思いがけない再会3
「あれって太田さんの彼氏なんだ」
「太田さんってあの?」
さっきの女子生徒のいぶかしげなやり取りが耳をつついた。
わたしは彼女たちを知らないが、彼女たちは知っているのだろう。わたしは周りに顔と名前をよく知られているようだ。その原因はお父さんかお母さんか、その双方かのどれかだろう。
「君って有名人なんだね」
「どうして?」
「さっきからこっちを見ている人がいるから」
それは川本さんを見ていたんじゃないかという言葉を飲み込んだ。
この人はとてつもなく鈍いのかもしれない。
「行こうか。といってもどこに行く?」
「まずはここを離れましょう」
わたしたちに集まってくる視線の数が増えるのに気付き、わたしはそう促した。
その足で近くの公園まで逃れ、わたしたちはそこで一息ついた。だが、次の問題がわたしに襲いかかった。彼を誘い出しても、どこで何をしたらいいんだろう。
どこかお店に入って話でもしたいが、彼を誘ってもいいんだろうか。お礼といっておごってもいいが、そんなことを言い出したら気持ち悪いと思われないだろうか。それとも自販機で何か買って公園で飲もうか。
わたしがあれこれ考えている間に、彼の視線が一点で釘づけになっているのに気付いた。
「桜、好きなの?」
彼が見ていたのは公園で咲き誇る桜の木だったのだ。
彼は我に返ったようにわたしを見た。
「好きというか、気になるんだよな。明確な理由はないんだけど」
「わたしもです」
彼は驚いたようにわたしを見た。
こんなことを言えば引かれるかもしれない。そんな不安がなかったといえば嘘になる。だが、自分で考えるよりも自然に言葉が飛び出してきたのだ。
「綺麗とも思うんですが、何か大事なものを忘れているようなそんな気がするんです。このあたりが苦しくなってくる」
わたしは自分の胸に手を当て、そっと唇を噛んだ。
「うまくいえないけど、俺もその気持ちがわかるよ。ただ、桜の花が咲いているのを見るとホッとするんだ。こんなこと、言ったのは君が初めてだよ」
「わたしも。今まで誰にも言えなかったから」
わたしと彼は目線を合わせると、どちらかともなく微笑んだ。
このよくわからない気持ちを共有できる人がいるなど考えてもなかった。それも川本さんとなんて。今まで遠くに感じていた彼を一気に近くに感じていた。
「川本さんは英語得意なんですか?」
「そうでもないよ。人並みにはできるかな」
「わたしも得意だと思っていたけど、あんなにすらすら読めるってすごいなと思いました」
「高校二年と三年じゃ一年違うし、そこそこ勉強もしていたからね。高校一年くらいまでは大学にも普通にいけるんじゃないかって考えていた。今でもその習慣が抜けないんだ」
わたしの胸が痛んだ。舞い上がっていろいろ聞いてしまった己の行動を恥じた。
「ごめんなさい。無神経なことを言ってしまいましたね」
「別に気にしていないからいいよ。受け入れないといけないんだろうなって思っている」
「川本さんは就職なさるんですよね。就職活動はしているんですか?」
「いやまだだよ。ただ、少しでも夢に近いところがいいかなって思う気持ちと、全く関係ない職種のほうがいいかなという気持ちが拮抗しているんだ」
「夢?」
「弁護士になりたかったんだ」
その言葉にドキッとした。わたしがお母さんに弁護士になればいいと言われていたからだろうか。彼が大学に行けば、同じ目標をもって歩んでいけたのかもしれない。
「もちろん予備試験もあるから、過去形にするのは早いけどね」
彼は慌ててそう付け加えた。家庭の事情のせいにするのに気が引けたのかもしれない。
弁護士事務所で働ければ、彼は少しでも夢に近づくのだろうか。それとも奨学金を受けて大学に通う未来はありえないのだろうか。
「こんな話をしてごめん」
「そんなことないです。少しでも川本さんのことが知れてうれしかったもの」
「君はいつもそうだよね。あまり思わせぶりなことを言って誤解させないほうがいいよ」
「こんなこと、川本さんだけにしか言いません」
わたしは頬を膨らませた。諭すような言い方に少しだけ反発をしてしまっていた。
誰かと一緒にいたいという気持ちも、ここまで誰かに拘る気持ちもなかった。どんなに仲の良い友人に対しても同様だ。
「ごめん」
わたしは首を横に振った。
「わたしこそ、変な言い方してごめんなさい。今日は本当にありがとうございました。お礼に何かおごらせてください」
わたしは少し離れた場所にある自販機を指さした。
「そんなつもりじゃなかったんだ。だから気にしないでいいよ」
「川本さんと少しでも一緒にいたいから、その口実作りです」
「君には敵わない気がするよ」
彼はそう頬を赤らめながら、笑っていた。
家に帰ると、まだお母さんは帰っていなかった。
