裏
「……くっそ、甘かった~。こんなに見つからないなんてな~。
あ~~もう、足が棒だよ。」
不覚にも声に出してボヤいちまった。
俺、元受験生。キツイ受験勉強乗り越えてこの春から晴れて大学生だ。
それも、憧れの大都会の、だ。
超有名どころには残念ながら手が届かなかったけれど、何とか
何となく名前は聞いたことあるかな~と世間の人達が思い浮かべるくらいの大学へ
ぎりぎり滑り込んだ。
隠してもしょうがないから言うが、つまりは、補欠だったんだよ。悪いか?
そんなもん、出だしがどうでも入っちまえばこっちのもんだろうよ。
これからバリバリ勉強してきちんと卒業して、できたらこっちで就職してさ。
んでもって、そんな綺麗じゃなくていいから素直で優しくて、ちょっと可愛い彼女
見つけて結婚して、子供は頑張って二人作ってって、……ちょ、何言わせんだよ。
とにかく“夢はふくらむ都会生活~♪”なんだけど、出遅れてるからさ~、
見つからないんだよ!
え?何がって聞く?ちょっと察し悪くね?……住むところが見つからないの!
なんなんだろうね~。ここは大都会だろうに、部屋なんぞそこら中にあるだろうに
なんで一部屋見つからないかね~~。はぁ~~~、ホント疲れた。
……んあ?ネット検索したかって?当たり前だろ、そんなこと。
俺はその先行ってんの!ネットにも上がってない地元のちっさい不動産屋が
ちんまり抱えてるかもしれない地味すぎる物件ってのが狙い目なんだよ。
足で地道に探すしかないだろってやつ。
大学の近辺はもう完全にアウトだね。徒歩圏内は無理と見切った。
だったら次は自転車圏内だろ。自慢じゃないが脚力には自信がある。ってんで
頑張って探し回った結果、その俺が音を上げかけてるって、ありえね~。
しょうがないからやっぱり駅向こうを探してみるか。
あまり気は進まないけどな……。
だいぶ前のことだけど、何の話のついでだったか忘れたけど、
ばあちゃんが言ったんだ。
『駅には表と裏があってな~、表のほうは賑やかできちんとした普通の顔を
してるんだよ。だけど、裏のほうはな~、ちょっと見判らんかもしれんが……
いろいろ混じっててな~。ちょっと通り過ぎるのはかまわんが、
あんまり関わらんようにせんといかんぞ~。』ってな。
だから、聞いたよ、ばあちゃんに。
いろいろ混じってるって何がだよ?って。そしたらばあちゃん、
『聞かぬが花じゃ。ここで聞いて要らん縁ができたらいかん。』ってさ。
なんだよそれ。めっちゃ気になるし。
だけどま~、ばあちゃん頑固でね~、こうと決めたら絶対揺るがんの。
長い付き合いだからそこらわかってるし、聞くのはあっさり諦めたんだけどさ。
経験上ばあちゃんが言うことは、大抵間違いがないんだわ。
だから、ちょっとヒントでも貰っとけば良かったかな~と、今さらながら
思ったりもする。でもさ~、背に腹はかえられないってヤツだよ。
もうあっち探すしかないよ、ばあちゃん。
駅前。大勢の人が忙しく歩いていく。自然に人の流れが出来ていて
駅に吸い込まれる人の流れに乗った。ちょっと背が高くてラッキー。
迷いながらもあちこちの表示を頼りに駅構内を抜ける。
けっこうすんなり行けたじゃないか。やるな、俺。
駅裏。人通りはそれなりに多いんだろう……。
だけどやっぱり駅向こうに比べれば落ちるよな。
……それと、ちょっと何となくだが薄暗い感じがする。気のせいかな……。
駅の構内を歩いている間に陽がカゲったんだよな、これ。
……とりあえず、だ。とっととやる事やっちまうぞ。
周りをぐるっと見渡すと、いろんな看板がごちゃごちゃ出ている。
色っぽい系のこじんまりした店が多いみたいだ。
あと、飲み屋とかそんな感じ。……ちょっと環境悪いかな。
駅のそばだからってのもあるだろうし、やばい系の人に絡まれないように
極力早足で目だけは忙しく辺りに走らせながら歩く。
そろそろ店も少なくなって、そろそろこっち方面は諦めて
逆方向に行こうかと振り返った。
その振り返りの動きの中でちらっと何かが目の端に引っかかった気がした。
え?っと思って見直すと、そこにとても地味な古ぼけた不動産屋を見つけた。
看板も何もないけれど、物件案内の紙をガラス窓全面に貼り付けた様子から
きっと不動産屋に違いないと思ったわけで。紙が全体的に何となく日焼けしてて、
ひょっとしたらもう商売はしていないのかもしれない。
……でも、まあ、とりあえずここで聞いてみよう。
今時の店には珍しいガラスの引き戸だ。
立て付けが悪いのか妙に重いので、腰を入れて結構な力を込めて引き開けた途端
店内から少し湿った冷気があふれ出した。
うおっ、なんだこれ。冷房ガンガンにかけ過ぎだろうよ。
鳥肌立っちまったじゃないか。
「こんにちは~。」
店内は節電でもしているのだろうか妙に薄暗い。
節電ならエアコンの設定温度あげりゃいいんだよ。照明暗くしても全然節電には
貢献しないと思うぞ。こんなにエアコン利かせてるんなら営業中なんだろうけど、
だいたい客商売ならもっとちゃんと明るくしとかないと、
入った客も逃げちまうだろうに。
「……こんにちは~っ!」
かなり声を張ったが、やはり返事はない。
……なんだよ、店開けっ放しで留守かよ。
「あの~~っ!誰もいないんですか~~~っ!」
こんな店絶対滅多に客なんか来ないぞ。
せっかくお客様が来たってのに、こんなんで商売やってけるのかよ。
「こんにちは~~~~っ!!」
他人事ながら、心配になっちまうレベルだっての。
「すいませ~ん、誰かいませんか~~~っ!
