5、世界観、魅せる舞台
物語の数だけ世界観は存在するが、私は神話のような世界観のファンタジーがたぶんすきだ。西洋の歴史的な邸や調度品などもすきだ。石畳も大好物である。反対に現代ものはあまり好みではなく、読むとするとミステリーや推理ものが多い。現代ものを読まないのは、自分の接している周りの環境と地続きというのが嫌なのかもしれない。ファンタジーが好みなのは、心証の悪い言い方をするなら「現実逃避ができる」からとも言える。
この考えがあると必然的に舞台は現代以外になる。そして空想科学やロボット系もあまり好まず、かつ発想力もないので、それらが存在する舞台になりやすい未来も対象から外れる。そうなると舞台は過去か、それに準じたもの、あるいは丸っきり違う世界になる。ある意味消去法で物語の世界観が決まっている状況である。
自作の小説で、現代日本かそれに準じた世界に住んでいた者が、異世界で主役だったことがあるが、これは昔に作った設定を変更せずにそのまま起用しつづけた結果なので、いまとなっては珍しい。この話の内容を考えると、この世界観(舞台)でなければならない、という理由というのか、そういったものがないよなぁと時折思う。ファンタジーの世界である必要性が割と薄いというか、舞台が現代でも書けてしまうんじゃないかなと。元も子もない言い方だが、自分で指摘する分には凹まないのでなにも問題はない。話も完結してしまっているので変更する気もない。
いま頭の中で最も候補に挙がっている話は、いろいろな種族がいる西洋ファンタジーの世界をあちこち旅する話で、最初のきっかけはゲームだった。「聖剣伝説LEGEND OF MANA」(1999、Play Station、スクウェア)という、独特な雰囲気のアクションRPGで、その世界観やたくさんのキャラクターや複数あるストーリーに衝撃を受けた。アルティマニア(攻略本)に載っている設定資料を読んで、その奥深さにさらに驚愕した。その世界は、絵本のような世界の中でたくさんのキャラクターが生き、大小さまざまな物語があり、野望や愛憎や存亡、真理、あるいは哲学的なことが語られていた。
こんな話を自分も作ってみたいと思ってしまった。
このゲームに出会ったことで、自分にとっての“ファンタジー”というものが、神話に登場するあまたの種族や怪物や妖精が出てくるものだということを再確認した。
作りたいと思って考えはじめた話もまた、登場人物から世界を作るパターンだったと思う。主要な登場人物は出揃ったので、現在は世界と話のほうを考えている。
この話は、こういった話にしたい、という漠然とした気持ちがあるので、おそらく“登場人物のための話”にはならない。ただ、いまのところ書く意欲はまったくない。残念なくらい、ない。締め切りがないからかもしれないが、書かなければいけないというような妙な焦りはないので、書けるときが来ることを信じて機が熟すのを待とうと思う。それから目標ではあるものの、想像力や技量がないので、同じような内容にはならないだろうし、参考にはしてもできれば真似をしたくないと思っている。パクリと言われるのはやはりつらいし、そんなことを思わなくても制作人数も環境も表現媒体も違うので杞憂に終わるはずである。
私は漫画や、風景や建物の写真集や、神話事典などを読むが、小説の読書量は割と少ない。物語として影響を受けるものはゲームであることが多い。「朧村正」(2009、Wii/2013、Play Station Vita、ヴァニラウェア)のダウンロードコンテンツに「元禄怪奇譚」というスピンオフのようなものがあるのだが、その第三弾に「七夜祟妖魔忍伝」という話がある。
抜け忍となった嵐丸は、追ってくる刺客と戦い、逃げ込んだ神社の廃屋で危なくもこれを退ける。しかしそこに祀られていた鏡を割ってしまい、神社の主である蛇神の怒りを買ってしまう。蛇神は嵐丸に、七日後に必ず死ぬ神罰を与えたが……という話。残念ながらハードを持っていないので未プレイである。
