2.淡水人魚のアン・アーカス
湖畔にあった小屋で、三日三晩介抱を続けた。
四日目の朝に目覚めるまで、一度だけ大量の血を吐いた。
良かれと思い、この地方に伝わるカユという、穀物を煮込んだスープのようなものを与えたのだが、人魚の体には合わなかったのか、飲み下したものを吐き出してしまった。
王子は慌てて、抱き寄せるも、体勢が悪かったのか、咳き込み始め、その途端に大量の血を吐いた。
人魚の血が、王子の肩口から、べっとりと革の鎧を汚していったが、王子は構わなかった。
抱き寄せ、背中をさすり、激しく震える人魚の体をなだめてやった。
しばらくすると、落ち着きを取り戻し、スヤスヤと寝息を立て始めた。
安心したのか、王子も、いつの間にか、人魚を抱きしめたまま眠ってしまっていた。
「うん? 気が付いていたのか?」
王子が、差し込む朝日の眩しさに、薄目を開けると、目の前には、人魚の顔があった。
目をキョロキョロと動かし、頬を朱に染めているが、口元に残った血が固まっており、かさぶたのようになっているのが痛々しい。
王子は、人魚の肩を抱いたまま、体を起こしてやった。
「大丈夫か? どこか痛むところはないか?」
王子は、人魚の体を調べてみたが、特に傷や痣のようなものは見当たらなかった。
あれだけ蹴飛ばされていたのに、体の方はもう完全に治っているのか?
王子は、脇腹の辺りを撫でてみたが、やはりきめの細かい白い肌は、とても柔らかく、なんともなさそうだった。
「あっ、あの……くすぐったいです……」
人魚は、顔を背けて、なんだか恥ずかしそうに、小さな声で言った。
「うん? ああ、すまない。だが、良かった。もう大丈夫そうだな」
王子は、人魚の顔を覗き込んだ。
「ちょっと、こっちを向いてみろ」
王子は、人魚の顎先を摘まんで、顔をこちらに向けさせると、カリカリと口元のかさぶたを取ってやった。
その間、人魚は、目を丸くしたまま、王子の顔を見つめていた。
「よし、綺麗になったな」
王子は、最後に親指の腹で、唇の端を拭ってやった。
「さて、では、朝食にするか?」
そう言って、王子が立ち上がると、人魚は、上目使いで何かを言った。
「あの……あなた様は?」
「うん? ああ、覚えていないのか? 向こうのほとりで漁師から助けてやっただろ」
「あ、いえ、それは覚えているのですが……」
「うん? では、なんだ?」
と王子が怪訝な表情を浮かべたのか、人魚は、少し怯んだ様子で続けた。
「あの……私……淡水人魚のアン・アーカスと申します。助けて頂き、ありがとうございました」
そう言って、アンは頭を下げた。
ああ、なるほど、自己紹介ってやつか、また名を聞きそびれるところだったな。
王子は、苦笑いを浮かべてはいたが、脳裏には、アイソダの顔が浮かんでいた。
「私は、ヴォーアムの王子だ。名をシン……」
と、そこまで言いかけると、急にアンが声を上げた。
「王子! 王子なのですか? しかも、ヴォーアムの?」
アンの勢いに、今度は王子が怯む番となった。
「まさか、こんなところで! あの、私の母も、その昔、ヴォーアムの王に助けられたことがありまして、その、なんて言うか……これは、そう、運命でしょうか?」
アンが立ち上がり、と言っても、人魚なので、正確には腰を上げている感じなのだが、その体勢で、王子に縋り付いてきた。
「いや、きっと、そうです! あー、そうなのですね。やはり、運命だったのですね!」
アンの勢いが止まらない。
両の指を絡ませ、胸の前で祈るような恰好で続けている。
「だって、お母さんが、言ってました! 王はとても優しくて、勇敢で、人魚にだって、分け隔てなく、それでいて、どこかワイルドな雰囲気を醸し出していて……。あー、なんてことでしょう!」
凄いな……昨日まで生死の境を漂っていたとは思えない……。人魚とは、こういうものなのか?
王子は、圧倒されながらも、冷静だった。
「分かった。分かったから……。その話は後で聞こう。だから、その前にまずは、朝食にしないか?」
うっとりとした目で王子を見つめるアンの肩に手を置くと、王子は、もう一度、ゆっくりと言った。
「アン、分かった。まずは一度落ち着こう」
すると、アンは潤んだ瞳を輝かせながら、静かに頷いた。