………………んも~、やっと見つけたと思ったのにさ~、なんだってんだよ。」
あ~あ、しょうがない。他探すか……。
諦めて店を出ようと入り口の引き戸を振り返った途端、目の前に人が立ってた。
「なんか用かね?」
俺は、文字通り飛び上がった。だって、足音一つ聞こえなかったんだよ。
人の気配なんかぜんぜん無かったのに、どこから湧いて出やがったんだ。
「……! ううう、心臓止まるかと思った……。はぁ~~。」
「なんか用かね。」
小柄なおっちゃん……いや、おばちゃん、か?
歳をとるとだんだん中性化していくから、白髪まじりのおかっぱ髪と
茶色っぽい着物に前掛けをしている姿からは、イマイチ性別の判断不能だ。
……ま~、どっちでもかまわないんだけど。
老眼鏡らしくメガネのレンズいっぱいに拡大された目が
ぎょろりとやたらに大きく見えた。
「あ、俺、……いや、あの、僕、部屋探してて。
ずっと探し回ってたけど全然見つからなくて。あの、ここ不動産屋ですよね?
賃貸の、学生でも住める部屋ないかなと思って。
……あのっ、お願いします。どんなとこでもいいんで、部屋貸してください!」
120度くらいの勢いで頭を下げた。
もうちょっとで自分の膝に頭ぶつけるところだった。
「確かに、ここは不動産屋だけどね~。
ウチの扱う物件はちょっと大家さんが特別でな。
誰にでもホイホイ紹介するってわけには行かないんだよ。」
「そこを何とかっ!
住む所が見つからなかったらせっかく受かった大学にも通えません。
こっちに知り合いも親戚もいないし頼る所も無いんです。お願いしますっ!」
「それはまぁ難儀だね~。
ウチを見つけて来れたんだ、あんたが本気で探してるってのはわかるよ。
……そうだね~。ちょっと台帳見てあげてもいいけど
紹介できる物件あるかどうかはわからないよ。」
「お願いします。ぜひ調べてみてください。」
「それじゃあ、見てみようか。」
そう言うと、小柄な不動産屋は店の奥に向かって歩き始めたので、
俺はちょっと邪魔にならないように避けつつ向きを変えその姿を目で追う。
不動産屋はメガネを煌かせながら机の向こう側に回りこみ、
棚から分厚い台帳を一冊抜き出すと机に向かって座った。
「ああ、そこのソファに座っててくれるかね。」
ソファ?……そんなもん、この店にあったっけ?
