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テストまで二週間を切ると、図書館に来る生徒は一気に増える。
「すごい人ですね」
どんどん埋まっていく自習スペースを見ながらさつきが言うと、司書の先生が答えた。
「一週間前になるともっと増えるわよ。席、取り合いになるんだから」
「そんなにですか……」
「普段から、もう少し本を読みに来てくれるといいんだけどねえ」
でも、学生が図書館を勉強場所に選ぶのは、今も昔も変わらないわね。
盛況なのはいいことだ、と司書は屈託なく笑った。
それとなく一番奥の席に目をやると、まだ誰も座っていない。薄暗いのがマイナスポイントなのか、意外にも自習場所としては不人気のようだ。
自分でもよく分からないが、さつきは何故かほっとする。
他の委員にさりげなく聞いてみたところ、例の男子生徒は火曜日以外には来ていないらしい。決まった曜日に、決まった席。何か、彼なりの理由があるのだろう。指定席ではないので違う生徒が座っても何も言えないが、ここまで来ると彼のために空けておいてあげたい気持ちになってしまう。
鍵は変わらず箱の中にある。
キーホルダーの「S」と、事故に遭って入学することが叶わなかった同級生の名前。
普通に考えれば、単なる偶然だろう。それなのに、つい結びつけて考えてしまった――具体的に言えば「幽霊」の二文字が頭をよぎってしまったのは、あの男子生徒の表情のせいかもしれない。
ちらりと盗み見たことしかないが、どうにも生気が感じられない顔だった。「口ほどに物を言う」と評されるはずのまなざしも、一体何を見て何を感じているのかまるで読めず。
たしかにそこにいるはずなのに、違う次元にいるようだった。
残されていた、キーホルダー付きの自転車の鍵。
もしかして、彼は、自転車に乗っていた時に交通事故に遭ったのでは?
もしかして、取りに来ないのではなくて、取りに「来られない」のでは……?
さつきはぶんぶんと頭を振った。馬鹿馬鹿しい。一体何を考えているのか。
幽霊なんているはずがない。少なくとも今まで一度も遭遇したことはない。
仮に、亡くなった同級生が、入学できるはずだった高校にひどく未練があったとしても。図書館に現れることや、火曜日にだけ姿を見せることについては全く説明できない。
何も知らないくせに、痛ましい事故に勝手に物語を創り上げるなんて、失礼だし不謹慎だ。
非科学的な思考を振り払ったところに、見覚えのある長身が現れた。
――いつもの、彼だ。
今まさに幽霊などと考えていたせいで、心臓がどくりと音を立てて鳴る。
男子生徒は相変わらず、カウンターには目もくれなかった。やっぱりどこを見ているのか分からない目で、しかし足は奥の席を目指してまっすぐ歩いて行く。
どこかふわふわとした覚束ない足取りだったが、どこをどう見ても生身の肉体だ。足音だって、ちゃんと聞こえる。あれが幽霊だと言うなら、周りの人間も皆、この世のものではなくなってしまうだろう。
胸を撫で下ろしつつ、隣で文庫本に没頭する二年生の存在の確かさに、さつきはこっそり感謝した。
テスト勉強の生徒が多いせいか、来訪者が多い割に図書委員の仕事は暇だった。貸出や返却に訪れる生徒は少ない。
「本城さん、大丈夫?」
「うっ……す、すみません」
本の整理も早々に終えてしまえば、あとは眠気の戦いである。一応参考書をカウンターに持ちこんで開いてはいたものの、さつきの瞼は重力に対してあまりに無力だった。好きな本を読んでいる時は睡魔など簡単に退治できるのに、数学の問題はどうしてこうも微睡みへと誘うのが上手いのだろう?
見かねて声をかけてくれた先輩が、苦笑を浮かべる。
「何なら、ちょっと歩いてきたらどうかな。ここは一人でも十分だし」
「いいんですか?」
「いいよ、どうせ今日はこんな感じだろうから」
カウンターに二人いても手持無沙汰なのは間違いない。遠慮なく言葉に甘えることにして、さつきは立ち上がった。
立ち並ぶ本棚の間を、ゆっくりと歩く。
そういえば、ちょうど読みたいシリーズの新刊が入ったばかりだ。テスト前に借りるのは気が引けたので、終わった後に手を出すつもりだったが、いっそ気分転換に読んでしまってもいいかもしれない。たしか、まだ誰も借りていなかったはず――……
「あれ、坂本じゃん」
いやにはっきりと響いた声に、さつきは振り返った。坂本?
