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アロワナ  作者: 修さん
9/9

アロワナ⑨完

続編23~エピローグ

二十三


 八月十七日。空は青く燃えていた。風もなく、地上に降り注ぐ陽射しは、ジリジリと大地を焦がしている。

刑事部屋の時計は十一時十五分を差していた。三人は周りに気づかれないように、東横線の渋谷駅で待ち合わせをしている。柳田はすでに署をあとにしていた。稲垣とチエは、聞き込みいく振りをして急いで八王子駅に向かった。


「何だこの暑さはッ」柳田は、首に巻いたフェイスタオルで顔の汗を何度も拭った。周りから見ると背広にタオルは滑稽だ。しかし蒸し風呂のような暑さに、とても恰好などつけていられない。柳田は上着を脱いで腕時計に目をやった。

「まだ待ち合わせに四十分ほどあるな」

 柳田は、地下にあるファーストフードの店に下りていった。

 アイスコーヒーを手に喫煙ルームに入ると、席は客でほぼ満杯だった。ようやく一つだけ空いている席を見つけて、その場に倒れるように座り込んだ。

 柳田は煙草をくわえると、腕を組んでじっと考えてみた。

 本当に、成実と池川は強行に及ぶのだろうか。成実を尾行した刑事によると、そのこころの動きまでは読めないが、成実は、昔からの友人だった西澤に異性を感じ始めているらしい。池川についても、張りついていた刑事が確認したところによると、どうも山瀬と密会しているようだ。こんな二人が結束などできるのだろうか。山村を殺害するまで、その怨念を何とか維持し続けていた二人が、山村の死後、また力を合わせることができるのだろうか。池川の場合は分かる、雄三に対して狂気を燃やしていることが・・・・・・。しかし成実は違うはずだ。雄三は昔愛した男だ。それに西澤は彼の親友だ。今、西澤にこころを動かしている成実に、西澤の親友を殺せるわけがない。二人は仲間割れするのではないか・・・・・・。

「成実のこころが読めない」柳田は低い声でつぶやいた。

「現場を見るしかない・・・・・・。とにかく何かあれば即座に確保することだ」

 柳田は血走った目で、すでに三十分を経過した時計を睨んだ。


 朝刊の社会面の下部に二段抜きの広告が出ている。

「本日初の東京公演!『ユウヤ』サマーライブ。チケット完売御礼!」

「とうとうきたか、この日が」智明は、新聞を広げたまま苦いコーヒーに顔をしかめた。

 昨夜は和子の顔が頭から離れなかった。何度も、何度も、悪天候で新幹線が止まることを祈った。飛行機で来ることはまったく頭にない。必ず凶器を所持していると思ったからだ。たぶんナイフのようなものだろう。そんな凶器を所持して飛行機には乗れない。

 このまま何も起こらないと、和子はすぐに逮捕されることはないだろう。でも事件が起こってからではもう取り返しがつかない。やはり俺は、この部屋でじっとときが過ぎるのを待つことなどできない。それに、西澤一人では荷が重すぎる。和子のことは俺が何とかしなければ。いや、和子のことだからこそ、俺が阻止するべきだ。それが男としての義務だ。もう自分の立場などどうなっても構わない。

 しかし、昨日から何度和子の携帯に電話を入れても電源が切られている。とにかく会場に足を運ぶしかない。

 極度に緊張しているのか、口が渇いて仕方がない。ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干すと、智明はいつ買ったのか分からない煙草に火をつけた。久しぶりに深く吸いこんで、乳白色の煙を勢いよく吐き出した。

「よしッ、とにかく開場前にパークホールに行くんだ。そして入口でじっと待って和子をつかまえよう。たぶん和子が首謀者だ。だから、彼女さえつかまえることができればいい。警察沙汰になる前に、まず彼女を止めるんだ。そして会場に入れないことだ。和子のことは、殴ってでも俺の手で何とかする」

