6、貫くテーマ、散らばる要素
テーマ、または方向性を考えるのは、非常に苦手だ。
自作の「ミネルバ」に関して言えば、こういうテーマを描いて、こういうメッセージを伝えたい、という気持ちは薄かった。メッセージはないに等しく、話に込めているのはひたすらに登場人物たちに対する愛情だった。
加筆修正前の「Our Alice」は卒業制作だったこともあってテーマはたくさんあった。この頃は興味のある刺激がたくさんあった。こういうものが書きたいなぁと漠然としたものばかりだったが、不思議の国のアリスの二次創作(パロディ、オマージュ)だったこともあって、物語の三大構成要素である世界観、ストーリー、登場人物がすべて揃っていた。これらを自分がどう思い、解釈し、再構築するかが焦点だった、といまならわかる。
当時書きたいと思ったテーマや要素は、
・夢と現実、それに準じる世界
・ループ、タイムリープ、閉じられた世界
・ジェンダー(社会的性差)、イデオロギー(規範)の可視化
・不条理演劇
・不幸せな話、不条理
と、卒業制作作成ノートに書いてあった。
この話は確か、創作意欲もあったので一ヶ月半くらいで書き上げた。締め切りは三ヶ月後だったのでその影響はなかったと思うが、テーマが定まっていたおかげかもしれない。
テーマのひとつである「夢と現実、それに準じる世界」は、二項対立として考えると、自分と本、あるいはゲームなどとも捉えることができる。その場合は「幻想(非現実)と現実」と表現したほうが適切か。「はてしない物語」(1982、ミヒャエル・エンデ著、上田真而子・佐藤真理子・翻訳、岩波書店)はその代表であり、割と普遍的なテーマかと思う。表現されたものは受け手に大なり小なり影響を与えるが、その影響とは別に、現実に存在する「私たち」にまで直接的、間接的に到達、あるいは巻き込んでくる要素も加わることがある。この要素は概ね、背筋が凍るような物語の印象が強い。
直近でその要素を感じたものは「UNDER TALE」(2015、コンピュータゲーム、トビー・フォックス)というゲームだった(現在はPlay Station4でも遊べるらしい)。残念ながら未プレイだが、2Dのドットで表現された世界は懐かしさを覚える。ゲームという概念をゲームの中のキャラクターが(批判的に)語ることがあり、メタファー(隠喩)の強い話だった。いやむしろ直喩か。プレイヤーの選択によっては感動や笑いを誘うよりも恐怖が湧く。人間が好奇心というものを捨てられない生き物であることを逆手にとって、それを嘲笑し、断じている印象がある。それは原子爆弾を作ってしまった科学者の心理に通じている気がした。恐怖や常識を振り切る、人間を闇に飛び込ませる好奇心。あるいは狂気。
そんなことを考えていたら「Braid」(2008、Xbox360、Number None, Inc.)を思い出した。例によって未プレイで、作中で語られる話は文章としては難解で理解することを放棄したが、なにかに突き動かされた末の向こう側に不気味さを漂わせている。何年も前に観た映画「トゥルーマン・ショー(The Truman Show)」(1998、監督ピーター・ウィアー)はコメディー映画として認識されているようだが、私には心理ホラー映画のように感じられる。恐怖や嫌悪感のほうが先に立ってしまう。もしあれが自分だったら、と傍観者でいられなくなる。
にもかかわらず、そういった作品と類似性のあるテーマを扱った「Our Alice」が書けたのは、完全なる傍観者として執筆できたからである。登場人物がなにを語っても、例え死んでも、同情も悲哀も感じなかった。彼らが“話(世界)のための登場人物”だったからである。零から作りだしていないから愛着がないが、創作意欲はあった。そのおかげで、書く内容に心理的な制限はなかった。だから書けた。無心に打ち込めた。そしていま読み返しても、特に感じることはない。前述した映画やゲームを作ったひとたちは、もしかしたら同じような心境だったのかもしれない。
「はてしない物語」のように感動でこころが震え、安らかに終わる物語は貴重だと思う。個人的な見解だが、「幻想(非現実)と現実」をテーマにした話は、受け手に絶望を抱かせるよりも希望を灯すほうが難事だからだ。
暗くおそろしい話のほうが受け手に衝撃を与え、良くも悪くも印象に残りやすいので、作り手の中にはそれを狙って話を作るひともいる。短編ではそういったテーマのほうが描きやすいとどこかで耳にした。それにしたってなにかを狙ってできることがすごい。作り手の言い知れぬ努力の賜物だろう。
どこで見かけた意見か忘れてしまったが、努力は「~したい」と思うものであって、「~しなければならない」と思うものではないという。努力によって自分が潰れるのは本末転倒で、この意見を見たとき心底安堵してしまった。
テーマということばには、明確な方向性を常に念頭に置いておく、という印象があるが、必ずなければならないのだろうか。意識しなければならないものなのだろうか。おそらく創作意欲がないから躓いている。テーマがあるから魅力になり、強みになり、時に原動力になる。道を見失わずに済む。すこし考えればわかることだ。
大衆に意識を向けていない時点で、エンターテイメントとしての成立は難しい。かと言って純文学のような芸術性も見受けられない。では、自分の書き上げた小説は、いったいなんなのか。趣味、としか言いようがない。楽しいからするものが趣味と称されるのだろうが、どうして楽しいと思うのかわからないもの、厳密には楽しいと思っていないものもある。それも広義では趣味の枠に分類される。いわゆるライフワーク。表現をすることへの傾倒。
テーマがないことがテーマ、なんて軽口が言えたらもうすこし気楽になれるのになぁ。それとも私がテーマと思っていない、認識していないだけで、存在しているのかもしれない。




