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Cafe Shelly

Cafe Shelly 未来が見えない

作者: 日向ひなた

「もう…つかれた…ごめんな…」

 四月某日、伊沢佐吉は奥さんの和代と一緒にこの世を去った。死因はガスによる中毒。和代は四年前より介護を必要とし、夫である佐吉がずっと和代の面倒を見てきた。周りからは献身的な夫として評価が高かった。にもかかわらず、このような悲しい結果となってしまった。そして私はこの知らせを講演会先で施設の職員からの電話で知ることとなった。

「まさか…伊沢さんが…そんな…」

 その事実が未だに信じられない。私は伊沢さんのフォローをずっとやってきた。最初の頃、奥さんの症状の悪化で自暴自棄になった伊沢さんに希望の光を見せ、そして介護に目覚めさせたのは私だ。その成功例がうわさになり、話をして欲しいという要望が出てきた。だが伊沢さんは奥さんの介護が必要であり、また口べたなこともあって私が代わりに講演を行うようになった。そして今日も隣の県の介護施設の勉強会に呼ばれて講演をしたばかりだったのだ。

 それにしても、どうして伊沢さんは自殺なんかしたんだ…。おととい会ったときには笑顔で会話を交わしたばかりだったのに。とにかく私は急いで自分の施設へと戻った。道中、私の気持ちはどうしてという気持ちでいっぱいであった。

「長友さん、これはどういうことなんですか?」

 施設に帰るなり待ちかまえていたのは新聞記者。私がこうやって講演を行うきっかけを作ってくれた人だ。一年半ほど前、新聞の在宅介護の特集で取り上げられたのが亡くなった伊沢さん。そのときに一緒に私も取材を受けた。このときに掲載された伊沢さんの献身的な姿。これが読者の感動を誘った。そして伊沢さんの話が聞きたいという人が多くなり、今に至っている。

「あの伊沢さんが自殺をするということは、表には出ていない何かがあるんじゃないですか?」

 新聞記者の質問に私は首を横に振った。

「私もびっくりしているところです。まさか伊沢さんが心中を図るなんて…」

 このとき、新聞記者がどことなく今までとは違う雰囲気を持っていたことに私は気づかなかった。それよりももっと事実を確認したい。その気持ちの方が強かった。

「ともかく私は今から警察に行ってどういう状況だったのかを聞いてきたいと思います」

 私のその言葉に記者はこんな事を言った。

「ここに来る前に私も警察で聞いてきましたが。伊沢さん、奥さんの介護に力尽きて絶望しての自殺みたいですよ」

「そんなことはないっ!」

 思わずそう叫んでしまった。

「まぁまぁ長友さん、そんなにムキにならないで」

 記者はそう言うが、私がムキになるのには理由がある。つい二日前、私は伊沢さんと奥さんの介護についての今後の方針を話し合ったばかり。このとき伊沢さんはにこやかに笑って、がんばりますと力強く宣言してくれた。私はあのときの言葉を信じていた。なのに、なのに…。

「もう一つ聞いたんですけどね、伊沢さんの旦那さん糖尿の気があったそうで。これ、もちろんご存じですよね?」

「えっ!?」

 これは初耳だった。このとき、記者がにやりと笑ったのは気になった。

「これは私の推測ですけどね。旦那さん、奥さんの介護に疲れている上に自分の体も気になって。それで将来のことを悲観して自殺したんじゃないかと思うんですよ。これ、どう思います?」

「どう思うも何も、私にそんなことはわからない」

「そうですか、わからない、ですね。忙しいところすんませんでした」

 記者は何かに満足したのか、私の今のコメントを聞いて去っていった。おっと、のんびりはしていられない。私は警察に行って詳しい状況を聞きに行かねば。

 その翌日から私はとんでもない事態に巻き込まれることになった。あの新聞記者の書いた記事のおかげで。

『在宅介護の裏に隠された真実』

 その見出しが新聞に載ったのはその翌日。内容は伊沢さん夫婦が亡くなったことについて。その記事の中には私の名前も載っている。

「自殺した伊沢佐吉さんは在宅介護施設の施設長である長友裕介さんに深い信頼を寄せていたように見えた。しかし実態はそうではなかったようだ。伊沢さんは糖尿病を患っていたが、そのことを長友さんには話していなかった。また奥さんの和代さんの介護にばかり意識を集中させ、本人の将来についての話し合いが何もなされていなかった。こういった介護を指導する立場の人間は、介護そのものにしか視線が向いていないのが現状のようだ。長友さん自身も伊沢佐吉さんの将来については何も考えていなかったとコメントをしている」

