災い送り・5
とにかく夢中で走ってるうちに、だんだん頭が冷えてきた。
相変わらず涙は勝手に溢れてきてるけど、それなりに冷静になったことで、自分が何をしてしまったのか――何を言ってしまったのかを今更ながらに理解する。
シリスに言ったことは、あたしの本心だ。――本心だからこそ、あそこで言うべき言葉じゃなかった。
だって、あれはほとんど八つ当たりみたいなものだから。
あたしが勝手にガイエンに自分を重ねて、そうして勝手に傷ついた――ううん、『思い出した』結果の言葉だ。
「……っ!」
ちゃんと前を見てなかったからだろう、誰かにぶつかってしまった。慌てて涙を拭って顔を上げる。
謝罪の言葉を告げようとした口は、驚いたことでそのままぽかんと開けられた。
「エディト、さん?」
「ああ、アンタか」
相変わらず眠そうな瞳で見下ろしてきたエディトさんは、あたしの顔を見て軽く目を瞠った。
だけど何事もなかったのようにその表情を塗り替えて、口を開く。
「今、暇? 暇だよな? 言い忘れてたことがあったから、ちょっと付き合ってくれない?」
そう言っておきながら、あたしの返答を待たずにエディトさんは歩き出す。
反射的にその後をついてしまったけれど、目的地はどこなんだろう。
いつの間にか、涙は止まっていた。
斜め前の位置をゆっくりと進むエディトさんは、一度も振り返らず歩き続けて――小ぢんまりとした建物の前で立ち止まる。それからちらりとあたしを見て、おもむろに店の戸を開いた。
……何のお店なんだろう。そう思いながら、エディトさんの後に続いた。
「生きてるかよ、耄碌ジジィ」
「……うちは連れ込み宿じゃないぞ、口の減らんクソガキが」
店に入っての第一声として果てしなく間違ってる気がするエディトさんの科白に即座に返されたのは、不機嫌そうな男の人の声。
「ンなんじゃないっての。やだねー、すぐそっちに結びつけるような頭してる下品なジジィは」
「本当に、いつまで経っても口の減らんガキだな。むしろ年々クソ生意気になりおって……この親不孝者めが」
「オレ孝行息子で通ってるし。っていうかアンタにそんなこと言われる筋合いないしね。そっちこそ年々頑固ジジィ具合に磨きかかって、店寂れさせてるくせに」
「ふん、お前のようなクソガキが孝行息子で通ってるとは、世も末だな」
「アンタみたいなクソジジィが世に憚ってる方が、よっぽど世も末だと思うけどね」
エディトさんと軽快に(?)嫌味の応酬らしきものをしながら店の奥から出てきたのは、声から予想していたよりも随分と年配の、おじいさんだった。
腰ぐらいまでありそうな白髪はゆるく編まれて後ろに流されている。生きてきた年月の長さを思わせる、皺が深く刻まれた顔には、皮肉げな笑みが浮かべられていた。
「……また、随分毛色の変わったのを連れて来たな」
「別にいいだろ。……そこ、座れば」
エディトさんが目線で近くの椅子を示す。でもお店の主人だろうおじいさんに了承をもらってないのにいいのかな。
そう考えてるのがわかったんだろうか。おじいさんがあたしを見て、「気にせず座るといい」とぼそっと言った。
「えっと、それじゃあ……失礼します」
エディトさんもおじいさんも立ってるのに、あたしだけ座るのはどうなんだろうと思いつつ、お言葉に甘えることにする。走ったし、泣いたし、正直疲れてる。
――…って、そうだった!
はっと自分の顔に手を遣る。
ボロボロ泣いた上にそのまま放置してたんだから、絶対酷い顔してるよね!? そんな顔でエディトさんと顔合わせたり、初対面の人の前に出たなんて……もうなんか恥ずかしいっていうか穴を掘って埋まりたい!
