ある時ある日、ある場所にて…
ある時ある所にA(仮名)という人物が住んでいました。Aはよく、飛ぼうとしていました。所謂グライダーのような翼を自分で作り、家の屋根から飛び降りるのです。
結果は、当然と言えば当然ですが、飛び降り自殺に近いものでした。Aの作ったその翼は、ただの板を羽っぽい形に切り取っただけの代物だったのですから。それでもAは、何度も翼を作り直し、めげずに挑戦を続けました。Aは体が頑丈だったのです。それに、なぜそんなことに挑戦し続けるのか、などという疑問は、とうの昔に彼の頭から消え去っていました。
…言い忘れていましたが、Aの性別は一応男なので、“彼”という呼称に間違いはありません。
で、なぜそんな疑問が彼の頭からサヨウナラしていたのかといいますと、Aの記憶力が悪いから、ではありません。彼の記憶力が悪いのは本当ですが、それは原因のほんの一部でしかないのです。
…彼は、記憶喪失なのでした。記憶そのものが無くなってしまっているのですから、記憶力いかんは関係ないということです。
彼は、気付けばここにいました。ここで、暮らしていました。そうなる以前の記憶は一切ありません。けれども彼は、自分が生まれたときからこうであったのではない、ということを知っていました。まるで、野生の動物が生まれつき“本能”というものを理解しているかのように。
そして、彼の理解している根拠のない事実が、もう一つ。“自分は、飛ばなければいけない”という、思いというよりは衝動、それこそ本能と呼んでしまっても良いかもしれないほどの何かが、彼の中にはあったのです。
それがために、彼は今日も挑戦を続けるのでした。
……
ある時ある日、F(仮名)という人物が、山一つと谷二つと森三つを抜けてAを訪ねてきました。彼女は、この世界を旅する旅人です。
…ちなみにFは女性ですので、“彼女”という呼び方で問題ありません。AとFは、以前Fがこのあたりで行き倒れてAに介抱してもらって以来、しばしば連絡を取り合う仲です。
そのFが言いました。Aに、良い知らせがある、と。その知らせは、飛ぶことに関係がある、とも言いました。Aは当然、どんな知らせなのか聞かせてほしい、と答えます。
それを受け、Fは話し始めました。旅先で彼女が聞いた、とある話を。
……
ある地方に、巨大な山脈があります。そこの山は長年風雨に削られ先が鋭くとがった形をしているのですが、数年前、その内のひとつに隕石が落下しました。しかしなんとその隕石は、山の形を崩すことなく、その先端にぴったりと乗ったのです。ちょうど、針の上に球を乗せた形で。その山脈は高く隕石は大きく、非常に遠く離れた町や街道からでも見えたため、このことはたちまち噂となり広まってゆきました。…Aの家は人里離れた場所にあるので、その噂は届かなかったようですが。
とまあそのようにして伝わってきた噂を、とある金持ちが聞きつけました。その金持ちは、これは金になるのではないか、と思いました。何がどうなってそのような珍妙な現象を起こしているのかは皆目見当もつきません。ですが、見たことも聞いたことも無いような話です。どんなものであれ手元に置くことができれば、見せ物としては最高でしょう。
けれども、もしかしたら金にはならないかもしれないな、とも考えました。なんせどんなものか分からないのですから。
そこで、“そこに行って何か変わった物をとってきた者には賞金を出す”というおふれを出しました。つまり、料金後払い作戦、というわけです。
ところが、その山脈の近辺というのがまた一風変わった場所で、旅人達の間では“危険なので絶対に近づいてはいけない”と言われる、ほぼ人跡未踏の地なのでした。そのため、誰もそこへ行こうとはしません。こうして計画は表向き頓挫したわけですが、実は今でもその金持ちは諦めていないようで、密かに挑戦者を捜しているのだそうです。
……
これを聞いたAは、すぐにFの言いたいことを理解しました。つまり、その不思議な隕石が、空を飛ぶ鍵になるかもしれない、ということです。その場所がいくら危険だといっても、飛ぶために飛び降り自殺まがいのことを繰り返しているAにとって、それほど問題ではありません。すぐに、その山脈まで行くことが決定しました。