見える範囲にないので、まさかと思いつつ振り返ると引き戸との間、
右手壁側に寄せて古びた応接セットが一そろい置かれていて、
ああ、ここか。と思いながらソファに座った。
……見落としてたんだろう、きっと。
「……あ~っと、家賃5万6000円、駅まで徒歩10分、2DKで築17年……
ってのはどうだね。間取り図がね~これなんだが。」
そう言いながら台帳を持ってやってきた不動産屋は、
俺のほうに向けて広げた台帳を置くと対面に座った。
「他にはね~、……こっちの家賃6万2000円、駅まで徒歩5分、1LDK築12年の
美室……か。……ふん。ちょっと新しくて手を入れて小ざっぱりしてあったり
すると貸すほうも強気だね。まあだいたいこんな所かね~。」
築12年でちょっと新しい物件って、それでいいんか。
と内心突っ込んだのは置いといて。
俺は覗き込んでいた台帳から顔を上げて、不動産屋を見つめて真剣に言った。
「……あの、田舎からの仕送りも結構ギリギリでこれ以上無理は絶対言えないし、
僕もバイトして生活費の足しにしようと思ってるんです。
最低屋根があって寝られればホントにどんなとこでも構わないんで、
なんとか4万円台の部屋ありませんか。」
俺は思わず、両手を合わせ不動産屋を拝んだ。
「や、やめてくれ!そんなこと。……あああ、もうしょうがない。
家賃月4万9000円、駅まで徒歩7分、1LDKで築30年……。」
「あるじゃないですか!よかった~。」
見せてくれた台帳によると、間取りは角部屋らしく二面に窓だ。
反対側に物入れとか風呂とか洗面所とか並んでて、
これだと隣の部屋に物音筒抜け~みたいなことにはならないだろうし。
……うん、なかなかいいぞ、ここ。
ふと見ると不動産屋が何だか渋い顔をしているので、
引っ込められる前にと勢い込んで畳み掛けた。
「ここ!ぜひここ、お願いしますっ!」
「……まぁ、ちょっと落ち着きなって。
……う~ん、ここはあんたには向かない物件だと思うし
あんまり勧めたくはないけどね~。引っ張り出しちまったのはあんただ。
……もうこうなっちゃ仕方ない。ここに決めるかどうかはあんた次第、
百聞は一見にしかずってね。
とりあえず一回見に行ってそれから決めたらどうだい?ウチとしちゃ見た結果
気に入らないからってあっさり断ってくれていいからさ。」
「……まるで見に行ったら断るみたいじゃないですか!」
「この物件はね、一旦契約したらそう簡単にはチャラにはできないんだよ。
そこらちょっと大家さんが訳ありでね、契約して、やっぱり止めました。
合わないと思いました。気が変わりました。とか後からいろいろ言われたら
迷惑するのはこっちなんだからね?最低一回は見に行ってもらうよ。
そうじゃなきゃ、この話は無しだ。」
「!……わかりました。じゃあ、今からすぐ行ってきます。」
「今からって、本気かい?もう直に日が暮れるよ?」
不動産屋がメガネの奥からギョロリと見つめる。
「俺、この部屋なくなっちゃったらすごく困るっていうか、ちょっとでも
早いほうがいいし。……あのっ、住所どこでしたっけ?
ここからそんな遠くないんじゃないですか?」
再度台帳を覗き込もうとした俺に、不動産屋は一つ息をついて言った。
「わかったよ。住所じゃちっとわかりにくい所だから、ここからの行き方
書いてやるよ。その通りに行けばちゃんと辿り着くからさ。」
不動産屋は、せっせとメモを書きながら
物件情報らしきものをポツポツ話してくれた。
2階建て6部屋のアパートで空いてるのは2階の端の部屋。
ちょうど真下の部屋に子供が一人いるけれど、とても大人しい子で
普段から騒ぐ音が聞こえたことはないから騒音の心配はない、と。
静かに暮らしたい人ばかりだから物件では声を出さずに黙ってるようにと
言われたのはちょっと心外だ。これからご近所さんになるかもしれないんだし、
できたら気持ちよく暮らしていきたいだろ、やっぱ。最低限のマナーってヤツ。
こんにちはくらいは言いたいんだけどって、そう言ったら
不動産屋はメガネ振り飛ばしそうな勢いでぶんぶん首を左右に振って
ダメを連呼しやがった。
まるで俺が大騒ぎする迷惑もんみたいな扱いじゃね?
ちょっとばかしムッとしたけど、
へそ曲げられたらかなわないから大人しく頷いておいた。
それでも不動産屋を出るときにさ~、念押しみたいに声が飛んできたよ。
「いいかい?声出すんじゃないよ。そうすりゃ誰にも会わないからさ。」
「わかりました~!口に鍵でも掛けときますよ。」
って返事したけど、なんだかな~。ま~いいけどさ。
不動産屋で渡されたメモは、手触りが妙だと思ったら裏の白いチラシを
適当に四角に切ったもので。さすがに今時これはないだろうとは一瞬思ったけれど
とにかく今の俺にはありがたい紙なんだし、ま~ありがたいついでに拝んどくか。
俺は両手でそのメモ紙を挟むと額前で手を合わせた形で足を止めマジ拝んだ。
神様仏様~それからばあちゃんも一緒でいいか。いい部屋にめぐり合いますように
どうかご加護をお願いします~。
え?人前で恥ずかしくないかって?いいんだよ、不動産屋を出てから
メモ持って歩いてるけど、あれから誰にも出会わないし。
……そういえば、ホンットに誰も歩いてないな~。
そういう時間帯なのかも。
メモにはこう書いてあった。
【店を出て左→並びのコンビニ横の路地に入る→しばらく道なり→
コインランドリーを通り越して二本目の路地を左→黒猫を右→
次の路地をすぐ左→突き当りを左→しばらく道なり→
火の用心の看板を左→狐石正面に立って振り返る→裏野ハイツ】
なんだこれ……。
えっと、なになに?店出て左行って~並びの路地入るなら左に曲がるんだな。
んで、二本目の路地を左折…っと。なんだか左折ばっかだな~。
次は黒猫で右折。やっと右折きたよ。それから……
え?あとずっと左折ばっかり。
……う~ん。これ、ホントにあってんのかなぁ?……距離が書いてないから
一概には言えないけどさ~、なんかこう、ぐる~~っとさ~、回んね?
