第四章
――夕闇君が栗花落さんを救う姿を目の当たりにして私は…。
黒森は首を振って脳中に散漫している考えを自粛する。今はまだ冷静でいないといけない。
黒森は一人通学路を下校している。はずなのだけど黒森の数メートル後ろの電信柱に人影がある。電信柱に隠れるなんてどれだけベタなんだか。クスッと笑みが零れた。すぐにでも話しかけたいけどまだ様子見することにした。どうせならもっとついてきてほしかった。
黒森の歩調と合わせるかのような足運び。卓越した技術だった。尾行者の足音は全く聞こえない。黒森が足を止めるとピタッと止まるようだ。それに喜びを感じ黒森は何度も故意に立ち止まる。
そうこうしているうちに家に着いてしまった。黒森はこんな時だけ自宅がもっと遠くにあればいいのにと不満になる。
――楽しい時は早く過ぎ去ってしまうもの。どうしようもないよね。
黒森は振り返って今歩いてきた道路に向かって名前を呼ぶ。自分がそうされたように。
「夕闇君」
楽器のような美しい声で名前を呼ばれたためしぶしぶ電信柱の陰から出る。
「やあ黒森」
「どうして私をつけてきたの?用があるなら話しかければいいのに」
「この間の黒森の真似をしたかったんだよ。ほら黒森楽しそうだったし」
本当は黒森の秘密を握ったり、掌握した秘密をちらつかせることで嫌がらせることができるかもと期待していた。
「そうなんだ。夕闇君の尾行、私よりも上手だったよ。ストーカーに向いているかも。良かったね。天職が見つかって」
うれしくないお褒めの言葉を授かった。ストーカーは職業じゃない。せめて探偵にしてほしかった。
「ありがとう。今度、進路希望調査の第一志望にしておくよ」
「でもね、意中の女の子の下校をストーキングしても許されるのは小学生までだよ。中学生からは法の下に裁かれてしまうよ」
「へえ~小学生まではセーフなんだ。それなら小学生時代に実践を重ねておけばよかったな」
性悪女に負けじと減らず口を叩いて対抗した。
「まあそれはいいや。ちょっと二人だけで話したいんだけど」
「いいよ」
あっさりと了承してくれて若干力が抜けた。
「本当に?」
「うん。でも長話になるかもしれないからうちに入ってからでいいよね?」
黒森が黒い鉄製の門を開く。ずっと黒森ばかりを注視していたため視界に入らなかったけどこの家は!予想外の光景が眼前に広がっていた。
僕が小学生の頃大好きだった「少年探偵団シリーズ」に出てくるような立派な洋館が異様な存在感を放っていた。夕方という時間帯も不気味さを助長している。今にも怪しげな老人が出てくるのではないかと畏怖の念さえ覚える。
「黒森の家ってお金持ちなんだね」
「そうだよ」
自慢の我が家を披露して大満足らしく子供のような無邪気な表情を見せる。ゲームの人気タイトルをいち早く入手したヤツと同等の顔をしている。
「我が家へようこそ」
黒森が装飾の美しいドアを開けた。入ったら二度と出てこられないんじゃないかという不安があったが意を決して踏み込んだ。
「どうかな私の家は?」
どうと言われても真っ暗だった。エントランスには窓がないらしい。黒森がドアを閉めると光が完全になくなった。
「ちょっと待ってて」
黒森の姿は見えず声だけが聞こえた。と思ったらすぐに明かりがついた。一瞬で視界が開ける。
「すごい」
としか言いようがなかった。ボキャブラリーが少ない。生憎僕は建築物の造詣が深くない。いくら言葉を並び立てたところで逆に安っぽく聞こえてしまう。
「じゃあ中に案内するね」
「待って。ここでいい」
館の中へと招き入れようとする黒森を制止した。これ以上黒森のペースで進行されるのは危険だ。
「でも」
「セールスマンだって玄関に立たせたままでリビングに通さないよね。だからここでいいんだよ」
まだ反論しようと口を開く黒森が言葉を発する前にケータイを突き出した。
「これは?」
「このメールを見てほしい」
僕のケータイのメールボックスに先ほど届いた一通のメール。その内容は。
栗花落さんが危険
現在地 プール
一刻を争う事態
簡潔に書かれた三行の文。
「これを送ってきたのは黒森だよね?」
