アロワナ⑧
続編20~22
二十
八月のあたまにしては、気温が平年より低く爽やかな日だった。桐子は信濃町駅の改札口で修を待った。
プロ野球のチケットがたまたま手に入った、と言って修を呼び出したのだ。とにかく無性に修の顔が見たかった。
決行日まで、あと二週間。桐子は悶々とした日々を過ごしていた。当日、現場で和子を説得してやめさせよう、と思ってはいるが、果たしてそんなことができるだろうか。修は一緒に和子を説得してくれるだろうか。今の和子を説得するのは並大抵のことではない、とは言っても、自分も同じ道を歩いてきたのだ。自分も捕まることを覚悟して、警察にすべてを話した方が・・・・・・。桐子は駅向こうの濃い緑を見ながら大きなため息を吐いた。
誰か和子のこころの襞に分け入ることのできる人間はいないのだろうか・・・・・・・。
「おう、待ったか?」
白いチノパンにラルフローレンの紺のポロシャツを着た修が、目尻を軽く指で押えながら笑っていた。手には大きなコンビニの袋をぶら下げている。
桐子は妙に懐かしい感情を覚えた。修の顔を見たのは新宿の飲み屋以来だ。胸がキュンと鳴る、とはこのことだろうか。
「待ってないよ。今来たところ」
桐子は髪をポニーテールにして、ヤンキースの野球帽を被っている。ベージュのミニをはき、上着は麻のジャケットだ。
体育会の女子大生のような格好に、修は面食らった。とても歳相応ではない。
「なんやッ?その恰好は。よう分からんけど、女の応援団。いや、ユニフォームに着替える前のチアガールや。いいかげんにしときやッ」
桐子は待ってましたとばかりに、ニヤリと笑って敬礼を返した。
「そんなにスポーツ観戦向きの恰好かなぁ」
「うへっ」修はしかめた顔を両手で覆った。
「まぁ、どうだっていいじゃない」
桐子は、修の腕に抱きついたまま駅前の歩道橋に向かった。じっと下を向いたままだ。
遠い昔の記憶が甦る。相手は雄三から数えて三人目の男だった。高校の同級生で、早稲田に進学したあと、東京で一流会社に就職した。二十六を迎えた秋、大阪に帰省した彼と結ばれた。でも性行為ができたのだから、今考えるとお互い遊びだったのだろう。子どもを産みたい、と思った二人目の男とは性行為ができなかった。雄三との思い出が邪魔をしたのではない。子どもをはらめないという罪悪感で気持ちが萎えて、その男を受け入れることができなかったのだ。
三人目の男を知ってから、桐子は彼に会うために時折上京したが、彼はじきに社内の若い女と結婚した。それでも、なぜか忘れられずに何度か上京した。そのとき、夜を一緒に過ごせない彼は、いつも「東京六大学野球」に連れていってくれた。結局桐子にとって、東京の思い出は「神宮球場」だけだ。今でも東京で知っているところといえば、飲み屋以外には「神宮球場」しかなかった。
修に相談したいのか、会いたかったのか、自分でも分からない。ただ、昼間に修と気がねなく会える場所といえば「神宮球場」。それしか思い浮かばなかった。
歩道橋を渡ると、神宮球場への通用路がある。その両側にあるレストランの間を抜け、外苑道路を横切ると、懐かしい絵画館の前に出た。その前の広場ではジョギングをする人が行き交い、サッカーボールを蹴り合う父子の姿があった。そして辺りのベンチには、ハンバーガーを頬張る人がいたり、文庫本を読んでいる人がいたり、みんな思い思いの休日を楽しんでいる。桐子の目には薄い膜が張るように涙が滲んだ。
あぁ、これが東京の休日なのか。爽やかな風が、いくぶん生活レベルの高そうな人たちの間を通り抜けていく。桐子は改めて東京の休日を肌で感じた。昔は、都会的なその男に合わせるのに一生懸命だった。周りの景色にはまったく目がいかなかった。
