あの日、海が怖かった。
◇無理心中、未遂に終わる◇
何が怖いって、挙動不審になった親ほど怖い者はない。あの日、海が怖かった。真っ黒い水面が大きく揺れて、月も星もない漆黒の夜の港で起きた出来事。
私は、小学校に上がる前だったと思う。幼稚園に通う、まだ幼い子供だった。私には一つ上の兄がいて、一つ下の妹がいる。並ぶとなぜか妹が一番背が高く、兄は小さかった。私は真ん中。
車に乗る時も右に兄で、左に妹。私は真ん中と決まっていて、僅かな距離でもすぐに寝落ちする兄妹を横目に、ドライブ中は絶対に寝ることがない、そんな子供だった。
その日は珍しく父が家にいて、仕事に出掛けたっきり帰らない母の気配はすっかり消えていた。化粧品の甘い香りや、台所で水仕事した後の水滴も、しまりの悪い生ごみ用のごみ箱のイヤな匂いも、乱雑に打ち捨てられたサイドテーブルの請求書の束も消えて、がらんとしていた。母が居ないというだけで、とにかく部屋が異様に広く感じた。
ちゃぶ台で私達子供を待ち伏せていた父が、背中を丸めて座っていた。ただいま、と声をかけても返事をしない。彼はいつもそうだ。
でも、この日の父はまるで不機嫌な猫のように、押し黙ってギラギラとした目で私達をジッと見つめて待ち構えていた。何か、とてつもない緊張感が漲っていた彼の目を、私は見つめ返すことが出来なかった。不穏な気配に、逃げ出したい衝動を覚え、兄と妹の後ろに逃げ込む。
「飯食いに行くぞ」と、声がした。兄妹は目配せして、訝しんでいることを視線だけで確かめ合った。
父はそれ以降、何も言わずに車の鍵を持ち、顎だけで子羊を誘導する牧羊犬のように、威圧的なオーラで私達を彼の車に乗せることに成功した。勘の鋭い兄妹達は、白い顔をして言葉を発することもできない。父はぶつぶつと聞き取れない独り言を低い声でしゃべるけれど、それが私達に向けて発せられていないことだけはわかった。
季節は覚えていないけれど、あっという間に暗くなった。いつもなら寝ている筈の妹は、私の肩に顎を乗せてくるし、兄は私の膝枕で横になっている。身を寄せ合いながら、何とも異様な空気の中堪えるしかない。左のひじ掛けに身体を預け、右手だけでハンドルを操る父の後頭部を見つめ、何となく「母が出て行ったのかもしれない」という気がした。だから、父がオカシイのだ、と。
昨夜、今朝だったか、夜中に言い争う両親の声を私は聞いていた。母が押し殺した声で、何か叫んでいたようにも思える。私達を学校に送り出した後、どうしたのか想像する。もしかすると、私達は母に置いて行かれたのかもしれない。そう思い当たった途端に、目頭が熱くなり涙が滲む。その時、妹が私の左手をぎゅっと強く握り締めてきた。そちらを向くと、妹の目にも涙が浮かんでいる。
兄だけは寝たふりを決め込んで目を閉じていた。父の運転は普段から乱暴だったが、この時の運転もかなり際どいもので、急ブレーキ・急ハンドルは当たり前。運転が決して下手ではないけれど、荒々し過ぎて本当に危ない。制限速度を守ろうという心がけが全く感じられず、気分のままにアクセルを踏み、住宅密集地の中にある道でさえ時速100キロまで加速する無鉄砲さに、いつか人を轢き殺すんじゃないかと心配する程の破天荒さだった。
山の裾野に住む私達は、父の荒々しい運転で海まで連れ出された。レストランやラーメン屋を通り過ぎて、倉庫が立ち並ぶ大きな貨物船が荷下ろしをするクレーンが並ぶそこに到着した。太平洋に面する海の波はいつも大きく波打っていて、いつ襲ってくるかもわからない怖さがある。私は物心ついた時から海が怖かったが、今夜は特に水面が今にも立ち上がって私達が乗っている車ごと海に引きずり込まれそうな気がして、私は車のシートを握り締めた。
エンジンを止めた父が、ハンドルに両手を乗せ、さらに自らの額を乗せて押し黙る。すー、すー、しゅー、しゅー、と唯ならない呼吸音がボリュームを上げていくのを、固唾を飲んで見守るしかできずにいた。父がご乱心だ。豹変し、暴れ出す前触れだ。それを見るのはこれが初めてじゃない。何が起きても驚かないようにと、私は奥歯を噛みしめた。
うおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!
