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火曜日の少年  作者: 糸尾文伽
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 分厚いハードカバーの角をとん、と揃えて、本城さつきは顔を上げた。

「はい、二冊返却ですね。ありがとうございました」

 カウンターを挟んで立っていた女子生徒は、口をもごもごと動かして小さく頭を下げた。ほとんど聞き取れなかったが、ありがとうございました、と言ったのだろう。返却カウンターではよくある光景の一つだった。もう少しはっきり言えばいいのにねぇ、と司書教諭はよく嘆いているが、気持ちは分かる、とさつきは思う。図書館という場所はとかく、声を発することをためらわせるのだ。

 女子生徒が去って返却手続きの波が途切れると、さつきは軽く伸びをして身体をほぐした。カウンターの業務は嫌いではないが、座りっぱなしでいるとお尻が痛くなってしまう。お手洗いに行っているもう一人の当番が戻ってきたら、書架の整理に行かせてもらうことにしよう。


 私立青柳学院高校の図書館と言えば、県内ではそれなりに有名らしい。

 高校の図書館としては規模が大きく、蔵書も多く、館内のデザインも優れているというのがその理由だ。実際、この図書館に惹かれて進学先を決定した生徒も少なからずいるという。入学してまだ一か月も経っていないさつきから見ても、充実した図書館であるのは分かる。

 クラスで委員会を決める時も、妙に図書委員に立候補する生徒が多かった。なんとなく手を挙げ、たまたまじゃんけんで勝ち抜いてしまった身としては申し訳なさも感じるが、そこまで評判とは知らなかったのだから仕方がない。


 さつきが通っていた中学校では、図書館ではなく図書「室」と呼ばれていた。教室の二倍ほどの大きさの部屋に六人掛けのテーブルが並べられ、ほとんどの書架は壁に沿って置かれていた。それが普通と思っていただけに、初めて足を踏み入れた時は圧倒されたものだ。


 まず、「図書室」ではなく、独立した棟として「図書館」がある。読書スペースのテーブルは十二人も座れる大きなもので、さらに窓際にもへばりつくようにずらりと席が並んでいる。天井も高く、カウンターの横にある階段を上れば中二階にも書架と自習スペースがあった。

 何よりも特徴的なのが、全体の色合いだ。書架とテーブルはダークブラウンの木材でシックに統一されており、照明も蛍光灯ではなく間接照明がメインである。一見するとお洒落なカフェのようにも、英国パブリックスクールの食堂のようにも見えた。これが高校の図書館かと保護者は一様に驚くと言うが、無理もない。何度足を運んでも、さつきは未だに異国に迷い込んだような気分になってしまう。


 ならば図書委員の仕事も忙しいかと思いきや、そうでもなかった。司書や事務員も常駐しているおかげで、昼休みなどに図書館に赴いて仕事をする必要はない。

 当然、放課後には持ち回りでカウンター当番をこなす必要があるし、広報担当になれば図書館が発行する壁新聞や冊子などの編集作業もある。時には広い館内で音楽会等のイベントが行われることもあり、その際には委員の皆で準備をすると聞いている。

 が、まだ入学したてで特に何の役目も課されていない一年生のすることと言えば、決まった曜日のカウンター当番と、返却された本や書架の整理、それに空き時間で本にカバーをかける作業くらいのものだ。じっとしていられない性分であればともかく、放課後の時間を過ごすには決して悪くない場所だった。


 火曜日の当番のもう一人は、二年生の先輩で、いつもカウンターに文庫本を持ちこんでいる大人しい男子生徒である。必要以上に会話を交わすことはないが、本のことを尋ねるとはにかみつつも色々と教えてくれるので、悪い人ではないのだろうとさつきは思っていた。ただ根っからの本好きで、少々人見知りなだけだ。

 その先輩がカウンターに戻ってきたので、さつきは椅子から立ち上がった。

「私、本の整理に行ってきます」

 声をかけてカウンターを出ると、「お願いします」と抑え気味の声が返ってきた。きっとこれから、本の続きを読むのだろう。

 誰もいない返却カウンターは、読書には最適な環境だ。


 移動式の棚に本を乗せて、書架の間を通り抜ける。空いた隙間に、ぴたりと本を埋めて行く。

 地味な動作の繰り返しだが、この作業がさつきは好きだった。読書好きと豪語できるほどではなくても、図書委員に手を挙げるくらいには本好きだ。整然と並べられた空間はやはり落ち着く。

 気になるタイトルをつい手に取ってしまい、作業が中断することもよくあるが、多少遅れたからと言って誰に怒られるわけでもない。時には席に座って読みふけってしまうこともある。試験期間になるとかなり人が多くなるらしいが、まだ中間テストまで一か月ほどあるせいか、席についている生徒の数はまばらだった。