この話の魅力は、なんといっても気風のいい嵐丸の性格と、登場人物たちの粋な台詞回しである。江戸時代を思わせる世界を舞台に、いや本当に“舞台”として、まるで歌舞伎や演劇を見ているような錯覚がある(演劇も歌舞伎もプロのものは実際に観たことがないが)。表現がひたすらに格好いいと思う話だった。
前に描いた嵐丸。
デザイナーさんの実際のイラストはもっと凛々しくて格好いい。
あそこまで魅力的な人物を描けるなんて、なんと羨ましいことか。ゲームはほかに、視覚情報やシステムや音楽が混然一体となっているわけだから、それらが登場人物たちの魅力を何倍にも増やしている。さまざまな刺激が混ざり、人間の脳に訴えやすいことは否めない。だからといって小説が劣っているとか、そのようなことを言いたいわけではない。私に影響を与えやすいのがゲームで、表現媒体が小説(文章)やイラスト、という話。インプットがゲーム、アウトプットが小説。
【1、名前、あるいは登場人物】の項目で“音”を重要視している旨を述べたが、それはゲームに付随する音、音楽や声や効果音(システム上のものから環境音まで)も同様で、ゲームという表現媒体に対してはここ数年視覚情報よりも影響を受けているように感じる(サウンドトラックは、がしゃ髑髏戦の「慧可断臂」と、別の話で使用された「稲の花」のみ購入)。映画となにが違うのかと疑問に思ったが、映画は鑑賞者を静的に巻き込む(傍観者)が、ゲームはプレイヤーという形で動的に巻き込むこと(隠喩的に当事者になること)。それからアニメのように表現された世界観が単に好みだからだろう。しかし未プレイのものも多いので、一概にはそうと言い切れない。面倒なので「肌に合うから」ということにしておく。アニメーションの映画もあるが、なんというか、私の中では“映画”ではなく“アニメーション”の感覚のままだ。ああでも、ディズニーアニメーションの映画は“映画”だという感覚がある。
江戸時代に準じた世界や粋な台詞回しは、私の引き出しにはまったく存在しなかったものだけに衝撃が大きかった。あんなふうに生きてみたいと思わせるほどにすごかった。登場人物には声もついていたので、台詞を音として、耳から吸収できたことも一因だろう。淀みなく流れる台詞は聞いていて心地がいい。物語の三大要素の内のふたつ、登場人物と世界観が際立っている話だ。雰囲気に酔う話というのか。「朧村正」の本編も同様に魅力的だが、「七夜祟妖魔忍伝」は嵐丸の存在と蛇神との面白い関係が好みだったので、その差が影響している。
蛇神こと、渦津巳引滝媛神。
こういった話が、「この世界観でなければ描けない話」であり、世界観を味方につけた強さは計り難い。
世界観が際立ったものなら、「ワンダと巨像」(2005、Play Station2/2011、Play Station3/2018、Play Station4、ソニー・コンピュータエンタテイメント)が印象に残っている。草原、荒野、丘、砂漠、林、砂浜、湿地、池、湖、海、崖、遺跡。延々とつづく広大な世界を馬と共に駆ける体験は比類なきものだった。
主人公の男ワンダには、魂のなくなった少女を助けるために「巨像」と称される巨大な敵と戦う目的があるが、その気になれば鳥や魚に掴まったり、果物や蜥蜴を打ち落としたり、走る馬の上に立ったりと目的外のシステムや操作の自由度が高い。細部まで作り込まれた箱庭を、無心で探索したくなる。世界そのものを表現、構築しているゲームだった。
昔に描いた主人公のワンダ。
物語というのは、ストーリーと登場人物と世界観が同じくらい魅力的でないといけないと思っていた。それが理想で、望まれる形だろう。だが、ゲームという表現媒体の違うものを例に挙げている時点で論点がずれているのだろうが、物語の構成要素のひとつを際立てて表現してもいいのだなと思った。