智明は強く自分に言い聞かせた。


 昨夜から一睡もできなかった。

修は赤い目を擦りながらクーラーを止めた。窓を開けると、温風のような「むっー」とした空気が部屋に流れ込んできた。からだが宙に浮いているような感覚だ。

冷蔵庫からアイスコーヒーのボトルを取り出し、ジョッキになみなみと注いだ。何か食べなければ、と思うのだが食欲はまったくない。浴びるようにアイスコーヒーを飲み干した。

しばらくすると、冷蔵庫のカレンダーをじっと見つめた。夏季休暇に入ってすでに六日が過ぎていた。

「間違いない。今日は八月十七日だ。昨日、手紙も投函した」

 修は大きなため息を吐いた。

しかし、なんもしてやれんかったなぁ、万砂子。仕事にかまけて、病院に行けとも言うてやれんかった。お前を見殺しにしたんは、間違いなく俺やろう。なんのことはない、俺も雄三と一緒やないか。だけん、もうこれ以上女を見捨てることはでけん。もうこれ以上・・・・・・大切な人を見殺しにすることはでけんぞ、万砂子―。

桐子はなぁ、ばあさんが入院したときに、毎日、毎日、娘たちのために弁当を届けてくれたんや。それも、四カ月もの間毎日や。結花が高校受験の前で、智花が小三のときやった。子どもらは毎日サンタクロースが来てるみたい言うてなぁ。そらぁ喜んどった。「見つかると噂になるから」そう言うて、桐子は朝刊の配達より早ようにポストに放り込んでいきよった。俺と同じ仕事をしとって忙しかったろうになぁ。万砂子は大したことないて思うかもしれんけど、相当しんどかったと思うわ。桐子は精神の病に侵されて久しかったからなぁ。それだけやのうて、他にも色々助けてもろた。

智花の運動会の日やった。たまたまばあさんが体調を悪うしてな。ほやけど、俺はどうしても抜けれん仕事があって、近所の同級生のお母さんに、智花と一緒に昼ごはんを食べてくれ、言うて頼んどったんや。それを桐子に話したら、可哀想や言うてなぁ。弁当を作って、友だちまで誘うて運動会に行ってくれよった。智花はニコニコ顔で自慢しとった。「智花のリレーの応援に、パパの友だちがいっぱい来てくれたんよ」言うてなぁ。そういうところがあるんや、桐子ちゅう女はな。

あいつは色々言われとる。そやけど、すべての事件に関して殺意はなかったと思うとる。それだけやのうて、実行もしとらん。俺はそう信じとる。誰がなんば言うても、俺にとって桐子は善人や。いや・・・・・・、それ以上の人や。昔から「いい子振っとる」とか「男をたぶらかしとる」とか、噂はぎょうさんあった。その噂がありもせん噂を呼んだんや。

俺は二度と過ちは犯しとうなか。万砂子のときの二の舞はもう踏めん。ほやから、見捨てるわけにはいかんのや。すまんな万砂子。俺はアホな人間やからこそ、ここでやらんといかんのやッ。そうや、俺はどうしようもないアホや。アホならアホでよか。その代り、俺の人生は終わっても、桐子の人生だけは終わらせんッ。