「どうして私だって思うの?」
黒森は知らん顔で答えた。
「まず僕のメールアドレスを知っている人間はいない。僕は誰にも教えていないからね。だからこんなメールが届くはずがない。なのに実際に届いてしまっている。それはなぜか。簡単なことだよ。誰かが勝手に僕のケータイからメールアドレスを調べたからだ」
「それが私だっていうの?」
「うん。この間の保健室で君はやっぱり僕のケータイの中身を見たんだね」
「ばれたか。そう全て夕闇君の言ったとおりだよ。ちなみにどうやってロックを外したかは内緒だよ」
多分だがロックのはずし方は僕の性格からゴロ合わせだと見抜いたんだろう。そして見事的中させた。
保健室であえてケータイを取り出し外装を強調したのは中から意識を逸らすため。でもこっそりとメールアドレスを入手する意味なんかあったのかな。聞けば教えた…かもしれないのに。う~ん、機嫌が格段に良ければ教えたかも。
それに別に僕にばれてもよかったんじゃ…そうか、メールアドレスは簡単に変更できるんだった。それを恐れてこっそりとしていたのか。
「黒森はよくやったと思うよ。僕のメールアドレスを入手したことを感づかせず無名でメールを送るなんて。ただ黒森は一つだけ決定的なミスを犯してるよ。僕がプールに行ったのはこのメールを見たからじゃなくて偶然なんだよ」
「え?」
初めて黒森の顔に驚きの色が表れた。うれしくなり得意げに話を続ける。
「保健室で黒森は自分で言ってたじゃないか。僕が普段あまりケータイを使わないって。それを考慮すればメールを送信しても容易には読まれないって推測できたはずだ」
「は~そっか。私的には夕闇君が自習をサボって帰るだろうからちょうどいいと思ってたんだけど。だめだったか~。やっぱり…」
黒森の声は尻すぼみに小さくなり最後は耳で捉えることはできなかった。
「ここで本題なんだけど黒森がこんなメールを送ってきた理由は何?」
「栗花落さんを助けたかったから」
「だったら自分で助けてあげればよかったんじゃないかな。そのほうが迅速かつ安全な対応ができたはず」
「私にできたと思う?こんな非力な私に。栗花落さんを助けようものなら溺死死体が二つになるだけよ。それに栗花落さんが溺れた原因は夕闇君にもあるんだよ」
ああ、わかっているよ。水着が乾燥機で縮んでいたんだろう。
「栗花落さん心が弱ってた。死にそうなのにもがこうって意志が感じられなかったの。夕闇君のせいだよね」
え?そういうことなのか。僕はてっきり…。どうやら大きな勘違いをしていたようだ。
「でも僕が助けるとは限らなかったんじゃないかな?」
「逆になぜ助けたの?」
質問に質問で返された。実際に見捨てなかったわけでたらればの話はどうでもいいということだろうか。西條の時同様答えに困る。
「…めでたい日だったんだよ」
「夕闇君の誕生日?それとも何かの記念日?」
「え~と、頭がめでたい日?」
「夕闇君の頭はよくお祭り騒ぎをするみたいね。この前も栗花落さんに手を差し伸べていたみたいだし」
それを聞いて思い出す。あの時、黒森に監視されていたことを。
「誰にも言うなよ。特に栗花落には」
「夕闇君の自作自演のこと?」
「人聞きが悪いな。僕はただ三棟一階のゴミ箱で栗花落の荷物を発見して女子更衣室に戻しただけだよ」
「優しいんだね。栗花落さんのためにそこまでするなんて。でもどうして三棟一階にあるってわかったの?」
「わかっていたわけじゃないよ。僕がわかっていたのは二、三階にはないってことだけ。僕は一人で二階にある教室を掃除していたから誰かが階段を上ってきたら音で気が付いたはずだからね。ましてや女子三人も集まればやかましくて気が付かないほうがおかしいだろう」
「そういうことか。面白い話も聞けたし、秘密にしておいてあげるね。栗花落さんのためだもんね」
黒森は了承してくれた。口は固そうだし約束は守ってもらえるだろう。一時は明かされたとしても栗花落が傷つくだけだと割り切っていた。要するに見捨てようとしたけど結果オーライだ。
「それにしてもあんな事までしちゃうなんてね」
