5
坂本を連れてカウンターに戻ると、先輩がさつきに話しかけてきた。
「奥の方がうるさかったから、ちょっと心配してんだけど……大丈夫だった?」
さつきが簡単に事情を話すと、先輩はいたく感心したようだった。
「すごいな、本城さんは」
「え、そんなことないですよ」
「いや、すごいよ。本当に」
本心から言っていることが分かる、確信に満ちた口調だった。手放しの称賛に、どこかくすぐったい気分になる。
良かった。行動したことを認めてくれる人は、ちゃんといる。
箱から鍵を取り出して坂本に渡すと、ああ、と声が漏れた。
「……ありがとうございます。探してたんすよ、これ」
改めて頭を下げる坂本に、さつきは「あの」と切り出す。
「私、一年生なんで。敬語じゃなくていいです」
「え、マジで?」
案の定、坂本は驚いたようだった。
「すげーな。一年で、先輩にあんだけ啖呵切れるなんて」
「啖呵って……」
褒めてくれるのはいいが、まるで喧嘩を売ったような言い方はやめてほしい。
露骨に顔をしかめたさつきに、カウンターの中で図書委員の先輩が小さく吹き出した。
「二人とも、話すなら外に行ってきたら?」
一年一組、坂本晴也。
図書館の外に出ると、少年はそう名乗った。
なるほど、さつきは納得する。道理で一度も学校ですれ違ったりしなかった訳だ。一年十組であるさつきとは、教室も下駄箱の位置も、何もかも遠い。
「まさか図書館で落としてたとはなぁ……」
全然思いつかなかった、と晴也は額に手を当てる。
失くしたことに気づいたのは、家に着いてからだったという。その後、教室や廊下、所属するサッカー部の部室など、心当たりのある場所を必死に探したが見つからなかったと晴也は語った。
「でもそれ、自転車の鍵でしょ。帰る時に気づかなかったの?」
常々疑問に思っていたことを尋ねると、晴也は「ああ」と答えた。
「これ、俺のチャリの鍵じゃないから」
「……え?」
「俺は電車通学だし、駅からも歩きだし。通学にチャリは使ってない」
握りしめた手をそっと開き、晴也はキーホルダーの付いた鍵を見つめる。
「これは……俺の、死んだ幼馴染のものなんだ」
幼馴染。
死んだ。
衝撃的な言葉に、さつきは咄嗟に返事ができない。晴也は続けた。
「葬式の時に、おばさん……そいつの母さんから、貰ったものなんだけど」
「……そう、だったの」
「本城さん、さ。今年、新入生が一人少ないって噂、聞いたことない?」
――卒業式の直後にね。
――交通事故で、亡くなったんだって。
クラスメイトの声が聞こえた気がした。
そんな、まさか。そんなことが。
頭がくらくらする。ぎこちない動作で、さつきは頷いた。
「あるよ。うちのクラス、人数が他のクラスより少ないから……」
「そっか。じゃあ『あいつ』、本城さんのクラスメイトになる予定、だったんだな」
あいつ、と親しさが込められた呼び方に、疑念が確信へと変わる。
「それが、俺の幼馴染。シュウ……中尾柊一郎、って名前だった」
――男子だって。
――けっこう頭のいい子だったみたいだよ。
ふたたび、晴也は鍵を握りしめる。もう二度と失くさない、とでも言うように、強く。
「あいつ――シュウは、絶対に青柳に行くんだって、小学生の時から言ってたんだ」
「……そんなに、小さい時から?」
「うん。理由は、この学校の図書館」
思いがけない言葉だった。
晴也は出てきたばかりの建物に目をやって、懐かしむように続けた。
「昔から頭のいいやつだったし、本もすげー好きだったから。ここの図書館のことも、前から知ってたみたいでさ」
「それは、すごいね……」
「だから、高校はここ一本に絞って勉強してた。あいつなら、もっと上目指そうと思えば目指せたんだけどな」
そして、彼は念願の高校に合格した。
晴也もまたスポーツ推薦で、同じ高校への進学が決まったという。
「すげー楽しみにしてたんだよ、俺。たぶん……シュウのやつも」
「……うん」
「卒業式でも、『じゃあ、また入学式でな!』って、笑って……別れたのに」
しかし、晴也の幼馴染――柊一郎は。入学式に出ることはできなかった。
「卒業式の、次の日に」
本が好きな彼は、その日も書店に向かっていた。
「いっつも自転車で行く道を、その時に限って歩いてて」
歩道に突っ込んで来たのは、居眠り運転のトラックだった。
「……即死、だったって聞いた」
顔が綺麗だったのが奇跡だ、と医者は言ったという。
その言葉通り、棺の中の幼馴染は、眠っているようにしか見えなかった。
「このキーホルダーは、俺が、あいつにあげたものなんだ」