修は一瞬振り返り、机に置いてある家族の写真に目をやった。しかしそれ以後、二度と振り返ることはなかった。

「代官山まで四十分か・・・・・・」修は時計を確認した。

 大きく長い息を吐くと、ゆっくりと拳を握りしめた。

 修はおもむろに立ち上がると、ショルダーバッグの中の細長い包みを確認した。そしてゆっくりとドアを開け、燦々と降り注ぐ太陽の中に重い足を踏み出した。


 代官山の駅を下りると、右手の角に交番がある。その上には何本もの大きな木が、青々とした葉をかかえた枝を四方に広げている。

 桐子は交番に若い警官を見つけると、瞬時に顔を背けてキャップを深く被った。

 今日は普段と違い、地味な恰好をしている。ブルージーンズにオフホワイトのTシャツ。それに若葉色のシャツを羽織っていた。

 桐子は腕時計を見た。時刻は午後十二時十五分。和子とは正面入口で一時に待ち合わせをしている。会場まではゆっくり歩いても十分だ。

 桐子は緊張のためなのか、猛暑のためなのか、すでに喉がカラカラだった。交番にチラッと目をやると、ネットで調べておいた会場そばの喫茶店に急いだ。こんな状況下で、直接会場に向かうことなどできるわけがない。


 桐子は喫茶店に落ち着くと、一気に水を飲み干した。すると、またじわっと涙が溢れ出した。もう納得しているはずなのに。この期に及んでまだ和子のこころ変わりに期待をしている。

 十一日以降は、何度和子の携帯に電話をしても出てくれない。ひょっとしたら、今回の計画を諦めたのだろうか。常人には分かる、無理な計画だということが。もしかしたら短い間にこころの病が癒えて、強気な和子も、大胆で危険な計画だということを自覚したのだろうか。そうであれば嬉しい。こんな嬉しいことはない。

「お姉ちゃん、今何を考えているの・・・・・・」桐子はこころの中でつぶやいた。

 いくぶん汗が引くとまた時計を見た。もうそろそろ時間だ。桐子は萎えそうなからだにムチを打つと、茹だるような酷暑の中をホールに向かって歩き始めた。

 生き急ぐ蝉の声が、スコールのように桐子の全身を濡らした。


 柳田が改札口に上がると、ホームは大勢の客でごった返していた。

 すぐ右手に二人を見つけた。

「稲垣、どうしたんだ」

「どうしたんだじゃないですよう」

 稲垣とチエは、涼しそうな顔の柳田に少しいらついた。

「人身事故ですよー、まったくう。ついてないですよ」

 稲垣は顔を歪めて舌打ちした。

「代官山駅で人身事故があったんですってッ」

 チエも焦りが顔に出ている。

「よりによって、こんなときにッ」

 柳田も駅の電光掲示板を見て軽く苦笑いをした。

『代官山駅で発生した人身事故のため、現在、自由が丘~渋谷間で運転を見合わせております。振替輸送については・・・・・・』

 電光掲示板は繰り返し振替輸送の案内を流している。

「仕方ない、タクシーで行こう」

 三人は一階のタクシー乗り場に急いだ。柳田の首に巻いたタオルが、生きているかのように左右になびいた。

「渋谷パークホールまで」

 稲垣は運転手に行き先を告げると、早速手帳を捲り始めた。

「あっ、運転手さん。代官山の駅にして」柳田が突然口を挿んだ。

「えっ?どうしてですか」助手席に座ったチエが振り向いた。

「何か気になる。人身事故の状況を確認してからホールに向かっても遅くないだろう」

「ええ、まぁ時間的には余裕がありますけど」

 稲垣は少し首をかしげた。

 タクシーはじきに代官山駅の南口に到着した。

「稲垣、行って確認してこい」

 稲垣は二人を車内に待たせて、駅の事務所に急いだ。

 車内から事務所が見渡せる。救急車の姿はもうなかった。すでに負傷者は運ばれていったようだ。ただ、ワンボックスタイプのパトカーが一台、駅前の交番脇に停まっている。ホームで現場検証の最中なのだろう。

若い駅員が嬉々として稲垣に説明しているのが遠くに見える。

じきに稲垣は小走りで戻ってきた。

「中年の女が飛び込んだようです。飛び込んだようですけど・・・・・・。自殺ではなく、ホームを滑り出したベビーカーを助けようとして、誤って線路上に転落したみたいです」