ま、いっか。
間違ってたらさっきの不動産屋に戻って出直せばいいだけか……。
行けば何とかなんだろきっと。ま~とりあえず行ってみるさ。
え~っと、ああ、コインランドリーだ。
ここを通り過ぎて、……一本目……二本目っと。ここだな。はい、左折。
……黒猫って、宅急便かな?……けっこう歩いたと思うけどここら普通に
家が並んでるだけなんだよな~。
と、右の家の塀の上に黒猫が座っていた。
黄色い目がキョロンとして長いシッポをクネクネ揺らしている。
お、黒猫か!
まさかお前じゃないよな~。
ってここ、路地になってるんか!ま~ちょっと聞いてみるか。黒猫だしね。
俺もけっこうお茶目さんっ。
「……このメモの目印になってる黒猫って、もしかしてお前さんのこと?」
「にゃ」
黒猫がタイミングよく一声鳴いた。え、偶然だよな。
「この道曲がったほうがいいんかな?」
「にゃ」
え?!ま、まさか……。
「明日は秋刀魚の雨が降るよね?」
「……」
黒猫はまん丸の黄色い目を思いっきり眇めて見せた。
「……この道を、」
「にゃ」
「……秋刀魚の雨は、」
「……」
「……秋刀魚は美味い」
「にゃ」
うわ~~~、まじか~~~~!
……いや、もういろいろ考えるのは止めてとにかく先に進もう。
右の路地に入りながら肩越しに見返すと、
黒猫は大あくびをしてまんま塀の上で丸くなったところで。
「寝ぼけて落っこちるなよ~。」
黒猫は耳をぴくつかせると長い尻尾をぐるんとまわして
先だけをうにうにと動かした。
え~っと、次はすぐの路地を左か……。あ、あった。こっちね。
突き当たりまで行って~、んで、左か……。あそこかな。
………………で、また左。火の用心の看板まで道なりね。はいはい。
あ、あったよ、火の用心。ずいぶん年季の入った看板だね。サビだらけだし。
ここを曲がったら次が狐石か……。わかるかな?
しばらく行くと、石で組んだ台座の上に座っている狐の石像があった。
……あれ?これ、お稲荷さんのコマイヌってかコマ狐じゃね?
なんでこんなとこにいるんだ?!
二匹で一組のはずだけど一匹だけか?どうしたんだろ……。
こんなとこに唐突にコマ狐がいるのも変だけど、
これがメモに書いてある目印ならもう着いたってこと?
……辺りを見回してもそれらしい建物は見当たらないし。
てか、これがわかんないんだよね。……振り返るってなんだよ~。
もしかしてあの黒猫のところで間違った道曲がっちゃったとか?
……いや、だって狐石だろ、これ。
狐の形した石があちこちにゴロゴロあるはずないし……。
えっと、メモには~正面に立って振り返る、か。
ん~やっぱ、そう書いてあるよな~。
ま、一回やってダメならさっきの不動産屋に戻って文句言ってやるっ!
……んと、正面。……ここだな。で、くるっと……。
「あっ!」
うそだろ~~、ホントにあったよ!裏野ハイツ。
……なんでさっき気付かなかったかな~。
…………あ、あれ?
……そういえば今日って、くるっと振り返ってなんか見つけてること多くね?
無かったのに有った、みたいなこと……。ん~。ま~細かいことはいい…けど。
何かがひっかかってどうにもスッキリしないんだよな~。
とにかく、だ。
目的の裏野ハイツに無事たどり着いたからには、しっかり見せてもらって
さっさとさっきの不動産屋に戻って契約済ませてしまわないと。
それにしても実物みるとハンパじゃないね、築30年。
なんだかさ~、30年ほったらかしにしてたらこうなります~の見本みたいな。
普通にメンテやってたら
こんなにはならないんじゃないかな~って思うのは俺だけ?