Fは元から旅人ですし、Aはそれほど物を持っていません。ですので、そのすぐ次の日に、彼らの旅は始まったのです。
……
まず彼らが向かったのは、エサンという名の町でした。この町は旅の要所にあるため、旅に必要な物は大抵何でも揃います。それにもう一つ、そこは例の金持ちが住んでいる町でもあるのです。
エサンに着いたAたち一行は、とりあえずその金持ちの家へと足を向けました。ちなみに金持ちの家は、町のはずれにあるのですが、立派な門構えに巨大な庭、さらには巨大な番犬つきという、純金持ち趣味な家です。しかし、Aたちがこの豪邸の中に入っていたのは、ほんの少しの間だけでした。全く候補者が現れていなかったこともあって、話はすぐにまとまりましたし、その金持ちは、あまり長い間よそ者を屋敷に入れておきたくなかったようなのです。
…と、それはともかくとして、2人は無事、金持ちの支援を受けることができました。後は、旅に必要な物を買い揃えるだけです。金持ちから少しの前金を受け取っていたため、ある程度お財布に余裕はあります。そのお金でFが買い物をする間、Aは旅用具屋の中を物色していました。旅になど出たことのないAにとっては、どれも珍しい品ばかりです。
彼が、その中でも特に気になった2つを買った頃、Fの買い物は終わりました。そして2人で荷造りを済ませ、この町を後にしたのでした。
……
旅が始まって一週間。これまでの旅では、それほどの大事件はありませんでした。せいぜい、まだ旅に不慣れなAが、食べ物を焦がしたり、薪を爆発させたりした程度です。そのAもそろそろ旅に慣れてきましたので、最近は特にどうということも無く旅は進んでいました。
しかし、一週間の旅路を経て、彼らはとうとう例の危険地帯へと足を踏み入れたのです。ここから先は、今までのような楽な旅というわけにはいきません。常に、命の危険がつきまといます。
…が、彼らの足は、速度をゆるめることなく、その“危険地帯”へと踏み出されたのでした。
……
彼らが始めに差し掛かったのは、通称“草むら”と呼ばれる難所です。そこには、芝生の草をそのままA4、5人分ほどの高さにしたかのような、巨大な植物が密生していました。
…このあたり一帯が危険地帯と呼ばれる一因として、何故か動植物がみなとても大きく成長してしまう、ということがあります。原因は全く分かりませんが、過去には、冗談抜きで山ほどの大きさのある巨象が目撃されたという情報もあるのです。
そんな場所ですので、体長がそこらの屋敷ほどもあるようなカマキリに遭遇したのも、あるいは必然と言えるのかもしれません。流石のFも、この化け物カマキリには焦りました。
…彼女もいっぱしの旅人ですので、今までに様々な場所を訪れ、様々な生物に出会っています。野宿をすることも多々あるので、虫が嫌い、などとは言いませんし、大抵のことでは驚きません。けれども、巨大な昆虫というのは思いのほか恐ろしいものです。彼女は久しぶりに、恐怖で足がすくむという体験をしました。
そんなFを餌だと認識したのか、カマキリは前足を振り上げ、近付いてきます。…巨大な怪物といえば鈍重なな姿を想像しがちですが、このカマキリは予想を遙かに超えた高速で動きました。それと同時に旅人としての経験が恐怖を上回り、Fの足は動くようになりました。しかしすでに時遅く、鋭いカマが目の前に…ありませんでした。
なんと、カマキリが途中でこけたのです。勿論4本足の生き物がそう簡単にこけるはずもなく、そのカマキリがずっこけた原因は、そのすぐ横で、ハンマーを肩に乗せてたたずんでいました。
…Aです。Fの横から飛び出したAが、どこからか取り出した巨大な黒いハンマーでカマキリの足をぶん殴り、転倒させたのです。ちなみに、ハンマーには白い字で“10t”と書かれていますが、気にしてはいけません。