 稲垣は柳田の隣に乗り込むと、一瞬顔を歪めた。

「ベビーカーの子どもは無事だったのか?」

 柳田は少しからだを起こして、辛そうな表情を見せた。

「はい無傷です。ただ赤いジャケットを着たその女は、残念ながら即死だったようです」

「ふぅー、嫌だ」チエは両手で顔を覆って、前方にからだを折り曲げた。

「女が子どもを救ったんだよな?美談というわけか」

「そのようです」稲垣の顔は少し赤らんでいる。

 そのあと、柳田はじっと目をつむって何も語らなかった。

「パークホールですね」行き先を確認すると、運転手はアクセルを強く踏み込んだ。


 渋谷パークホールは、各種コンサートから古典芸能の上演まで、多種多様な催し物を行う地上三階建ての建物だ。大きな大理石の柱に囲まれたエントランスは、重厚で格式を備えている。建物の上から裏の公園の木々がわずかに頭を出していた。

 ガラス張りの建物の周りはまだ閑散としているが、エントランスの隅のドアにスタッフが立ち、ファンクラブの会員らしき女性を招き入れている。


腕時計を見た。十二時五十五分。もう来てもいいころだ。桐子は慌てて携帯を取り出した。和子から何の連絡も入っていない。しかし考えてみると、足がつく携帯には連絡しない約束だった。

やっと一時。振り返っても和子の姿はまだ見えない。こんな状況下での五分は、とてつもなく長く感じられる。額と首筋には、珠のような汗が拭いても拭いてもじっとりと浮いてくる。背中を一筋の汗が流れた。歳のせいなのか、最近では昔とは違う場所に、汗が浮き出るようになってきた。

 桐子は、使うことに抵抗がある扇子をバッグから取り出した。歳に見られることが嫌で、極力扇子を使わないようにしているのだが、今日のように湿気を含んだ猛烈な暑さは、とても耐えることができない。

 一時五分。桐子の心配は祈りに変った。

「もしかしたら、和子の考えは変わったのかもしれない。彼女は時間には几帳面だ。今まで、一分たりとも遅れたことなどなかった。でも新幹線に遅れが出たのかも・・・・・・。お願い!来ないで!お願い!」

