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ボイラー室の二つの扉

作者: 霧間潤市

明るいホラーです、ホラーじゃないかもしれません、こんな病院もあったら面白いなという感じで書きました

私は当病院に勤めている看護師です、私はまだこの先もここの病院に勤務します、そしてここで初めて命の大切さを学んだ様な気がします、命は大きさや優劣なんてありません、本当にそう思いました。


母が元看護婦で幼い頃は寂しさで病院辞めてなんて言った事もあったけど中学卒業ぐらいから母の仕事に対する考え方が大きく変わっていった

「お母さんあのね、私看護師目指そうと思うんだけど…」

母は私の言葉を耳にした瞬間、信じられないといった表情を浮かべた

「小さい頃は夜勤でお母さんいなくて寂しかったけど、頑張ってるお母さんの姿を見てて私も患者さんの為に一生懸命になりたいって思ったの、簡単じゃないのはわかってる、だからお母さんが働いてた病院で病気で頑張ってる人の役に立ちたいの!」

父と母は少々困った様子だったが応援してくれると言ってくれた


ここの病院に勤務し始めて数ヶ月ほど経ったとき、先輩から不思議な事を言われた

「入院棟の補佐勤務はこれから?まだ何も言われてない?」

入院棟はベテランの看護師しか入れないはずだしまだ自分はそこまでの勤務はできないといった話をしながら診察室の準備をしていた

「違うわよ、補佐よ補佐、普通のお手伝いなのよ?ココとあまり変わらない仕事だからそろそろ話がくるんじゃないかしら」

こんなに早く責任のある仕事を任せられるなんて今まで一生懸命やってきてよかった!きちんと事務から配属を言われるまでは浮き足立ってはいけないんだ、今を頑張らないと自分に言い聞かせた


先輩から意味深な言葉を掛けられてから暫く経ってもどこからも何も言われない、頑張りが足りなかったのかな、私じゃなくて誰かが行ったのかな、でもなんで先輩は私にあんな話を言ったんだろう、みんなに言ってたのかな、私の思い過ごしなんだろうな…

そんなことを考えながら仕事を終え、帰宅しようとしたときに事務の主任から声を掛けられた

「すみません、突然の異動が決まりまして来て頂いていいですか?」

本当に突然すぎて言われるがままに主任の後に付いて行った

「明日からの異動先は入院棟で、補佐の仕事となります、以上です」

伝言の様な説明と名前の入った院内IDカードと異動確認書類が数枚が入った大きい封筒を手渡され明日提出するようにと釘を刺された

家に着き、書類に名前や住所、異動先への要望など書き込み封筒に戻した、何故また書類を提出しなくてはいけないのか、家から通えるのに寮の説明が書いてあるのは不思議に思ったが、命を扱う職場はとかく繊細なんだろうなぐらいにしか考えなかった


翌日、書類を確認してもらい入院棟へ向かった、しかし向かった先は知っている入院棟ではなく、地下へ降りるボイラー室の扉だった

「来てくれたのね、嬉しいわ」

先輩だった、私にそういうと先輩は主任と少し会話をした後、主任は軽く会釈をし戻っていった

「不思議でしょう?こっちにも入院棟があるのよ、研修じゃここは詳しく案内されない場所なんだけどね、色々説明するからしっかり聞いてね」

すぐさま振り向き、ボイラー室の扉を開け「どうぞ」という手振りで私を階段へといざなった

階段を降りきると小部屋の正面に扉が二つ見えた、先輩は躊躇することなく左の扉を開け進んでいった

「右側は本当のボイラー室よ、私たちの職場はこっちなの」

開けた扉の向こうには上の病院には無い静寂さが広がっていた、スチール棚に精密機械がびっしりと並んでいてLEDがパターン化されているように点滅している、その棚が10台程まとまっているのがガラスに囲まれた部屋に収められている、そこから伸びる配線は天井から各部屋へと送られているのが見えた

「先輩、あの…ここって病棟なんですか?ナースセンターも無いみたいですしなんだか凄く静かですよね…」

聞こえていたはずなのに返事もこちらを見ることさえもしない、聞いてはいけないことを聞いてしまったのかと萎縮してしまった

それほど長くない通路を進んでいく、両開きの大きな扉が幾つもあり、こちらからでは部屋の中は暗く中の様子を見ることは容易ではなかった

ここは一体どういう施設なんだろう、入院棟の補佐って言ってたけど患者さんの姿は見えないし、他に働いている看護師の姿も見えない、不安な気持ちが膨れ上がっていくばかりだ


いくつかの扉を通過して一つの扉の前で止まった、IDカードをかざし部屋に入る、暗い部屋からひんやりとした冷気が足元を通過する

「あ、あの、ここって…」

「培養室よ、他の部屋もそうなんだけど説明するのはこの部屋が一番良いと思ってここに連れてきたのよ」

そういって部屋の明かりを点けると映画やアニメで見たような光景が広がっていた

「え…?これ、なんですか?」

「何って入院患者さんよ?」

大きな試験管の液体の中に小さい粒のようなものが浮遊していたり肉片から毛がはえているようなものがあったり、他にも指や脊髄の一部などが個々に入れられ、蓋から電極が延びていて外の通路へと繋がっている様だった

「先輩…あの、私まだよくわからないんですが…これってどういう事なんですか…?」

「これも一つの命なのよ、命に繋がる命なの、細胞は生きているのよ、細胞が生きているのは知ってるでしょ?」

先輩が言っている事を理解しようとしても目の前にあるものが衝撃的すぎて頭が働かなくなっていた

「さ、細胞はわかります、でも…これが入院患者さんっていうのはちょっと…わかりません…」

「でも理解してほしいの、私達がこれからを支えていかなくちゃいけない事がここにあるのよ、ここから命を救ってあげることができるのよ、だから分かって、あなたは選ばれたの、命の人選なのよ」

真剣な眼差しは嘘も誤魔化しも感じることはできない、本当に真っ直ぐに言っている、でも自分にはまだ理解できないでいる、聞きたいこともうまくまとまらない状況の中で困惑するしかなかった