「あんなこと?」
黒森のテンションが急に変わる。
「栗花落さんとキスしたり水着を脱がせたり。かなり大胆な行動だったね」
体が小刻みに震えている。笑っているのか、怒っているのか、僕には判断できない。
「ちょっと待て!水着を脱がせたのは栗花落が苦しそうだったからで。だいたいあれはキスじゃなくて人工呼吸だから」
「キスと人工呼吸って同じじゃないの?」
「まったく別ものだから。じゃないとファーストキスが同性のライフセイバーなんて人が泣き出すよ」
「へえ~そうなんだ」
あまり納得していないようだ。黒森は床を眺め軽く右足で蹴っている。
「話は済んだし僕はこれで帰るから」
「待って。どうせなら中でもっと話そうよ。家にクラスメイトが来るなんて滅多にないことなの」
「遠慮しておくよ」
「今日、私のほかに誰もいないんだ」
「なおさら僕は返るよ。じゃあ」
僕は黒森に背を向けドアの取っ手を回し開け放った。
「世界が閉じた」
後ろで黒森の不気味な声が聞こえた。耳を傾けかけたが、気にしないで帰ろうとする。ところが……。
外は滝のような土砂降りだった。さすが豪華な屋敷といったところか。ドア一枚で外の雨音を完全にシャットアウトしていた。ドアを開けるまで雨が降り出していることなんて全く気が付かなかった。
雨は轟音をたてて、空は分厚い雲に覆われていてすぐには止みそうにない。この中を徒歩で帰路につくのはもはや水の中を歩くのと大差ない。
「あの黒森さん、傘などをお借りしてもよろしいでしょうか?」
「用意に小一時間程度かかるけど。どうする?上がってく?」
さすがに今日二度目のずぶ濡れは勘弁してほしい。僕の選べる選択肢は一つしかなかった。
「お邪魔します」
これだけ邪魔したくないのは人生初だった。
僕は客間に通された。高級そうなフカフカのソファに座りお茶まで出してもらえた。まさに至れり尽くせりだ。
「クローズドサークルだね」
「確かに、この土砂降りのせいで外界と隔離されているからね。でも黒森に僕は殺せないよ。なぜならここが黒森の家だから。僕が死ねば真っ先に疑われてしまうからね」
「逆に私は危険だね。夕闇君は私を殺した後で指紋など一切の証拠を全て消して見つからないように逃げればいいんだもんね」
「ところでこの家には本当に他に誰かいないの?親とか使用人とか」
「早速殺す準備を整え始めたみたいだね。凶器はそのポケットのナイフかな?」
ぎくっとしてポケットを押さえてしまった。これじゃあポケットにナイフを入れてることがバレバレだ。誤魔化すこともできやしない。僕は慌てて繕う。
「このナイフにはちゃんと使い道があるんだよ。あと黒森を殺すつもりはないから。ただこんな広いお屋敷に他に人がいないなんて変じゃないかと思っただけ」
「両親は今別居中で今どこへいるのやら。まあ地球上のどこかにはいるよ。そういうわけで私はおじいちゃんと暮らしているの。でもおじいちゃんもまだ重要な役職についているから家を空けることが多いの」
複雑な家庭というやつか。赤の他人が踏み込んでいいことではないだろう。栗花落の件と同様に。
「身の回りの世話をしてくれる人とかいないの?」
「いないよ。昔はいたんだけど」
「理由を聞いてもよかったりする?無理ならいいけど」
「私の母がね、執事と浮気したの。それで執事を解雇したんだ」
「じゃあメイドを雇えば」
「うん、メイドも雇ってたんだけど父が浮気したの。そういう過程があり現在の状況に至ったわけ。まあ夜中に散歩しても止められないから快適だよ」
あまりに軽く語られたせいで作り話かと疑いたくなる。しかし事実だった場合ヘビーなので軽口を叩くわけにはいかない。
沈黙が訪れる。出されたお茶を一口啜って喉の渇きを潤す。黒森はというと僕の反応を楽しんでいるようで自分から話題を振るつもりはないらしい。うちのクラスは人をおもちゃにする人が多くて困る。
「何か話そうよ。黙っていると怖いんだけど。この家は洋館だし黒森はその、人形みたいだし」
「私が人形みたい?ふふふ、夕闇君は面白いね」
口元を押さえ笑い出す黒森。背筋に住めたいものが走った。不気味で僕にその心中が理解できない。