部屋に直行すると、パソコンで何気なく学費のことを調べてみた。彼なら普通にこの近くの国立大学に合格しそうだ。奨学金もいろいろある。だが、問題は大学院まで行かないといけないことだ。バイトをしても稼げる金額はたかがしれている。社会人として働く額に比べれば微々たるものだ。
階下からわたしを呼ぶ声がした。
階段のところまで行くと、お母さんがわたしを呼んでいたのだ。
彼女の手にはわたしの好きなケーキ屋さんの袋が握られていた。
「ケーキを買ってきたの。一緒に食べない?」
わたしは気持ちが進まないながらも、お母さんの誘いに乗ることにした。
わたしがリビングに入ると、紅茶の匂いが鼻腔をついた。
わたしはケーキの盛られたお皿が並んでいる席に腰を下ろした。わたしの好きなミルフィーユだ。
「今日帰りがけに見かけてね。唯香がここのミルフィーユを好きだったのを思い出したの」
お母さんはそういうと、いれたての紅茶をわたしの前に差し出した。
これがわたしにとっての日常だ。だが、川本さんにとっての日常はどんなものなのだろう。どんな家に住んでいるのだろう。知りたい気持ちはつい心からあふれそうになり、自分を戒めた。
「わたしの学費って貯めてあるの?」
「当然よ」
「大学院の分も?」
「もちろん。お父さんもお母さんもそんなにお金を使うほうでもなかったし、独身時代の蓄えもあったもの。どうしたの? 急に」
わたしは首を横に振った。
「わたしの知り合いで弁護士になりたい子がいるの。だからなんとなく気になってしまった」
「同じ高校の子?」
「和泉高校の人で三年生」
「そんな知り合いがいたの?」
わたしはあいまいに微笑んだ。
「彼氏?」
「違うよ」
わたしは強い口調で否定した。
お母さんは苦笑いを浮かべていた。
「お金の事情は人の家によって違うし、その子の家も日頃の生活費からねん出する予定かもしれないわよ。あまり他の人の家の事情には必要以上に立ち入らないことね」
「分かっているよ」
それが正解なのだろう。だが、彼は大学進学自体を諦めようとしている。勉強もあれだけできるのに。
「その人がお母さんの事務所で働きたいと言ったらどうする? 向こうがそう言ったわけじゃなくて、わたしがそう思ったの」
「大学生になったら具体的に考えればいいわよ。夢が変わる可能性だってあるのだから。わたしの事務所は実力主義だから、見込みがあれば相談に乗ってあげる」
お母さんはそう返した。
大学を卒業して、法科大学院に入る。お母さんもそれが当然だと思っているのだろう。なぜその当たり前のことが彼にとってはそうでなくなってしまったのだろう。
わたしはため息を吐くと、ケーキにフォークを入れた。
※※
わたしの目の前には青い海が広がっていた。わたしはその海を見て歓声をあげた。だが、隣に立つ義高様は難しい表情を浮かべたままだ。
「綺麗ですね」
「そうですね」
決められた文章を淡々と読むような、感情のない言葉だった。
義高様が海が見たいと思い込み、無理に連れてきてしまったのだろうか。わたしはそっと唇を噛んだ。
ここにくるのも、お父様やお母様に何度もお願いをしたのだ。どうしても義高様と海が見たい、と。何度もだめだと否定された。ただ、わたしがあまりにしつこかったからか、何人か同行することで許可が下りた。両親にも結果的に迷惑をかけてしまった。
「義高様が行きたい場所があれば言ってください」
「わたしのことなど気になされずに」
彼はそう悲しげな表情を浮かべていた。
「それは無理です」
「わたしが婚約者だからですか?」
わたしは首を縦に振る。
「あなたがわたしを気遣う必要などどこにもないんです」
拒否なのか、ただわたしを気遣っているのか分からなかった。ただ、彼の悲しい表情に心が持って行かれそうになった。
「どうしてですか? わたしのお婿様になる人なのに」
「婿といっても、あなたとわたしでは立場が違いすぎるでしょう」
「よくわかりません。そんなこと。ただ、わたしは義高様の笑った顔が見たいんです」
そのときのわたしにはよくわからなかった。なぜ、彼がそんな悲しい表情を浮かべているのか。なぜ、自分を卑下するようなことを言うのか。ただ、否定的な言葉をつづる彼に、わたしの心の中が何かでかき混ぜたかのようにぐしゃぐしゃになった。同時に自分のわがままをおしつけていただけということを悟ってしまった。
「わがままにつきあわせて、ごめんなさい」
わたしは再度唇を噛んだ。
「姫様は変わった人ですね。もう少しだけ時間をください。今は気持ちの整理もつかなくて、どうしたらいいかわからないんです」
彼の言葉にわたしは何度も頷いた。
彼の手をそっと取った。
「いつまででも待ちます。だから、義高様の願いがあれば何でも言ってください。できる限り、わたしは力になります」
冷たい表情を浮かべていた、彼の頬がわずかに緩んだのが分かった。笑顔とは違うが、彼との距離がほんの少しだけ縮まった気がした。
そして、わたしは自らの心臓の鼓動がいつになく早くなっているのに気付いていた。
※※