不思議な悲しい花
わたしの視界に桃色の無数の花が飛び込んできた。わたしの心臓がどくりとわしづかみにされたように大きく震えた。笑い声が頭の奥をくすぐり、胸が締め付けられるように苦しくなる。同時に言い知れぬ温かい空気が包み込んだ。
今年もその花、桜の花が咲く季節がやってきたのだ。
目頭が熱くなってきて、そのわけを言葉にしたくなる。だが、わたしにはその理由を知らない。
そのやりきれない気持ちを抑え込むために、そっと唇を噛んだ。
桜の花を見ると、昔から不思議な感情が沸き起こる。
幼いころに何か桜の花に関して、あったわけではない。だが、なぜか毎年、桜の花を見るたびに心がざわつく。何か大事なものを忘れているような……。
わたしの肩が不意に叩かれた。振り返ると一人の少女が立っていた。彼女は釣り目をぎらりとさせ、わたしを睨んだ。
郷愁のようなものに浸っていた心が一瞬のうちに引き、我に返った。
「もう、唯香って歩くのが早いんだから」
「ごめん。ごめん。ついさ」
わたしはロングヘアの髪をかきあげると、苦笑いを浮かべた。
ことの流れは至って単純。
目の前のクラスメイト田村榮子が忘れ物をして学校に取りに帰ったのだ。
彼女は追いつくから先に帰っていいといい、わたしはその言葉に甘えることにしたのだ。
その帰り道、公園で咲き誇る桜の花を見つけ今に至る。
「ま、唯香はマイペースだもんね。長い付き合いだもん。だから、こうして急いで追いかけてきたわけだけど」
彼女は自分のお腹に手を当て、大げさに肩をすくめた。
「お腹すいちゃった。何か食べて帰らない?」
「そうだね。まだ夕食まで時間があるし」
わたしがよさそうな店を探そうとしたとき、今までとは違う風の流れが起こった。目の前にある公園の桜の花が大きく震えた。先ほど見たのと同じ花にも関わらず。
なぜわたしはこんなに桜の花に惹かれるのだろう。
桜の花びらがわたしの目の前にやってきて、思わず手を差し出した。そこに桜の花が舞い降りた。
「桜の花?」
友人の問いかけに答えようとしたとき、わたしの傍を誰かが通り過ぎようとした。わたしは反射的に顔を上げた。その人の顔を見た途端、胸の奥が震えるのが分かった。わたしより頭二つ分ほど高い男性で、綺麗な人だと思う。だが、それ以上に「何か」を感じた。心の中に広がる、懐かしいような、苦しいような、言葉で言い表せないような気持ち。
ふっと彼の視線が下方にそれ、わたしを見た。彼は一瞬目を見張ったような気がした。
だが、彼は何も見なかったかのように顔を背けて歩いていった。
わたしはそんな彼の後姿を目で追っていた。
「今の人、知り合い? めちゃくちゃかっこいいね」
「そうでもないんだけど」
なんだろう。
記憶の奥を引っ張り出すような、感覚。
それはあの桜の花を見たときと似ていた気がした。
けれど、わたしにはその答えがわからなかった。
「じゃあ、一目ぼれ? 唯香って恋愛話に興味なさそうだったけど、ああいう人が好みなの?」
「違う」
と思う。だが、その思うは言葉にできなかった。
「だったら何?」
わたしはその感覚を言葉にできなくて、友人の追求から逃れるためにも近くのソフトクリーム屋さんを指さした。
「本当に何でもないよ。あそこで食べようか」
わたしの提案に、彼女は二つ返事で頷いた。
家に帰って鞄を机の上に置いた。私は髪の毛をかきあげると、深呼吸をした。わたしの脳裏に蘇るのは友人と食べたソフトクリームではなく、あの通り過ぎた男の人だ。あれから一時間はゆうに過ぎたはずなのに、まだ心の奥が熱かった。
通りすがりの人だ。また会う可能性なんてほとんどない。それに向こうだってわたしを知っているわけがないのだから。
どうぜ一度眠ってしまえば、この動揺もなくなるはず。
今日一日の我慢だと言い聞かせ、わたしが制服から着替え、宿題を鞄から取り出したとき、ドアがノックされた。
ドアを開けると、ふっくらとした体格の良い女性がこちらを見て微笑んでいた。
「唯香様、食事ができております」
「ありがとう。今すぐ行くわね」
わたしは会釈した。
彼女はわたしの家で働いてくれている人で上田瑤子という。
わたしの両親は忙しい人なので、子供のころは彼女はよく面倒を見てくれていた。わたしのもう一人のお母さんと呼んでもおかしくない存在だ。高校生になった今でも週に二度ほどごはんを作ったり、家の掃除をしにきてくれていた。