案の定、父の発作が動き出した。狭い車内で大の男が全身全霊で叫ぶというのは、かなりの圧力がかかる。耳を塞ぎ、目を閉じた。無事では済まない予感しかしないから、私は会ったことがないご先祖様やいつも行く神社の山の神に祈った。ビリビリとした空気に包まれ、膝で寝ていた兄まで叫んで泣き出した。兄とはいえ、小学一年生だもの。怖いのは皆同じ。
ひとしきり叫んで、急にこっちに振り向いた父の頬は涙で濡れていた。そして、言った。
「お前たちは捨てられたんだ! 俺と今から死んでくれ!」
隣の妹がガタガタと震えていた。兄は一瞬息を飲んで、そして泣き叫び出した。
お母さん、いやだよ、どこにいったの? 早く迎えに来て、死にたくないよ!
兄の叫びはそのまま私達姉妹の心の叫びだった。父は「うるさい!!」と一喝し、兄を黙らせる。目が血走った父の形相は、鬼のようだった。長い腕を伸ばして、兄の首を掴むと、二、三度ゆすってからシートの背もたれに向かって叩きつけるように手を離した。ゲホゲホと咳き込む兄を後ろにかばって、私は父を睨んだ。言葉が出て来ず、そうするしか出来ない。肩越しに妹が震える小さな声で言った。
「いやだ、死にたくない。死にたくない。お父さんも死んじゃイヤだ。帰ろうよ…」
父の頬に大粒の涙が流れ落ちていく。私達はその涙を見つめながら手を強く握り合った。
「死んだら、どうなるの? どうやって死ぬの?」
私が聞くと、父は寂しそうな顔になって言った。
「このまま車ごと海に落ちて、皆で仲良く死ぬんだよ。だから、怖くない」
「怖いよ!!」と、ほぼ同時に兄と妹が叫んだ。
死にたくない、死にたくない、死にたくない……
車内の混沌が溢れ出す。私は妹の方のドアを開けて、兄妹達を車外に押し出した。そして、手を繋ぎ合って父から逃げ出した。
バン!
背後でドアが閉まる音が聞こえ、足音が追いかけてくる。
真っ暗な港の埠頭で、方角もわからずにとにかく逃げ出した私達は走った。でも、あっという間に追いつかれて、兄が捕まってしまう。
「お前たちまで、俺を捨てるのか!!」と、父の悲壮な叫びが闇に飲み込まれた。
ざぶん、ざぶん、と波の音がする。そこかしこから不吉な者がこちらを見ているような視線を感じて、私達はもう動けなくなった。父は兄を抱きしめて、動かない。その場でしばらく泣いている父を、ただ待つしかできなかった。
港特有の磯の香りの中には、腐敗臭のような生臭い匂いが混じっている。それが死臭のようで、私は鼻呼吸を止めた。胸やけがして、吐きそうなほど胃がぎゅうぎゅうに締め上げられるのに、空腹のおかげで出てくることはなかった。
海が私達を呼んでいる。闇夜が徐々に赤く染まる。緊張感がピークになったのかもしれない。耳鳴りと頭痛に襲われて、私は歯を食いしばってその場に座り込んだ。ビー――ンと脳を貫くような太い金属音がして、もう何も聞こえない。風が強く吹き付けて、上着を着ていない私達は寒さにも襲われた。
今日、死ぬの?
もう、帰れないの?
冷たい海に沈んで、こんな短い一生が終わるの?
そんなことばかり、グルグルと考えていたと思う。
どれだけ時間が経っていたのかわからないけれど、気付いたら車の後部座席に揺られていた。車のライトが照らす白線を見つめて、家に帰れるのだと確信するとホッとして、寝ている兄と妹の間に挟まって私もやっと目を閉じた。
それから。あの日の出来事を、父は一度も語ろうとしなかった。聞き出す度胸もない私達は、時々思い出すと兄妹と三人で、ぼそりぼそりと愚痴を言って終わった。
父との結婚を後悔ばかりしていた母は、数年に一度の周期で家出を繰り返した。お酒を飲んだ時だけ陽気でおしゃべりになる父は、普段はとにかく押し黙ったまま何を考えているのかさっぱりわからない。話し合いが出来ない。あの人は人間じゃない。それが母の口癖だった。では、なぜそんな男と結婚して子供を三人も生んだのだろう? と疑問を感じても、母を追い詰めたくはないため、言葉を飲み干してやり過ごした。
そんな幼い日の出来事を、今日なんとなく思い出した。保育園帰りの娘の寝顔を助手席に見つめ、運転しながら考える。あの時、なぜ父は思いとどまることが出来たのか。父が病死して三年。もう、真実を知ることは、できない。
だけど、幼い我が子の手を握る度に思う。父はきっと、兄を抱きしめて泣いたから生きようと思えたのだろう、と。人肌は一瞬で絶望から引き戻してくれる力がある。一線を越えず自殺衝動を乗り越えた父に、今なら心からありがとうを言えるのに…。