1.柊の森
アイソレシアはゆっくりと猫の手の表面に幻導力を流し込んだ。
すると猫の手は青白く発光し、表面を覆う毛が逆立ち始めた。
アイソレシアはそれを確認すると、手のひらを上に向け、今度は肉球の部分に意識を集中した。そして、その肉球の部分だけ、幻導力が薄くなるイメージを頭の中で描いた。
猫の手がゆっくりと握られていく。
「そっか、やっぱ押すイメージじゃなくて、引くイメージなんだ」
アイソレシアは、今やグーとなった猫の手を満足そうに見つめていた。
アイソレシアが猫の手と呼んでいるものは、正確には猫の手を模した手袋のようなものだ。
本来の使い道は手袋ではなく、木の実や乾燥した豆類などを中に入れて持ち運ぶためのものだが、小柄なアイソレシアは、これを手袋のように使っていた。
失われた左手を、アイソレシア自身は隠すことに無頓着だったが、旅先の村々で奇異な目を向けられることに、ジャニィが哀れんだようだ。
そんな折、旅のキャラバン隊から買い付けてきたようだが、その時のことは、今でも覚えている。
猫の手を高々と掲げ、「いいものがあったぞ!」と笑顔で駆け寄るジャニィが木の根に躓き、大きく転んだのが、可笑しくてたまらなかった。
あの村での出来事以来、初めて心から笑えた出来事だった。
アイソレシアが猫の手の訓練を終え、ふっと顔を上げると、森の木々の向こう、オボステム市の上空が明るくなっていることに気が付いた。
まだ、日が昇る前だというのに、オボステム市の上空に綺麗な虹がかかっていた。
アイソレシアが、虹を眺めていると、背後から声がした。
「もう起きてんのか?」
焚火の向こうで横になっていたジャニィが、体を起こし眠そうな目でこちらを見ている。
「あれ」
アイソレシアは猫の手で虹を指した。
それにつられて、ジャニィも寝ぼけた目で猫の手の先を眺めた。
二人が、ボーっと虹を見ていると、その虹はみるみるうちに膨らんでいった。
「何か、おかしいぞ……」
背後でジャニィが呟くと、一瞬の後、雷のような地響きが柊の森を包み込んだ。
「アイソレシア馬車に乗れ!」
ジャニィが慌てて御者を叩き起こしに行った。