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特定保健用食品

 ポスターだ。青い空と白い波が上下にぱっくりと分かれていて、どこから見ても南国の一頁を切り取ったような爽やかな暑さを、下手をすれば打ち寄せる水飛沫の音すら聴こえてきそうで、ホームから改札までの地下道で足が硬直した。間髪いれずに向かってくる人いきれは分厚いコートを身に纏っていて、白い息を吐く口許を隠すために襟に首を埋めるものが大半を占めていた。

 線路をまだらに染めた雪は昼間の熱では融けなかった。日射しは鈍く光るビル群に遮断されたり、そのまま熱圏へと回帰したりしていたのかも知れない。だから綿毛よろしく茶色い地面をおおっていて、些かも変わらない姿で、我が物顔で凍りついている雪たちにとって、どうせ春が来るまでの命だと、悴む寒さに妥協案を見出だしてみることをポスターに教えられている。

 こんなに寒いのに、霜焼けができた小指が痛むくらいだのに、飄々とした駅員が貼ったに違いない無頓着なポスターに釘付けになった。普通に考えれば、一般論で言えば、たとえ糞生意気な上司のお告げだとしても、暖房を二八度に設定しながら渡されたヤシの木に実が二つ成っている光景に疑問を持たないのはおかしいではないか。こんな時代に海外へ仕向けるなんて、電車じゃ行けないところだし。

「いいからやれよ」

「はい」では済まされないのだ。断ればいいのに。何で...

 薄く氷の膜が広がっているものの、人は転ぶ。まさか視認できるレベルの危険であればきっと避けることができただろうに、生憎そこには数百ミクロンの粒子が律儀に手を繋いでいた。地上への階段の中腹で、宙へと浮かんで仰向けのまま落ちてくる。スマホに夢中の学生は性別不明であり、上から猛スピードで向かってくる人影に驚いて右に飛び退いた。その後ろにいた婦人も後退りすることで事なきをえた。

 両ひざを頭の脇にそれぞれ、耳に接するように、足の裏が顕在化された状態で止まった。落ちてきた男はピクリともしない。ぼっとん便所に逆さまに座っているようでもあって、滑稽だから笑っちゃった。するとそこらにいた連中が鋭い視線を注いでくる。釈然としない。お前らだってただ呆然と死んだ目をして眺めていただけなのに、あたかもボク、ワタシたちは正常ですよってことを示したいがために蔑む標的を定めたんだな。本当に裁くべくは己なのに、誰かに矛先を、というのはまあいいとして。

 件の駅員が駆けてくる。そう、ポスターを貼る仕事を鵜呑みにした奴だ。

「あっ、これは大変だ。もしもし?大丈夫ですか」

 マニュアル通りにバイタルを確認している。何度も耳を男の唇に当てて息をしているか、手首に指を這わせて脈があるか。

「これは救急車を呼ばなくては」わなわなと、青白い頬に手を添えて立ち上がった駅員はスマホを操作し始める。暗証番号を打ち損じていることから、緊張が漂ってくる。周囲の野次馬はにわかに喧騒を醸し、面倒に関わりたくなくて去るものと、面白半分に写真撮影に興じるものとにざっくり区別される。

 他の駅員も集まり、見えない規制線に押し留められた客らは遠巻きになりゆきを見守る。

「ちょっと、ここで吸わないでください」

 注意された。くわえていたタバコの火を揉み消すふりをすると駅員が雑踏に消えた。いなくなったので煙を肺に満たす。男の落下してきた階段は何事もなかったように人通りがある。月明かりが恋しくなって、外に出たくなった。

 都心は放射冷却の影響で、路面はつるつるだ。踏まれた部分は圧力がかかって、氷は融ける。濡れた靴底で闊歩される階段が滑るのは無理もない。慎重になっていれば、迂闊にも転落してしまうなんて悲劇は免れたはずだ。

 塩をふられた蛞蝓そっくりだった。サラリーマンで、妻子ある男はこれからどうなるのか。気にならないとするのは嘘になる。でも分かったところで何をしてあげられる。何もしてやれないし、するつもりは沸かない。ってことで腹が減った。

 朝から食べてない。忘れているのではない。だって胃袋を揺らせても音がしないんだから。空っぽなんだから。立ち食い蕎麦屋の湯気をわざわざ遠回りしたのに、ハンバーガーチェーンの明るい看板で食欲をそそられてしまった。

 十二本の白線が並ぶ交差点には信号がついている。前はなかった。少なくとも枇杷を鳥が啄んでいた頃には。

 真新しい信号は、厚みがなくてスタイリッシュだった。眩しくないのに、心なし鮮明でもあった。素敵な設備で彩られた交差点で事故があった。

 子どもがトラックに惹かれたらしい。新聞やネットニュースで知ったのだが、法廷速度を三割オーバーした車の下敷きになったのは、サッカーボールで遊んでいた女の子だ。

 なぜか一人でボールを抱えていた未就学児は、右を見て、左を見て、手をあげて道路を渡る。そこにトラックがやってくる。運転手が当時を振り返る。「小さくて」「見えなかった」「いると思わなかった」と語る。