……いや確かに、屋根があって寝られればどこでもいいとは言ったよ。
だけどさ~、住んでる人には悪いけど、マジすげぇおんぼろ。
階段の鉄骨なんかはサビだらけで場所によったら朽ちて穴開いてそうだし、
外壁は元は何色だったかわからないほどくすんであちこち塗装も剥げ落ちてるし
ひょっとしたら雨漏りしてるかも……。
ま~、大家さんに連絡して鍵開けとくから勝手に入って見ていいよ
って事だったから、とりあえず見てみよう。見た目これでも中はマシかも。
期待半分でゆっくり近づく。
……と、建物の一番手前、一階の端の部屋の掃き出し窓にかかったカーテンに
細く隙間があって、そこからこちらを覗いている小さな子供の顔に気付いた。
室内は暗いらしく隙間から中の様子は伺えない。
暗いところに顔だけぼんやり見えているからか、あまり健康そうには見えず、
ひょっとしたら身体の弱い子なのかもしれないと思った。
珍しいのかこちらをジッと見つめている気がする。
そういえば、真下の部屋に小さな子供がいるんだっけ。じゃあ空室はあの上か。
目線をあげて上階の窓をみる。
あの部屋に住むことになるかもしれないと思って見ると何かその窓が
特別に見えてくるから不思議なもんだね。
……と一瞬その窓からこちらを見る顔が見えたと思った。
ビックリして二度見すると何も見えない。あれ?気のせいかな。
目線をおろすと一階の揺れるカーテンの隙間は暗いだけで、
もう下の子供の顔は見えなくなっていた。
二階に上る階段の下に着いた。
錆びの目立つ鉄の階段だ。……これ、俺昇っても大丈夫だよね。
万一錆びて脆くなってるところを踏み抜いたら大変だ。
恐る恐る錆びの出てないところを選んで踏む。
一歩ずつどこかが軋む音が響いて身が竦む思いがした。
神経質な人が『何騒音立ててんだ!』とかって怒ってきたら面倒だな~。
ふと視線を感じて、足元に落としていた目線を階段の上に向ける。
……階段の一番上に子供の頭が見えた。
階段を上がった所に腹ばいになってこっちを覗こうとしてるのかなと思った。
きっとシャイな子なんだな。
隠れてこっそり見るつもりなんだろうけど頭のてっぺん見えてるっての。
あ~あ~、あんな土足で歩く所に平気で寝転んで、
砂埃だらけになったら叱られるぞ~。
数段上がると、すっと頭が引っ込んだ。
一言そう声をかけてやろうかと思いながら階段を上まで昇ったが誰もいない……。
あれ?おかしいな。どこかの部屋に入ったんだろうか。
階段を上がったすぐのドアが203号、空室のはず。
ドキドキしながらそっとドアを開ける。
やっぱりそうだ。ガランとした室内には何の家具もない。間違いなく空室だ。
カビの臭いを覚悟していたが意外にあの独特のカビ臭はしていないようだ。
……う~~、締め切った部屋のムッとしたホコリくさい空気を吸い込みたくない。
今日はガマンするしかないけど、引っ越してきたら大掃除して
三日くらい開けっ放しで換気してやるっ。
ドアの内側は半畳ほどの土間になってて靴を脱いで板張りの床に上がる。
ドアの並びに台所。手前のドアが洗面所で、奥のドアがもう一つの部屋のはず。
洗面所を覗くとドアが左右にあって確か風呂とトイレだね。
風呂は、やっぱり思ったとおりとても古くて狭くて、
掃除しても綺麗になってくれそうにない感じ。
神経質なヤツならこの風呂には入れないかも。
でも、ま~こんなもんだよね、築30年だし。水漏れさえしなければ十分かな。
……トイレもま~こんなもんだよね~。なんせ、築30年。
見た目に多少難ありでもさ~、使えればいいんだよ、使えれば。
トイレのドアを閉めて洗面所をでようと振り返ると、LDKへのドアの上部の
すりガラスに誰かの顔が向こう側から押し付けられていた!
