第二章
寮の前で話す夕闇と雪野をこっそりと覗く目があった。
その視線は寮の一室からだった。部屋の両端には簡易ベッドと学習机、その机の隣には天井ほどもある棚が二つ。一つの棚には本かと思いきや、ゲームがびっしりと並べられている。もう一つにはアニメキャラクターのフィギュアが見栄え良く並んでいた。
そんな部屋の窓の近くにはでっぷりと肉付きの良い影があった。
寮生の一人、太田優だ。生活習慣が悪いせいで休日は朝から睡眠に入ることのあるため、ずっしりとした遮光カーテンをしている。そのカーテンのほんの少しの隙間から醜い感情を移す瞳を覗かせていた。
太田の心中は穏やかではなかった。この心中に芽生えている感情をありていに表すのなら嫉妬だ。
太田は自分のクラスの担任である雪野に対して恋愛感情を覚えている。雪野の外見は他の男子でも振り向くほどの美しさを備えている。学校の女教師の中で一番人気があるとの呼び声も高い。それほど若い女教師の数が多くないのだが、それを差し引いても雪野の美貌は優れている。
カーテンを思い切り掴む。そのせいでカーテンに皺が走る。嫉妬の炎が燃え上がり、天をも焦がさんとしている。
太田が雪野に夕闇が違反をした情報をリークしたのは、ただ雪野と話す口実が欲しかっただけだ。そうでもなければ、夕闇が同級生の女子の誰といちゃつこうがどうでも良かった。栗花落なんて太田にとっては眼中にもなかった。
しかし、夕闇が雪野と楽しそうに話すことは許せない。これでは自分の起こした行動で最も得をしたのは夕闇ではないか。自分よりも雪野と時間を過ごしているのが悔しい。
雪野が突然吹き出して笑った。あんな笑顔は自分に向けられたことがなかった。
カーテンを握る手にさらに力が加わる。カーテンの皺は大きくなり山脈が形成される。
しばらくすると雪野は学校へと戻って行った。
ようやくカーテンが解放される。太田は息を荒らげ、デスクチェアに勢いよく体重を預けた。太田の重たい体の重みを一身に受け、デスクチェアは悲鳴を上げた。怒りの治まらならい太田はそんな音には耳を貸そうともしない。彼には、どうしてあんなやつが、そんな気持ちでいっぱいだった。
机の上のパソコンを立ち上げる。太田は普段から使用しているチャットで盛大にこの怒りを愚痴ろうと考えていた。今回のチャットは熱くなりそうだ。
珍しく早めに教室に着いた朝、僕と栗花落は持参してきた服を交換し合った。僕の手元から水着が離れていきジャージとTシャツが戻ってきた。栗花落は水着を忘れてしまったことに謝罪してきた。だがむしろ僕のほうが謝罪すべきだった。水着縮小の件はばれるまで黙秘を貫くことに決めた。見た目変化がないようなので水着へのダメージは小さいという希望的観測にしがみついている。
これで今日もいつも通り――になるはずだった。栗花落は休み時間の度に僕のところを訪れるようになった。それはあたかも戦争中に安全地帯に集まるように。僕の周辺はいかなる脅威も襲ってこないと信じているんだろうか。
「……一緒にお昼食べていい?」
昼休み栗花落が開口一番に言い放った。初めはどこの国の言語か理解できなかった。言語翻訳機を使おうかとさえ思った。イッショニゴハン?断る理由は山のようにあったけど上手く説得できないことは自明の理だった。仕方なく栗花落の同席を許す。喜色を含んだ栗花落の顔。教室中からの奇異な視線。後ろからの不気味な気配。それらが合わさって僕の心を怪物のように苦しめた。
野良猫に餌をあげてはいけませんという大人の教えが骨に沁みた。幼いころは反感を覚えたものだったが。餌を与え懐かれても責任は取れないもんな。
栗花落も栗花落だ。友達は選びなさいと親から習わなかったのか。僕は…そういえば習ってないな。僕の親は誰とでも仲良くなりなさいと言っていた。でも親の示唆する(誰)は善良な一般市民限定のはずだ。ニコニコ笑顔の仮面をかぶった犯罪者が仲良くしたそうにしていたとして、そんなヤツと仲良くしなさいなんてのたまう親は頭がおかしいとしか言いようがないもんな。
友達なら自分で選べるといる面の栗花落も見てため息が漏れた。そんな顔されると栗花落が正しくて僕は嫌味な同級生みたいじゃないか。
ただでさえ僕のすぐ後ろを取っている黒森が精神的に負担となっているというのに……。
気苦労が絶えない。
なるほど栗花落は三日坊主といく言葉を知らないらしい。孤立者同士が同盟を組み教室中の視線の集中砲火を浴びる日常が続いていた。
気の弱い栗花落のことなので二・三日すればきれいさっぱりデフォルト状態かと予想していたのだが。そうだね。栗花落は女の子で髪も長いからね。坊主ではないんだ。
傍から見れば論理の破たんした結論で自分を納得させておいた。
僕と栗花落、二人でつるむ日々が続くと信じていた。……栗花落だけは。
僕はあの日、栗花落に手を差し伸べた時に頭に浮かんだ未来視にも似た映像。現実のものになるという不安が頭から離れなかった。不安の種は表面化で着々と成長し、開花しようとしていた。
ある日、事態は動きだした。