何も返事ができないでいると

「それじゃあ次はこっちに来て、来てもらえれば分かってくれると思うわ」

そう言うと一番奥の扉へと向かった、そこの部屋は横に広がっていて薄暗かったが何も無く小さい窓がいくつもあった

「ほら、見て御覧なさい、これが命よ」

先輩に促され窓から覗くとそこには研修で見た集中治療室だった、しかしそこには緊迫した空気感は無く淡々と作業をする医師が数人いた、研修医やサポートも無く治療というより処理という感じだった、そして横には例の大きな試験管が幾つも並んでいた

「あの、先生達は何をしてるんですか?ここって集中治療室ですよね、治療しているようには見えないんですが…さっきも言ってた命ってどうゆう事ですか!?」

理解出来無い苛立ちと何を見せられているのか分からない混乱で感情があらわになって突っ掛かってしまった、ハッと我に返ったそのとき部屋の奥の引き戸が開き、部位の詰められた大きな試験管を医師が台車に載せて部屋に入れた、チラッとこちらを見たように感じたが薄暗い部屋ではあまりよくわからなかった

「タイミングがよかったわね、さあ行きましょう、ちゃんと説明しなくちゃあなたも何をしていいか分からないものね」

そう言うと台車を押しながら違う部屋へと入っていった

「これで大体の患者さんが揃ったわね、要約ここからあなたの仕事がはじまるのよ、あなた向こうの病棟で素晴らしい仕事をしてたって認識はある?」

「えっ?私がですか?私は何も特別な事なんてしてません、時間通りに仕事をこなしていただけで婦長に言われた仕事をしていただけです…」

「それだけじゃないのよ?もしかしてあなた、メンタルケアまできちんとサポート出来てたのは自覚してないでしょ」

普段の会話のように爽やかな笑顔で業務の話をするのはこの間まで一緒に病棟で仕事をしていたときの様な会話の流れだった、まるでこのあとランチかお茶に誘われるような空気感だ、しかしここは地下で誰もいない病棟、何も把握してない、できない場所だという現実に引き戻された

大きい試験管を電極に繋げている先輩の手伝いをしながらここに配属された理由が聞きたくなった

「先輩、私はなんでここに配属されたんですか?」

書類をパラパラとめくり、機械の操作をしている、こちらの声が耳に入らなかったのだろうか

「先輩、あの…」

もう一度聞こうとしたそのとき

「さっきも言ったでしょ?あなたは仕事ではここにいない、気持ちで仕事をしてるでしょう?それが配属の理由なのよ?」

メンタルケアのサポート…他の看護師は薬や点滴の配薬、カテーテルの交換を機械的に終わらせたらすぐに移動する、入院患者にはとかく構わないといった姿勢が多かった、患者側からも余計な事はしなくていいという声もあったからだ、しかし違った、今日のお昼はおいしかったかとかお見舞いに来た家族にも話しかけ患者との距離を縮めて患者のちょっとした変化さえも見逃さないといった行動が、看護師ではなく、昔ながらの看護婦といったところだった

「私は、母も看護師で色々仕事の話を聞いていて、あぁ、自分もこんな風に頑張れたらいいなって思っていただけで自分が認められてるなんて、そんな、おこがましいです…」

「他人の評価は他人がするものなのよ、自分で採点だなんてそれこそおこがましいわ、だから安心して、自分もこんな風に頑張れたらいいなって思ってるんでしょ?それだけでいいのよ」

「はい…」

「がんばってね、それと…」

先輩から出た言葉はちょっと信じられない言葉だった

「今日からここで生活することになるから、暫くはお家に帰れないから、いいわね」

こちらの言葉など受け付けないとばかりに続ける

「生活に必要な物はきちんと用意してあるわ、でも外部との連絡は慎重にね、あんまりベラベラ言わないように気をつけてね、約束よ?」

こちらが何かを言おうとするとそれを上回る答えが次々と返ってくる、家族の事やプライベートの事など全て知り尽くしている様だった、正直恐ろしくて何も考えてはいけないのかとさえ思った、それ程に全てを笑顔で答えてくる先輩の目が輝いているのが一番の恐怖だったのかもしれない


肉片や細胞を入院患者と呼ぶのは今現在あちらに入院してる患者の為だということだった、移植が認められていなければ自らの施設で育てればいい、移植ではなく治療であるということ、細胞という患者が入院しているあちらの患者の手助けをしているから治療と呼ばれるらしい、最終的な回復は当人に委ねられるということ、執刀などではなく細胞レベルでの注入で治療をしていくのがここの病院のやり方の一つだということらしい


あれから集中治療室からの部位提出は無かった、今まで集められた患者は培養や保存等によって必要な書類と共に集中治療室へと運んでいく、施術の様子などは見る事ができなかった

「先輩、あそこの集中治療室って…あ、別に下手な詮索とかそういうんじゃなくって単純な疑問っていうか素朴なって訳じゃないんですけど…」

じっとこちらを見つめている先輩の目は、疑うような真剣に聞いているような目でこちらを見据えているようだった

「そうね、言いたい事は分かるわ、ここは一般の集中治療室ではないのよ、研修の時のみに見せるスタジオみたいな所なのよ、だから自由に使えて誰にも干渉されない便利な場所なのよ」

「実験…場所…みたいなんですかね…」

「あら、ちょっとやめてよね、ここだって立派な患者さんの為の場所よ?」

「あああ、すみません!変な事言って…」

「フフフ、いいのよ私だって最初は恐ろしかったし病院に不信感しかなかったもの」

静かな空間に二人の静かな笑い声が広がった、何か二人だけが共有する静かな空間に感じた

「でもね、ここの病院って医学学会で論文発表とかしてないんですって、あんなに沢山の人を治療してるっていうのにね、あんまり目立つような事はしたくないみたいね、こんな施設作ってる位だもの仕方がないのも理解できるわよね」

初めて先輩の愚痴のような本音のような声を聞いた、病院の考えにベッタリしてる訳では無いようだ

「別に世の中を変えるだとか医療改革を起こそうとか考えてないみたいなのよ、相手が国になったらそれこそ厄介だし法律と戦おうなんて時間の無駄だって思ってるんじゃないかしら、だったら自分達で患者さんを救いたいって答えが出たんでしょうね、医学学会の論文を手本に技術の向上をするのは悪い事じゃないものね」

