに愛はなく、お互いに地位を利用しただけの関係だったということを意味しているわけで。
実に滑稽だろ?
だから、笑いが止まらない。
愉悦に浸って、今は最高の気分だ。
カーストトップの2人が失脚して、ざまぁみやがれ!
ここまで計画が上手くいくとは思っていなかった。正直、この光景が見られただけで十分と言っても良いほどだが……
しかし、俺の計画はこれで全てではない。
次のフェイズへと進むべく、もはや戦場と化した教室の隅っこで身を縮めている一人の女の子に、俺は声を掛ける。
さあ、俺の『ざまぁ計画』のグランドフィナーレと行こうじゃないか。
陽凪の左手首を掴んで、彼女の華奢な身体を強引に引き寄せる。
「今日の放課後、校舎裏に来い」
耳元で囁くように伝えると、俺は彼女の顔は見ずにそのまま立ち去る。
こういうときは、少しやり過ぎかってくらい、キザな方がいい。なぜなら―――女は強い男というものに、惹かれるものだから。
♢♢♢
「陽凪。俺の彼女になれ」
放課後。
指示通りに校舎裏に姿を現した陽凪に対して、俺は彼女へのつのる想いを告白しながら、『あぁ、とうとうここまで来たんだな』と感慨にふける。
思えば色々あった。
長い道のりだったし、その過程では嫌な思いも味わった。
……だが、そのお陰で俺は、陽凪の隣に立つに相応しい男へと変わることができた。
今日に至るまでの全てを思い返しながら、俺は目の前に立っている陽凪の、上から下までを眺める。
長くて艶のある黒髪に、大きな瞳、柔らかそうな唇。ブレザーの上からだと胸の膨らみを感じにくいのが残念ではあるが……抱き心地の良さそうな華奢な身体。それに、すらりと伸びる長い手足のお陰で女子にしては高めの身長も、比較的高身長の部類である俺にとっては、キスがしやすくて都合がいい。
まさに俺の理想をそのまま具現化したような女がついに手に入ると思うと、興奮して高ぶった気持ちが抑えられない。
「わ、わたし、は……」
しかしそんな俺とは対象的に、陽凪はそう呟くと、斜め下に目線を落とす。
なんだよ、焦らしやがって。
とはいえ、何とか苛立ちの表情を見せないように意識して、俺は彼女の返事を待つ。まあこれも一生の思い出になるかもしんねえしな。
―――だが、やがて陽凪の発した言葉は……
俺の期待していた、想像していた答えとはあまりにかけ離れたものだった。
「優之介くんとは、お付き合いしたくありません!」
……一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
やがて、少しずつ言葉の意味が頭の中に入り込んでくる。
俺が……この容姿とコミュ力を手に入れたこの俺が……フラれた……?
その意味を飲み込んでいくのと同時に、ここ数ヶ月の出来事の記憶が少しずつ思い起こされていく。
しかし、そんな俺の苦労も知らずに、陽凪は俺の気持ちを踏みにじるような発言をしたのだ。
俺がこの日のため、お前のためにどれだけ努力してきたと思ってるんだ?
そう思うと、何かはわからないが抑えきれない感情が込み上げてきた。
「は?ふざけんなよ!」
俺は気がついたら陽凪に怒鳴っていた。思ったより大きな声が出て、自分でも驚いた。
だが、目の前の彼女はそんな俺に少しだけ怯んで、肩を震わせながらも、それでも俺のことをじっと見つめ続けていた。
「優之介くんは、あの人たちにあんなことして、嬉しかった……?」
おそるおそる、といった様子で、陽凪は的外れな質問を投げかけてくる。
しかし、俺もちょうど陽凪に付き合いたくないとか意味不明なことを言われて困惑しているところだし、彼女も彼女できっと、俺の突然の告白で心の整理がついていないということだろう。そうに違いない。
こんなときは、押せば何とかなる。そのはずだ。
ここは陽凪を口説くチャンスと考える。
前向きに捉えることができるようになったのも、陽キャになった進歩の証だな。
「ああ。せいせいしたよ。あんなクズな女と付き合っていた事実が恥ずかしいぜ。それにお前の方が樹理亜より何百倍も可愛いと思う。だからお前はもっと自信を持っていいと思うし、これからは俺と」
「そんな話はしてない!!……どうして……」
俺は先程怒鳴ってしまったのもあり、できるだけ笑顔で優しく語りかけたつもりだったのだが、話を遮られ、むしろ彼女の抵抗は強くなったように思えた。
陽凪は酷く悲しそうな表情をしていた。
なんで……なんでだよ。
「私の知っている優之介くんは、そんな人じゃなかったよ……!」
陽凪は精一杯声を張り上げるように叫んだ。
それでも大きな声とは言えないが……彼女の瞳には涙が浮かんでいて……あれ……
「私の知ってる優之介くんは、優しい人だったよ。放課後、一人で失くした教科書を探していた私に声を掛けてくれて、最後まで一緒に探してくれたよね。あのとき、凄く、嬉しかった……嬉しかったんだよ……」
あの日のことは覚えてる。それこそが、偶然に居合わせたとある出来事。俺が初めて、陽凪と言葉を交わしたときだから。
「あんな風に、人を陥れて、それを喜ぶような人だなんて、知りたくなかったよ……。ねぇ、私の、わたしの初恋を……返してよ!」
……は?初恋?