……んもう、ちょっと驚いたじゃないか。
さっきの子供だな~、姿が見えないと思ったらこの部屋にもぐり込んでたのか。
今度こそ一言注意してやろうと洗面所のドアを開けようとしたがびくともしない。
……お、なんだ?この、いたずらっ子め~。
こっちを閉じ込めたつもりかぁ?お兄さんをなめんなよっ。
ドアを壊さない程度に力を込めて、ぐいっと押し開けた。
最初びくともしないのかと驚いたが、そのうちふっと軽くなってすっと開いた。
おっと、なんだよ。いきなり力抜くと危ないぞ~。
首根っこをひっつかまえて説教だ!と思って室内を見回したが誰もいない。
……なんて素早いんだ。
とりあえず、いたずらっ子はほっといて。……えっと、LDKは9畳だっけ。
一人暮らしにはもったいないくらいの広さだね。
こっちにとりあえずカーペット敷いてコタツ置いて、
机と食卓兼用にすればいいよね。
できるだけ身軽にしておきたいし、家具は必要最低限でいいかな~。
さてと、奥の部屋は……。
ドアを開けると二面の窓が目に付いた。子供の姿はない。
……ははぁ、物入れに隠れたか。……不動産屋は大人しい子だと言ってたけど、
懐かれたらしょっちゅう絡んで来そうだな~。
すぐ探しに行ったらヤツの思うツボだっての。しばらく放っとこ。
窓越しの空は、夕暮れ時の赤みは薄くて夜の闇が幅を利かせている感じ。
そんなふうな明かりでも薄暗い室内には頼りになる明かりだ。
東向きってことだからあっちが北かな。ま~西日が入らなくていいけれど。
さっき見上げた窓はこっちか。
自分が見上げた辺りを見ようと数歩歩いて窓に近づいた時、
北側の窓のガラス面に物入れの扉が映っているのが見えた。
物入れの扉が少し開いていてその隙間から子供の顔が覗いている。
やっぱりな。そろそろ見つけてやるか。
だいぶ暗くなってきたし家に帰してやらないと。
物入れに近寄って子供が隠れていないほうの扉を開けた。
中ほどの高さに仕切りがあって上下二段で物がはいるよくあるタイプだ。
カビのあともないし特に問題はなさそうだ。
さて、こっちだけど、どうするか。
……ほどほどに驚いてちょっと怒ってやるかな~。うん、そんな感じだろ。
隣の物入れの扉を思いっ切り派手に両開き全開にした。……あれ?
てっきりそこに子供がいると思っていたのに、おかしいな。
こちらも中ほどに仕切りがあって上下二段で使えるようになっているのだが、
すっきり空っぽで隠れる場所なんてどこにも無いし誰もいない。
首を捻りながらくるっと向きを変えて部屋をみまわした。
すると向かいの窓に物入れの前に立つ俺が映っていた。
それと、全開の物入れ。……そして、
物入れの中段にまっすぐ立っている痩せた子供!
ランニングシャツに半ズボン姿、細い手足はガリガリでほとんど骨だけの。
……あ、あ、あ、ウソだろ?
誰か頼むからウソだって言ってくれ。
『 ウ ソ ダ ヨ 』
背筋に冷たい汗が流れた。
身体中に鳥肌が立って細かい震えに歯の根が合わない。物入れの上の壁に隠れて
ちょうど顔は見えないけれど、見たくない。見えなくて良かった。
目はガラスに映る姿に貼りついているが、意識は全身の毛が逆立つような感覚で
背後に向けられている。呼吸が浅く速くなって極度の緊張に脂汗が噴き出す。
……ぜ、絶対、中に誰もいなかった。
間違いなく空っぽだったのに、なんでガラスに映ってんだ。落ち着いて考えろ。
きっとどこかが間違ってるんだ。
……え、えっと……。あっちの部屋で……洗面所のドアんとこ押してた子供が
こっちの部屋に来て……物入れに隠れたんだよ。……で、俺は子供が物入れの
中から覗いてるのをガラス越しに見て……んで物入れガバ~ッと開けたら……
空っぽで何もいなか……
『 イ タ ヨ 』
居るはずのないモノがいて、聞こえるはずのない何かが聞こえる。
そして気付いてしまった。ガラスに映っている骨のように細い手、
その下がっていた手がだんだん上がってきている!
……どうしよどうしよどうしよどうしよ……あああああ、何も思いつかない。
脂汗がボタボタっと滴り落ちる。
……ついに、手が、俺の肩に乗った!