修は何も言わずに、ただ球場を目指している。一歩前を行く修と昔の男がオーバーラップした。桐子はニヤリと頬を緩め、昔の恋を呑みくだした。
絵画館前から左に折れ、都民に開放されている「日の丸球場」の脇を抜けると、すぐに神宮球場の外野側の正門が見えた。それが見えても修は何も語らなかった。
修は新宿の夜のことを根に持っているのか、と少し訝ったのだが、いかにも楽しそうに顔を綻ばせている。桐子は今日も修のおおらかさに身をゆだねた。
チケット売り場の前に着くと、修はやっと口を開いた。
「こっから球場に入るとか?」
「ううん。反対側にも入り口があるから、そこから内野に入ろうよ」
修は白い歯を見せて素敵な笑顔を作った。
「ホームゲームやから、ヤクルト側に入らな盛り上がらんぞ」
「大丈夫。ヤクルト側のチケットだよ」
桐子はペロッと舌を出して、修の腕を更にきつくつかんだ。
球場内に入ると、周りはコンクリートだらけだ。薄明かりが地下壕のような雰囲気を醸し出している。少し歩くと、上方から光が射すところに出た。その光に引き寄せられるかのように上に繋がる階段を上った。
すると、「ワアァァー」という歓声が耳に響いた。場内放送がちょうど選手の紹介をしているところだった。選手の名前がアナウンスされる度に、地鳴りのように歓声が沸き起こる。コンクリートの床が縦揺れするようだ。
階段のトンネルを抜けると、天空に着いたかのように白い光が二人の全身を舐めつくした。
「最高やなぁ。臨場感や!やっぱりこれや、これッ」
修は、至福のときを迎えたかのように激しく破顔した。
「いいでしょう。オサムちゃん」
「・・・・・・うん」修は目を大きく見開いてゆっくりとうなずいた。
「オサムちゃん。席はあの辺りよ」
修は一回表の攻防を観ながら、そろそろと階段を下りていく。桐子は指定席まで修の手を引いていった。その手の温もりが、頬が熱くなるほど嬉しかった。
席はバックネット裏の中段にあった。
「おう、ええとこやないけ」
「そうでしょう」
桐子は、自分で買ったなどとはおくびにも出さない。
「どこで手に入れたとか?」
「お客さんからもらったの」
桐子は下を向いて、またペロッとピンクの舌を出した。左隣に座った修は、両腕を伸ばして深呼吸をしている。
「ええ客やなぁ。大事にしいや」
桐子が野球帽のひさしをわずかに上げると、爽やかな風が客席を吹き抜けた。
試合は四回の裏まで進んだが、両チームとも単打は出るものの長打がなく未だ無得点。修はその攻防に、右手を突き上げたり、立ち上がったり、一喜一憂している。
桐子は、そんな修の手をきつく握りしめて耳元で囁いた。
「オサムちゃん、うしろの人が迷惑よ。立っちゃダメッ」
我に返った修は、うしろを向いて「すんまへん」と頭を下げた。
桐子は修の手を握ったままだ。そーっと左肩を修の方に寄せた。修の手がピクリと震えたような気がした。
試合は五回の裏の攻撃に入った。桐子は修の手を握ったまま目を閉じた。
「この前はごめんね」観客の声援にまぎれて桐子の声が聞き取りにくい。
「何やッ」
修は聞えなかったかのように、つっけんどんに訊き返した。
「だから・・・・・・」
修は無言でピッチャーの方を見ながら、強く桐子の手を握り返した。
「オサムちゃん。ユウヤのライブ観にいくの?」
「当然やろ」修の声は力強く響いた。
「車で?」桐子は敢えて訊いてみた。
「そうや、車で行く」
「じゃぁ・・・・・・、乗せてって」桐子は目を閉じたままだ。
「だめや。一人で行く」
修はマウンドのピッチャーをじっと見ている。
桐子は黙って小さくうなずいた。
「私、ライブのあと警察に行くかも・・・・・・」
「ウワアァァァー」