「自分達で患者さんを救いたい…わかります、物凄くわかります!決められた事だけじゃなくてもっと良くなる方法を考えたいです!!」

「良かったわ、やっぱりあなたは仕事でここに来てたんじゃなくて気持ちで来てたのね」

先輩との会話で自分の中にある何かがパッと弾けたような感じがした、それと同時に先輩との距離が縮まった様に思えた

「先輩すみません、今まで先輩のことずっと怖いって思ってました、でも今お話して頂いた事で自分の未熟さに反省してます、すみませんでした!」

一瞬キョトンとした表情を見せたがその顔は崩れてちょっと涙目になっているようだった

「いいのよいいのよ、私も変な気を張りすぎていたのがいけなかったんだから、あなたにプレッシャーしか与えてなかったのね、反省しなくちゃいけないのは私の方よ、ごめんなさいね、あぁー泣いちゃう、こういうの弱いのよ私、ホントごめんなさいね」

静かな地下の病棟で「ごめんなさいね」と「すみませんすみません」の声だけがこだましている、なんともおかしな光景だが、この二人の仕事がこの病院を司っているとは誰も知る由も無いのである


数日経ったある日、病院の内線で話していた先輩が神妙な顔つきで受話器を置いた

「ちょっと大変な事になってるらしいわね…」

「どうしたんですか?先日も治療を受けた患者さんが劇的な回復で退院したって言ってたじゃないですか」

「それなのよ、その患者さんがここに来たのもセカンドオピニオンで、週刊誌記者の奥さんらしいのよ…」

嫌な予感がした、折角喜んでくれると一生懸命であっても下手な所は探られたくない、もし探られたとしてもここまでは誰もたどり着けない、関係者でさえ分からない場所なのに不安になる必要は無い、でも万が一知られてしまうか突き詰められてしまうかわからない、気持ちの中で不安と安堵が行ったり来たりしていた

「週刊誌って…でも、分からないですよね、ここって誰も知らないじゃないですか、いきなり入り込んで来るなんて考えられないしまさか病院を売るような内通者なんていないですよね…」

「週刊誌やテレビぐらいならいいんだけど、その影響で他の医院から問い合わせが出てくると困るのよね、見学したいとか今打った薬剤は何だとか説明しないといけなくなるのよ、そうなったら培養されてる患者さんの事も言わなくちゃいけなくなるって事がでてくるのよね…」

「そんな、私達の苦労が水の泡になっちゃうじゃないですか!患者さんを助けたいだけなのに!!」

「そうね、でも私達ができる事は数少ないわ、やれる事をやりましょう、もし内通者がいたらそれは仕方の無い事よ、患者さんや勤務してる人間の身辺調査が出来てなかった病院の責任でもあるのよ、だから、今の事だけを考えましょう?、ね?」

両手で肩を優しく抑え、興奮している私を少しでも落ち着かせようとしていた、しかし自分の想いがメディアの興味本位だけで不意にされそうな気がして悔しくて涙が次々と溢れてくる

「私、私、悔しいです…なんで、なんで…」

「大丈夫よ、記事になるって決まった訳じゃないし、もしそうなったとしてもやりようはいくらでもあるのよ、あなたの気持ちは痛いほど分かるわ、でもそんなに早合点しなくてもいいの、安心して大丈夫よ」

先輩の言葉は頼もしく強く負けない力があった、しかし、言葉には限界があった。週刊誌の見出しに大きく扱われてしまいワイドショーもこぞって放送した、それは仕方の無かった事だった、どこの病院でも治療が不可能といわれていた眼球内の治療だったからだ、手術をせずに治療できるなんていうのは世界でも例を見ない状況だった、もちろん病院の対応は投薬と患者個人の回復力の賜物であるとしか言えなかった、もっと恐ろしかったのは次から次へと「あそこの病院で治療を受けたらすぐに良くなった」という噂が広まってしまった事が藪蛇としかいいようがない、取材の数は徐々に減り落ち着きを取り戻したが人の想いは留まる事を知らない、紹介状を出してもらえなかったが診て貰えませんかという患者が増えてしまったのだ、もちろん病院側としては丁重に説明をして理解してもらっていたが今度は紹介状を持ってくる患者が増えてしまって問診に数ヶ月待ちなんていう患者も出てきてしまう程だった

「ここの病院どうなっちゃうんですかね…こんなこと言ったらダメですけど、どんどん治しちゃっていいんですかね、もしかして他の病院から患者さんに化けたスパイみたいな人が送られてくるんじゃないですかね…」

「分からないわね、もしかしたらってあるかもしれないけど、あなたのその思い込みが本当にならない事を祈るばかりね…」

二人の心配は見事に外れた、内通者もスパイもいなかった、ほとんどの患者はセカンドオピニオンすらしなくてもよかった患者ばかりだった、そして噂は噂でしかなかったという別な噂も広まっていき、ちょっと評判の良い病院という存在だけが定着した


「ここの先生方は本当に優秀ね、私が言えた事柄じゃないんだけどあれだけ溢れていた患者さんを退院させちゃうものね、ココの患者さんもあまり使わずに…流石だわ…」

「本当にどうなることかとドキドキでした…昨日の様に思い出しますよ…」

書類の整理をしながら患者さんの見回りに行こうとした時、内線が鳴った

「はい」

ここには部署名も課名も無い、しかしここに掛けてくる人間はここがどういう所か分かっている

「はい、はい、えっ?はい、わかりました、お待ちしております」

「お待ちしておりますって誰か来るんですか?珍しいですね」

「主任よ統括事務の、用件を何も言わないのはいつもの事なんだけどね」

ボイラー室の鍵を開けると主任と院長が入ってきた、彼らが伝えてきたのは病院に内通者がいて、私たちも例外ではないという事だった、事が事なら病院を辞めてもらうしかないとまで言ってきた、しかし通話などは電波が届かない分、固定電話でやらなくてはいけないし通信もパソコンからでしかできないから通信記録やどうせ盗聴しているだろうから、疑われる余地はないと反論した、ましてや何故自分達が病院に勤めているのかを熱く主任と院長に訴えた、半ばケンカ腰だった、二人の勢いに男二人は根負けして帰っていった