よくお人形さんみたいというセリフがあるけどあれは褒め言葉なのだろうか。人形みたいにかわいいという意味と容姿が人間らしくないという意味を孕んでいる。どちらにしろ黒森のリアクションはおかしいことに変わりないのだけど。
「そうだ。折角遊びに来てくれたんだしゲームをしようよ」
遊びに来た覚えはないけど気が紛れるからいいか。そのゲームとやらが終われば僕も解放されそうだし。
「いいよ。何するの?」
「中原さん殺しの犯人を当てる推理ゲーム」
「え?黒森はミステリーとか好きだったんだね」
「う~ん、そうでもないかな。特に近年流行りの本は好きじゃないかな」
「どうして?」
「端的に言うとフェアじゃないからかな。ほら最近のミステリーはトリックが懲りすぎているでしょ。大がかりな何たらスイッチみたいな仕掛けや難しい科学・物理の専門用語がでてきたり。読者視点からの推理が難しいでしょ。実際に装置で実験ができるわけでもないし。読者と作者の頭脳戦。それが私にとってのミステリーなの」
ミステリーはフェアであるべき。とある本に出てきたそんな一節を思い浮かべる。
「有名な推理作家みたいなことを言うね。僕は最近のミステリーも好きだよ。あれはあれで味があるからね。でも常に推理しようとするその姿勢はミステリーファンの鏡だと思う」
「ありがとう。じゃあミステリー好き同士仲良く推理ゲームを始めよう」
黒森はやはりミステリーが好きなようだ。好きだからこそ気に食わないような感じだろう。僕は流されるままに推理ゲームに参加することになった。
「そういえば黒森は犯人を知っているんじゃなかったけ?」
「そうだったね。けどお互い先入観は捨てよう。あくまで論理的に推理しよう」
なるほど。今だけは僕も先入観を排除することにする。僕の犯人像は脳内から消えた。
「じゃあまずは中原さんの死体がバラバラだった理由から始めようか」
黒森が問題を提示する。
「それなら簡単だよ。ただ殺すだけじゃ満足できないほどの私怨か病的なまでの異常性。そのどちらかじゃないかな」
「そうだね。どうやら殺害現場は教室らしいから移動させるため細かく刻んだという線はないしね。となるとうちのクラスに中原さんに深い関係のある人か異常者がいることになるけど。どっちか知ってる?」
異常者ならほとんどの人が当てはまる。ただその中でも一番異常な人と言えば…。僕は口をつぐむ。そして…。
「さあどうだろう」
「まあ知らないよね。じゃあこの事件真っ先に疑われるべきなのは誰だと思う?」
「セオリー通りに行くなら第一発見者かな。そういえば黒森が第一発見者なんだってね」
「私を疑っているの?確かに第一発見者を疑うのは基本だけど今回のケースは別だよ。警察の調べでは中原さんは夜中に殺されたんだよ。私が発見したのは朝。わざわざ第一発見者になって疑惑を受ける必要はないでしょ?」
その通りだよね。黒森の発言は的を射ている。もし教室に戻らなければならない用がなかったのなら。
「言っていることは正しいんだけど黒森は何で朝教室に一番乗りしたの?交通の便から仕方ない生徒とは違って早く登校する必要はないと思うけど」
「…偶然。目が冴えたから」
黒森は熟慮した結果そうつぶやく。怪しい。この態度は何かを隠している。
「もしかして黒森は教室に死体があることを知っていたんじゃない?」
「私未来予知能力は持ち合わせていないの。言ったはずだよ。フェアじゃないのは好きじゃないって。超能力に頼る探偵は嫌いなの」
機嫌が悪くなった。当たりかな。僕の中で黒森の存在がグレーから限りなくクロに近づく。とはいえこの話題は終わりだな。この館の中では主導権は黒森にある。機嫌を損ねすぎると考えたくもないことがありかねない。
「今度はそっちの最重要容疑者を聞かせてよ」
「そうだね。私はバラバラ死体からこれは女の子の仕業ではないと推理する。人間をバラバラにするには結構力がいるよね。よって非力な私は真っ先に容疑者から外されるべきだね」
それは自分を容疑者から外したいだけなのではないだろうか。
「じゃあ誰が怪しいの?」