 この記事、どう見ても私に悪意があるとしかとらえられない。私は伊沢さんがどう考えているのかはわからないと答えたが、伊沢さんの将来について何も考えていないとは言っていない。だがこうやって世間に知られたらもうお終い。おかげで朝から施設には電話が鳴りっぱなしである。そのほとんどは現在我が施設で在宅介護支援を受けている方の身内。内容は新聞記事についての問い合わせ。新聞記事についてスタッフがいくら弁明を伝えても、相手の不安は消えない。消え無いどころか、言われもない誹謗中傷すらも聞こえてくる。おかげで丸一日仕事にならなかった。スタッフも精神的に疲れ果て、ノイローゼ気味にもなっている。

 しかしあの記者は何が狙いでこんな記事を書いたのだろうか。私は何も悪いことはしていないのに。いや、本当は悪いことをしたのではないだろうか。伊沢さんに対して真剣に取り組んでいただろうか。伊沢さんとちゃんと向き合って話をしていただろうか。ひょっとして、あちらこちらの講演会に呼ばれることに対して優越感を抱いていたのではないだろうか。それを伊沢さんが見抜いて、私に悲観して自殺をしたのではないだろうか。やっぱり私が悪いんじゃないだろうか。

 一度回り出した思いは止まることがない。考えれば考えるほど悪い方向へと向いていく。おかげで夕方から夜にかけて三度も吐いてしまった。さらに悪いことに、どこで調べたのか私の家にまで電話がかかっていたようだ。ふらふらになりながら玄関を開けると、妻が泣きながら訴えてきた。もういい加減にして、と。その日の夜は罪悪感に蝕まれ、とても眠れる状況ではなかった。

 翌日、職員は疲れ切った表情で出勤。しかし要介護者は待ってくれない。通常通りの勤務を行いながらも電話対応に追われる。昨日ほどではないにしても、もう電話の音を聞くのもイヤだという雰囲気が蔓延していた。なるべく私が対応するように心がけたが、それでも職員の精神的な負担は大きい。夕方になり問い合わせの電話も落ち着いた頃、あの記事を書いた記者が姿を現した。

「おい、一体どういうつもりなのだ!」

 私はすぐに彼に駆け寄り文句を言った。

「どういうつもりって、私は真実を書いただけですよ。あなたに何かを言われる筋合いはありませんね。真実を報道する、それが新聞記者の役目ですからね」

「何が真実だ。それに私が伊沢さんの将来について何も考えていなかったなんて、一言も言っていないじゃないですか」

「あれぇ、あなた私の質問に『そんなことはわからない』と答えてくれましたよね。わからないってことは、何も考えていなかったってことじゃないですか」

 記者はポンと私の肩を叩いて、そう言い放った。ちくしょう、こんな言葉遊びのようなやりとりをしていたのではらちがあかない。

「そうそう、今日は長友さんに情報をお伝えにきたんですよ」

「なにっ?」

「伊沢さんね、私にこう言ってました。このままだと未来は見えないって」

「おまえ…いつ伊沢さんのところに?」

「伊沢さんが自殺する前日ですよ」

 ということは、私と伊沢さんが今後の方針の話をした翌日か。しかし、たった一日で何が伊沢さんを変えてしまったんだ?

「あなたのためにあえて記事には書きませんでしたけどね。伊沢さん、かなり疲れていましたよ。元気に振る舞うのはもうしんどいってね」

 なんてことだ。私の前で行っていた態度、あれは演技だったというのか。愕然としてその場で立ちすくんでしまった。今までやってきたことは無意味だったのか。そんな思いが頭の中でぐるぐると回っていた。

 その後、私は自分で何をしていたのかまったく覚えていない。気がつくと街を一望できる展望台に来ていた。夜景がきれいな場所ではあるが、観光スポットというにはほど遠い。

 周りには人は誰もいない。その展望台で、私はたばこに火をつけてぼーっと街の灯りを眺めていた。私は今まで何をやってきたのだろう。伊沢さんは自分の未来が見えないと言っていた。私も自分の未来が見えない。もう疲れた。いっそこのまま…。

 そう思った瞬間、私は展望台の最上段の柵を乗り越えていた。眼下には真っ暗な闇が広がっている。この展望台がどのくらいの高さなのか、よくわからない。私はその闇にひきずりこまれるように、ゆっくりと一歩を踏み出した。これで楽になれる。そしてさらに、目の前の空中に一歩を踏み出そうとした瞬間。

「あぶないっ!」

 男性の声が耳に入った。ここで私はハッとした。

「そこを動かないでっ!」

 声は私の後方から聞こえてくる。振り返ると、展望台の入り口から人影が見え、私の方へと駆け寄ってくるではないか。そしてその人影はあっという間に近づき、柵越しに私の手をがっちりとつかんでいた。