 桐子はこころの中で呪文のように繰り返していた。

爽やかな風など望むべくもない。鬱陶しい雨音のように蝉の声は続いた。


「ルルルー、ルルルー」

 タクシーに乗り込むと、すぐに稲垣の携帯が鳴った。

「はいこちら稲垣。ふん、ふん。えッ!何ですって?。今ですか?今は聞き込み中です。分かりました。至急現場に向かいます。はい、柳田刑事にも連絡しておきます」

 聞き込みに出る、と言って署をあとにした稲垣だ。柳田とチエも一緒だとはとても言えなかった。

「どうしたんだ?」柳田は血走った目を稲垣に向けた。

「署の春山課長からです」

「で?」

「今しがた、署に殺人予告の手紙が届いたそうです」

 柳田の目が鋭く光った。

「誰を殺すんだ?」

「山村雄三です」

「どこで?」

「渋谷パークホール」

「誰からの手紙だ?」

「・・・・・・」稲垣は言い淀んだ。

「稲垣さん、誰なのッ?」振り返ったチエの顔も気色ばんでいた。


 桐子の腕時計は一時十五分を指していた。

「和子は、もう来ない」桐子は確信した。

 それと同時に全身の力が抜けた。倒れそうになるからだを、何とか気力で支えた。緊張が解け、かいた汗に寒気を感じる。

やはりこころ変わりしたんだ。雄三を殺せるわけがない。これでいいんだ。これでよかった。

 震えるほどの安堵の中で、桐子は修のことを思い出していた。

修に早く連絡しなければ。すぐに携帯を取り出し修を呼び出した。何度かけても留守電に切り替わる。そうだッ、今は運転中のはずだ。

「ふぅー」大きく息を吐いた桐子は、ついに芝生の上に座り込んだ。


 それから五分ほど経っただろうか、幹線道路に面した正門に一台のタクシーが停まった。

車から飛び出してきた三人が遠くに霞んで見える。敷地の東側の壁に沿って、すごい勢いで走ってくる。桐子には目もくれずに、裏側の公園の方に走り抜けていった。

 誰だろう。桐子は朦朧とした頭で、じっと考えてみた。

一人若い女がいたが、記憶にない。しかし男二人は、顔の輪郭しか分からなかったが、たしか・・・・・・、あのときの刑事。そうだッ、あのときの刑事に違いない。

桐子はふらつく足で何とか立ち上がった。そして、裏手の公園に向けてよろけながらもゆっくりと足をすすめた。思うようにからだが動かない。

「何が起こったの?えっー、何が起こったっていうの?」

 桐子は漠然とだが、大変なことが起こった、ということだけは理解できた。

 もしかしたら、和子が先に来て雄三を?そうだッ、お姉ちゃんが来てるんだ。桐子の胸の中を赤い戦慄が走り抜けた。

 すると、遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。徐々にその音が近づいてくる。

 私を巻き込まないように、姉として私のことを守ってくれたんだ。

「やめてッ!やめてッ!お姉ちゃんを逮捕しないでッ!」

 桐子はこころの中で何度も叫んだ。


 もつれる足を引きずりながら、ホールの裏手に着いた。ちょうど三十メートルほど先に、プレハブ小屋のような公園事務所が見えた。大きな木々で囲まれ辺りは薄暗い。

「アアァー」桐子は思わず手で口を覆った。

 その大木の陰に人が倒れている。警備員なのか刑事なのか、数人の男が立ちつくしていた。一人の男が倒れた人間を介抱しているように見える。

倒れた人間はたぶんあの人だろう。でも、もう倒れている人間など誰でもよかった。

 桐子は痙攣するかのように全身が震え出した。やはり和子がやってしまったのだ。

 しかし女性は先ほどの若い女しかいない。和子は?和子はどこ?