「男子とあとは女だけど大人の雪野先生も怪しい。でも一番は力が強そうな杉浦先生かな」
「ちょっと待って。先生たちを入れるの?あの人たちはまともな一般人だろ。そんなことしたら学校中、街中と容疑の範囲が広がっていくよ」
「何も知らないんだね」
黒森は呆れながら分厚いファイルを何処からともなく取り出し机に置いた。あらかじめ用意しておいたのだろう。相当な重量があるらしく鈍い音がする。黒森はパラパラとページを捲っていき、内容を記憶しているようで、とあるページを開く。
「これは私が調べた資料」
どれだけ熱心なんだろう。この熱意は受験生に匹敵するかもしれない。
「このためだけに用意したわけじゃないんだよね?」
「だとしたら?」
「うれしくて死んでしまいそう」
僕の死因、うれ死。うれしくねー。
「ここを見て」
黒森の指す記事を読む。とある大学教授が逮捕されたという記事だった。僕としては初めて目にする事件だ。僕自身世間の時事に詳しいほうではないからな。
「これが?」
「名前をよく見て?」
「雪野鷲蔵教授。雪野?まさかこれって!」
「そう雪野先生の父親なの」
「どうしてそんなことがわかるの?ただ苗字が同じだから血縁関係があると思ったわけじゃないんだよね?雪野なんて日本に多くありそうな姓だし」
「探偵を雇って調べてもらったの」
探偵!想定外のワードに目が丸くなる。探偵を雇うなんてお金もばかにならないはずだ。黒森の家がお金持ちだとしても黒森自身はまだ高校生。自由に使えるお金は限られてくるだろう。どうしてそこまでして。中原のため?そんなことより、
「その探偵に事件の犯人を調査してもらえばいいんじゃないかな?」
「残念なことに私のお財布空になっちゃった。」
「それは残念だね。無料で動いてくれうる探偵でもいればいいのにね」
「本当にそうだね」
含みのある笑いだった。もしかしたら心当たりが?いや現在進行形で調査中の可能性もある。これからは慎重に行動したほうがいいな。
「それで雪野教授はどんな事件を起こしたの?」
「それが雪野教授は心理学の研究をしていてね。何でも幾度も大きな実験を繰り返してたみたい。その実験のモルモットがね」
「…人間」
「そう。雪野教授の実験の被害者が大勢いるみたい」
「だけど雪野先生は関係ないだろう。悪いのは父であって娘ではない。それとも雪野先生も加害者側の仲間だったと?」
「ううん、雪野先生は事件の犯人ではないみたい。でもね、知ってる?犯罪者の人格って遺伝するんだよ。現に雪野先生も大学で心理学を専攻してたみたい」
そんな本人に非はないのに。これは黒森の嫌いな専門分野的推測ではないだろうか。だったら、
「夕闇君、ずいぶんと雪野先生を庇うんだね」
「え?あ、いや、そんなことないさ。話変わるけど杉浦先生はどうなのかな?」
僕の反論は黒森の介入によって果たされなかった。
「杉浦先生ね。それはこのページ」
僕の切り替えについてきてくれた。適応能力は高いらしい。黒森が新たに開いたページを覗き込む。そこには…杉浦先生の名前と…僕でも知っている野球で有名な高校の名前が。
「杉浦先生って野球部の顧問をしていたのか。知らなかった」
「熱心な先生だったみたいだけど多々熱くなりすぎることもあったみたいね。勝ちにこだわり過ぎて選手を酷使したせいでけが人を出したみたい」
「スポーツマンガに出てきそうだね」
「そうね。杉浦先生の教育方針に反発するPTAに取って退任させられてしまった。杉浦先生も抗議したようだけどわかってもらえず食い下がったと」
「じゃああの熱血面の下はフラストレーションでいっぱいかもしれないね」
「夕闇君、目がキラキラしているよ」
ちょっとテンションを上げてしまっていた。瞬きをして目の輝きを消滅させる。僕はただあの自分とは相いれないと感じていた杉浦先生に少しだけ近しいものを感じただけだ。
「夕闇君は杉浦先生のこと嫌いなの?」
「嫌いではないけどさ、やたら僕に話しかけてくるから」
「気に入られてるんじゃないのかな。私が見る限り夕闇君が一番話しかけられているよ。もしかしたら昔の教え子の面影があるのかも」