 全体をぐるりと見渡して、さつきの視線がある一点に留まった。


 窓際に設置されている横並びの席の、一番奥に、一人の男子生徒が座っている。

 たしか、先週もその前も、彼は同じ場所にいた。

 覚えていたのは、少々この空間にそぐわない風貌のせいだった。背が高く、程良く日に焼けた顔。エナメル生地の大きな鞄に、黒いスニーカー。制服がやけに綺麗なところを見ると同じ一年生だろうが、おそらく運動部だろう。

 机の上には教科書もノートもなく、自習をしている様子はない。かと言って本を読んでいるわけでもない。最初は音楽でも聴いているのかと思ったが、ヘッドホンやイヤホンを付けているようにも見えなかった。他の生徒たちのように、スマホをいじったりもしていない。

 ただ、ぼんやりと窓の外を眺めて、閉館までそこに座っている。

 毎日来ているのかどうかは知らないが、少なくともさつきが当番の火曜日には、毎回同じ席についている。どうにも不思議な存在だった。単に時間を潰しているにしては、呆然とし過ぎている。図書館はお金こそかからないが、退屈な人にとってはこの上なくつまらない場所だろうに。

 ――どうしていつも、あそこにいるんだろう。

 頭をよぎった疑問に、さつきは肩を竦めた。気にはなるが、本人に直接確認するつもりは毛頭ない。

 騒いでいるならともかく、彼はぼうっと座っているだけで、誰にも迷惑はかけていないのだ。カウンターで読書に励んでいるもう一人の図書委員などは、そもそも気付いてさえいないだろう。閉館になれば自分で席を立って出て行くので、声をかける必要もなかった。

 彫像のように動かない少年から視線を外し、さつきは作業に戻った。片づけるべき本は、まだ半分以上残っている。




 スピーカーから蛍の光が流れ始めて、さつきはページをめくる手を止めた。

 いけない。つい時間を忘れて本を読んでしまっていた。

 慌てて棚に戻してカウンターに向かうと、相方の二年生は既に帰り支度をしている。

「すみません、カウンター任せきりにしてしまって」

「いやいや、全然いいよ」先輩は笑っていた。読書にふける姿がカウンターからも見えていたのだろう。

「こっちも書架の整理任せちゃったし。人もほとんど来なかったしね」

「最後の見回り、私やっておきますから」

 施錠は司書や事務員がしてくれるが、図書委員も一応見回りをしてから帰ることになっている。カウンター業務をほとんど任せてしまった以上、そのくらいは引き受けるべきだろう。広い図書館だが、ざっと確認するだけならばそこまで時間はかからない。

 さつきの申し出に先輩はためらいを見せたが、やがて遠慮がちに「じゃあ、お願いしてもいいかな」と答えた。

 館内に残っていた生徒たちは、皆次々と出口に向かっていた。


 戻し忘れた本はないか。机や椅子はきちんと片づけられているか。

 残っている生徒はいないか。ゴミは落ちていないか。図書委員が確認するのは、さしあたってそんなところだ。

 左右を見渡し、消しゴムのカスなどを集めながらさつきが歩いていると、一番奥の椅子の位置が斜めになっているのが見えた。あの男子生徒が座っていた席だ。彼もまた、先ほど図書館を出て行ったばかりだった。

 閉館の音楽を聞いてあわてて立ち上がったのだろうか。何にせよ、まっすぐに戻しておかなければいけない。


 椅子の背を持って、位置を直す。

 と、何かがころりと床に落ちた。

 拾い上げてみると、鍵だった。多分、自転車の鍵だろう。S、という青いプラスチックのキーホルダーが付いている。

 ――あの人の、忘れ物?

 もちろん、この席を使うのは彼だけではないが。ついさっきまで座っていたのだ。可能性としてはかなり高い。制服の後ろポケットにでも入れていて、落としてしまったのだろうか。

 どうしよう。もし彼のものだとしたら、今すぐ追いかければ間に合うかもしれないが……


 しばらく考えたのち、さつきは結局カウンターに戻り、落し物を入れておく箱を取り出した。

 あの男子の持ち物だという確証もないし、とっくに学校を出てしまっているかもしれない。やはり、忘れ物として預かっておくのが無難だ。

 箱は目に付くところには置かれていないが、司書や図書委員に声をかければ対応してもらえる。自転車の鍵なら、失くしたことにはすぐ気づくだろう。心当たりがあれば、近いうちにここにも探しにくるはずだ。

 とにかく、余計なことはしないのが一番。

「あれ、本城さんまだ残ってくれてたの? お疲れさま、気をつけて帰ってね」

「はーい、お疲れさまです」

 事務室から顔を覗かせた司書に挨拶を返し、さつきは箱をカウンターの奥へと押し込む。

 中に入れたキーホルダーが何かにぶつかったらしく、かちんと硬質な音を立てた。

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