「内通者が…いたんですね、信じられないです何でそんなことするんでしょうかね…」

「そうね、手柄とかもしくは正義感あふれる行動だと思ってるんじゃないかしら、どっちにしろ腹立たしい事には変わりないわね」

「ここの病院が無くなったら救える命も救えなくなっちゃう、そんなの嫌です…」

「ちょっと待って…ココの存在を知ってる人間じゃなきゃ内通さえ出来ないのよね、いきなりこっちに疑いかけるっておかしいと思わない?そもそもどこに内通したっていうの?それさえも説明なかったわよね…」

「それじゃあ主任か院長先生って事ですか!?」

「揃って二人の可能性もあるわよ?」

「おかしいじゃないですか!このまま患者さんの為に頑張れば変な事しなくても…あっ」

「気付いた?もしかしたらあの二人、この病院を捨てる気よ、私達に要らぬ疑いをかけて辞めさせて自分達の技術として日本じゃなくて海外に売り込むつもりじゃないかしら…」

「先輩の思い込みも私の思い込みよりレベルが桁違いです…」

「かもしれないわね、でも私の思い込みは根拠無くして言ってる訳じゃないのよ、以前検体から患者さんを取り出した先生いたでしょ?」

「あ、はい、私が来た初日に会った先生ですよね」

「そう、その先生が『上も長くなさそうだぞ』って言ったのよ、何の事だか分からなかったけど要約繋がったわ、そういう事だったのね」

「あのとき私をチラッと見たのも警告みたいな感じだったんですかね、よく分からなかったですけど…分かりにくいです、そう言ってくれればよかったのに」

「まぁ今更だけど確定した訳じゃないから主任と院長を疑ってばかりもいられないわね、他にも誰かいるのかしら…あーもう!ゴチャゴチャする!考えなきゃ!もっと考えなきゃ…」

「先輩落ち着いてください!先輩だけが頼りなんですから…ゆっくり考えましょう、何か策はあるはずですから…私も先輩と同じ気持ちです、病院って患者さんの為にあるんですよね、儲けるだとかお金なんかで患者さんが困るようじゃダメですよね…」

「そうね、あなたはやっぱりキレイね、羨ましいわ…でもね、どこの誰かがこの病院と患者の命を絶とうとしてるのは間違い無いのよ…」

「そうしたら私たちの味方になってくれる人を探さないといけないじゃないですか!私たち二人だけじゃ到底勝てっこないですよ…本当に病院がなくなっちゃうなんて嫌ですよ…」

二人の間に沈黙が続く、解決策などそう簡単に出るわけでもなく何かを言っても何も前に進まないのは分かっているから只単に黙っているしかないのかもしれない、誰かに相談しようとも筒抜けになってしまうのは当然の事、下手な動きをすればそれこそ相手の思う壺だ、そこで一つ結論を出した

「誰も味方なんていないわよ…いるわけないのよね、みんな自分自身が一番可愛いのよ、患者さんの事を考えてる人なんていないわ、ましてやここにいる患者さんの事なんてね」

「ここにいる…患者さん…みんなの為の患者さん…ここの患者さん…」

ドアの窓越しに見える大きな試験管を見つめながら呪文のように言葉が連なる

「そうよ、だから私とあなたでここの病院を、ここの患者さんを守らなきゃいけないの」

「先輩…先輩私に何でも言ってください!私、ここの患者さんを守りたいです!!」

もう止まらなかった、二人の想いは病院の行く末よりも今まで見守ってきた大きな試験管に入った患者さんしか頭になかった、病棟にいる患者を何人も救ってきたここの患者さんが二人の全てだった、細胞レベルであろうが手厚く世話した事に変わりは無く、愛情さえ生まれていた


それからというもの、主任からは通常の仕事依頼の連絡以外何も無くいつもの病院勤務のような日々が続いた、院長は直接ここと連絡を取り合うということは無いので、何も無ければ何も無いのだ、しかしこちらの二人はじっとしている事はなかった

「先輩、準備進んでますね!なんだかウキウキしますね!」

「ダメよ、浮き足立っては…慢心や油断ほど恐ろしいものはないわ、私だってウキウキが止まらなくて仕方が無いんだからッ!自分を抑えるので精一杯なんだからあなたまでそうなってしまうと失敗してしまいそうで怖いわ…」

「大丈夫ですよ先輩!私、先輩の話を聞いて確信したんです、これならうまくいくって!さすが先輩だって!だから私も頑張らなくっちゃって思ったんです!だから浮かれてるウキウキじゃなくって前向きなウキウキなんですよ、しっかりしてるんで大丈夫ですよ!」

「なんだか私より前向きで自信家だわね、安心するというより何だか怖いわね、良い意味での怖いなのよ?間違えないでね」

「えへへ~、わかってますよ先輩!心は一つなんです!真っ直ぐですよー!」

鼻歌なのか笑声なのかリズムなのか分からない音程を奏でながらファイルを抱え仕事に向かっていった、あの子と一緒なら不安な気持ちが生まれることは無い、浮いた気持ちでいると隙がでてしまう、私がしっかりしていなければあの子の真っ直ぐな気持ちを不意にしてしまう、ここまで来たんだここまでたどり着いたんだ、逸る気持ちを抑えなければいけない、そんな気持ちを何回も心の中で唱えるのが日課のようになっていた