次の瞬間、掴まれた肩から何かがすーっと引き抜かれていくような感覚と共に、
振り払いたいという気持ちも意志も腕を動かす力までもみんな
ごっそり持っていかれてしまった。
窓ガラスを凝視したままの俺の目は、否応なく目の前の光景を映し出す。
ガラス窓に映っている恐怖に引きつった俺の顔。
それが見る見るうちに年老いていく。しわが増え皮膚が弛み、
口がだらしなく開いて目が白濁していく。
やがて、皮膚が干からび頭骨に貼りついて歯がむき出しになり、
眼球が消えて残った暗い眼窩が空ろに俺をみつめる……。
そしてその眼窩の奥に蠢く無数の白い蛆虫が溢れて……。
腰が抜けそうなほど驚いてどれくらい呆けていたかわからないが、
気付くと目の前のガラスには竦みあがって真っ青になった俺が映っていて、
とりあえず自分が一瞬で一生分の時を早送りにしてしまったのではないことに
心底ホッとした。
……俺、きっとすっごい疲れてるんだよ。
思えば今日は朝からずっと動きっぱなしだし……。
そういえば、時間がもったいなくて昼もろくなもん食べてなかったしな~。
あれが人生最後の食事ってあんまり哀しすぎるよな~。
ああ~、ちょっとでいいからやりなおしたいよ。
俺は心底そう願ってギュッと目をつぶった。
目を開けると、俺は開イテナイ物入れの扉に向かって立っていた。
……あれ?なんだろう、この違和感。
何か違う気がする、けど……ああ、もう、さっさと見てとっとと帰ろう。
あと見テナイところは、そこの物入れだけだな。
……開けたくない開けたくない開けたくない。……何ためらってるんだよ、俺。
……ただの物入れじゃないか。開けたらすっきり空っぽだって。
心臓の音が耳に響く。……どっどっどっどっどっどっどっどっ……
開けたくないのに俺の両手が両開きの方の物入れを全開にした!
途端に、物入れの天井あたりから何か塊がドサッと落ちてきた。
とっさにキャッチして見れば、それは人の頭で。っていうか、子供の生首で。
『 マ キ モ ド シ ズ ル イ ヨ 』
俺は、それを物入れに力いっぱい放り込んで扉を閉めた。
力いっぱい扉を押さえながら大きく息をついて肩を落とした時、
チラッと足元に目線が流れた。
すると自分の足の真後ろに、あるはずのないものがあるのを見てしまった。
……足!この足誰?!
心臓が耳に大きく音を響かせる。……どっどっどっどっどっどっどっどっ……
もしかしたら、さっきの首の身体かもしれない。
巻き戻しがどうとか言ってた気がしたけど、
その時に首が千切れたとかじゃないよね……。
お、俺のせいじゃないぞ。俺そんなこと知らないし。
そ、そ、そうだ。っは、走って、に、逃げ、逃げ、逃げよう。
……思い切ってダッシュすれば……って、ああ~きっと転ぶぞ。
……ま、間違いなく転ぶ。この部屋出る前に、賭けてもいい、俺、絶対転ぶ。
……だめだ。無理だ。走るのはまずい。……お、落ち着け。
とりあえず、後ろにいるだけだろ。
もしかしたら俺が気付いたこともわかってないかもしれない。
ひょっとしたら、気付かなかったら何も起きないのかもしれないじゃないか。
息を潜めて獲物が大騒ぎを始めるのを待ってるんだ。……うん、きっとそうだ!
まず一歩。
よく考えて自然に普通に動け。急な角度をつけて動くと
後ろが見えてしまうかもしれない。
絶対見えないように先の先を考えて進むんだ。
……よし、いいぞ。この調子だ。
LDKに入った。
斜めに突っ切って玄関へ……あ、靴!
脱いでそのまま上がったからこっち向きになってるじゃないか!
……ばあちゃん、ごめん。
玄関上がったらちゃんと靴の向きを変えて
きちんと揃えておくようにって何度も注意されてたのに、
俺、生返事ばっかりでさ~全然言うこと聞かなかった。
ふと、ばあちゃんの小言を思い出した。
『ちゃんと向きを変えて揃えておけば、すっとそのまま履いて行けるのに、
なんだね?それは。行儀悪い。足で靴の向きを変えるなんて横着もんの
することだよ。
人様の家でお前がそんな恥ずかしいことやってるかと思ったら、
ばあちゃん恥ずかしくて人様に顔向けできないよ!』
……こ、これだ!ばあちゃんホントにごめん。…ありがと!
俺の利き足は右だ。
片足バランスは右と左では10秒ちょいくらい記録が違う。
使いやすいのはやっぱり右だけど、
ぐらついてひっくり返りでもしたらどんなことになるか考えたくもない。
右足でバランスを崩さないようにしっかり立って、
左足の爪先を靴の履き口に引っ掛けてぐるんと回した。
次いでもう片方も。……よし、うまく回った。
足元見過ぎると後ろが見える。
見るなよ~絶対見るなよ~。
靴、左右逆になってるから履く時は足クロスだぞ~。
ただの行儀悪い横着なやつになりきれ、俺!
