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火曜日の少年  作者: 糸尾文伽
3/7

 ――さつきちゃんのせいで。

 友達だと思っていた女の子が、泣いている。泣きながら、怒っていた。

 困惑、同情、共感。周囲には、様々な表情を浮かべたクラスメイトたち。

 ――さつきちゃんが、余計なことするから。

 ちがうよ、と言いたかった。

 ちがう、そうじゃない。私は、そんなつもりじゃ。

 でも、言えない。何も言えない。

 だって、きっかけを作ってしまったのは、間違いなく。




「すみません、貸出いいですか」

 遠慮がちにかけれらた声に、さつきは我に返った。あわててカウンター越しに本を受け取り、貸出手続きを進める。

 まさか、目の前に立っている生徒に気づかないとは。物思いにふけっていたと言っても、ぼんやりしすぎだろう。


 あれから一週間。

 キーホルダーの付いた鍵は、まだ箱に入ったままだ。


 男子生徒は今日もふらりと現れて、奥に向かって歩いて行ったが、積極的に何かを探そうとしているようには見えなかった。カウンターに目を向けることもない。

 当然と言えば当然だ。彼が何故図書館に来るのかは分からないが、少なくとも本を借りるのが目的ではないだろう。最奥の席に座っているだけの彼が、カウンターの中に置かれた箱に気づく余地などほぼ皆無と言っていい。

 ――誰かが、その存在を教えてあげない限りは。

 さつきは軽く頭を振った。無理だ。できるはずがない。そもそも、彼のものかどうかも分からないのに。

 箱の蓋を持ち上げたまま、さつきは小さくため息を落とした。


「あら、また増えてきたわねえ、落し物」

「……先生」

 落し物入れを覗き込んだ司書が、腰に手を当てて嘆く。さつきは思い切って切り出した。

「あの、これ、もう少し分かりやすい場所に置いた方がいいんじゃ」

「うーん、そうなんだけどね」

 中年の女性教諭は苦笑を浮かべる。

「前はそうしてたのよ。出入り口の近くに置いてたの」

「え、そうだったんですか」

「でも、何年か前に、生徒の間で盗難騒ぎが起こっちゃってね。だから今はカウンターの中に置いてるのよ」

 盗難、という言葉が重く響いた。学校内の、これほど雰囲気の良い図書館でも、そんなことが起こるのか。

 だが、一学年に十クラスもある大きな高校だ。高校生の万引きだってあるのだから、落し物入れからこっそり他人の物を取っていく人間がいてもおかしくない。

「スマホとか財布みたいな貴重品は、さすがにすぐ取りに来る子が多いけどね。落し物や忘れ物はカウンターへ、って張り紙もしてるし。でも、こういう細々したものはねえ……」

 細身のシャープペンシルを手に取って、司書は眉尻を下げる。失くしても数百円で新しいものが買えるであろう、ごく普通の文房具だ。

「本人もどこで失くしたか分かってなかったりするし、そんなに未練もないんでしょうね。結局取りに来ないことも多いのよ」

「取りに来なかったら、どうするんですか?」

「一年間引き取り手がいなかったら、処分するわよ。張り紙にもそう書いてるしね」

 他人の物を処分するのって気が引けるんだけど、と言う司書に、さつきは頷いた。いくら安価なものであっても、後から何か言われたらと思うと気の進まない行為だ。

 だからと言っていつまでも預かっているわけにはいかない。箱がいくつあっても足りないだろう。

 今回だって、同じだ。自転車の鍵なのだから、失くしたら早めに探しに来るだろうと勝手に思っていたが。彼にとっては、そこまで目の色を変えて探すものではないのかもしれない。他人でしかないさつきが気に病むことなどないのだろう、本当は。

 しかし、司書はやわらかく笑って続けた。

「だから、もし、持ち主に心当たりがあるなら届けてあげてね」

「えっ……」

「その方が、お互い助かるし、気持ちいいでしょ?」

 人の好い笑顔が、さつきに向けられる。

 親切にすることは善行だ、と。少しも疑っていない表情に、さつきは小さな声で「……はい」と答えるしかなかった。

 そこに、書架の整理に行っていた相方の先輩が戻ってくる。

「あのう、先生、すみません。ちょっとうるさい人たちがいて……多分、スマホでゲームやってると思うんですけど」

「また? 最近多いわねえ」

 言われてみれば、今日は館内が少々ざわついている。笑い声のようなものも聞こえてくる。

 別にスマホ禁止の高校ではないので、多少のことは目をつむっているが。他人の迷惑になるほど騒ぐのはやはりマナー違反だ。

「ちょっと見てくるわね。どのあたり?」

「あ、一階の奥の方です。ここからは見にくいんですけど……」

 いくら図書委員でも、同じ生徒の立場で注意するのは気が引けたのだろう。先輩はあからさまにほっとした顔をしている。

 さつきは箱の蓋を閉めて、カウンター業務を交代するために立ち上がった。




 情けは人のためならず、という諺がある。

 本来は「人に情けをかけることは、巡り巡って自分のためになる」という諺だが。一方で「人に情けをかけることは、かえってその人のためにならない」とよく意味を誤解されるという。