「あなた、なにをしようとしていたのですか」

「私は…わたしは…」

 ここでやっと気づいた。自ら命を絶とうなんて、なんてバカなことをしようとしていたのだろう。そう思った瞬間、腰の力が抜けてその場で座り込んでしまった。

「大丈夫?」

 今度は女性の声。

「あぁ、なんとか間に合った。さぁ、いつまでもそんなところにいないで、こちらにきましょうよ」

 男性の声はやさしく私を迎え入れてくれた。なんとか柵を越えてふたたびこちらの世界へ戻ってきた。それを自覚した瞬間、涙があふれてきた。声にならない思いが心の奥からあふれてくる。

「さ、まずはこれを飲んでください。コーヒーです」

 それから展望台のベンチに座って、男性の介抱を受ける私。体中の力が抜けて、ベンチまで歩くのもやっとだった。

 男性から差し出されたのは、水筒に入っていたコーヒー。そのぬくもりがこんなにありがたいと思ったことはなかった。

「ありがとうございます」

 私はそう言うのがやっとだった。そしてそのコーヒーを一口飲む。その瞬間、目の前にはビックリするような光景が浮かんできた。

 暗いトンネルを猛スピードで抜けると、そこは一面ピンク色の世界。温かさとやわらかさが広がる世界。そしてその向こう側に見慣れた顔が。伊沢さんだ。そしてその隣にはステキな笑顔でほほえんでいる伊沢さんの奥さんもいる。さらによく見ると、伊沢さんだけではなく今まで私が介護で関わった方、スタッフもいるではないか。みんな幸せそうな笑顔で私を見つめている。あぁ、これが私の望んだ世界だ。

「お味はいかがでしたか?」

 男性のその声でハッと我に返った。まるで夢でも見ているような気持ちだった。

「あ、すいません、なんだかボーっとしてしまって」

「でも、なんだか幸せそうな笑顔でしたよ」

 そばにいた女性からそんな言葉をかけられた。

 幸せそうな顔。言われたとおり、コーヒーを飲んだときに目の前にうつった光景。これは私が望んだ世界そのものを現していた。介護をする側、される側が幸せな気持ちを味わう。それを見るのが私の幸せ。その原点を思い出させてくれた。

「何かお悩みでもあるのですか?」

 男性の低く、優しい言葉が心に響いた。初めて会った見ず知らずの人。けれど、この人になら今の胸の内を話せる。直感的にそう感じることができた。

「私の…私の話を聞いてくれますか?」

「はい、ぜひ聞かせてください。あ、でもこんなところで話し込むのもなんですから。よかったら私のお店に来ませんか? 喫茶店をやっているのですが、そちらのほうが落ち着くと思いますので」

 今は何かにすがりたい気持ちでいっぱい。私は男性の言うとおりに動こうとした。が、まだ足に力が入らずにうまく立ち上がれなかった。よろける私を二人が支えてくれる。

「すいません、すいません…」

「大丈夫ですか? ここまではお車ですよね。じゃぁ私が運転していきますから。マイ、こっちの車の運転おねがいね」

 私は男性の肩を借りて、なんとか自分の車までたどり着いた。こんなにも人の力を必要としなければいけないなんて情けない。その喫茶店に着くまで、私はずっと無言であった。男性もむやみには話しかけてはこなかった。唯一聞かれたのはこれだけ。

