ある悲しき歴史の断片1
わたしはため息を吐いた。何でまたあの夢を見たのだろう。夢というものは深層心理が見させていると聞くが、わたしの深層心理は何を見させているというのだろう。
ただ、懐かしい気はした。起きたとき、胸の奥がえぐられるような、言いようのない気持ちが湧き上がってきた。
それにもう一つ。気になるのは大姫と義高という名前だ。何度もその名前が出てくるため、彼らのことを夢に見ているのだというのは分かる。その二人は何なのだろう。聞いたことがあるような、ないような感じだ。家を出る前にネットで調べておけばよかった。
朝はバタバタしていたし、昨日は昨日で川本さんの大学のことを考えて頭がいっぱいだった。でも、彼が大学に行って、わたしも一年遅れになるが同じ大学に行ければつながりというものができるかのしれない。ただ、問題はお金だ。ドラマみたいに親が実は学費を貯めていましたなんて展開はまずないだろう。そう都合よく物事が運ぶわけがない。
「弁護士か」
なぜ彼は弁護士になりたいのだろう。よく聞くのは、弱者の力になりたいということだ。お母さんに一度理由を聞いたことがあった。お母さんもそうだった。理由は日本は法治国家なのだから、感情論ではなく、法律で人の役に立ちたい、と言っていたのだ。
わたしは携帯を取りだすと、大姫と検索をしてみた。このまま学費のことを考えても気が滅入るだけだと分かっていたためだ。するとすぐに検索結果が表示される。そして、最初のページを見て、眉をしかめた。どうやら彼女は源頼朝の娘のようだ。そして、そこには偶然にも義高という名前の少年のことが記されていた。義高というのは木曽義仲の息子で、十一歳で大姫の婚約者として鎌倉に来たらしい。
「鎌倉って」
わたしは苦笑した。
中学のとき歴史の授業で出てきた地名だが、イメージ的には関東にある遠い地だ。
読み進めていくと心臓をわしづかみにされるようなことが書かれていた。義高は頼朝の部下によって殺され、大姫はそのことを気に病んだのか、他の理由があったのかは分からないが二十歳くらいで亡くなったという。ただ、鎌倉時代は平均寿命がいまよりもずっと短かったし、一概にそのことについてはどうこう言えないのかもしれないが。
わたしは名前も知らない人の夢を見ていたということなのだろうか。何かでちらりと見て記憶が残っていたというのだろうか。
その夢を見始めたのはほんの最近だ。ドラマで見たとか、本を読んだというわけでもない。最近あった大きな出来事というのは川本さんに会ったことだ。だが、それもやはり無関係なのだろう。
いったい「わたし」は何を見せたいのだろう。
チャイムが鳴り、英語の授業が始まった。そして、昨日提出だったプリントが一人ずつに返される。
わたしの番が来て、教卓まで行くと、先生は笑みを浮かべた。
「最後の問題は難しいと思ったけど、よく解けたわね」
わたしは会釈してプリントを受け取った。
わたしの点数は八十八点。川本さんに教えてもらったところは、先生に言われたように、全問正解だった。
どうやら、クラスで全問正解だったのはわたしだけのようだ。先生は個人名は出さないものの解説のときにちらりと触れていた。わたしがなかなかわからなかったのは焦っていたのもあるだろうが、問題の難易度も無関係ではなかったのだろう。
わたしは榮子と別れるとため息を吐いた。
あの英語のテストが帰ってきてから、川本さんのことをずっと考えていた。ここ最近のわたしはとても妙だ。いつもならさらっと流せることさえ、心に引っ掛かってしまう。
あの大姫と義高のこともそうだ。なぜ、あんな夢を見てしまうのだろう。
「吾妻鏡か」
吾妻鏡という本に二人のことが記されているそうだ。そうはいっても二人に関することを事細かに記されているわけではないようだ。もともと歴史的に大きなことをしたわけではないので当然といえば当然なのだろう。
わたしは携帯で時刻を確認した。まだ夕食までには時間があった。わたしは図書館に行き、吾妻鏡を呼んでみようと決めた。