と、カマキリがもう一度動き始めました。次はAを襲うつもりのようです。カマキリはユラリと立ち…上がれませんでした。なんとAは、ちょうどいい高さになっていたカマキリの頭を、思いっきりハンマーで地面に叩きつけたのです。これはさすがに効いたようで、カマキリは頭を地面に埋めたまま、ピクリとも動かなくなってしまいました。
それを見届けたAは、明らかに小さすぎるバッグにハンマーをしまいます。中身は四次元かなにかでしょうか。
とまあ、そんなこんなで、なんとか“草むら”を通過することができたのでした。…Fがほんの少しだけAに見とれていた、というのは絶対に秘密です。
……
二人は、“木の根”という名の洞窟に到着しました。そこは文字通り超巨大な木の根っこによってできた空洞なのですが、その巨大さ故に、初めてここを訪れた旅人が“木の根のような形の鍾乳洞”と思い込んでしまったと言われる場所です。中はもちろん真っ暗ですが、Fがしっかりと用意していた松明をかざし、進んで行きした。
…ちなみに、ここヘ到達するまでにも相当数の困難にぶち当たってきたのですが、全てAがハンマー1本で解決してきました。毎日飛び降り自殺まがいの荒行をしていたAは、かなり運動神経が良くなっていたのです。ある時などは、太さだけでF数十人分ほどもあろうかというような大蛇を一撃でノックアウトしてしまいました。もうそろそろ、運動神経とかの問題ではないかもしれません。
…と、AとFの耳に、水の流れる音が聞こえてきました。どうやら、洞窟の中を川が流れているようです。案の定、少し歩くと、川にぶつかりました。いえ、川というよりは、河と表現した方が良いかもしれません。密林に流れる大河、みたいなのを思い浮かべて大きさ5割増しにしてもらえれば、この河の大きさがある程度正確に想像できるでしょう。そんな巨大な河が、ほとんど波を立てずに、しかしけっこうな速度で、洞窟の中を流れているのでした。
…Fは、とりあえず川岸に沿って歩こうと思いました。方向としては、それほど間違ってはいないでしょう。
しかしそこで、なんとAが、河を下るなどと言いだしたのです。一体何を言うのかと思っていると、なんと彼は、バッグから2人乗りのカヌーを取り出しました。そう、エサンでAが買った物の内、二つ目がこのカヌーだったのです。
…が、カヌーです。目の前に広がるのは、広大な河です。はっきり言って、無謀です。勿論、Fは反対しました。猛反対しました。
そして…
三十分後、カヌーにしがみついているFの姿がありました。半分無理矢理Aに乗せられ、以降ジェットコースターのような地獄の激流下りに耐えてきたのです。ジェットコースターとの違いを強いて挙げるならば、安全装置その他身の安全を保障するものが何も無いということくらいでしょうか。ただ、Aのオール捌きは凄まじく、なぜかカヌーに高性能なモーターが装備されていたこともあり、なんとかここまでは生き残ってこれたのでした。
…カヌーどころか帆船を丸呑みにできそうなサイズのピラニアが現れたときには、さすがに死を覚悟したFですが。
そして、そろそろ精神的な疲れで彼女の意識が朦朧としてきた頃、ようやくカヌーは洞窟を飛び出し、Fの恐怖体験は無事終了したのでした。
……
ひとつ、訂正しておきたいことがあります。つい先程、“無事”という表現がありましたが、それは間違いでした。謹んで、お詫び申し上げます。
…木の根を抜けた直後、なんとあの河は、大きな滝になっていたのでした。おかげでカヌーは粉々、直前で飛び降りたAとFは全身打ち身だらけです。それでも2人は休むことなく、最後の難関、通称“崖”と呼ばれる山脈にまでやって来ました。
今までに、このあたりまでやって来て、無事に帰還できた旅人はいません。そんな事実を知ってか知らぬか、さすがのAも、山の入り口で足を止めました。これまでの道のりでも、山の頂上で絶妙なバランスをとる隕石は見えていましたが、ここからだと、その巨大さ、そしてなによりその奇妙さがよく分かります。
今しがた“絶妙なバランス”と言いましたが、実のところ、全くもってバランスなどとれてはいないのです。明らかに重心が片方に寄っており、普通ならバランスを崩して落ちているでしょう。