「コーヒーってお飲みになりますか?」

 私はその言葉に、こっくりと首を縦に振るだけだった。

「さ、どうぞ」

 案内されたのはビルの二階にあるお店。夜で真っ暗ではあったが、電気をつけると別世界が広がっていた。なんとなくホッとできる、そんな光に見えた。

「とりあえずこちらにお座りください」

 案内されたのはカウンター席。

「マイ、お水を出してあげて」

 マイさんと呼ばれた女性は、ハイと返事をして動き出した。

「少し待っていてください。今コーヒーを入れますから」

「あ、ありがとうございます」

「どうぞ。少しは落ち着きましたか?」

「えぇ、おかげさまで」

 そう言いながら、私はマイさんが差し出してくれた水を一気に飲み干した。やはり緊張からか、のどがかなり渇いていた。

「それで、どうしてあんなところに?」

 男性はこの店のマスターなのだろう。カウンターでコーヒーを入れる姿がとても似合っている。私はこのマスターの質問にゆっくりと口を開き始めた。

「最初は死ぬつもりはなかったんです。気分を変えたくて、あの場所に上りました」

「あの場所は気分転換をするのにはいいですね。私たちも久しぶりに足を運んでみたんです。たまには夜景もいいかなと思って。あ、どうぞお飲みください」

 マスターはそう語りながら私にコーヒーを差し出してくれた。

「ありがとうございます」

 そう言いつつも、まだコーヒーを飲む気にはなれない。

「そういえばまだお名前を聞いていませんでしたね」

「あ、はい。私は長友と言います」

「長友さん、ですね。私は妻のマイと一緒にこの店をやっています。見たとおり小さな店なのですが」

「でも、なんだかすごく落ち着きますね。居心地がいいです」

 これはお世辞ではない。ここに座っていると、だんだんと気持ちが落ち着いてくる。展望台で襲ってきたあの得も知れぬ不安はどこかに飛んでいってしまっている。

「よかったらこちらもどうぞ」

 マイさんがクッキーを持ってきてくれた。なんだか恐縮してしまう。せっかく出してくれたコーヒーとクッキーだから、やはりいただいた方がいいだろう。そう思ってクッキーを一口、続けてコーヒーを口に含む。そのとき、あの展望台で見た世界がまた目の前に広がった。一面ピンク色の、温かさとやわらかさが広がる世界。そこにはたくさんの笑顔がある。

「お味、いかがですか?」

その言葉でまた我に返った。

「あ、とてもおいしかったです。でも…」

 私は言葉を続けようとしてやめてしまった。だって、コーヒーを飲んでクッキーを食べて幻覚を見たなんてこと、人には言えない。そんなことを話したら、きっと精神が錯乱しているんだろうと思われるに違いない。

「長友さん、このコーヒー、シェリー・ブレンドには特別な力があるんです。飲んだ人が今欲しいと思っている味がする。特に今欲しいものを強く持っている人には、その光景までも見せてくれるんです。さらにマイのつくったクッキーを合わせて食べると、その効果は倍増するんですよ」

 まさか、そんなことが。一瞬そう思ったが、すでに私自身がその効果を体験している。

「今欲しいものを見せてくれる…それであの光景を見たんですね」

「どんな光景でした?」

 マイさんが私の横に座って尋ねてきた。

「はい、一面ピンク色で、温かさとやわらかさが広がる世界。そしてそこには今まで私が関わってきた人のたくさんの笑顔がある…」

 私はさっき見た光景を思い出しながらそう語った。

「うわぁ、すばらしいですね。長友さん、そんな世界をつくりたいんだ」

 そう言われて悪い気はしなかった。しかし、心には伊沢さんの件が重くのしかかっている。

「でも、私にはその資格がない…」

 私はぼそりとそう言った。

「資格がないって、どういう事なんですか?」

「私は未来を見せてあげることができなかった。伊沢さんの、伊沢さんの未来を…」

「伊沢さんって、もしかして…」

 マイさんが何かを思い出したようだ。そして手にしたのは新聞。

「そうですか、あなたがこの長友さんでしたか」

 マスターはさっと新聞に目を通して私にそう言った。私はこくりとうなずく。

「とてもつらい思いをされたんですね。この記事、とても事実を書いているとは思えません。私、以前あなたの講演録を読んだことがあります。介護をする側、される側のことをしっかりと考えて、今何が必要なのかを一緒になって考える。私はその姿に胸を打たれましたよ。そんなあなたが何も考えていないなんてことはありえません」

「でも、私は伊沢さんの糖尿病を知らなかった…」

「それはきっと、あなたに迷惑をかけたくなかったんでしょう。日頃からお世話になっている方に、これ以上負担をかけたくない。私だったらそう思いますよ」

「本当にそうなんでしょうか…」

 マスターの言葉は多少のなぐさめにはなった。

「でも、でも私は伊沢さんに未来を見せてあげることができなかった。奥さんの介護という現実に対して、どう対処するのか。そのことしか考えてあげることができなかった…」

 私は再び罪の意識に苛まれた。それ以上言葉が出ない。カチ、カチ、と時計の音だけが鳴り響く。

「長友さん、ちょっと気分転換におもしろいことしてみませんか?」

「おもしろいこと?」

 マイさんがそんな提案をしてきた。

「えぇ、カウンターの横に二色のボトルがたくさんあるでしょ」

 左手に目をやると、確かに色とりどりのボトルがたくさん並んでいる。言われるまで気づかなかった。

「これを使った、ちょっとした占いみたいなものなんですけど」

「占い、ですか?」

「えぇ、気楽に構えてください。ちょっと準備をしてきますので、しばらくお待ちくださいね」

 マイさんはそう言って一度奥に消えていった。

「何をやるんですか?」

 私はマスターにそう尋ねた。

「まぁ見てのお楽しみです。それより長友さんは占いとかは信じる方ですか?」

「そんなに意識をしたことはありませんが…雑誌で読んでふぅんと思う程度です」

 そう言いながらも、毎朝テレビでやっている占いのコーナーは欠かさず見ている自分を思い出した。そんなやりとりをマスターとやっていると、マイさんが奥から現れた。なんと、真っ白の服に着替えている。

「さ、こちらにどうぞ」

 今度は店の中央にある丸テーブルの席へと案内された。一体何が始まるのだろう?