窓際の席の近くに、二人の男子生徒が立っているのが見える。彼らが話しかけている人物を目にして、さつきは短く息を呑んだ。
一番奥の席が、取り囲まれている。
書架の陰から様子を伺うと、はっきりと話し声が聞こえてきた。
「何、テスト勉強? 一年のくせにマジメすぎじゃね?」
「んなわけねーだろ、問題集も何も出してねーじゃん、こいつ」
「だよなー、まだテスト期間でもないのに、かったるくてやってらんねーよなー!」
げらげらと笑う声にかき消され、話しかけられている「坂本」の返事はほとんど聞こえてこない。しかし、困惑したような横顔は見て取れた。見たところ上級生のようだが、ひょっとして部活の先輩なのだろうか。
いずれにしても、率直に言ってうるさい。周囲で自習している生徒たちもちらちらと視線を送っているが、彼らは少しも気にする様子がなかった。
どうしよう、さつきは迷った。先輩、いや司書の先生を呼んできた方がいいだろうか。周りも迷惑そうにしているし、放っておくわけにはいかない。が、一年生の、しかも女子である自分が注意したところで聞いてもらえるとは思えなかった。
「て言うかさ、何もしてねーなら代わってくんね?」
――その席。
踵を返そうとしたさつきの足が、止まる。
「そこ、いい感じに死角なんだよなー」
「そうそう、ちょうどカウンターから見えねーの」
死角。カウンターから見えない。
混みつつあるとは言っても、まだいくらでも空いた席はあるのに。わざわざ一番奥の席の彼に絡む理由は。
「この前さぁ、ゲームしてたら注意食らっちまったからさ」
いつかの、先輩の声が蘇る。
――ちょっとうるさい人たちがいて……多分、スマホでゲームやってると思うんですけど。
「今度見つかったら、スマホ没収されるかもしれねーんだよな」
「なあ、別にいいだろ、坂本」
――お前。
何も、してねーんだから。
「……すみません」
笑い声が、ぴたりと止んだ。
声は震えていた、と思う。ひょっとして、手足も震えていたかもしれない。
突き刺さる強い視線を感じ、背筋につうっと汗が伝う。
「静かに、してもらえませんか」
「……あ? 何、アンタ」
上級生の剣呑な声が、鼓膜を震わせる。
怖い。とても怖い。
――やめなよ。もう「余計なこと」は。
あれだけ後悔したのに、また同じことをするつもり?
脳内でせせら笑う自分の声に、さつきは強く唇を噛んだ。
そう、たしかに「余計なこと」だ。自分がやらなくても良いことだ。
新米の図書委員が出しゃばったところで、どうせろくな結果にはならない。先輩のように、先生を呼んでくるのが一番賢いやり方だ。分かっている、そんなこと。でも。
席を譲れと言われた時の、彼――「坂本」という名前らしい――の表情が、忘れられない。
驚きと悲しみ。陰り、曇り。そして、静かな諦め。
先輩に逆らうことはできなかったのか、のろのろと立ち上がろうとした時の、緩慢な動作が。
「席なら……他にも、空いてますから」
行動したことが、必ず良い結果に繋がるとは限らない。
けれど、行動しなかったことを、引きずって後悔するくらいなら。
「図書館では、静かに、して、下さい……っ」
喉から、お腹から、全身から。
声を絞り出すようにして、さつきは最後まで言い切った。
小柄な女子生徒に注意されたのが余程意外だったのか、二人の男子生徒は呆気に取られていたが、やがて一人が口を開いた。
「おい……こいつ、カウンターにいたぞ、この前」
「マジか。図書委員かよ」
舌打ちが聞こえた。
思わず身体を強張らせたが、二人は何も反論することなく、足早に去って行った。先生を呼ばれると面倒だと思ったのかもしれない。
周囲の生徒たちも安堵したのだろう。緊張した空気が、一気に緩む。
絡まれていた「坂本」少年もまた、ぽかんと口を半開きにしていた。果たして、目の前で起こったことを理解できているのかどうか。あやしいところだ。
「……あのう」
「っあ、す、すいませんっした!」
おそるおそる話しかけると、勢いよく頭を下げられた。
上級生に注意したさつきを先輩だと勘違いしたのかもしれないが、ともかく声が大きすぎる。
静かに、の意を込めて唇の前に人差し指を立てると、「坂本」はあわてて口を手で覆った。
何だか笑いがこみ上げてくる。この少々惚けた体育会系の少年に、さつきはずっと話しかけるのをためらっていたのだ。
「前にも、この席に座ってましたよね」
口を塞いだまま、「坂本」が目を見開いた。
その体勢のまま、こくりと頷く。何も、声を出すのが禁止というわけではないのだが。
「ここで、自転車の鍵落としませんでした?」
「えっ?! あるんすか、ここに?!」
「ちょっ、声、声!」
やっと手を外したかと思えば、また大声だ。零か百しかないのか、この少年には。
世にも情けない顔で再び口を覆った同級生に、さつきはできるだけ声を小さくして言った。
「前に、ここで拾ったんです」
先程叱られたばかりだからか、少年は何も言わない。
が、目に生き生きとした光が宿った。
「いつもここに座ってたから、もしかして、と思って」
少年が脱力したように座り込む。
口を塞いでいた両手で今度は両目を覆い、長く息を吐き出した。
「あーーーー、マジか……」
万感の思いが込められたような呟きだった。
どうやら、さつきの予想は、見事に当たっていたらしい。