僕はいつも通りの時間帯に登校してきて教室に入った。教室には見慣れたようにすでに大半の生徒がいる。今日はあの遅刻魔の阿守すらも席について眠っていた。
僕は自分の席の前に来て気が付いた。いや本当はクラスの雰囲気から奇妙なざわめきを感じ取っていた。
僕の普段使っている机に黒いマジックで落書きが。机の中心に太々とした線で大きな相合傘。その傘に入っているのは名前だった。周りには幼稚な文章が所狭しと書きなぐられている。
犯人はおそらく西條たちだろう。何の根拠もないけど。
自分たちのおもちゃをとられた子供がとった相手で遊ぶことに決めたようだ。こうなることは予想していた。僕の不安はやっとのことで現実のものになったわけだ。まあ、あいつらもちょっとだけ行動に移すのが遅かった。実は中学の頃に似たようなことがあったからな。経験則でわかっていたんだ。
あの時無視をしていればこんな面倒事に関わらなくて済んだのに。あれほど警告していたのに。僕はバカだな。
教室を見渡す。クラス中の目が僕に向けられている。僕と目が合うと逸らす。特に西條たちは僕の反応を楽しんでいるようだ。栗花落の席は空っぽだ。まだ登校してきていない。よかった。少しだけ安心する。大切なのはこの状況をどう切り抜けるかだ。終わったことを後悔しても事態は全く好転しない。
大体何だ、このセンスのない落書きは。相合傘なんて今時古いし寒いんだよ。しかも幼稚な文の数々。あいつら本当に高校生なのか。小学生からやり直したほうがいいんじゃないのか。
僕はもっとすごいものを目の当たりしたことがあるぞ。あれは彫刻刀で机が芸術品のようになっていたっけ。前衛的で独創的で怒りと同時にセンスも感じた。だから、僕は机に彫刻を施してくれたお礼に――そいつの体を――彫刻刀で――。僕の美術の成績――3だけど――負けないよう――刻んで――。悲鳴が――教室中――心地よかった。目の前――真っ赤――僕――名前みたい――。ダメだ。
落ち着け。落ち着け。落ち着け。落ち着け。落ち着け。落ち着け。落ち――。――け。
教室中に響く轟音。席に座り机に突っ伏した状態で寝ていた阿守は目を覚ました。別に不良だからわざと遅刻しているわけではなく朝に弱いだけの彼。そんな阿守でもさすがに眠気が吹き飛んだ。
クラス中がざわざわと不穏な空気を醸し出している。みんなの視線の先を辿るとそこにいたのは…夕闇?
阿守は視覚で捉えた人物を認識しようとすると得体のしれない齟齬が起こった。
夕闇と倒された机。どうやら夕闇が蹴り倒しでもしたようだ。ただ一瞬疑問がよぎったが夕闇の雰囲気がいつも違う。会話らしい会話をした覚えはないがもっと大人しい感じだったはずだ。今の夕闇は電気を発しているような空気を身に纏っている。そんな印象を覚える。
――近づきたくない。
阿守は恐怖を感じる。今まで多くの不良とケンカしてきたが夕闇はあんな奴らとは別格、異質な存在だと直感的に悟った。別に凶器をちらつかせているわけでもないのにこの迫力。異常だと言ってもいい。
ずっと立ったままでいた夕闇が阿守のほうに向かって歩き出した。一歩、一歩と足を出すたび緊張が募る。阿守は夕闇と目を合わさないよう机を睨む。ほんの少しの距離のはずがスローモーションで進んでいるようだ。夕闇は阿守の後ろを通り過ぎドアから教室を出ていった
異物が教室から姿を消すと安心し口から息が漏れる。どうやら呼吸することを忘れていたようだ。冷や汗をかいてしまって気分が悪い。
――一体さっきのは何だったんだ?よくマンガである死ぬ寸前の音が消えたような感覚を味わった。わかることは夕闇、あいつはただ者じゃない。
張りつめられていた教室の空気が弛緩し話し声が湧きだす。いまいち事態を呑み込めていない阿守は再び机に突っ伏しばれないよう耳を傾ける。聞こえは悪いが盗み聞きだ。クラス内に親しい関係の人はいない。むしろ周りからは恐がられていたり、煙たがられている。だから情報を集めるためにはこれしか手段がなかった。
――これはどういう状況だ?
黒森のすぐ目の前で机が飛んだ。飛ばされた机が窓の下の壁に激突して耳をつんざく音が発生した。夕闇が机を蹴り飛ばしたのだ。
クラスのみんなは目を丸くして驚いている。けど、黒森はただ一人……。
夕闇が黒森の横を通り抜けていく。表情を確認することは叶わなかった。顔の向きが固定されたかのように少しも動かすことができなかった。
夕闇と黒森がすれ違う瞬間、黒森の胸は高鳴った。この激しく暴れている鼓動は当分治まりそうにない。口元が緩みそうになるのをぐっとこらえる。
黒森は確信した。
――やっぱり私が睨んだ通り。私が探してたのは夕闇君だったんだ。
気に入らない。気に入らない。気に入らない。気に入らない。気に入らない。気に入らない。
夕闇の起こした反応が予想の斜め上をいくもので気分を害する。まるで自分よりも上位の存在であることをアピールされたようで業腹だった。
その場で地団駄をふみたいが我慢する。ここではできない。このままでは済まさない。絶対に。