「はい、大丈夫です揃っています、はい、そうですね分かりました、よろしくお願いします」

ゆっくりと受話器を置き目線を送る、送られた目線は届き、席を立つ、先輩から言われた患者さん達をワゴンに乗せてゆっくりと奥の集中治療室へと向かう

「先輩も凄いなぁ、私なんてこんなこと考えも出来なかったよ…これからスタートなんだ平常心平常心…」

先輩の画策はこうだ

「いままで患者さんの協力依頼はこれなの、ここの病院は総合病院だからありとあらゆる治療を行っているのよ、でもね、只一つだけ無いのが発毛外来なのよ…」

「発毛外来って精神的や遺伝とか白血病治療の副作用とかで毛髪が抜けてしまった後の治療ですよね、簡単には言えない症状ですけど…」

「そうね、毛根が活動を止めてしまっていてはもう生えないと言われているけどこのリストには毛母細胞とメランサイトが含まれているのよ、おかしいでしょう?それも定期的に協力依頼がきてるのよ、これって自分用で使ったとしても頻繁に出すぎだわ、きっと持ち出してどこかに流していると思われてもおかしくないわ…」

「先輩!もしかしてこの間の院長先生が来たときってこの事のカマ掛けだったって事じゃないですか!」

「そうよ、あの時は何も分からなかったからあの人達のとんだ勇み足だったって事よ、やましい事があるからなんとかしないと、って考えたのが大きな間違いだったってことね、私達に優勢な流れなのよ、だからねちょっとした罠を仕掛けるのよ、患者さん達にはちょっと協力してもらうのよ」

「わ、罠ですか!?発毛を止めちゃうとかですか?そんなことしたらすぐバレちゃいますよ!」

「逆よ、逆、もっと患者さん達に頑張ってもらうのよ…」

「えぇ?もっと…頑張ってもらう…?」


ワゴンが集中治療室に到着し、主任が白衣を着て待っていた

「はい、ゴクロウサマ、えーっと…」

一緒に渡したファイルと揃えた患者さん達をジロジロとチェックしている、ひんやりとした室内は静寂とそこにいる者の呼吸のかすかな音しか聞こえなかった

「うん、大丈夫かな、はい」

ファイルの書類にボールペンで誰とも分からないような当人でしか書けないサインをサラサラと書きファイルを返してきた、同時に頭を下げる程度の簡単な会釈をし、すぐに戻った

「どうだった?何か言われた?」

先輩が心配そうな顔で聞いてきた

「んー、何か言いたそうな感じだったんですけどさっさと帰ってきちゃいました!」

「それがいいわ、変に引っ掻き回されても迷惑だわ、私がいなくても違和感はさほど感じなかったってことかしら、何か言いたげだったのはそのことかもしれないわね」

暫く考え事をしていたが、大きく息を吸いゆっくりと吐きこう言った

「これから大事件が起きても動揺しちゃだめよ?どんな事があっても、もうろたえないでね」

「大丈夫ですよ先輩!一緒に頑張りましょう!!」

「そうね」

先輩の「そうね」はなんだか寂しそうな感じだった、あれこれ聞くのは余計な詮索だし不粋な真似はしたくなかった、折角色々考えてくれているのに下手な出しゃばりは必要ない、何かあれば先輩は言ってくれるから聞く必要もない


着々と計画は進み、数ヶ月が経った頃、社内メールの一報が入った

【当院長の失踪について】

思わず二人で声を上げてしまう、文章は数行で終わっていたが最後に

『当病院の経営に問題は無く、勤務者に対し何ら影響もありませんので不必要な他言はなされぬよう心掛けて下さい。他言が確認され次第、相応の責任を負って頂く事となり得ますので御了承下さい』

まるで脅しのような締めくくりが書いてあった

「い、院長どこいっちゃったんですかね…」

「それよりもう一人よ、仲間を売ったのか狙われてるのか分からないけど…」

その時、内線が鳴った、二人は目を見合わせたがすぐに受話器を取った

「はい、はい見ました、どうしたんですか!?どうしたらいいんですか!!…はい、わかりました…はい…」

その後も同じ様な会話を繰り返している先輩は感情をあらわにした声で話続けている、院長の話とここの話をしているのだろう、ここまで息を荒げている先輩を見るのは初めてだ、やはり失踪となると訳が違ってくるのだろうか、これから先はどうなるのだろうか、そんな事を考えていると先輩が受話器を置いた

「どうだった?私の焦りの演技、どうだった?」

一瞬、先輩が何を言ってるのか分からなかった

「ダメだった?あなたの焦ってる喋り方を真似たんだけどイマイチだったかしら…」

やっと理解した、なぜ演技をしなければならなかったのか、感情のコントロールが利かなくなったような喋りを繰り返してたのはどうしてなのか、受話器を置いた時の顔が全てだった

「先輩…いいかげんにして下さいよ…凄すぎるじゃないですか…」

「あら!よかった!感情の起伏が激しい先生が身近にいると助かるのよね」

「全然似てないですよ!んもー…」

しかし、いたずらっぽく言った先輩の目には涙が溜まっていた

「えっ、先輩…どうしたんですか…?」

「ちょっと忘れられない事があってね…あのね、話してもいい?」


先輩の話は衝撃的すぎた、先輩は元々別の病院で働いていて結婚し、出産をするために大きいこの総合病院へと出産入院していた。出産はしたものの赤子の心音は鳴る事がなく死産という形を取らざるを得なかった、双方の両親は心配をしてくれていたが妊娠中も働いていた事を持ち出し、子を死なせた娘、子を死なせた嫁という目線しか感じられなかった、夫も言葉が少なくなり、もう忘れろだとかいつまで泣いているんだとか言うようになってしまい、別れる結果となってしまった。

 一人になったとしても生活の為にまた病院勤務に戻るしかなかった、入院時に色々と相談に乗ってくれたこの病院へすがりつくように働く事となった、その時に新しい病院の在り方として細胞からの治療という治療法を確立する事となっていった、しかしそこで最悪の再会をしてしまうのである、新しい細胞から最新の治療ができるといった考え方から、死亡した乳児や新生児を検体として各部位の摘出を行うというのだ、嫌な思い出しかないが仕事だから仕方がない、だが違った…目の前に出された検体には見覚えがあった、腕に大きな黒子、背中まで広がった蒙古斑が見えた、そこまで特徴が同じ赤子などいるはずが無い