わたしの話を何でも聞いてくれるし、希望もできるだけ叶えてくれる。
ただ、様つけで呼ぶのはやめてほしいというのだけは一度も聞いてくれない。
テキストを閉じて、階段を下がろうとした。
すると、階段をあがりかけようとした、グレーのスーツを身にまとった長身の女性と目が合った。
彼女は薄い茶色の瞳にわたしを映し出した。
彼女は綺麗な笑みを浮かべた。
「ごめんね。今からお母さん、お父さんと一緒に人と会う約束があって出かけないといけないの」
「大丈夫。気にしないで。帰りは何時くらいになるの?」
「分からないわ。早めに眠るなら、戸締りはしっかりとね」
「分かった」
わたしのお母さんは弁護士をしている。ただ、結婚してわたしが生まれてからは仕事量をかなり減らし、よく家にいるようになった。お母さんの同僚からしたら、お母さんが仕事を減らして家によく居つくようになるのは驚きだったようだ。
仕事を減らしている大きな一因はわたしという一人娘の存在だ。わたしは今はそこまでではないが、小さい頃あまり体が強くなく、お母さんや瑤子さんがかかりきりとなっていたようだ。今はそこまで手がかからないと分かっていても、どうも仕事を増やすことに踏み切れないでいるようだ。
ただ、両親ともども仕事の都合上顔が広い。そのため、付き合いが多く、家で食事をとらないことも少なくなかった。今日みたいなのもいわばよくあることだ。
リビングに入ると、瑤子さんが笑顔で出迎えてくれた。
「今日はわたしも一緒に食べますね。奥様からもぜひそうしてほしいと言われてております」
「そうなの? ありがとう」
だからこそ瑤子さんがこうして家にきてくれるのだ。
瑤子さんもわたしによくしてくれた。
何不自由ない生活を送れているのは今の親があってこそだと思う。
親が家を空けていたとしても、そういう事情は知っていたし、放っておかれたとかは考えたことがなかった。
きっとわたしは幸せなんだと思っていた。
※※※
木目調の部屋に「わたし」は座っていた。艶やかな朱色の花が描かれた着物のようなものを着ていて、書物のようなものに目を通していた。
外が心なしかざわついているのに気付いた。
それだけではなく、わたしの心も不思議とざわついていた。
何があったんだろう。そもそもわたしは何でこんなところにいるんだろう。
不思議に思いながらも、思うように体は動かなかった。
わたしは近くにいる女性に聞いてみることにした。
「どうしてこんなに騒がしいの?」
「今日はお客様が来られるんですよ。姫様も近いうちにお会いになるかもしれませんね」
彼女はそうはにかみながら微笑んだ。
姫様というのはわたしのことなのだろうか。
「どなた?」
「それはお母様にお聞きになってください。わたしの口からは」
その彼女の様子が妙に引っかかった。
わたしはその人に「会いたい」と思ったのだ。それどころかあわなければいけないととっさに感じ取っていた。
「今から、お母様のところに行ってきます」
「それはおやめになったほうが。来客もいらっしゃいますし」
「用事はすぐに終わるわ」
「しかし、姫様」
「お願い」
女性はため息をついて「少しだけなら」とわたしを部屋の外に連れ出してくれることになった。
扉を開けたとき、わたしの視界に庭に咲く桜が映し出された。
「もうこんなに咲いていたのね」
「ええ。今年は少し早い実りですが」
ふっとわたしの中に記憶が蘇った。姫と呼ばれるわたしがどういう生い立ちで生きてきたのか。
わたしはあまり部屋から出なかった。遊び相手どころか、同じ年頃の子自体がこの家にはいなかったため、自ずと部屋で過ごすことも少なくなかったのだ。
彼女に連れられ、桜の舞う廊下を歩いていく。そして、お父様が来客にいつも会う部屋の前に人の姿があった。
この屋敷で働いている人の中に見覚えのない少年といっても過言ではない小柄な少年の姿。興味本位だったのか、自分と歳が近そうな少年だったからなのか、別の理由があったのかは分からない。
わたしは女性がきくのを止めずに、その人のところに駆け寄っていた。足音が聞こえたのか、彼はわたしを見て、端正な顔立ちを歪ませた。
「初めまして」
彼は困った表情を浮かべながらも、わたしの声に呼応するように、「初めまして」と言葉を紡いでいた。
※※