7、表現、その多様性と軽重
表現方法はたくさんある。
話して、書いて、描いて、彫って、縫って、歌って、踊って、奏でて。
とてもたくさんある。
また、「小説を書く」という表現方法を選んだあとにも、ジャンルやカテゴリーというものでさらに表現方法が細分化される。そのあとは技法や文体など技術様式になっていく。どこからはじまりなにを選ぶかはひとそれぞれである。
私は生まれて二十年くらいは、上手いとすごい、がどう違うのかわからなかった。
例えば絵。綺麗な絵は、もれなくすごい絵だと思っていた。
例えば曲。壮大な曲は、もれなくすごい曲だと思っていた。
すごい、というものがどういったものかわからなかったので、そうだろうと思うしかなかった。
大学でとある授業を取った折、書道の文字をたくさん見ることになったのだが、指定した書道の文章に対してどう感じるか、また自分はどのような字を書けるようになりたいか、という旨を作文でまとめてくるよう宿題が出た。
さて、いよいよ困った。
教材に載っている書道の文字を見ても、なにも感じない。言語化できない。それに自分がどのような字が書けるようになりたいかなど、考えたこともなかった。ひとそれぞれに字体、癖はあれど、その造形や印象にまで考えが及んだことは一度もなかったからだ。せいぜい読みやすいか読みにくいか、大きいかちいさいかくらいである。
そのときは自分の感覚が疎かであったので、作文を書くのに四苦八苦して、なんとか提出したものの納得はしていなかった。この頃は、考えるのではなく感じろ、という事柄が本当に苦手だった。ほぼ理解できなかった。
自分に合う、という感覚もわからなかった。
例えば靴。すきなデザインはあるが、それが足型に合うのか、ファッションとして自分に合うのかわからなかった。試し履きをしてもわからない。
例えば眼鏡。顔の形によって似合うデザインがあるようなのだが、思い切って形を変えたとき、使い勝手もファッションも旧デザインのほうが優れていたことをそのときようやく自覚した。
例えば服。これが一番悩む。素敵なデザイン、好みのデザインはすぐに目に留まるが、それが自分に似合うかどうかは度外視しているため、着るよりも見るものとして捉えている節がある。周りからは、見る目はあるのにどうして自分に合うものがわからないのかと首を傾げられる。仕方がないのだ。そういうふうに思考するのだから。
しかしそういったことを考え出してすこしは進歩をしたらしい。
あるとき、ピカソの展覧会があり、観に行った。ピカソは晩年まで作風が何度も変わった作家で、絵画だけでなく立体物も作り、本当に同じ人物が作ったのかと驚くほどたくさんの作品があった。それこそ綺麗な絵も、落書きのような絵もあった。
私の目が留まったのは、ガラスケース越しのある絵だった。その絵は確か版画だったと思うが、なんというかある意味雑に、荒々しく、闘牛の様子が描かれていた。
その版画は、綺麗ではなかった。にもかかわらず、圧倒的ななにかがあり、私のこころを掴むなにかが放出されていた。写実的に表現された絵画でもなく、疑問符の浮かぶ造形物でもなく、ただその一枚の、白黒の紙に目を奪われた。
これほどの少ない線で、影で、闘牛の様子を描いている。闘牛だと理解できるということが、本当に驚きだった。この印象が私にとっての、すごい、ということなのだとあとで理解した。常識というものが、ひとつ、破れた。
上手に、綺麗に描いても印象に残らない絵がある。
逆に、歪んでいるのに妙に印象に残る絵がある。
それまで読んでいた漫画は、どちらかというといろいろと整っていた。線は細かく、トーンは服や髪以外にもたくさん使われていた。紙の上にのせられたことば以外の情報量が多かった。しかしその傾向のままだったら絶対に読まなかったであろう漫画に巡り合った。「ハチミツとクローバー」(2000-2006、羽海野チカ著)という漫画で、買うかどうか悩んだが、結局は買った。