 だが、誤解されるのはされるだけの理由がある、とさつきは思う。つまり、そう思われてしまうような事柄が、世の中には数多くあるということだ。




 ――小学生の頃のことだ。

 ある日、さつきは、隣の席の友達が日記帳を忘れて帰ってしまったことに気づいた。

 机の下に落ちていたのだ。ランドセルに入れようとして、落としてしまったのだろう。


 さつきの担任教師は、宿題を忘れると罰を課す先生だった。具体的には、休み時間や昼休みを潰してその日のうちに宿題を終わらせるよう言われる。それでも終わらなかったら放課後に居残りだ。提出期限をきっちり守る、という訓練だったのだろう。忘れ物があまりに続くと、今度は放課後に掃除をさせられた。

 教え方は上手かったし、居残りにも必ず最後まで付き合ってくれるので親からの評判は悪くなかったが、子供にとってはそれなりに厳しいルールだ。そこまで徹底させる先生は他にあまりいなかったこともあり、とにかく宿題は忘れてはいけない、というのがクラス内での暗黙の了解だった。


 日記は、毎週末に出される宿題だ。皆、土日の出来事を書いて月曜に出す。

 運の悪いことに、その日は金曜日だった。

 届けてあげなければ、とさつきは使命感に駆られた。もちろん、完全に善意だった。今でも、その行動が悪かったとは思わない。

 悪かったのは、人選だ。 

 さつきの家と友達の家は、反対方向だった。彼女の家に寄って帰るという選択肢もあったが、かなり遠回りになる。

 そこで、さつきはちょうど帰ろうとしていた男子を呼び止めて日記を託した。

 彼女の近所に住んでいて、登校班も同じ男子なら、間違いなく彼女に忘れ物を届けてくれる。そう、信じた。


 たしかに、日記帳は友達に届けられた。

 しかし、次の月曜日。彼女からさつきに向けられた言葉は、「ありがとう」ではなかった。


 ――余計なこと、しないでよ!


 友達は泣いていた。男子は担任に叱られていた。

 彼は興味本位で、彼女の日記を見てしまったのだ。しかも一人ではなく、一緒に下校した男友達と共に。

 そうして、皆で笑いながら読んでいたところを、当の彼女に見られてしまった。


 知られて困ることが書かれていたわけではない。日記に嘘を書いていたわけでもない。

 けれど、「勝手に日記を読まれた」という事実が彼女を傷つけた。

 男子たちにからかうような言葉をかけられて、ひどく恥をかかされたという感情は、彼らに日記帳を託したというさつきにも向かった。


 ――勝手に読まれるくらいなら、忘れて先生に怒られる方が良かった!


 彼女はそう言って泣き、周りの女子に慰められていた。

 本人以外に、さつきを責める人間はいなかった。担任も、クラスメイトも、悪いのは勝手に人の日記を見た奴らだと言ってくれた。理屈ではその通りだ。さつきは人の日記を読んだりしていない。ただ、宿題を忘れた友達が月曜に苦労するのが気の毒だったから、届けてあげたいと思っただけのことだった。


 それでも、考えてしまう。もしも、と。

 もしも、他の人間に預けたりせず、自分で友達の家まで持って行っていたら。

 もしも、自分一人で判断せず、担任や他の子と相談していたら。

 もしも、もしも、もしも。


 ぐずぐずと考えてしまう自分が、とてつもなく嫌だった。

 人に情けをかけた結果、その人を傷つけて、自分をも責めることになるのなら。親切になんて、しない方がいい。


 情けは人のためならず。

 たとえ、本来の意味とは違ったとしても。実際、情けは自分のためにも、その人のためにもならないことがあるのだと。さつきはその時、うんざりするほど実感した。


 だから、もう。余計なことはするまいと決めていたのに。


 だいたい、忘れ物も落し物も、本人の責任だ。取りに来るも来ないも、本人の自由。困るのは本人であって、拾ったさつきではない。

 その場に放置したわけではなく、ちゃんとカウンターで預かっているのだ。最低限のことはしている。

 道端で拾ったものだって、交番に届ければそれで終わりだろう。これ以上、何をしろと言うのか。


 ――もし、持ち主に心当たりがあるなら。


 司書の言葉が、響く。

 心当たりがないと言えば、それは嘘だ。少なくとも、あの席に最後に座っていたのが彼であることを、さつきは知っている。たとえ彼のものではなかったとしても、確認することくらいはできる。違っていたら今度こそ箱に入れておいて、本当の持ち主が現れるのを待てばいいのだ。

 できる、のに。そうしないのは。 


 本の整理をしながら、さつきは奥の席に視線を移した。

 先生に注意を受けたのだろう、先程のざわめきは落ち着き、図書館は静けさを取り戻している。

 男子生徒は、いつもの席で背を向けて座っており、表情を窺い知ることはできない。


 あなたは、誰?

 どうして此処に来るの?

 あの鍵は、あなたのものではないの?


 心の中だけの問いかけに、無論、返事はなかった。

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