そんな、まるでシュルレアリスムの絵から飛び出してきたかのような光景を視界の端に入れながら、Aたちは山登りを開始したのでした。
……
山を登り始めて1時間、それは山登りでした。山を登り始めて2時間、それは登山になりました。そして、山を登り始めて3時間、それはロッククライミングになっていました。
…すでに山の斜面は、“斜”という字をつけて良いのか悩んでしまうほどの傾斜になっています。幸いFが崖登りの用具一式を持っていたので、それを使ってよじ登っていますが、正直いつ滑り落ちてもおかしくありません。幾度となく巨大な影から身を隠し、時に片腕でハンマーを振るって撃退していたため、彼らの体力はとうに限界間近です。
しかし、AとFは、少し前から登るのが楽になってきている、ということに気がついていました。
…目的地は、すぐそこです。
……
Aは、口を開いたまま無言で、隕石を見上げています。Fも、何とも言えない気分で、やっと到達した山頂の、そのあり得ない光景を眺めていました。
大小様々な岩が宙に浮かび、隕石の周りを回っています。その隕石自体も、山の表面から少し浮いたところで停止しているのです。不思議、とか、神秘的、または不気味、といった形容詞が、この光景をうまく表しているのでしょう。
…しかし、Aたちの目的は、この不思議空間を堪能することではありません。それを思い出したAは、この隕石のことを色々と調べてみることにしました。道具も何もなしに調べても大したことは分かりませんでしたが、いくつか重要な事実が判明しました。
ひとつ、この浮遊現象の原因は、隕石であること。浮いている小石を遠くに投げても普通に落ちるだけでしたが、隕石の欠片を投げると、遠くのほうでも浮いているのが見えました。
ふたつ、この隕石は、真下から見たとき大きく見えれば見えるほど、浮く力が大きくなること。要するに、平べったい欠片を水平に浮かせ、それを傾けるとだんだん下がってゆく、というわけです。これがAにはうれしい事実でした。
これらの結果を元に、Aは翼を改良します。ここまでしっかりと持ってきていた翼に、隕石の欠片を砕いた粉を塗りつけたのです。また、予備として持ってきていた羽を、F用に作り直しました。
…Fは隕石の欠片を袋に詰め込んでいます。彼女はAの友人であると同時に、旅人として生計を立てている人間です。依頼された物品は、持って帰らなければいけません。
…そうして30分後、2人はそれぞれのするべきことを済ませました。後は、飛び立つだけです。もしうまくゆけば、行きとは比べものにならないくらい、楽な帰り道となることでしょう。2人は荷物をまとめ、羽に掴まり、そして、地を蹴ったのでした。
……
ある日ある時、エサンの町に一人の旅人が降り立ちました。その旅人は、旅人仲間の内では名の知れた有能な人物でしたが、数日前にあの危険地帯へ向かったという噂が流れており、そのまま行方不明になったものと思われていました。しかしその旅人は、多少の傷はあるものの、大方の予想を裏切り、無事に帰還してきたのです。
皆、その旅人に話を聞きたい、と思いました。しかし旅人は、金持ちに隕石の欠片を渡して報酬を受け取ると、行くところがある、とだけ言って、エサンの町を去ったのでした。
その旅人がとても有名な人物となるのは、もう少し後の話です。
……
ある時ある日、FはAの家を訪ねました。あの山から帰る途中、FはAと別れてエサンに向かい、Aはこの家へ向かったので、彼はこの家にいるはずです。
…が、家はもぬけの殻でした。あったのは、元から少なかったいくつかの家具。それから、屋根に空いた大きな穴と、そこから飛び込んできた者が滑った跡と思われる、床についた黒い筋だけ。明らかに一度帰ってきた痕跡はあるものの、肝心のAは見当たりません。
…と、その時。Fの耳に、ふと何かの音が聞こえた気がしたのです。空を切るような、しかし硬質な物では出し得ない柔らかな音。その音につられ、何とは無しに見上げた空の端。
彼女の目に、飛び去ってゆく大きな鳥の影が映ったのでした。
あ