わたしのこだ

自然と言葉が出ていた、私の子だ、生まれた瞬間に抱きかかえたひととき、少しは動いてくれて両手を一生懸命動かしていたあの時間を忘れる事なんてできない、腕の黒子も背中の蒙古斑も目も口も耳も膝の大きさだって忘れる事などできない。産声は聞けなかったが。

その赤子は培養液の入った大きな試験管から取り出され、目の前で綺麗に切り分けられていく、標本を作っているかの様に鮮やかで芸術的でもう一度組み立てられそうなほど繊細に切り分けられ、準備された大きな試験管の中に一つずつ、50以上になっただろうか、ワゴンで次々と運び込まれていく、自分の横を通り過ぎていく我が子、我が子だった細胞というところだろうか。さっきまで流れていた涙もいつのまにか止まり何故か落ち着いているような感覚でもあった。諦めなのか覚悟なのか、感情というものに蓋をしてしまったのかもしれない、ひとつひとつ、見て確認して処理しての繰り返しが当たり前の生活になっていった、そう、あの子に出会ってこんな問題が起きるまでは自分に血が通っている生活など考える事もしなかった


「ごめんね、変な話聞かせちゃって…」

「そんなこと…そんなことないです…だって先輩は何にも悪くないのに、周りが勝手な事ばっかり言って先輩の事、何にも考えてなくって…ううっ、うぅ…」

人にはそれぞれの人生があるがこんな壮絶な経験を記憶から無くそうとせずに他人に話せるなんてどんな心情なんだろう、どれだけの決断があっただろう、考えれば考えるほど先輩の強さや苦悩が痛いほど感じられる

「でもね、あなたに出会わなければ今の私は無いわ…世の中に忘れていい事なんてないの、仕方が無い事なんてないの、きちんと立ち向かって覚悟を決めて結論を出さなきゃいけない時だってあるのよ」

「先輩……」

「それが今なのよ、思いっ切り感情的になっていい時なの、そうじゃなきゃあの子の命だって報われないわ…」

「先輩…そうですよね、そうじゃなきゃいけないんですよね…」

「これからが本当の正念場よ、主任は随分と焦っていたわ、きっちり罠に掛かってもらいましょうね」

「先輩はやっぱり凄いです、強いです…私、しっかり出来るかどうか…」

「今まであなたから元気もらってきてたんだから自信を持って、『心は一つ』なんでしょう?『真っ直ぐ』なんでしょう?『一緒に頑張る』んでしょう?あなたが元気じゃないと私まで元気じゃなくなっちゃうわ」

「うぐっ、すみません…うぅっ…がんばります…」

先輩の優しい手がゆっくりと髪を撫で下ろす、何も言葉をかけてはいないが撫でられているとふんわりとした気持ちに包まれた、穏やかに、ゆっくりと。


院長が失踪して暫くしてからも患者さんの協力依頼は続く、他の細胞より発毛細胞の協力が多くなってきてるのだ

「やっぱりそうだわ、院長がいなくても一人でやりくり出来ているみたいね、院長はもう日本にいないのかしらね、失踪だったとしても警察なんて容易に呼べる状況ではないものね…」

「それじゃあ院長の件の院内メールって主任が全部企てたって事なんですか!?」

「そうね、直接院長と関わりのある人間なんて病院にそうそう居ないわ、ここなんてもっと特別よ、主任が一々内線掛けてくるなんて律儀でおかしい手の回し方なのよ…」

「そうすると主任はまだ私たちを騙せてるって思ってるんですよね!」

「騙せてるというより何も気付いていないってところかしらね…そうだわ、いい流れなのかもしれないわ…」

二人はもう動いていた、発毛細胞にちょっとした細工をしていたのだった、専門的な知識は無かったものの数値入力だけでコントロールできてしまう万能な機械であれば造作も無い事だった、通常培養であれば個人差無く一ヶ月程で産毛が確認される程度が一般的だが、二人が施した培養細胞は一ヶ月で1cmほど伸びてしまう、それほど勢いがあるということは周辺に対しても影響があるということ、眉毛、睫毛、耳毛、鼻毛、髭、もっと影響が出ると腋毛や胸毛にまで発毛が促進されてしまう、効き過ぎるのだ、いくら毛が生えても生えすぎては欠陥品だ、もしそれがどこかの国の組織であったり大手国際的製薬会社であったりすれば一大事になってしまう、闇取引の責任は遥かに重い

 あれほど頻繁にあった協力依頼がパタリと途絶えた、内線も鳴らない静かな日が続いた

「最近、協力依頼がきませんね、影響があったんですかね」

「本当に何も無いわね、もうちょっと騒ぎになってもいいはずなのに、嫌な予感がするわ…」

その嫌な予感は的中した、新聞の社会面ではあるが小さく『男性らしき二人の遺体が発見される』といった見出しで記事が出ていた、しかし身元の詳細は無く事件事故の両面から捜査を始めるとしか書いていなかった、もちろんそんな記事に二人は反応することもなく、これからもその男性二人の身元が判明することは無かった


院長の失踪と主任の無断欠勤、今まで主任がほとんどの業務バランスをとって来た事もあり、院内の統括が出来なくなってきているというのだ、何とかして欲しい、全ての事情を知っていて院内でも顔が利くという理由で先輩のもとへと来たというのだ、先輩に声を掛けてきたのは初日に私が会った先生、先輩に助言を与えてくれた先生だった

「ここの内線を知っている方は限られているんですがまさか先生から掛かってくるとは思いも寄りませんでした、素晴らしいお話なんですがまだ主任はおろか院長も帰ってきていない状況でそのお話を受け入れることは尚早かと…」

しかしこのままでは病院の経営が行き詰ってしまうというので強引にでも了承してもらいたいという事だった、他から人材を入れても時間が掛かかりそんな余裕は無く、緊急だと考えて欲しいという話だった、先輩は少し黙り込み、こちらの仕事も続けられるという条件付きで了承した

 先生が戻って行き、二人に沈黙が続いた、これで一段落したのだろうか、このままいつものように過ごしていって良いものだろうか、主任も院長も病院と連絡さえ取れていないというのはどういう事なんだろうか、きちんとした答えが出ていないのに次へ進めるのだろうか。二人が見つめるテーブルにはお茶が入ったカップと内線だけがあるだけだった