 しばらくすると、裏手の門が開き数人の男がなだれ込んできた。きっと警察官だ。

 すると、あのときの刑事が、呆然と立ちつくす一人の男に何やら話し始めた。その男は抵抗する素振りなどまったく見せない。

 桐子はもう少し近づいて、その男を凝視した。

男は、修だ・・・・・・。

 桐子は口を押えたまま、自分の目を疑った。神宮球場ではしゃぐ修の笑顔が繰り返し頭を過る。

『桐子さん、前を向いてしっかり見てやって』どこからともなく女の声が聞こえた。

桐子はハンカチを取り出し溢れ出る涙を拭いながら、正面に回って男の顔をしっかりと確認した。

髪を乱してうなだれる男は、まぎれもなく西澤修だ。

修の名を叫ぼうとしたが、繰り返す嗚咽で言葉が出てこない。

修は、右手に握った包丁のような物を警察官に渡している。何度も相手を刺したのか、着ている浅葱色のTシャツは、大量の返り血を浴びて赤黒く染まっていた。

「オサムちゃーんッ。オサムちゃーんッ。オサムちゃーんッ」

 桐子はゆっくりと距離を縮めて、あらん限りの声を出した。しかし、涙は止め処なく流れ、囁くほどの声にしかならない。

 柳田が一言声をかけて、修の腕をつかんだ。

連行されていくのだ。手錠こそかけられていないが、現行犯で逮捕されるのだ。

「オ・サ・ムちゃーんッ」もう一度声を張り上げてみた。

 修は気づいたのか、振り返ると顔をわずかに上げた。青ざめた顔を血飛沫が赤く染めている。そして、目尻を人差し指で軽く押えた。修がはにかむときの仕草だ。

 そのあと、またゆっくりとこちらに背中を向けた。小さく見える背中は、何かを語りかけるように震えている。

下を向いた修は、柳田に肩を抱かれて静かに裏門から出ていった。

 修のうしろ姿が見えなくなると、桐子は両手で顔を覆った。そして全身を震わせながら芝生の上に泣きふした。

「オサムちゃ―んッ」桐子はもう一度修の名を呼んだが、まったく声にならなかった。



【エピローグ】



智明が東横線の電車に乗ると、ユウヤのライブが中止になったことを、車内放送が繰り返し流していた。

 智明はそれを聞いた瞬間、電車の揺れもあるのか、めまいを覚えてじっと目を閉じた。

凶行はこんなに早く行われたのか、まだ開場もしていないのに。俺が和子を止めてやるなんて、バカなことを考えたものだ。俺は甘かった。本当に説得する気があったのか。智明は電車に揺られながら自問自答を繰り返した。

でも・・・・・・、西澤さんはどうしたんだ。あれだけ言ったじゃないか、俺が阻止する、と。

結局、西澤さんも怖気づいたのか。何のことはない。俺たちは誰も阻止できなかったのだ。とにかくパークホールまで行くんだ。智明は腹立たしい思いで会場に急いだ。


 会場の入口に着くと客は疎らだった。ファンクラブの人間だろうか、数人の若い女たちが口々に不満を漏らしている。

 智明は思わず高校生に見える女に声をかけた。

「ライブが急に中止になるなんて、何があったんですか?」

「それがさぁ、ださいオジンがユウヤを刺したんだって。ユウヤへの嫉妬よ!超気が狂ってんだからー。そんなやつ絶対死刑よッ」

 そう言うと、女は大粒の涙をこぼした。

「犯人は本当に男なんですか。女性ではないんですか?」

「男に決まってるじゃん。女が刺したりするわけないじゃん。オッサン何言ってんの?」

 隣の女が怒り顔で答えた。

 智明は礼も言わずに、すぐに踵を返して駅に向かった。

どうしたんだ。誰が刺したんだ。オジさんと言われれば、俺もそういう年齢だが、ひょっとしたら西澤さんじゃないのか。西澤さんだとしたら、彼女たちより先に雄三を刺すことで、二人の凶行を阻止したのか。まさかッ・・・・・・。

「なぜだッ、どうして雄三を殺す必要があったんだ」

 智明は帰りの道すがらまた自問自答を繰り返した。

油蝉の「ジージー」という声が耳に纏わりついて、その日はずっと離れなかった。


 翌日も茹だるような暑さが続いていた。


【ユウヤ!ライブ直前に胸を刺されて殺害される】

記事が朝刊の紙面を飾っていた。


社会面には、見落としそうなもう一つの記事も載っていた。

【身を挺して赤ちゃんを救う】

十七日、午後十二時三十分ころ、東洋生命に勤務する女性社員(四十九)が、東横線の代官山駅の下りホームで、突然動き出したベビーカーを発見。それを救おうとして誤って線路に転落した。女性は下りの急行に撥ねられ即死したが、ベビーカーに乗っていた大塚ゆみちゃん(生後五カ月)は、間一髪のところで難をまぬがれ無事だった。渋谷西署は、女性社員がホームから転落した詳しい原因について、現在調べを進めている。