三番の牧野がセンターオーバーの二塁打を放った。客席からは渦を巻くように声援が沸き起こる。場内アナウンスがまったく聞こえないほどだ。どこから放たれたのか、頭の上を紙吹雪が舞っていた。
修は何も聞こえていないのか、立ち上がって拍手を送っている。
私が捕まれば、何年刑務所に入るのだろう。いや、ひょっとしたら・・・・・・、死刑かも。たぶんもう会えない。修とはもう会えない。桐子は、色を失くした唇を強く噛んだ。
「桐子、やっとやぞ、やっと長打やッ」修は満面の笑みを浮かべて、何度も拳を突き上げた。
「オサムちゃん、よかったねぇー」
桐子もつられて拍手を送った。
しばらくすると、桐子ははしゃぐ修の目をじっと見つめた。
「オサムちゃん。今の私の話、聞いてた?」
桐子は声援にかき消されないように少し大きな声を出した。
「うっ?聞いた、聞いた」
修は正面を向いたままだ。そして、まぶしそうに目を細めると大きくうなずいた。
本当に聞えたのだろうか、自分の思いが。究極の決心の言葉が・・・・・・。
しっかり聞いているのに、その話題を避けているのだろうか。それとも自分の気持ちを分かってくれているからこそ、黙って受け入れたのだろうか。桐子は敢えて問い質そうとはしなかった。ただ、修のすべてを自分のからだに取り込むように、いつの間にか彼の右腕にしっかりとしがみついていた。
拍手がおさまり、やっと場内アナウンスを聞きとることができた。「四番、ライト秋元。背番号七」再び嵐のような拍手が沸き起こった。
桐子は野球帽を持って立ち上がり、全身を使って大きく手を振った。
「秋元!かっ飛ばせ~」
気持ちに踏ん切りがついたのか、桐子はヤクルトファンでもないのに、涙をいっぱい溜めて秋元に声援を送っている。
秋元が素振りを二、三度繰り返し、軽くヘルメットに手を触れた。そして一瞬振り返り、こちらを見たような気がした。桐子には二人を祝福してくれているとしか思えなかった。
ボールカウントは、ツー・スリー。二人はバッターボックスに立つ秋元にじっと目をやった。お互いの手はしっかりと繋がれている。
「カキ―ン」紺碧の空に爽快な音が響き渡った。
「ウワワアアァァァ―」
球場はまた大きな歓声に包まれた。四番の秋元が、外野の右翼席上段にライナーのホームランを叩き込んだのだ。
「オサムちゃんー。わたし、わたしねぇ。オサムちゃんのこと、あい・・・・・・」その先の言葉は歓喜の渦に呑み込まれて消えていった。
横にいる修を見ると、頬が上気して赤く染まっている。
秋元のホームランに興奮したのか、桐子の告白に戸惑いを隠せなかったのか、修の本心はまったく分からなかった。
そのあと修はクシャクシャの顔で、ペットボトルのミネラルウォーターを浴びるように飲み続けた。
二十一
八月に入ると、多忙を極めた七月のキャンペーン月が嘘だったかのように、支社は閑散としていた。
智明が宮益坂の支社に修を呼んだのだ。
「高尾山事件」のとき事情聴取の控室として使われた部屋に、二人は人目を憚るように入っていった。
「西澤さん、七月お疲れさまでした。いい業績でしたね。前年比二割増しですよ」
智明は無理に笑顔を繕っている。
「そげなこと、どうでもよかやろ。今日俺を呼んだとは、そげなこととちゃうやろ」
修は腕を組んで、ゆっくりとパイプ椅子に反り返った。
「そのとおりです・・・・・・」
智明の顔から急に笑みが消えた。
「実は・・・・・・、忙しさにかまけて言うのが遅くなりましたが、池川和子って知ってますか?」
「あぁ、知っとる」まるで興味がないように、修は目を逸らして鼻を弄った。
「成実さんのお姉さんです」
「会うたことなかばってん、姉がおることは知っとる」
「僕は昔組合で一緒だったんで、よく知ってるんですよ」
「それがどげんしたとか?俺には関係なか」