先輩は事務の処理で一週間ほど経った今でも戻ってきてはいない、もちろん内線は鳴らない、鳴らないということは病院内でも協力は必要が無いということなのだろうか、それでは今まで頻繁にあった協力依頼は一体何だったのか、主任も院長もどこへ行ってしまったのか、たった一人で不安に駆られるばかりだった、するとそのとき内線が鳴った

「はい!」

受話器を取り思わず自分の名前を言いそうになり慌てて口をつぐむ、聞こえてきた声はもちろん先輩だった

「協力依頼です、次に言う患者さんの準備をしておいてください…」

あまりにも業務的な言葉運びに少し寂しさを感じていた、なんだか見放された気分だった、言われた用件を復唱し受話器を置いた、ファイルと患者さんを用意しワゴンを集中治療室まで運び入れた

 数分で先輩が白衣姿で入ってきた、一人だった、ファイルと照合しながらサインをしファイルを渡そうとした時、先輩がギュッと抱きしめてきた

「ごめんね、そっけない電話しちゃって…分かって、向こうはもの凄く大変なのよ、安心して、もうすぐこっちに戻ってこれるから、ね」

「せ、先輩!?あ、あの、えっ?えっ?」

突然の事に戸惑っていると

「あなた泣いてたでしょう?目が赤かったわよ?」

「あの…はい、何か色々考えちゃって、ずっと一人でしたし不安しかなくって…」

恋人同士のような会話だが会話は突然に変わる

「その不安はそろそろ無くなるわよ、凄いんだから」

そういって先輩は手をひらひらさせて病棟に戻って行った、この数分間の出来事はあっけに取られるだけだった、寂しさは吹き飛んでいた

 二日後に先輩は戻ってきていた、今まで主任が処理してきた事務の仕事は奇妙なものだったという、国内や海外のやり取りの書類がたくさん出てきて、その全ては一過性のものであり契約という契約などではなく同じ機関とのやり取りでも書類を交わすというやり方だったようだ、中には大企業の幹部であったり世界的セレブや政治家など数多くの名前がみられた。施術をする医師と先輩でカンファレンスと称し書類の分別と取り引き相手の所在とこの病院との関わりを全て調べ倒してようやく落ち着いたというのだ

「久しぶりに何日か徹夜なんてものをしたわ、逆に拗らせた取り引きがなかっただけが救いだったわね」

「やっぱり怪しい取り引きしてたんですね…それで主任って今どこにいるんですか?帰ってきたらどうするんですか?」

「帰ってこないわよ」

「えっ!?先輩…なんで…主任って、帰ってこないって、えっ?もしかしてここの病院に!?えぇ!?」

「違うけど違うとも言えないのよね、主任も院長も捜索願は出してるらしいんだけど提出できる物って少ないのよ、住所と名前と顔写真だけなのよ、それだと一般家出人って扱いで事件性が無ければ警察も探しようが無いんですって」

「でも病院に戻ってこれるなら帰ってくるんじゃないんですか?」

「んー、私もよく分からないんだけど…」

そう言いながら溜まっていた新聞の日付を見ながら一部を抜き取った

「ここよ、ここ、見てみて」

指し示した記事は小さく男性らしき二人の遺体発見の記事だった

「先輩、まさかこれが院長と主任だっていうんですか…?」

「なんだかそんな話になってるらしいのよね、いいのよ?ふらっと戻ってきてもらっても、私達の細工なんて誰も知らないしそんなこと出来るなんてわかりっこないのよね…」

「あれ?それじゃあ…私達がしたことって大成功なんじゃないですか!?凄くないですか!?この病院が無くならずに済んでるんですよね!」

「あなた相変わらず飲み込みが早いわね、素直というか単純というか…度胸が据わり過ぎだわ…」

「それって悪口に聞こえます!んもー!」

「それでね、色々調べて分かった事なんだけど、主任が取りまとめてたのって発毛細胞だけじゃなかったのよ、発毛細胞と一緒に抱き合わせで他の細胞も取り引きしてたのよ」

「なんですかそれ!病院を食い物にした只の横暴じゃないですか!!酷すぎますよ!」

「怪我の功名っていう訳じゃないんだけど、この際にこの病院でも発毛外来やってみてはどうかって話が出てるのよ」

「えぇ!先輩も主任みたいになっちゃうんですか!?やめてくださいよ!」

「病院での話よ、私一人がどうにかしようって話じゃないわよ、先生方と話をしてただけなんだけど、どうかしら?」

「すみません…んー、でも何だか複雑です、事情は分かりますけど今までの出来事が出来事だっただけに複雑です…良い事だとは思うんですけど…」

「それじゃあ決まりね、ここの病院も生まれ変わって全ての患者さんが幸せになれるわよ」

「でもまた誰かが変な事するかもしれないですよ?それを考えると心配です…」

「大丈夫よ、なんで先生方が今回ここまで協力してくれてたと思う?」

「えっ?」

「あの先生方はあなたのお母さんに育ててもらった先生方なのよ?育ててって言うと変だけど、あなたのお母さんは先生方の教育係だったのよ、その時に沢山の気持ちを受け取ったって言うのよ、それであなたがここに勤務が決まってその働き方がおかあさんそっくりだったんですって、そこで先生方も病院のやり方に疑問を抱き始めてなんとかしたいって思った時にこの出来事が起こったって話なのよ、嬉しい誤算っていうのかしらね、こういうのって…」

「えぇっ、なんだか…よく…わからないです…」

「だから言ったでしょう?あなたは仕事でここにいるんじゃなくて気持ちで仕事をしているのよ、やらなくちゃではなくてやりたいって気持ちが大切なのよ、命を支える気持ちがみんなを動かしたんだわ、先生方もここの患者さんも感謝してるわよ、もちろん私もよ」