「これから長友さんの心の中を見つめていきますね。あちらにある二色のボトル。その中から気になるものを四本選んでいただけますか? 選ぶときには一度に二本は選ばないようにしてくださいね。一本ずつ、順番に選んでこのテーブルに持ってきてください」

「は、はぁ…」

 占いみたいなもの、と言ってはいたが、これにどういう意味があるのだろう? 私は席を立って、カウンターに置かれている色とりどりのボトルをあらためて眺めた。こうやってみると、とてもきれいな色をしている。私は手にとって、さまざまなボトルを比較してみた。このように一つ一つをていねいに見ていると、だんだんと色の持っている世界に引き込まれていくのがわかる。

 同じ薄い水色のものなのに、もう一色が紫か、緑か、はたまた赤かで見え方が違ってくる。さらに同じ紫系統でも、濃い色と薄い色でも印象が違う。そうやって見ていくことで、今度はどの色を選べばよいのか迷いが生じ始めた。

「直感でこれだって思ったものを手にしてくださいね」

 私が迷っているのを見て、マイさんがそうアドバイスしてくれた。ならば、と思って私は気になった順から一本ずつ手にして、テーブルの上に置いていった。

 一本目は青色が二つ重なったボトル。二本目は黄色と透明の色のボトル。三本目はなぜだか上下ともオレンジ色のボトルに目がいった。そして四本目、私の中ではありえないだろうという色を手にした。それは上が薄い黄色、下が淡い緑。私の好きな色は赤系統である。だからそういう色を選ぶなんて事は、普段の私では考えられない。

「じゃぁこちらにお座りください」

 そう言われて腰掛け、あらためてテーブルの上に並んだボトルを眺めてみた。

「なんだかバラバラで統一感が無い選び方ですね」

 私の第一印象はそれだった。もっと色彩感覚に長けた人ならば、絶対にこんな選び方はしないだろう。しかしマイさんは私のつぶやきに対してこんなふうに応えてくれた。

「これはですね、長友さんの魂が応えてくれたんですよ。この四本を選んだ順番とボトルが示す意味。それで長友さんの今置かれている状況や、これから先の進むべき方向がわかるんですよ」

 確かに占いのようだな。

「じゃぁ一本ずつ見ていきますね。まず最初に選んだボトル。これは長友さんの本質を現すボトルなんです。選んだのはブルーとブルー。あらためてこれを見てどう思います?」

「そうですね…なんだろう、心が落ち着く感じがします」

「うふっ、やはり長友さんはそういう人なんだ。このボトルはピース、平和を意味しているんです。長友さん、心の奥から皆さんの平和、安らぎ、そういったものを求めているんじゃないかな」

 そう言われてはっきりとわかった。私がコーヒーを飲んだときに見たあの光景。あれは一言で現すと「心の平和」なんだ。

「それであの光景を見たのか…」

「先ほどシェリー・ブレンドを飲んだときに見た、あの光景ですね」

 私の目の前では、もう一度あの一面ピンク色の、そして笑顔が広がる世界が広がっていた。

「長友さんは心の奥からそうなることを望んでいる。そして、そのための労力は惜しまない人、そうじゃないかな」

「はい、みなさんが笑顔になるのなら、私は自分を犠牲にしてでも働こうと思っています。これは心の底からそう思っています」

「しかし、その現状を打ち崩す事態が突然起きてしまった。そのことを三本目のボトルが教えてくれています」

 私は自分が選んだ三本目のボトルに目をやった。選んだのは上下オレンジ色のボトル。赤系統が好きな私にとっては、自分にぴったりの色だと思っているのだが。

「三本目は現状を現すの。そして長友さんが選んだのはショックボトルと言われているもの。平和を望む長友さんは、今感性がすごく研ぎ澄まされているみたい。だから、ちょっとしたことでも感受性豊かに受け止めてしまっているのね」

「ちょっとしたことじゃないですよ、私にとっては…。かなりショックなことでした。伊沢さんが私に隠し事をしていたことも、あの新聞記者が信じられないような記事を書いたことも、そしてその記事に対して利用者達がこぞって私たちにクレームを言ったことも…」