からだを前に折った智明は、上目遣いに修を見た。
「支社長を殺したのは、成実さんと池川さんです。そして間違いなくまた人が殺されます」
修はそれを聞いても眉ひとつ動かさなかった。じっと腕を組んだまま、身じろぎせずに目をつむっている。
沈黙がしばらく続いたあと、我慢できなくなった智明は、和子から聞いた二人の生い立ちや過去の事件のこと、そして和子が誰かを殺そうとしていることまで、こと細かに修に話をした。自分一人で抱え込むにはあまりにも重すぎて、桐子と親しい修に相談しようとしたのだった。
修の額には大粒の汗が浮かんでいる。でもまだ口を開こうとしない。
「何とか言ってくださいよッ、西澤さん」
修はようやく立ち上がり、ゆっくりと窓際に向かい外を見た。
「過去に起こった事件はすべて事故ばい。そして、お前が聞いたことはすべて狂言や。支社長の死も例外やなか」
「そ、そんなことないでしょう」修の言葉に智明は酷く狼狽した。そんな言葉が返ってくるとは思ってもいなかった。
修は背を向けたままじっとしている。
「俺も桐子から聞いとる。それは姉の妄想や。お姉さんはなぁ、こころを病んどるんや。お前もそれが分かったやろ」
智明はきつく拳を握った。少しからだが震えている。
「でも・・・・・・」
「デモもクソもなか。自分の目で見とらんことは言わんほうがよか」
「しかし・・・・・・」智明は奥歯を噛みしめた。
「そやから、姉は狂っとる言うとんや。夢と現実がごちゃ混ぜになっとる。なんべんも言わせるなッ」
智明は拳を握ったままだ。
「このまま放っとくんですか?」
修の背中が少し揺れた。
「あのなぁ。俺たちは医者やなか。ましてやこころを治せる外科医やなか。お前が彼女たちの胸ををメスで開いてこころを治せるんやったら、治してから密告せぇ。そやなかったら、彼女たちを見守ることや。今は快方に向かっとる。よけいなことはすなッ」
「でも、これ以上被害者が・・・・・・」智明は顔を歪めて立ち上がった。
「大丈夫や。もしそげなことになるようなら、俺が責任ばもって阻止するけん心配すなッ。そげなこと心配するよかお前は仕事や。ええなッ」
「うっ」智明は、予想外の修の発言に落胆の色を隠せなかった。
窓からは夕闇迫る道玄坂が見渡せる。今日も変わりなくネオンを求める人の波が押し寄せていた。
稲垣が沖縄から戻り、事件の内容を柳田に報告した。しかしずいぶん昔のことだ。詳細に確認できたわけではなかった。
名護南署の古参の刑事によると、当時入院中の池川から事件の経緯を確認した、という
ことだった。
池川は精神的に錯乱した状態が続いていて、二人の男に襲われたことしか理解していな
い様子だった。よって、二人がいくつくらいの年齢だったのか、顔つきにどんな特徴があったのかさえ憶えていなかった。ただ、妙なことをうわ言のように繰り返していた。
「因果は巡る」と・・・・・・。
何を言いたかったのか、自分には検討がつかなかった。
二日ほどで退院する予定だったが、錯乱状態が続いたため、その後一週間ほど退院を延ばした。しかし、その間も手がかりはなく、結局捜査らしいことはできなかった。
退院後、池川はしばらく沖縄に残り独りで犯人の消息を追ったようだが、残念ながら何も見つけることはできなかった。
しかし、それから三カ月近く経ったころ、アメリカから手紙が届いた。
「今、私はアメリカのフィラデルフィアにいます。例の事件で妊娠しました。どうしても産むことはできません。病院でかかる費用の請求先を教えてください」と・・・・・・。
連絡先が書かれていなかったため、回答をせずにそのまま現在に至っている。
「以上が、名護南署の刑事の話です」
「ふ~ん。そうか・・・・・・」柳田は苦虫を噛みつぶした。