図書館は平日の夕方ということもあってか、人気も少なかった。わたしはすぐに古典文学が並んでいる棚まで行った。そして、目を走らせ書物を探すが、それらしい本は見当たらなかった。置いてない可能性もゼロではないだろう。だが、中学の授業で何度か出てきて、名前だけは知っている本なので、図書館にないとは正直考えにくかった。
また違う日に来たらあるのだろうか。
そう思い、帰ろうとしたわたしの足はおのずととまった。イスに座って何かの本を読む川本さんの姿があったからだ。連日彼に会うなんて、なんて偶然なのだろう。
どう話しかけようか。そんなことを考えていたわたしの思考は止まった。なぜなら、川本さんはものすごく思いつめたような表情で本を読んでいたためだ。
話しかけないほうがいいだろうか。そう思ったとき、彼が立ち上がった。その彼の視線がわたしのところで止まった。わたしは会釈し、彼の読んでいた本に視線を移した。わたしは眉根を寄せた。
「吾妻鏡?」
わたしは驚きの声をあげた。
有名な本なので彼が呼んでいてもおかしくはない。彼も読書が趣味なのかもしれない。だが、このタイミングで彼がこの本を読んでいることが妙な気分だった。
彼は会釈すると、わたしのところまで来た。
「たまにはこういうのも読んでみようかなと思ってね。何か本でお探していたの? 俺の用事はすんだからよければ手伝うよ」
「その本を読みにきました」
わたしが吾妻鏡を指さすと、彼は目を見張った。
「どうして」
だが、彼は首を横に振った。
「さっきまで読んでいた俺がいうことじゃないか。じゃあ、これは君に」
彼はわたしに本を渡した。
だが、わたしはその場に突っ立ったままだ。
「太田さん?」
「川本さんはどうしてこの本を読もうと思ったんですか?」
「だからさっき言ったように、たまたまだよ。君もだろう」
「わたしは違います」
自分でも馬鹿げたことを言っていたと分かっていた。それでも彼には本当のことを言いたいと思ったのだ。
「わたし、夢を見ているんです。源頼朝の娘の大姫と木曽義仲の息子の義高の夢を」
彼は目を見張った。その彼の目が煌めくのに気付いた。
「まいったな」
「ごめんなさい」
わたしは顔を伏せ、本を握る手に力を込めた。
歴史に出てくる人の夢を見たなんて言われてもドン引きするだけだ。言ったことを後悔したとき、予想外の言葉が耳に届いた。
「俺もだよ。ここ数週間たまにだけど」
わたしは驚き、彼を見た。
「名前が出てきていて、それでこの本にたどり着いたんだ。でも、俺と君が同じ夢を見ていたなんて、不思議な感じだな」
「少しだけ夢の話を聞かせてくれませんか?」
「いいよ。ここで長話もなんだから、その本をどうするか決めないとね」
わたしは少し考えた末に、その本を借りることにした。
図書館の外にはソファが並んだ、談笑できる場所が備わっていた。だが、人通りが多いため、わたしたちはそこで話をするのは避け、外に出ることになった。
彼は照れたように笑うと、夢の話をしてくれた。彼の話は起点がわたしとは少し違っていて、鎌倉に行くことが決まったときからのようだ。そして、屋敷に連れてこられ、頼朝の娘と出会った。彼女は海に行こうとせがみ、二人が約束をかわしたところで終わっていた。彼の夢は義仲の息子の視点で続いていたようだ。
「海に行っていたのもそうなんですか?」
川本さんは頷いた。
「無性に海を見たくなったんだ。海なんて子供のときから何度も見たことがあったはずなのに。変だよな」
「わたしもそうだったから、わかります」
なぜわたしと彼は同じ夢を見ていたのだろう。
だが、その答えはわたしたちには分からなかった。
彼がバイトの時間だというので、途中まで一緒に行き家に帰ることにした。
夕食前に吾妻鏡の二人の話を読んでいた。仕方ないとはいえ、自分の親に最愛の人を殺され、どんな気持ちだったのだろう。わたしは大姫のことにただ思いを馳せていた。