「その事実を長友さん自身はどう思っているのですか?」

「その事実って?」

「伊沢さんが隠し事をしていたこと、新聞記者があの記事を書いたこと、利用者がクレームを言ってきたこと」

 マイさんにそう言われてもう一度自分の気持ちについて考えてみた。そして出した結論がこれ。

「私は精一杯やってきた。あんな風に周りから言われるなんておかしいです。私は私なりにちゃんとやってきたんだ。なのに、どうして、どうしてこんなことに…」

「その意味を教えてくれているのが二本目のボトルです」

 その意味とはどういうことなのだろう? 私はマイさんの言葉に顔をあげ、じっと彼女を見つめた。マイさんは一度にっこりとほほえんで、二本目のボトルを私の目の前に差し出した。

「あらためてこの上が黄色、下が透明のボトルを目にして何か感じますか?」

「何かって…」

 私には霊感もなければ超能力もない。こんなボトルを見て何かを感じるなんてこと、考えられないのだが。そのとき、マスターが先ほど私がのみかけていたシェリー・ブレンドをそっと横から差し出した。

「まぁ気を取り直して、ゆっくり考えてみてください」

「は、はぁ」

 私は差し出されたコーヒーを口に含む。すでに冷めてしまってはいるが、その香りがゆっくりと鼻の奥へと届いていく。香りと一緒に口の中にその風味が広がる。と同時に、私はまた一つの光景へとトリップしていった。さっき見た光景の続きだ。ピンク色の世界に包まれて、たくさんの笑顔が並んでいる。が、その笑顔をよく見ると、すべて自分の顔に変わっているではないか。そして私が笑うとみんなが笑う。逆に私が悲しむと、みんなが一斉に悲しい顔をする。なんて不気味な世界なんだ。

「長友さん、いかがですか?」

 マイさんのその声で我に返った。

「あ、すいません。ちょっと変な世界を見てしまったもので…」

「どのような世界でした?」

 まさか、あんな変な世界を見てきただなんて普通は言えない。しかし目の前にいるマイさんやマスターになら話せる。そう思って、私の口からは自然と先ほど見た世界の話が飛び出していた。

「なるほど、そうでしたか。二本目はチャレンジとギフトのボトル。そして選んだボトルの意味は、周りの人々は自分を映し出す鏡、という意味があるんです。そう考えると、長友さんは今試されている時期に来ているんじゃないかって思うんです」

「試されている?」

「そう。こんなこと言って気に障ったらごめんなさい。長友さんは講演活動をされるようになったんですよね。そして今ではその活動を通じて、介護をやられている方へ希望を与えたい。しかし一方で、自分が講演で先生と呼ばれることに対して優越感や快感を覚え始めた。いかがですか?」

マイさんにそう言われて反論できなかった。実はその通りである。今までこうやって周りの人にちやほやされることなどなかった。しかし縁台に立ち話をすることで、偉い気分になっていたのは否めない。

「…はい、まったくその通りです。そんなつもりはない、そう言いたいところですが。きっとその気持ちがそのまま私の周りの人に、鏡のようになって映し出されていたんですね。私の奥にあるその傲慢な気持ちがそのまま私に跳ね返ってきたんでしょう」

そう言いながら自分自身に反省。

「だからこそ、チャレンジじゃないかな」

「えっ!?」

「私はね、人の前に立つことで優越感や快感を覚えることは悪い事じゃないと思うの。それが自信につながって、さらに多くの人に自分の思いを伝えられるのなら、それはそれで大事なことだと思うの。今、長友さんがチャレンジしなければならないことは、その思いに溺れることなく常に自分の心を見つめて、本当にやるべきことに進んでいく。ボトルはそう教えてくれていますよ」

 そうか、私は私の傲慢な心に溺れていたのか。その結果があの事態を招いた。私は何も悪いことはしていない、そう思っていたのだが。それこそが落とし穴だったのか。

「だからこそ、四本目のボトルが長友さんの進むべき道を教えてくれているんです」

「四本目のボトルが?」

 私が選んだそのボトルに目をやる。上が薄い黄色、下がエメラルドグリーンのような色のボトル。普段の私だったら絶対に選ばないような色だ。

「これはどういうことを意味しているのですか? 私はなぜかこのボトルを無意識に選んでしまったようなのですが」

 自分が選んだボトルを手に取ってみる。しげしげと眺めていると、少し不思議な気持ちになってきた。

「その意味、シェリー・ブレンドに教えてもらいましょうか」

 私はマイさんに促されるままにシェリー・ブレンドをふたたび口に含んだ。そのとき目に映った光景は、今までのものとは異なっていた。今度はリアルに、私が演台に立って講演をしている光景だ。その表情はとても活き活きしている。今まで何度もそうやって講演を行ってきたが、それとはまた異なった感じがする。さらに引き続いて、介護を行っている方の相談を受けている光景が映し出された。それも今まで何度も行ってきたこと。しかし私は明るい顔をしている。相談を受けることで、介護を行っている方へ希望の光を抱かせている。そんな印象を受ける。やっていることは今までと同じ。けれど、それは今までの私とは大きく異なる。