驚いた。漫画という表現において、決まった描き方などないのだと思わせるような、自由さを感じた。コマ割りの線が定規などを使わずに書いてあったり、コマ割りとコマ割りの間の余白に横文字を入れていたり、吹き出しの外のセリフがものすごく長かったり、いままで見てきた漫画にない表現は、私の中の漫画の常識を見事に叩き壊した。内容も、一巻に一回は必ず腹を抱えて笑うところがあったり、登場人物のセリフにこころが揺れたり、これはすごい漫画に出会ったと存外嬉しかった。この作者の次作である「3月のライオン」も愛読している。心臓が抉られるほどの表現に、“感情”というものになんて重さがある話なのかと胸が痛くなるが、それでも面白くて読んでしまう。彼らの幸せを応援している自分がいる。
それからはすきになる漫画の傾向が変わった。「魔女」(2004、五十嵐大介・著)や、「チキタ☆GUGU」(新装版、2014、TONO著)、「虫と歌 市川春子作品集」(2009、市川春子・著)など、青年漫画やほかに分類できない漫画も読むようになった。そういったものを読むたびに、漫画という形式にこうしなければいけないという決まりはないのだと再確認した。語弊があることを承知で言うならば、面白ければ許容されるのだと思った。
一方で、表現の仕方に対して否定や疑問を抱かないことがある。こういうものか、と流してしまうところがあり、他人がどうしてそこまで否定をするのかわからないことがある。
例えば「もののけ姫」(1997、宮崎駿・監督)で、ジブリ映画は俳優をたびたび声優に起用しているが、登場人物の声が合っていないと知り合いが不満を漏らしていたことがあった。私は「もののけ姫」をビデオテープが擦り切れるほど観ていたので、その不満がよくわからなかった。別に言うほど不似合いではないと感じていた。また、それがふつうであると思っていた。いまなら、俳優の演技が声優としては未熟であることがわかるが、それでも否定するほどではないと思っている。余程のものでない限り、これはこういうものだ、と受け入れる。これは許容範囲の問題だろうか。それともある種の思考停止だろうか。
ゲームのことで言えば、まずはシステム。戦闘システムが肌に合わないと最悪ストーリーを進められないが、余程のものでなければ放り投げない。「聖剣伝説LEGEND OF MANA」(1999、Play Station、スクウェア)は戦闘が単調なところ、「幻想水滸伝Ⅲ」(2002、Play Station2、コナミ)は戦闘システム自体が面倒だったが、それがふつうで、それありきのもので、そのシステムを掌握してこそなのだと思っていた。いまはよくわからない。「ヴィーナス&ブレイブス~魔女と女神と滅びの予言~」(2003、Play Station、ナムコ)はシステムに慣れるまでが大変だったが、慣れてからは頭がきりきりと鳴りそうなほど考えるのが楽しかった。
ストーリーに関しても見せ方云々に意見はあれど、例え好みの登場人物が死んでも、話の流れで無理がなければ必要なことと割り切る。生きていてほしかったとは思わない。驚きつつも全面的に受け入れて、あとはストーリーが自分の好みかどうかで判断する。物語の構造や要素に考えが及んでも、批判的になることは稀である。自身に想像力が足りないことが一因と思われる。
漫画に話を戻す。紙に線を引いている行為は一緒であるのに、そこに描かれるものが千差万別であることは、本当に驚くべきことだ。描かれるものも、描きたいものも、なにもかもが違う。それでも同じ漫画として成り立っている。小説なら表現に使われるものがさらに少なくなり、ことばと余白のみとなる。だというのに、作品ごとに明確な違いがある。軸も訴えているものも違う。それぞれに色がある。
自身の物語にも、なにかが表現され、周りに訴えかけるものがあること。
あの日々は意味があったのだとこころから思えるときが来ること。
自分がそれを認められるときが来ることを、切に願う。
頭の中に溢れていたことばは治まったので、とりあえずは随筆を終わりにします。またなにか考えや思いが浮かんだら、ひっそりと追加しているかもしれません。
追加しました。