「そ、そんな、もったいない言葉です…でも、ありがとうございます!!」

次に出てくる言葉が思いつかなかった、当たり前だと思っていた行動がこんなに影響を与えてるなんて思いもしなかったし、なにしろ先輩に言われたのが一番嬉しかったのかもしれない、先輩も大変な思いをしながらこの病院の事を考えるのは耐えられなかったはずだ、そんな先輩に感謝されるなんて自分はそこまでの行動をしていたのだろうかと自身に猜疑心を抱いてしまう、卑屈すぎるかもしれないが正直信じられなかった。

 しかし、メンタルケアという言葉だけが独り歩きするよりも寄り添う気持ちを忘れなければ自然と身についてくるもので、特別なものではないというのが先輩の言葉だった、そして言葉は続く

「だからね、院長も主任もいなくなってくれて本当に清清しいのよ、先生方にも感謝しなくちゃいけないわね」

先輩の言葉に何故か引っ掛かった、『先生方にも感謝しなくちゃいけない』その言葉になにかとてつもない暗躍じみた何かがあるように感じた、でも聞けないし聞いちゃいけないと瞬時に判断した

「せ、先生方にも色々感謝しなくちゃいけないですよね、何かプレゼントしたほうがいいんですかねぇ」

誤魔化すように、自分の事を見守ってくれた先生方の話をしようとした

「ねぇ、あなた分かってるでしょう?今の言葉にちょっと反応したわよね?」

「なんのことですか…」

「先生方に感謝しなくちゃいけないって言ったとき、反応したわよね?さっきも『もしかしてここの病院に』って言ってたわよね、そうよ、その通りよあなたは本当に察しが良くて頭が良い子だわ、ますます好きになっちゃうじゃない…」

「私…そういうつもりで言った訳じゃなくて……あの、先輩、私も消されるんですか…?」

「フフフ、違うわよ逆よ、私達はもうどこへも行けないってこと、もちろん他言すれば消されるわよ、女性のような遺体になってしまうことは確実よ、でもね、ここの患者さんと病棟の患者さんの命を守り続ければずっとずっと幸せだって事なのよ?今までだって一生懸命にやってたんだから分かるでしょう?」

「よかった…私消されないんですね……えっ?そうしたら院長と主任ってどこで発見されたんですか…ね?」

「さぁ?どこなのかしらね、でも先生方の施術は素晴らしいのよ、キレイになるのよ、骨だけだったんじゃなかったかしら、だから骨格で判断されて、男性らしきってなってたんじゃなかったかしらね」

恐ろしい内容を冷静に淡々と話す先輩はまるで見てきたかのように語りだす、先生方のやり方がまるで正当化しているかのように、自分の子供を目の前でキレイに切り分けられた経験が先輩をここまでにさせたんだろうか

 先生方の考え方だって果たして正しいのだろうか、母の教育とはどうだったのだろうか、仕事から帰ってきた母は疲労感は感じられたが悩んでるとかやつれている様子など無かったはずだ、先生方は母から何を教わってどんな答えを出せばあの二人を殺める事ができるんだろう、自分の考えももしかしたらそんな凶暴性を正当化してしまう人間になってしまうのではないかと心配になった

「先輩、一ついいですか?」

「なにかしら?その声だと随分揺れ動いてるような話かしら」

「はい、揺れ動いてます、私は母のような看護師になりたくてこの病院にきました、でも今までの話を聞いていると私も誰かに何かをしてしまいそうで怖いんです…」

感情を保とうとしてもどうしても涙が溢れてきてしまう、悲しいとか悔しいとかではなく涙が流れてしまう

「それは違う、あなたは大きな勘違いをしているわ、あなたのお母さんは愛情だけを先生方に教えていたのよ」

「愛情だけって…それじゃあ何で先生方は…」

「言ってみれば過剰な愛情よ、先生方に話を聞いたとき気付いたの、女の愛情と男の愛情は全然違うんだって、女は母の愛情よ、でもね男の愛情っていうのは憎悪に近い愛情ね、愛憎と言ったほうが分かり易いわね、この愛を理解しないほうが悪いって感じかしら、いくらあなたのお母さんが愛について話をしても男には到底伝わるものではないわ、伝わったとしても途中で歪曲されちゃうのよ、だからあなたの働き方を見た時の感情とこの病院を守りたいと思う気持ちがリンクしたところまでは良かったけど、男としての答えの出し方になってしまったのかしらね、だからあなたはあなた、お母さんを目標にして良いのよ、心配しなくて大丈夫なのよ」

「お母さんは…間違って…ないんです…ね…」

ぼろぼろとまた涙がこぼれ落ちる、先輩が優しく抱擁してくれる、私の耳元にあたたかいものが落ちる、先輩の涙だとすぐにわかった

「命を天秤に掛けることはできないって教わったけど、天秤に掛けなくちゃいけない時も出てくるから困るのよね、でもあなたは真っ直ぐに生きてね、曲がってしまっては駄目よ」

先輩はゆっくりと抱擁を解きながら言った


 こんなことは二度と起きないし起こってはいけない、道をきちんと歩んで行くのも道を外れてしまうのも人間であり、仕方が無い事ではあるが正しい道に戻れないのならばそれなりの仕打ちが待っているということ、良い事をすれば徳を積むが悪いことをすれば罰が当たる、それは自然の摂理であり生きる物全てに与えられる運命だということらしい

「なんだかお坊さんの話を聞いてるみたいです」

「そうね、法事で聞かされる話みたいだわね、でも大切な事よ、命に大小なんて無いの、紡いでいくものであって好き勝手にに扱って良いものではないものね」

「先輩…それ私は口が裂けても言えません…」

「あら、綺麗事ぐらい言えないと命の従事者にはなれないわよ~」

「なんてこと言うんですか!やっぱり先輩は怖い人です!」

「フフフ、私達が救ってきた命の方が遥かに多いのよ、消した命は只二つ、その二つはここの患者さんを弄んだのよ、無しに等しいわよ」

「私絶対に先輩みたいになりませんっ!」

「当たり前じゃない、あなたはあなたのお母さんみたいにならなきゃいけないのよ、ヨゴレは私で充分なの」

「またそんな可愛く無い事言わないで下さい!」

そんなじゃれ合いをしていると内線が鳴り緊張が走る、今日も命が命を救う、この二人に因って。

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