 小さくて見えずにいないものとして扱われた女の子は黒くて大きな輝くホイールに潰された。湿ったハンカチを握ったまま、半開きの口をもごもごさせる女の子の父親の映像は繰り返し放送されていた。会社の休憩所で、アパートで、至る所で目にした。父親は赤く腫れた目蓋を隠してしまうほどカッと開いた瞳で画面越しにこちらを凝視しているわけなんだけれども、焦点はどこか虚空に結ばれているかんじで薄気味悪かった。

 夜は滅多に車がないから、赤信号だけど平気で渡った。ガードレールに寄りかかる花束やお菓子の缶詰には雪がまぶされていた。サッカーボールも置いてあった。詳しい話では、別にボールが手から離れたのではないそうだ。娘を奪われた父親には皮肉にもボールが残された。愛娘にねだられて買ったものの、少しだけ泥が溝にこびりついたサッカーボールには相手がいなくなった。いないなら他の誰か欲しい人にあげればいいのだった。実際に父親は血縁者に渡すことを考えないではなかった。そうでないとボールは萎んでゴミ処理場に運ばれるだけの無為な時間を過ごさなくてはいけなくなる。

 天国にいる我が子は語りかけてくる。「どうぞ、遊んでいいよ」と微笑む。仏壇の写真は、口を縦に大きく開いて、散歩しているときに振り向いたのだったか、やけにいい顔をしていたから撮った。眉毛が細いのは生まれつきで、一重の目蓋は母親そっくりで、大きくなったらお嫁さんになりたいそうだ。

「誰の?」と訊いても、ふふ、と頬を染めて黙ってしまう。代わりに抱っこしてと言う。雪で凍える花束は、そんな女の子に手向けられていた。

 震える手足を揉んでいても、どうしようもない。暖かな屋内に入るか、酒を飲みたい。或いは居酒屋ならば二つのささやかなる願いは成就されよう。点字ブロックは滑りそうになる。鮮やかな黄色の表面がそもそもつるつるしているせいなのかなあ。それとも凹凸が原因か。もう最後の点字ブロックを踏んでから二十分は経っている。スマホの時計は簡単に時の流れを教えてくれる。目の見えない人はどうやって時間を読むのか分からない。点字ブロックはなくてもきっと杖で、犬で何とかなるはずだ。しかし時間は...

 胸に手を当ててみると、規則正しいビートを刻む鼓動があった。これだ!自然に足が止まる。ザク、雪が足の裏で軋む。生まれてから、例えば物心ついたときに「今は午前九時よ」などと知らされる。一分間に六〇の心音が囁かれるならば、二回目の脈動が示すのは午前九時二秒だ。そうして何千、何万回とカウントを続けていけば、三億と少しでバースデーケーキの蝋燭が十本くらい立つに違いない。人生は純白のイチゴショートケーキみたく甘いだけならいいが、そうとも限らないのが現実だ。

 驚くと心拍数は跳ね上がるし、眠るときは穏やかで、常に一定だなんて有り得ない。そんなこと馬鹿でも分かる。気づかないなら人間を止めろ。好きな人を目の前にすると、胸がドキドキすると形容されるように、いきなり速まる鼓動のために、今が何時何分何秒なのか乱され身悶え嘶いてしまう。自分が必死に紡いできた時の砂を、急に逆さまにされてしまったのに似た怒り。悲しみ。諦念の波が心の奥から押し寄せてくる。

「あなたって酷いわ」

「どうしてさ?」

「だって、そんなにも魅力的だから。おかげで私の築いてきた歴史が崩れ落ちた。跡形もなくね」と少しおどけてみせるも内心は興奮の坩堝が沸騰して治まらない。

「それは困ったね」

「ええ。困ったわ」

「うーん。それじゃあこうしよう」

 すると耳元で囁く。「君の代わりに時間を教えてあげるよ」という台詞は存外に聞き飽きたものであった。

「時間は戻ってこないのよ」

「確かに。午前九時からカウントを漏らさずに生きてきたのにね。ごめんね」

「謝って済む話ではないわ。もう顔も見たくない(盲目だから最初から見えないの)」

「だからこれからは時間を尋ねられたらすかさず答えるさ。それに君はその分だけ他のことに集中できるしね。どうだい、いい案だろう?」

 他のことに...

 一億カウント目の記憶を引っ張り出すと、鳥の囀りや木々の擦れる音が甦った。教室のピアノの旋律や、砂浜のさざ波が鼓膜を揺らした感触がリアルに思い出された。

 言われてみれば、カウントするのに夢中で、これまで過去の音に耳を済ませたことなどなかった。懐古するのは新鮮で、清々しい風が吹くのを意識せずにはいられない。

「本当にいいの?」

「当たり前じゃないか」

「ずっとよ。約束して」

「だからさっき君にキスをしたんだよ」

 二人はきつく抱き合って、喜びを露にした。

 全く甚だ呆れた話だ。心底ヘドが出る。

 もしも、相手に先立たれたらどうする?