「私、今まで男の子のことを好きになったことがなくて……あの日みたいに、何の打算もなく優しくしてもらったのは初めてで、でも自分の気持ちへの向き合い方が初めてだからこそよくわからなくて……そしたら、そうこうしているうちに……あの子に取られちゃった……」
彼女はさらに続ける。
「優之介くんと、他の女の子が一緒にいるところを見たときは、胸が締め付けられるような気持ちで……でも、いつの間にか、優之介くんは変わっちゃった……今だって……私の身体を、上から下まで舐め回すように見て、正直……気持ち悪いよ……」
次々と並べられる言葉の羅列の、その全てを理解するのは、俺にはあまりにも難しかったのだが……
最後の一言だけはやけに響いた。
『気持ち悪い』
それが、俺に、この俺に向けられた言葉なのか……
俺は変わろうと思った。地味で陰気な存在から脱却して、陽凪の隣に相応しい男になれるよう努力してきたというのに。
ついには怒りにも似た感情が沸き上がってきた俺は、陽凪のことを校舎の壁に押し当てるようにして、彼女との距離を詰める。右手の拳をぐっと強く握る。
そして、そのまま、俺の右腕は陽凪の顔面へと真っ直ぐ向かっていくのだったが……
そこで俺は、はっと、我に返った。
―――陽凪の頬に、一筋の涙が伝っていたのを、見てしまったから。
それに気がついた瞬間、俺は何も動くことができなくなってしまった。
俺が初めて陽凪と言葉を交わした、あの日の記憶が蘇ってくる。
あろうことか、最終的に陽凪の失くした教科書はごみ箱から見つかった。手分けして探していたとき、偶然覗き込んだそこに、乱雑に投げ入れられていたのを俺は見つけてしまったのだ。
でも、あの日の俺は何故かその事実を彼女に知ってほしくないと思って、伝えたくなくて……だから、それを自分のものとすり替えて、綺麗な方を見つかったよ、と言って彼女に渡したのだった。
「ねこライオンの散歩」
しかし、目の前の陽凪が小さく呟いたその言葉を聞いて、記憶とともに忘れていた感情が一気に押し寄せてきた。
それは、俺が退屈な授業中に書いた落書き。
確か教科書の猫のイラストに鬣をつけて、まるで犬のように散歩させているという、陰気で馬鹿だった1年前の俺が書いたもので……あ……
陽凪は俺から渡された教科書が、自分のものでないって気づいてた、のか……
「優之介くん。ずっと貴方が好きでした。……さよ、なら……」
「おい、待てよ陽凪!おい……」
その言葉を最後に、陽凪は泣きながら逃げるように走り去って行ってしまった。
俺は、そんな彼女の後ろ姿を、何の言葉もかけることができずに、ただただ見届けることしかできなかった。
やがて陽凪の背中が見えなくなっても、そのまま呆然と立ち尽くしたまま、放心状態でその場から動くことができない。
俺は、確かに陽凪のことが好きだった。
そのはずだったのに……
まさか自分がクラスでの地位を上げるため、取り戻すために彼女への告白を考えていて、陽凪自身への大切な気持ち、彼女への好意を忘れてしまっていたなんて……
でも、陽凪と初めて会話したときの思い出とともに、色々な感情が思い起こされて、一気に湧いてきたというのはつまり、そういうことで……
もう、何もかもが遅かった。
陽凪の涙を見て、思い出してしまった昔の気持ちだけど、それが叶うことは二度とない。
俺はどこで間違えたんだろう。
意識が朦朧とした状態でなんとなく廊下を彷徨っていると、気がついたら、あの日のゴミ捨て場の前に来ていた。
あの日、あのときをきっかけに、俺は確かに陽凪のことを……
―――だからこそ、忘れてしまった大切な何かを取り戻したくて、俺の身体は無意識のうちにそこへ向かって動いていたのかもしれない。
「死ねやこのクソが!!!」
しかし、そんな俺にはお構いなしで、汚い怒鳴り声が、俺に僅かに残されていた気持ちを上書きしていった。
声につられて思わず目を向けると、そこには樹理亜が俺のペンケースをごみ箱に投げ入れている姿があった。
あ……
まさか……
お前が……お前のせいで……
この瞬間、俺の心の何かが、完全に壊れた。
♢♢♢
私はずっと、優しい優之介くんの面影を追いかけていた。
あの子から救ってくれるって。
初めての気持ち。
胸が締め付けられるようで、でもどこか心地良いこの感情が……
噓だったなんて、思いたくなくて。
5月のある日のこと。
「アンタの好きな男は、アタシがもらったよ」
そのメッセージとともに、あの子から送られてきた1枚の写真。
それを初めて見たときのショックは、きっと、一生忘れることができない……と、思う。
『どうして、もっと早く、彼に自分の気持ちを伝えることができなかったのかな……』
あの子、樹理亜の本性を知っている私は、これ以上ないほどに後悔した。
私の大好きだった人が、彼のことを何とも思っていない女の子に、取られちゃった。
私の大嫌いなあの子に……取られちゃったよ……
悔しくて、悲しくて、その写真を見ては何度も涙を流して。
そうやって自分を傷つけることで、内気な自分を変えようと思った。きっと、彼のことを諦められない自分が、どこかにいた。
だから私は、いつしか毎晩のようにその写真を眺めて……
どうしても捨てることのできなかったその画像だったけど。
私はついに今日、それを削除した。
クラスカーストと復讐に固執すると、恋愛を忘れる。
そこが、ざまぁ。