世の中知らないほうがいいこともあるよね。周囲から目を逸らしている僕では気が付かなかった。第三者ということもあるが、黒森はクラス内のことをよく見ている。
「話を戻すと怪しいのは黒森と杉浦先生ということで……で?」
二人とも捕まっちまえとは言えないよな。
「私の言い分、女子の犯行ではないによると私は犯人ではない。つまり犯人は杉浦先生」
「そっちこそ待って。僕の長年のミステリーの法則によると女の力では無理という事件の犯人は大抵女。これは自分の非力をアピールして容疑から外れるという手口だ。よって犯人は黒森一択で決まり」
かなり強引に黒森に犯人を押し付けた。もはや結論までに論理なんて介在していないに等しい。僕は単に黒森を犯人にしたかっただけだ。
「私が犯人か~。もしそうなら夕闇君は今最大の危機だね」
「もう忘れたの?僕はこの館内にいる間は安全なんだよ」
「そうだったね」
これでゲームセットと思いきや黒森はまだ僕の帰宅を許さないようだ。
「冗談は置いといて雪野先生には気をつけたほうがいいよ」
「雪野先生?杉浦先生じゃなくて?」
僕は言い間違いかと首を傾げる。
「私が観察した結果によると雪野先生に向かって多くのベクトルが伸びているよ」
「ベクトル?数学?」
「好意のことだよ。わからない?雪野先生って結構モテるんだよ。杉浦先生や太田君体は顕著だよ」
一般生徒に人気があることは知っていたけどこんなに近くにまで熱中者がいるなんて。
「その太田君たちっていうのはあの四人組のこと?」
「そうだよ。あの人たち何かあるごとに声を掛けようとしているよ」
以前、栗花落の件をチクったのは声をかけるきっかけが欲しかったからか。結果、僕は雪野先生と長話することになったわけだけど、もしかしたら自分の部屋のカーテンの隙間から覗いていたんじゃ…。そう考えると鳥肌が立った。僕より太田のほうがストーカーに向いているかもしれない。まあまだ想像の範囲だ。実際に覗いていたという証拠はない。でも逆恨みとかしないでほしいな。
「雪野先生は魔性を秘めているんだよ。夕闇君を花の香りに誘われて近づくと憤怒のこもったベクトルに刺し殺されてしまうよ」
特に太田には以後警戒するとしよう。それと、栗花落が僕を安全地帯と思ったように、これからは雪野先生を爆弾落下地点とでも位置づけておいたほうがよさそうだ。
「あとね、理由はどうあれ西條さんと霧崎君は夕闇君に目をつけているよ」
「西條は栗花落の件があるからわかるけど、どうして霧崎?」
「よくわからないけど夕闇君のこと頻繁に見ているよ。勉強のし過ぎでノイローゼなのかもしれないね」
入学当時は学力テストで霧崎が一位、僕が二位でライバル視されていたけど。でも僕と霧崎の学力には差がある。僅差で霧崎のほうが成績がいいわけではなく少し開いている。だから霧崎に敵視される必要はないはず。そもそもあいつとは話すらしたことがない。理不尽過ぎて腹が立ってきた。僕は目なんかつけられたくないのに。邪魔だな。それが僕の霧崎に抱いた感情だった。
「周りは敵だらけか。嫌気がさすね。僕は誰かと対立したりせず教室の隅で平和に過ごすことを望んでいるのに。そうだ、このファイルもっと見せてもらってもいいかな?」
「いいよ、はい」
分厚いファイルが僕の前にスライドされてきた。僕は素早く捲って中身を確認する。新聞の事件を取り扱っている記事や黒森自身で調べたと想像されるメモがファイリングされていた。
「私お茶を入れてくるから好きに見ていていいよ」
そう言い残し席を立った。
見れば見るほど黒森のこの事件に対する執着のようなものが手に取れるようだ。それは何だろう。推測してみよう。
事件について詳しく調査するとはどういう心境だろう。栗花落を救おうとしたし意外と友達思いなのかも。いや、黒森は膨大な資料をちらつかせ犯人を懐柔するためではないか。だとすれば黒森は相当性格が悪いことになる。スパッと犯人を名指ししてやればいいのに自分が感づいていることをじわじわ教えるなんて。それに黒森が犯人に求めるものはなんだろう。
金か?それとも何らかの行為?