「でも池川は子どもが欲しかったんじゃないですか、何で産まなかったんでしょう」
稲垣が少し首をかしげた。
「何言ってるのよッ、単細胞ね。相手が誰だか分からないのよ。そんな子、産めるわけないでしょう。それも遠いアメリカで」
チエが呆れ顔で横から口を挿んだ。
「レイプされただけじゃなく、妊娠までしていたのか・・・・・・」
柳田は髭が残った顎を撫でながら、ソファーにドッカリと腰を落とした。
「相手が雄三だと知らなかったわけですから、皮肉ですよね」
チエは軽く唇を噛んだ。
「知らなくてよかったよ。知っていたとしたら、あまりにも残酷だ・・・・・・。池川が惨め過ぎる」
今回の事件の主犯は池川だ、と確信しているものの、遠い昔の事件の結末に柳田は同情を隠せなかった。疲れと憐れみが同時に柳田の全身を襲った。
しばらくすると、稲垣が遠慮がちに口を開いた。
「でも柳田さん、これだけ物的証拠のない事件も珍しいですよね」
稲垣が言うように、あまりにも証拠がないため、捜査は暗礁に乗り上げていた。捜査本部は、警視庁の応援を要請する直前の状況まできている。そんな中柳田は、星を挙げるのは時間の問題だ、と言って、意固地な態度でその応援を拒み続けていた。
「もうこうなったら、現行犯で確保するしかありませんね。池川はすでにライブのチケットを購入済です。それも二枚」
チエの言葉に、柳田は腕を組んで目を閉じた。
「そうなるんだろうな。八月十七日、晴れるといいんだが・・・・・・」
二十二
八月十一日。東洋生命は明日から夏季休暇の七連休に入る。
和子はその日の深夜、赤いボルドーワインを口にしながら、ライブに着ていくジャケットを選んでいた。大きなテーブルには、赤、青、緑など、十着ほどのサマージャケットが無造作に並べられている。和子は真っ赤なジャケットを手に取って、その生地の肌触りを確認した。
テーブルの隅には、クロロフォルムが入った化粧水の瓶と、メンタルクリニックからもらった睡眠薬が準備されていた。重いスクーバの錘は、七つ繋がれて冷蔵庫の横に置かれている。
「やっぱりこのジャケットにしよう。どう?似合うでしょう、トモちゃん」
和子はいるわけのない智明に話しかけた。
「トモちゃんとの子どもだったら、私産んでたかも・・・・・・。でも、トモちゃんはそのとき中学生だったのか。まだお尻が青い童貞くんだったんだよねぇー。フフフッ。トモちゃん、ライブ会場に来ちゃだめよ。私トモちゃんも殺しちゃうかもしれないから。でも、もう会えないね。二度と会えないね。いい人見つけてよ、トモちゃん」
すると携帯が鳴った。公衆電話からだ。
「会場の正面入口に午後一時。準備は万端よ」
桐子はそれだけ言って電話を切った。
渋谷パークホールは、東急東横線の代官山の駅から歩いて十分ほどのところにある。
いよいよだ。顔が熱を帯びるのが分かる。和子は一気にワインを飲み干した。
口の両端から鮮烈な赤がこぼれ落ちた。レモン色のパジャマの襟がみるみる赤く染まった。
智明は高円寺の寮で、一人白ワインを傾けていた。右手には小ぶりの乾燥イチジクが握られている。
ライブまであと六日。和子はきっと「ユウヤ」という男を殺すはずだ。俺には分かる。桐子も一緒だろう。やはり二人とも狂っているのか。
西澤は、もし何か起こったら俺が阻止する、と言っていた。西澤はすべて把握しているのだろう。そうじゃなければ、あんなふうに断言できるはずがない。自分はどうすればいいんだ・・・・・・。
西澤が言うように、もう事件に首を突っ込まない方がいいのか。しかし・・・・・・、このまま和子を放ってはおけない。
智明は自問した。