靴をしっかり履いてドアを開け、外に出た。
やった!脱出成功。
ちょっとホッとした。
が、歩き始めて足音が微妙に重なるのに気付いて総毛立った。
部屋を出たら着いてこないって信じたかった。
あああ、部屋の中では足音は聞こえなかったのに……。
そっと錆びた階段を下りる。
一段降りるごとに軋む鉄の階段に伝わる響きがもう明らかに1人分ではない。
存在を隠さなくなってきたのか。
ってことは、いつまでも後ろにいるだけではおさまらなくなるに違いない。
ここまで考えて、とうとう恐怖と我慢の限界を超えてしまった。
もうイヤだ!
あと数段の階段を跳び下りると狐石のほうへ猛ダッシュした。
すると、後ろから同じように足音が走ってくる!
はじめは軽い足音だった。……てってってってってっ……
狐石までそんなに距離はなかったはず。……たしったしったしったしったしっ……
どんどん足音が重く変わって行く。……ざっざっざっざっざっ……
ああ、もう息が上がってきた。……だんっだんっだんっだんっだんっ……
走っても走っても狐石は見えない。……ごんんごんんごんんごんんごんん……
力いっぱい走ってるのになんでだ!……ずぅんずぅんずぅんずぅんずぅん……
気が遠くなりそうな必死の疾走の中、
逃げても逃げても追いかけてくる巨大な首無しの化け物が
なぜか鮮やかに脳裏に浮かんでいる。
きっとあいつに捕まったら頭引きちぎられて胴と頭が泣き別れだ。
……ああ、もうそろそろ俺、限界だ。もう、もう……。
ふいに、どうせ捕まえられるなら何が追いかけてきてるのか振り返って
この目でしっかり見てやろうか、と、思った。
今日が始まったときは確かにこれからの人生に夢や希望を持ってた。
きっと簡単には手に入らないものばかりだろうけど、
誠実に努力して頑張ってけばいつか、
ささやかでも俺にも手の届くものがあると思えてた。
それが、なんだよこれ。
これで俺の人生終わりかよ!
……酷すぎるよ。
視界が涙に滲む。
俺は走るのをやめた。
そして、くるっと振り返った途端、巨大な手が俺の頭をむんずと掴んだ。
「おいおい、ちょっと待った。
何でも諦めたら終わりだよ。……それじゃ、ぼちぼち返事貰おうか。
裏野ハイツ、契約するかね?やめるかね?」
唐突な問いかけに、俺は叫んだ。
「契約なんかするもんかっ!」
気付くと俺は駅裏の繁華街の外れ辺りの道に汗びっしょりでポツンと立ってた。
日が暮れ落ちるわずかな間、逢魔が時。
次の日、大学の学生課で相談したら、ちょっと不便で遠くて古かったが
残ってた下宿を紹介してもらえて、俺は二つ返事でそこに決めたよ。んで、
無事大学に通えることになって。……え?最初っから学生課行っとけよって?
ん~まぁそうなんだけどさ、田舎からこっち出てきたのが土曜遅くでさ、
田舎でネット調べてダメだったからもう朝から足に任せて動き回ったってわけで。
もうしっかり懲りたから二度とこんなヘマはしない。マジ、懲りた。
なんていうか、一度本気で人生終わったと思ったから、
こっから先はやり直しみたいもんだよな。……俺、やってやんよ、精一杯。
人生最後の瞬間に、絶対後悔したくないからさ~。
え?あの不動産屋?……まさか探しに行こうってんじゃないだろな。
絶対やめとけよ。あれからさ~、俺、後ろ振り返るのが怖くなっちまってさ~、
一回必ず途中で止まるんだよ。で改めてそこから半分向き直る。
面倒なんだよな~これ。
……だけどさ、ひょっとしてまたなんか見ちゃったらって思うと、もうね~。
う~ん……裏側ってさ、改めて向き合うとそこはもう裏じゃなくて表なんだよ。
腹があって背中があるだろ?腹が表なら背中は裏かっていうとそうじゃないんだ。
背中はさ~ちゃんと背中っていう表なんだよ。
だったら全部表で裏なんてないってことかっていうとそうでもない。
……たぶんすぐそこにあるんだけど普通には届かないってか、無いんだ。
……え?わかんない?そうだろな~。
俺もさ~、ずいぶんいろいろ考えて辿り着いたってかさ~。
……おい、忠告しとくぞ。面白半分で絶対探しに行ったりするなよ。
俺の話聞いちゃったってことは、ちょっとだけかもしんねえけど
縁ができちゃったってことだからな。
万が一お前が探しに行って何か見つけて巻き込まれても俺はしらね。
……忘れんなよ。俺はちゃんと止めたからな。
もうこの話はおしまい。とっとと忘れちまえよ。
<終>