「あの美談の主が、池川だったとはなぁ。皮肉なもんだ」

 柳田はゆっくりと煙草をふかした。

「しかし、子どもに対する執着というか・・・・・・、それがあまりにも強かったんでしょうね」

 昨日泊りだった稲垣は欠伸を噛み殺した。

「違うと思うわ。子どもに対する愛情があまりにも強すぎたのよ」

 チエは渋い顔をして、うっすらと目を潤ませている。

「もう、今となっては分からないな。女の母性なんて俺には計り知れないよ」

 柳田は、この類の話は苦手だと言わんばかりに、池川の話題に言葉を濁した。

「ところで、問題は西澤の方だ。昨日は結局、殺害の動機を話そうとはしなかったな」

 柳田は煙草をくわえたまま天井を仰いだ。

「私は、何となく分かるような気がするな」

 チエは錆びて固くなった窓を半分ほど開けて、ゆっくりと深呼吸をした。

「じゃあ、チエちゃんはどう理解してるんだ」

「私は、西澤から届いた手紙が、その動機を物語っているような気がしますけど・・・・・・」

「あの手紙か?。もう一度見せてくれ」

 チエは西澤から送られてきた手紙のコピーを柳田に手渡した。



前略

本日、渋谷パークホールで、山村雄三を殺します。

雄三に殺意を懐いているからではありません。

  そうしなければ、人を救えないからです。

 

雄三は、女性の人生を奪い去りました。

  凶器も使わず、一滴の血すら流さず・・・・・・。

何が凶器だったのか?と問われれば、

子どもを殺害したことだ。としか答えようがありません。


私には守るべき大切なものがあります。

だから雄三を殺して、女性の人生を奪い返します。

みなさんから見れば、とても理解不能な考えであることは重々承知しています。


私はアホな人間です。だからこそ、これしか選択肢がないのです。

もちろん同じ理由で、山村了司も私が殺しました。


アホな私にも、信念はあります。

アホはアホなりに、それを貫き通します。

草々


八月十七日  西澤 修 



 柳田は黙って目で文字を追ったあと、煙草をくわえたまま首をひねった。

「ううっー、何度読んでもよく分からない。山村兄弟に対して殺意などなかった、か・・・・・・」

 チエは清々しい顔をして黒髪をかき上げた。

「そうですか?西澤は人を救いたかった。ただそれだけだと思いますよ。不器用な人間だから、その手段を間違えた。西澤こそ救えない男ですよ」

 柳田はコーヒーの空き缶で煙草をひねりつぶすと、チエの言葉に少しだけ頬を緩めた。

「守るべき大切なものか・・・・・・」

「そうですよ。守るべきものがあるかぎり、どんな状況からでもやり直しはききます。救えない西澤の人生だって・・・・・・。そう思いませんか?柳田さん」

「そうかなぁ」柳田は軽く首をかしげた。

「そうですよ、西澤の人生だって・・・・・・」チエは急に目を潤ませた。

「でも、二人も殺しているんだ。死刑かもしれないぞ。万一無期が確定して収監されたとしても、間違いなく誰かの支えが必要だろうな」

 柳田は辛そうな顔をして、また煙草に火をつけた。

「・・・・・・」チエは言葉につまって、口をきつく結んだ。

「西澤は変わったよ。支社長の山村が殺された翌日に彼と話をしたけど、人を殺したあとだとはとても思えなかった。そのときと比べると、昨日の西澤は別人のようだった。あいつもきっとこころを病んでいたんだ。いや、それとも、手紙は・・・・・・」

 柳田は息を止めたように押し黙った。

 チエは思いつめたような柳田の目に触発されて、急にくるりと背中を向けた。そして、おもむろに半開きの窓を全開にした。

吹き込む柔らかい風に髪を梳かせながら、夕焼けに染まり始めた高尾山を眺めている。

「お二人さん。もうそろそろ秋の気配ですよ。ほらっ、こんなにも赤いトンボが・・・・・・」

 チエは指でそっと瞼をなぞった。

「赤いトンボねぇー」

 柳田は窓の外を見ながら青くなった顎を撫でている。

「トンボはなぁ。まっ直ぐ飛びながらも、軽く身をひるがえして元いたところに戻ってくる習性があるんだよ。トンボ返りっていうだろう。人もトンボのようになぁ・・・・・・」