逆に犯人視点から考えてみるのはどうだろうか。犯人なら自分の起こした成果を記録しないだろうか。ただそれが人に見つかるとまずい。だから新聞の記事をスクラップ帳なんかに保存して、単なる趣味を装う。そう今目の前にあるこのファイルのように。
ファイルを捲っていると空白の部分があることに気が付いた。抜き取られたような不自然な空きだ。
僕は徐に立ち上がり黒森の座っていたソファを調べる。ソファの下に手を突っ込んで探していると何かが手に触れた。紙のようだ。
引っ張り出すとそれは新聞の記事だった。
××中学校 けが人多数うち数名重症
××中学校に通う生徒がクラスメイトに暴力をふるう事件が発生した。そのうち一名は彫刻刀で切り付けられ重傷。幸い一命は取り留めた。
よく知っている学校。よく知っている事件。
黒森は僕の過去も調べ上げているらしい。完敗というしかない。
赤いマーカーで淵をなぞっていることが不思議だったけどそっと元の場所に戻しておいた。
しばらくしてポットを持った黒森が部屋に戻ってきた。
「調子はどう?」
「まずまずと言ったところかな。それで折角お茶を入れ直してくれたところ悪いんだけどやっぱり僕は帰るよ」
「そう」
「あれ?もう止めなくていいの?」
「私は十分楽しんだから。本当はまだ伝えたいことがあるんだけど」
僕はようやく解放されるようだ。まだ伝えたいことに興味がわかないわけではないけど。
時計を確かめるとすでに数時間が経過していた。
黒森は玄関まで送迎してくれた。帰り道の途中まで送ろうとしていたけど男が女に送ってもらうのは情けないという建前で断っておいた。
「今週末はいよいよ宿泊研修だね」
「ああ、そうだったね」
一時は話題にもなったけど最近はすっかり忘れていた。宿泊研修と言っても校外学習だからあまり用意するものはないはずだけど。
「嵐の予感」
「それってミステリー用語で事件が起きるってこと?」
「胸騒ぎがするの。非科学的だって笑う?」
「いやそんなことはないよ。僕も勘というものは重視するから。これは僕が小学生の話なんだけどさ。僕も他の子ども同様トレーディングカードに熱中してたんだ。それで不思議にも僕は相手が伏せているカードのなんて言えばいいかな、危険度または重要度がわかったんだ」
「一体どうして?」
「僕も小学生ながらに頭を働かせてみてわかったんだ。相手が手札を見て伏せるまでの時間や戦略を練っているときの表情から推測していたんだよ」
「小学生のころから頭がよかったんだね」
「そんなんじゃないよ。まだ小学生だからさ、みんなカードの強さとか組み合わせばかりに目が行きがちでそんな細かな動作まで頭が働いていなかっただけだから」
僕は一呼吸する。
「とまあこんな感じで一見根拠がないようなものでも突き詰めていけば何かしらの理由がある。だから黒森のその胸騒ぎも裏付けがあってのものだと思う」
「なら研修中は私から離れないほうがいいよ」
黒森が私が守ってやるとばかり胸を張る。
「随分と頼もしいけど一応黒森は最重要容疑者じゃないか」
「ふふ、そうだったね。私を含め注意したほうがいいよ。一晩って果てしなく長いから」
お母さんかよとツッコみたくなる。でもうちの母はそれほど僕に対し心配などしない。
「じゃあまた明日」
僕は扉を開け外に出る。館の中に何十時間もいたんではないかという錯覚に陥った。外の空気を吸うのが久しぶりに感じた。まるでこの館だけが外の世界と隔離されていたみたいだった。館の発する雰囲気のせいだろう。僕は推理小説の読み過ぎだ。
もう雨は止んでいた。雨上がりの蒸し暑さに苛まれながら寮へと帰る。誰かに監視されているのではないかと不安になった。黒森の話のせいだ。
もうすぐ宿泊研修か。ずっと先延ばしにしてきた。だけどそろそろ覚悟を決めなければならない。僕のこの世界はもうすぐ終わるかもしれない。
こんな時、悲しい気分になるはずなのに。寂寥感を感じるにはここは暑すぎた。