何年も前の、誕生日プレゼント。幼馴染はそれを自転車の鍵に付けて、大事にしていたという。
あの「S」は。坂本の「S」でもあり、柊一郎の「S」でもあり。彼らを繋ぐ、絆だったのだろう。
「おばさんがこの鍵を貰ってくれって言った時、最初はいいのかなって、思った」
晴也のためらいはもっともだった。些細なものでも、遺品には違いない。家族なら、ひとかけらも手放したくないと思いそうなものだ。
だが、彼らを幼い頃から知る母親は、それを晴也に託してくれたという。
「お守りだと思って持っててくれ、って言われたんだ。それと、シュウのことを忘れないでくれ、って」
これを持っていたら――あの日、自転車で本屋に行ってたら、事故に遭うことはきっと、なかったから。
何も言えずに立ち尽くすさつきに、晴也はくしゃりと笑ってみせた。
「俺、いつも火曜日にこの図書館に来てたんだけど」
「……うん。知ってる」
私、火曜日がカウンター当番だから。
答えると、晴也は「あー、それで」と得心したようだった。
「俺はあいつと違って、全然図書館とか興味なくてさ。本なんて読んでも眠くなるだけだし、国語だって苦手だし」
「うん」
「でも、シュウが……ほんとに、この図書館に憧れてたから」
入学してからなんとなく足が向いたのだと、晴也は言った。
他の曜日は部活の練習があったから、来ることができなかった。火曜日は、部活の唯一の定休日だったらしい。
けどさ、と晴也は肩をすくめた。
「やっぱ、この図書館……すげえよな」
「すごいって……えーと、雰囲気がってこと?」
あまり語彙が豊かな方ではないようだ。さつきが助け舟を出すと、晴也は「そう、それ、フンイキが」と応じた。
「何て言うか……圧倒されるっつーか、呑まれそうっつーか。シュウが憧れるのも、分かるなって」
「うん、それは私も、分かるかも」
さつき自身は、図書館目当てで入学したわけではない。が、曲がりなりにも図書委員としてこの図書館に出入りしてみて、なるほどそれだけの価値がある場所だと実感した。
おびただしい数の本に、ぐるりと囲まれた空間。間接照明の柔らかな光。何もかも包み込む繭のような、不思議と落ち着く場所。
無類の本好きの少年が目を輝かせて、入学を望むのもよく分かる。
さつきが同意すると、晴也は「だよなあ」と顎を撫でた。
「……けど、俺は駄目だった」
「え?」
「来たはいいけど、本読む気にはなれねーし、だからって勉強する気にもなれねーし……正直言ってどうしたらいいか、全然分かんなくて」
それで、いつもぼんやり座っているだけだったのか。
はは、と困ったように笑う晴也を、さつきはただ見つめていた。
「なのに、火曜日になるとまたここに来ちまうんだよ。おかしいよな」
「そんなこと……」
「ハル、何してんだよって。あいつが――シュウが、後ろから、肩を叩いてくれるんじゃないか……って」
あるわけないのにな、そんなこと。
笑っている晴也の目に、一瞬、暗い影がちらついたのをさつきは見た。
――ああ、彼は。
まだ、乗り越えている最中なのだ。突然の、大切な人の喪失を。
晴也の口調は明るいし、さして重たくもない。一見、もう立ち直っているかのように見えなくもない。
けれど、彼は見た目よりずっと傷ついている。当たり前だ。まだ、いくらも日は経っていないのだから。
もし、さつきが彼と同じ立場だったら。学校に来ることさえ辛かっただろう。二人で通うはずだった高校、幼馴染が憧れていた図書館を見るたびに、喪失感はきっと募る。
どうして「彼」はいないのか。どうして、自分だけが。ここに――この世界に、残されたのか。
それでも、きっと歯を食いしばって、通う。
幼馴染がやりたくても出来なかったこと。生きたかった分まで、自分は生きなければならないのだ……と。言い聞かせて。
「……さっきの人たちは、サッカー部の先輩なんだけど」
別に悪い人たちじゃないんだよ、ちょっと最近ゲームに嵌りすぎてるみたいだけどさ。
取り繕うように晴也は笑い続けている。能面のようだと、さつきは思った。
「騒いだのはいけないけど、言ってることは正しい、んだよな」
――だって、俺、本当に何もしてないし。
ほんの少しだけ、笑顔が歪んだ。ぽろりと、仮面の一部がはがれたように。
「本も読んでないし、自習だってしてない。それなのに、こんなとこにいていいのかって……自分でも、ずっと思ってた」
そう言えば、彼は音楽さえも聞いていなかった。
亡き幼馴染の呼びかけを、聞き逃さないために。
「せめて邪魔にならないようにって、一番奥の席にいたけど」
「そういう理由だったの?」
「ん。あとは……シュウが、あそこに座ってたから、かな」