 私の中で何かがふっきれ、さらに仕事にかける意気込みが違う。人から感謝の言葉を与えられ、それが励みになりさらに前に進んでいく。今、頭の中で思い描いた映像。それを素直にマイさんに話してみた。

「なるほど、長友さんの進むべき未来、そして可能性。それが今思い描いたことそのものなんですよ。四本目のボトル、これは未来のボトルと言われています。これからの可能性を指し示すものなんです」

「つまり、今私が思い描いたこと、これが私の未来というのですね」

 そう言われてなんだか安心した。私の未来は私が思い描いたとおりになるのか。だがマイさんは私の思いとは逆のことを言ってくれた。

「残念ながらその未来は約束されたものじゃないの。あくまでも可能性。つまり長友さん自身がその可能性を信じて前に進む行動を起こさない限りは、それは絶対に起こることはないの。それだけはご理解ください」

 今のマイさんの言葉でふと頭にこんな言葉がひらめいた。

「未来は自分でつくる、ですね」

「えぇ、その通りです」

 そして何気なくカップに残ったシェリー・ブレンドを一気に口にした。そのとき、私の頭の中でこんな声が響いてきた。

「あれはあなたのせいじゃありませんよ」

 えっ、なんだ、今のは? どこかで聞いた声…そうだ、伊沢さんの旦那さんの声だ。あれはあなたのせいじゃない。確かにそう聞こえた。私は思わず辺りをキョロキョロと見回した。

「長友さん、どうかしましたか?」

私の様子を見て、マイさんがそんな言葉をかけてくれた。

「あ、いや…今、伊沢さんの声が聞こえたような気がして…」

「どんな声でしたか?」

「あれはあなたのせいじゃないって、確かそう言ったような…」

「私もそう思いますよ」

 カウンターからマスターがそう声をかけてくれた。

「伊沢さんが亡くなったのは長友さんのせいじゃありません。残念なことですが、伊沢さん自身がそう決断したことですから。長友さん自身もさきほどは自ら命を絶とうとしていた。あのとき私たちがいなければ、今長友さんはこの世にはいなかった可能性が高いんです。それだけ死というのは衝動的に起こりえることでもあるんですよ」

 マスターに言われて、先ほどの自分のことを思い出した。確かにほとんど衝動的に私は自らの命を絶とうとしていた。

「人ってね、一人で考え込んでしまうとどんどん深みにはまって悪い方へと行ってしまうんです」

 私も一人で悩みすぎてそうなろうとしていたんだった。

「でも…私は伊沢さんの話し相手にはなってあげられなかった…」

「私はこう思います。伊沢さんなりに長友さんに気を遣ったのだと」

 気を遣ったって、どういうことなのだろう? マスターの話は続いた。

「あの日、伊沢さんは長友さんが講演の仕事をしていることはご存じだったんでしょう。だから思い悩んだときに相談しようと思っても、迷惑をかけてはいけないと思ってそれをやめた。しかしその気遣いが自らの命を絶つことになってしまった。

それから一人で悩みすぎて、つい未来に対して悪い方にしか考えられなくなってしまった。たぶんそれが正解です」

「だったら…だったらなおさら私が悪いんじゃないですか? 私が対応できるような体制を取っておけば問題なかったんだ」

「そうかしら? 私は伊沢さんが長友さんに大きなプレゼントをしてくれたような気がするんだけど」

「それどういうことですか?」

 マイさんの言葉、それが何を意味するのかまったく理解できなかった。

「今、長友さんは自分自身が行ってきたことの問題点がはっきりしたんじゃないですか?」

「私自身の問題点?」

「そう、緊急時に対応する体制が整っていないという」

 言われるとおりだ。介護で悩んでいる人の悩み、それは突発的に訪れることがある。それに対して今まで何も対応していなかったことに今気づいた。

「じゃぁこれから私は何をすれば…」

「長友さんはどうしたいと思っているんですか?」

マスターのその質問を聞いて、私の頭の中であることがひらめいた。

「そうですね、介護をしている人の精神的な悩み、これを受け入れるようなことは次第に広がっています。けれど、今回の伊沢さんのように突発的に襲ってきた事に対しての体制が整えられていない。なんとか二十四時間体制でそういった施設ができないだろうか。それができれば、介護で悩み苦しんでいる人の気持ちを和らげてあげることができると思います」