 時間を明け渡した末路は悲劇だ。ぴったりと寄り添って、逐一時間を教えてもらって、健やかなるときも病めるときもと誓ったのに、いつかは失ってしまうことに思い至らないなんて!

「馬鹿はあなたよ」

「何でさ」胸に当てていた手を離し、拳を握る。

「最愛の人は約束したわ。いつも一緒だと」

「だから?」

 めくらの人は微笑するから、握った拳がわなわなと制御を失う。

「だから何だってんだ」

「同じタイミングで死ねばいいのよ」

 そうすればもう時を刻まなくていい。教える手間も、聞く手間も省ける。死が二人を別つまで、なんて嘘よ。死は二人を永遠にするのよ。

 まさしく恋は盲目とは言い得て妙だね。

 駅から随分と遠くまで来てしまった。月光が眩しい夜に幻想に濡れるのは心地よい。肝腎の酒屋を通り越し、やっと見つけた飲み屋街には熱燗が腐るほどあったが金がない。腰を落ち着けるのも忍びなく、泣く泣くまた歩く。

 階段で引っくり返った男は病院で手当てを受けて、寝たきりと診断されたろうか。カルテに大きくバッテンつけられて、はにかむドクターに毒でも盛られやしないか。そのくらいの不都合がないと釣り合わない。酒が飲めない不条理の辻褄が合わない。

「おや」

 青白い月明かりに照らされて、雪だらけの坂道を上る人がある。頼りない、背の曲がったおじいさんだ。いや、おばあさんのこともある。年をとると見分けがつかない。こちらの目が悪いのかも知れない。

 そんなことはどうでもいい。なぜならアルマジロを連れていたからだ。

 酒で体の芯に火をくべようとしている夜に、老人は黄金色したアルマジロを散歩させている。意味不明にもほどがある。可及的速やかに近寄り、声をかける。

「それは寒くないのですか」

 アルマジロが立ち止まり振り返ってこちらを仰ぐ。円らな瞳で怪訝そうに見上げる。そんな目で見るな、しかもお前に訊いた訳じゃないから。

 手でしっしと視線を追い払う。なおもアルマジロは睨んでくる。このやり取りに意を介さない老人はすたすた歩いている。アルマジロは引き摺られていく。何だか可哀想に思えてくるが、チョロチョロした舌にやっぱり腹が立ってくる。寒い。

「あのー。すみません、寒くないのですか」

 もう一度訊いてみる。ようやく老人は「あ?」と耳に手をあてがった。

「あの、あなた上半身裸で、寒くないのですか!」

「けっ、うるせえ」

 それは裸を指摘されたことに対してなのか、そうではなくて声が大きすぎたことによるものなのか、不服の表情を浮かべる。

「こいつはセンザンコウだよお」

 鼻にかけた言い方に、少しムカついた。1足す1は2です、みたいだった。

「センザンコウって何ですか。飼っていいんですか」

「え、知らんのセンザンコウを知らんの」

 知らんは一回でいいのに。老人はゲラゲラと笑っている。センザンコウも乾いた音をたてて揶揄している。

「セネガルって知ってる?」

「いや、知らないです」

「え、知らんのセネガル知らんの!」

 また老人は目を丸くして飛び上がった。粉雪が舞う。センザンコウも併せて踊る。前肢を器用に持ち上げて、後ろ足二本だけで立っている。

「セネガルはねえ、ダカールがあってさあ、そっからこーんなふうに海を越えて」と老人は大きく右手を左から右へとスワイプさせる。

「あ、分かる?今インド洋だよ」

 すると始点はアフリカ西部か。かなり飛躍したな。

「あ、インド洋じゃよ」

「はい」

「それで中国とか、ベトナムとかね。棲んでるの」

 老人が俯くとセンザンコウは「メチルイソボルネオール」と叫んだ。アリクイの鳴き声に近かった。

「今のは何と?」

「え、知らんの?ボルネオが懐かしいってさ。さっきから不勉強だね、あんた」

「はい」

 的を射た意見だったから、二の句が継げなくなった。そのときパッと視界が華やいで、ヤシの木が、それも実が二つついたのが見えた。

 紛れもなく青空をバックに風にそよぐ駅構内のポスターだった。

「ボルネオは暖かいでしょうか」

「うーん」

「いや、あなたじゃなくて」

「あ、センザンコウに言ったのね」

 老人の足元で蹲っていたセンザンコウは欠伸をして微睡んでいる。金色の鱗をすべて剥げば、航空機の運賃くらいにはなりそうだな、と思った。

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