高校の見学に来た時、二人は図書館内にも入れてもらったのだと言う。
前々から憧れていた幼馴染は、たっぷり館内を歩き回って。最後に一番奥の席に座り、こう言った。
――ここ、落ち着くな。
「俺は、図書館の席の良しあしなんて分かんねーし。そういうもんか、としか思ってなかったけど」
彼が亡くなった後、足を踏み入れた図書館で。晴也の足は、自然とその席に向かった。
そして、座ったまま、気付けば閉館まで過ごしていた。
「……でも、もう、やめとくよ」
「えっ?」
「やっぱ、何もしてねーのに席取ってたら迷惑、だよな。テスト週間に入ったら、もっと混むんだろ?」
晴也の目が、揺れている。
あの、何気ない上級生の言葉に、彼は想像以上に傷ついていたのだ。
「大体、こんな大事なもの落としちまうくらいだし。俺には、向いてない場所なんだよ」
「……そ」
「本城さんにも……余計な気遣わせて、ごめん」
――もう、来ないようにするよ。
泣いている。
日に焼けた顔に、涙はひとすじも流れていないのに。何故だか、強くそう思った。
「……んな、こと」
「ん? 何か言った?」
鞄を抱え直した晴也が、首を傾げる。
堪えきれなくなって、さつきは声を張り上げた。
「そんなこと、言わないで!」
晴也がびくりを身体を震わせる。
「坂本くんが何もしてないなんて、私、思ってないよ!」
自分よりもかなり高いところにある目を、まっすぐに見返して言うと、晴也は目に見えて怯んだ。
「……っ、でも、席だけ使うのって、ほんとは駄目なんだろ?」
「ルールとしてはね。席にも限りがあるし、譲り合いは大事だよ、もちろん」
自習は別として、基本的に座席だけの利用はご遠慮ください、と書かれている。晴也はそのことを言っているのだろう。
けれど、さつきが言いたいのはそういうことではない。
「坂本くんには、ちゃんと図書館に来る理由があるでしょう?」
彼の「火曜日の図書館通い」は、追悼だ。
本が好きで、図書館を愛した幼馴染を、少しでも近くに感じたかったのだろう。
もう二度と聞けないと知っている声。二度と向けられることはないと、分かっている笑顔を。それでも欲してしまう気持ちを、さつきはルールの一言で片づけたくはない。
スマホゲームでさえもある程度黙認されているのに、亡き友を想う晴也の行動が、許されないなんてことがあるものか。
「坂本くんは、図書館が――あの席が、居心地良くなかった?」
見るからに体育会系の彼にとって、図書館自体が落ち着かないと言うのなら。無理に来ることはない。
だが、晴也は首を横に振った。
「いや、そんなことはないけど……」
「だったら、来たらいいんだよ」
気の済むまで、亡き友と会話したらいい。
大声で騒ぐのはマナー違反だが、晴也がそういった注意を受けたことは今までになかった。一番奥の席で、ただ静かに幼馴染を思っていた彼を追い出すことなど、司書の先生も図書委員もしない。するはずがない。
「それにね、席だけ使うのが心苦しいなら、なんか適当に本を一冊持ってきておけばいいでしょ?」
しれっとルールの穴を突くと、晴也は「はぁ?!」と間の抜けた声を上げた。
「おいおい、図書委員がそんなこと言っていいのかよ」
「いいよそのくらい。誰にも迷惑かけてないんだし。それに……」
今までの自分の経験を思い出しつつ、さつきは笑った。
「その一冊が、案外、忘れられない本になったりするかもしれないよ?」
思いがけず、新たな何かに出会える場所。
それが、図書館なんだから。
晴也はまじまじとさつきを見やり、やがて「ははっ」と声を上げて笑った。
「……正直言うとさ。この鍵落とした時はほんとに落ち込んだんだよ、俺」
「そりゃそうでしょう。形見なんだから」
「うん。なんかさ、シュウに、見限られたような気分になっちまって……」
でも、とキーホルダーをつまみ上げて晴也は続けた。
「今思えば、あいつ、ここにいたかったのかもな」
「図書館に? ああ、そうかもね」
柊一郎の話をクラスメイトから聞いた時は、未練がありそうとかふらっと出てきそうとか、勝手に想像を繰り広げたものだが。案外、それも的外れではなかったのかもしれない。
「ほんとに本が好きだったんだね。その子」
「うん。……本城さんなら、気が合ったかもな」
キーホルダーを揺らして、晴也がぽつりと零す。その表情に、もう陰りは見られなかった。
そうかもね、と返しながら、さつきは思う。たぶん――いや、ほぼ間違いなく、いい友達になれた気がする。
――私も、話してみたかったな。
会えなかった同級生のことを思い、さつきは心の中で空に向かって手を合わせた。