 私は言いながら自分の頭が整理できていることに気づいた。なるほど、道のりは険しそうだが、これは実現させたいことだ。

「長友さん、今未来が見えましたね」

「えっ!?」

 マイさんのその言葉にハッとした。つい一時間ほど前までは未来が見えずに悲観して自らの命を絶とうとしていた私。けれど今は違う。自分の使命、やるべき事に気づいて、その意欲が湧いてきた。

「人の未来なんてわからないものです。けれど周りのほんのちょっとした協力があれば、希望ある未来を見ることは可能なんです。私たちが喫茶店をやっている本当の目的はそこにあるんです。ここに来る人たちが笑って未来を見られる場所にしたいんです」

 みんなが笑って未来を見られる場所。その言葉は私の心を深く刺激した。このとき私の頭の中で、先ほど見たピンク色の光景がよみがえった。あの光景の中で見たみんなの笑顔。あれはそれぞれが思い描く、輝ける未来を見つめている笑顔。それをつくるお手伝いをするのが私の役目。

「マスター、マイさん、わかりましたよ。私がやるべきことが。周りの言葉に流されている場合じゃありません。もう一度自分自身を見直して、そこからできることをしっかりと見つけ出し、行動していく。うん、なんだか力が湧いてきました」

 私はマスターとマイさんを交互に見ながら、そう宣言した。二人とも笑顔で私の言葉をしっかりと受け止めてくれる。

「だから一つお願いがあります」

 ふと私の頭の中で湧いてきた言葉を口にしてみた。

「なんでしょうか?」

「そうは言ってみたものの、私は弱い人間です。またいつか挫折感を味わうかもしれません。だからそんなときには、またここで自分の未来をもう一度見にきてもいいでしょうか?」

「もちろん。このカフェ・シェリーはそんな人のためにあるお店ですから。多くの仲間が歓迎して長友さんを迎えてくれますよ」

 マスターの言葉に私は涙が出そうになった。

「今日は本当にありがとうございました」

 それから程なくして私は帰宅することにした。考えてみれば、家には何も連絡をせずにこの時間まで過ごしてしまった。

「いえ、またいらしてください。それに今日長友さんとお会いするのは、私たちから見れば決まっていたことなんですよ」

 マスターのその言葉、どういう意味なのだろう? 私はそれを尋ねてみた。

「実はですね、マイが突然展望台に行こうって言い出したんです。なんだか無性に夜景を見たいって。ふだんはお店が終わると、何も予定がなければそのまま帰宅するんですけどね。私もマイにそう言われて、なんとなく展望台に行きたいって気持ちになりまして」

「でもこれって偶然じゃないって思うんです。神様が私たちに役割を与えてくれた。長友さんという人の未来を見せてあげる。そして長友さんが本来進むべき方向へ導くお手伝いをしてあげる。だから突然展望台が頭にひらめいたんじゃないかなって」

 確かに不思議な出逢いだ。これは偶然じゃない。神様が私に、もっと生きろ、そしてやるべき事をやれ、というメッセージをくれたに違いない。

「はい、私もそう思います。これで自信を持って前に進んでいく決心がつきました」

 そして喫茶店カフェ・シェリーを後にした。帰るとき、私は地面を踏みしめていることを実感した。そして一歩一歩前に進んでいることを肌で感じた。これが生きているってことなんだ。そして未来へ向かうってことなんだ。


 そんなことがあってから三ヶ月後。私はふたたび新聞の紙面に載ることになった。

「二十四時間体制で介護の相談受け付けます」

 ここには私がこれを始めたきっかけとなった伊沢さんのことを載せさせてもらった。そして自分自身の未熟さを反省し、今自分にできることを考えてスタートさせたということも。そのおかげで相談の電話が激増。

 しかし私は揺るがない。なぜなら、私の思いに共感してくれるスタッフが大勢きてくれたから。また県や市の補助金もとることができ、さらに来週は国の視察までくるとのこと。

 介護の問題は切実だ。私は今度はこういった現実を多くの人に伝え、同じように悩む人たちを地域でサポートできるように訴えていこうと考えている。そしてたまには息抜きも必要。だから今日もここへ足を運ぶ。

カラン、コロン、カラン

「いらっしゃいませ」

 マスターとマイさんがにこやかに私を歓迎してくれている。今日も私の未来をここで楽しむとしよう。



<未来が見えない 完>

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