 柳田は煙草の煙とともに続く言葉を呑みこんだ。

「池川は、何を守ろうとしたんだろうな。そして成実は・・・・・・、何を頑なに守っているんだろうか」

 柳田の言葉に振り向くと、チエはわずかに首を振った。

「うーん。私にも分かりません。女だからなおさらかも・・・・・・。でも、西澤はこれからも、ずっとずっと大切な何かを守っていくんですよ」

 チエはほんの少し舌をのぞかせて、両頬に可愛いえくぼを作った。

 柳田は顔を茜色に染めて、沈みかけた赤い太陽をじっと見ている。

 そして眸に映り込む赤に耐えられなくなったのか、わずかに目を細めた。

すると、涙がひとしずく頬を伝った。




それから月日は流れた。


二○○六年 三月―


女は不自由な足をかばいながら、デパートに向かって急いでいた。

休日の渋谷は若い女でごった返している。波のように人が押し寄せ、なかなか前に進むことができない。よろめきながらも、やっとのことでデパートの入口にたどり着いた。

女は相手を見つけると、ニッコリと笑った。

「待たせてごめんなさい」

「ううん。待ってないよ。今来たところ」

 優しい声で女を迎えた。

「お母さん、そんなに慌てなくてもいいのに。ところで足は大丈夫なの?もう七十を越えてるんだから気をつけてよ」

「大丈夫よ。貴女に会うの久しぶりだから、急いで来たのよ」

 女は息を弾ませながら嬉しそうに笑った。

「久しぶりって、毎月会ってるじゃない」

「ううん、私にとってはそのひと月が久しぶりなのよ」

 女は若い娘のように口を尖らせた。

「お母さん、汗をかいてるわよ。少し座ったら」

 二人は入口のドアを開けると、足元に気をつけながら休憩用の椅子に腰を下ろした。

「ところでお父さんは元気なの?」

 女はいくぶん腰を伸ばすようにして答えた。

「アメリカの製薬会社との提携がこじれちゃってね。お父さんは東京とフィラデルフィアを行ったり来たり。忙しくしてるわ」

「お父さんも立派な社長になったわね」

「そうね。貴女たちが産まれたころはどうしようない人だったけど、変われば変わるもんよね」

「でもよかったぁ。あの事故からまだ一年半だけど、お父さんもお母さんも元気になったじゃない」

「そうよ。いつまでもくよくよしていられないわ」

 女はほっと息を吐いた。

「ところで貴女、西澤さんのところにはたまに顔を出してるの?」

「ううん。一度も行ってないわ」

 軽やかな返事だった。

「それでいいの?」

「彼は彼でうまくやってるわよ。塀の中も結構楽しいって話じゃない」

「貴女のためにあれだけやってくれたっていうのに、何だか可哀相ね」

「でも、犯罪者と接触するのは、私らの業界じゃ・・・・・・、ちょっとね」

「ふ~ん。そういうものなの」

 女は皺の刻まれた頬をわずかに膨らませた。

「そんなことよりもお母さん、びっくりしないでよ」

「なあに?驚かせないでよ、心臓が弱いんだから」

「私、また転勤するの」

「えっー、またぁ?」女は顔を歪めた。

「昨日、内示が出たのよ」

「それで、どこに転勤するの?」

「・・・・・・横浜支社よ」

「じゃぁ近いのね。よかったぁ」女はほっと胸を撫で下ろした。

「そうよ。今までどおりいつでも会えるわよ」

「それで、どんな仕事なの?」

「うん。それがねぇ・・・・・・、今度は支社長なの」

「えっー、ほんとに?」

「ほんとよぅ」笑いを何とか噛み殺した。

「すごい、すごい。また出世したのね」

 女は人目も憚らずに、嬉しそうに手を叩いた。

「そうよね。出世したんだよねぇー。私は何もしてないんだけど・・・・・・。周りの男が支えてくれるのよね」

 何気ない顔をして、真っ赤な唇をペロリと舐めた。

 ちょうど正面の壁には、客のために姿見がしつらえてある。

その姿見に浮かび上がる自分をうっとりと見つめながら、わずかに口の両端を吊り上げた。

「お母さん。わたし、きれい?」

桐子のアニメ声が気味悪く響いた。

                                       了




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