咄嗟に俯く。居た堪れなさすぎて顔が上げられない。
と、ふいに目の前に現れた――否、差し出されたものは、湿らせたタオルっぽいものだった。
「気になるんだろう。これで拭け」
頭の上から降ってきた声は、おじいさんのもの。
「まったく、お前は本当に気が利かんな。水場に連れてってやるなり、拭くものを渡すなりするぐらいの気遣いはせんか」
「……うっせーよクソジジィ。だからここ来たんだっての」
「負け惜しみにしか聞こえんな、クソガキが」
すぐ近くで交わされる軽口を聞きながら、渡されたタオルに顔をうずめた。
……何、やってるんだろう、あたし。
言いたいことだけ言って、泣いて、逃げて。
こんなんじゃ駄目だ。言いたいことがあるなら、あんな風じゃなくて、ちゃんと自分の考えを整理して、相手に――シリスとガイエンに伝えるつもりで言わなくちゃ。
ずっとずっと、誰かに言葉を――想いを、伝えることすらしようとしてなかった。
だって、それが届かないって痛いくらいにわかってたから。
どれだけ声を枯らしても、それを聞くことすらしてもらえないのが当然になってた。周囲の人達にとって、あたしは話を聞く価値のない存在だったから。同じ高さにない――もしかしたら、人ですらなかったから。
でも、今は違う。シリスもガイエンも、きっと、あたしが話そうとするのなら、ちゃんと聞いてくれる。
何も言わないでもわかってくれる、なんて、そんな都合のいい関係はない。……今は、ガイエンには何となく伝わるみたいになってるけど。
ちゃんと、話そう。
伝える努力を、怠っちゃ駄目だ。……シリスとガイエンが、あたしの言葉をどう感じたのか、知るのは怖いけど。
でも、伝えた言葉の影響を、あたしはちゃんと受け止めなきゃいけない。
口に出した言葉は戻らない。そしてあれは、ああいう風に言うべきことじゃなかったとしても、あたしの本心なんだから。
タオルから顔を上げる。
ちらりとあたしの方を見たエディトさんは何だか安心したみたいに小さく息をついた。おじいさんは無言で小さく頷いている。
「ひとつだけ、」
エディトさんが口を開いて、あたしはエディトさんに目を向けた。
「――ひとつだけ、言っとく。アンタ、思った以上にアレな性格みたいだし」
……アレな性格ってどういう意味だろう。蔑みとか否定的な言い方じゃないからいいけど、ちょっと気になる。
「オレが頼んだ事、そんな重く考えなくてもいいから。そりゃアンタがやってくれればそれが一番良いワケだけど、アンタの連れに――まあ方法は変わるけど、やってもらってもいいし。アンタの連れ、本当にアンタのこと大切みたいだから。オレみたいなのに関わるのに反対するのがフツーだろうし、ちゃんと聞いてみたりとかした方がいいと思う。……一緒にいないって事は、何かあったんだろ?」
ちょっと迷って、頷く。
……エディトさん、勘いいなぁ。この言い方だと、エディトさんはあたしがシリス達に『送』るのを反対されて、その流れであたしが泣いたと思ってるのかな。実際はちょっと違うんだけど。
「何があったのかは聞かねぇけど、――…大丈夫だって。アンタの連れ、アンタのことが大切だってのがダダ漏れてたし。もー好きで好きでたまんねーって感じだし。最初見たときオレちょっとヒいたもんな。特にあの銀髪の方。敵愾心っつーか嫉妬むき出しにしてて、近くにいただけだってのに金縛ったし。あんなのに囲まれてたら大変だろ。言いたいこととか言っといた方がいいって絶対。これから先も、ずっと一緒にいるつもりなら尚更な」
そう言って淡く笑うエディトさんはどこか遠い――何かを懐かしむような目をしていて、きっと、クランさんのことを考えてるんだろうって、思った。
だってその目は、すごくすごく優しかったから。大切な、大切な人を愛おしむような笑みだったから。
そこには、長い長い間一緒にいた、その時間分の重みがある。
……あたしもいつかそんな風に、シリスとガイエンのことを誰かに語ることができるだろうか。
ああ、とあたしはやっと理解する。
シリスに日蝕の話をした時、何かを懐かしむように哀しげに呟いたシリスに抱いた感情。
繕った笑顔を向けられて昔のことを思い出した――それも理由だけど、あたしはきっと。
シリスが思い浮かべただろう――シリスにあんな表情をさせた、あたしの知らない誰かに、嫉妬したんだ。
主を共有するのが嫌だったのかってシリスに訊いた時、シリスは何かを思い出すような、そんな目をしていた。
あの時抱いた感情も、嫉妬だ。
どうしてか、シリスがあたしをとても大切に思ってくれてるのはわかってる。
だけどあたしは、あたしに会う前のシリスを知らない。シリスだけじゃない、ガイエンも。
全然知らないわけじゃない。でも、どうしたってあたしは二人の過去には居なかったんだから、知らないことなんてたくさんある。
その『知らないこと』――『懐かしむ』ことのできる過去を共有した人が、あたしは羨ましかったんだ。
だって、あたしじゃシリスにあんな顔をさせられない。『懐かしむ』ほどの時間を共有していない。
それに、……あたしは怖がってたから。
エディトさんの言うとおり、これからずっと一緒に居るなら――そのつもりなら、二人が離れてしまうことを怖がって、言いたいことを飲み込むようじゃ駄目だ。
ちゃんと、話さないと。
さっき抱いた決意をさらに強くしたところで、エディトさんがあたしをじっと見ていたことに気付いた。
あ、あれ? もしかして結構考え込んでた……?
考えに没頭してる間に声かけられて無視とかしてたんじゃ、と内心慌てる。
と、エディトさんがぽん、と頭に手をのせてきた。
「うん、イイ感じの顔になった。――…っつーワケで、さっきからこの店周辺うろうろしてるアンタの連れ、安心させてやりなよ」
「…………え?」
エディトさんの言葉に思わず間抜けた声を漏らしたあたしを、誰も責められないと思う。