「殺人事件が起きようとしているから、こんなに和子のことが気になるのか。いや、もしかしたら和子という女に惹かれてしまったのだろうか。西澤は、和子は狂っている、と言っていた。俺がそんな女に惹かれるはずがない。でも・・・・・・、本当は正常で、今でも狂言を続けているとしたら、その執念はあまりにも凄まじい。俺などが計り知れないほどの怨念を抱えているはずだ。そんなもう一つの顔に、俺は惹かれたのか。いや、そんなことはもうどうでもいい。どちらにしても何とかしなければ。俺の取るべき行動は?考えても考えても、結論は出ない。とにかく会場に行くことだ。行って真実を見極めることだ。今はそれしか頭に浮かばない」
智明は、宙を見つめたまま無造作に乾燥イチジクを頬張った。
無数の種が弾けて、口の中に濃厚な甘みが広がった。
「手配はすべて整いました」
刑事部屋の柱時計はもう夜の十時を指していた。
「よしッ。会場のキャパは千五百人だ。とにかく客には迷惑をかけないようにな。当日は、すべての客が会場に入ってから捜査員を配置するんだぞ」
柳田の目は血走っている。
「はい、承知しました」
稲垣も疲れた表情を隠せないでいる。
「五時開場、六時開演だ。終演は早くとも八時。俺たち三人は午後早めに会場入りだ」
柳田はじっと遠くを見たあと、ふと気づいたかのように煙草に火をつけた。
「でも、本当に事件は起きるんでしょうか?それこそ沢山の捜査員を手配して、空振りなんかで終わったら・・・・・・、いよいよ本庁が乗り込んできますよ」
チエは少し頬を膨らませて軽いため息を吐いた。
「だから、今回の件はごく少数の人間しか知らないよ。捜査員も俺たち以外には三人だけだ。それも成実、池川、そして雄三の尾行についていた三人だよ」
「えっー、そんなに少ないんですか?」
チエは大事件だと認識しているのに、身内だけで事件の山に関わることに落胆した。
「チエちゃん。そんなこと言ったって、犯行は行われないかもしれないんだよ。大勢の捜査員を手配して、もしそうなったら、それこそ大失態だよ」
稲垣はまだ経験の浅いチエに先輩面を向けた。
「今回やつはへたな小細工などしない。いや、できないはずだ。そして成実のためにライブだけは成功させてやりたいと思っているに違いない。問題はそれからだ。ライブが終わると必ず楽屋に顔を出す。そこで強硬突破するつもりだ。その瞬間に逮捕するんだ。いいか、やつらから絶対に目を離すな。現行犯じゃないと意味がないからな。ただ、万一ライブに支障があってもいけないし、客に迷惑がかかってもいけない。そのへんは十分考えて行動してくれ」
柳田は遠くに向けて煙草の煙を飛ばした。
「とってもデリケートな逮捕なんですね」
チエは大きな目をさらに大きくして首をかしげた。
「そうだよ。スタッフジャンパーも六着用意してあるよ。音楽事務所に内緒で手を回したんだ。今回はスタッフになりきるんだよ」
稲垣がニヤリと笑った。
チエは逮捕の方法に不満があるわけではない。女として人生の先輩である桐子たちに不安を覚えていたのだ。自分でも、最近かすかに母性を実感することがある。若いころはそんなことはなかった。泣く子を見ると、鬱陶しくさえ感じた。でも今は違う。路往くベビーカーを、いつの間にか視線が追っている。泣き叫ぶ赤ちゃんを見ると、乳房が疼くような思いにとらわれる。普段の生活のなかで、目には見えない漠然とした母性を感じるのだ。すでにそんな母性を湛えた桐子たちこころに潜む狂気。一人の女として、自分では理解不能な桐子たちの狂気に、どうしようもない不安を覚えていたのだ。三十年もの間胎動を続けていた狂気が、最後の殺人を前にして、今まさに羊膜を破ろうとしている。そんな狂気を、たった六人で封じ込めることができるのだろうか・・・・・・。
チエはその不安を払拭するために、無理に大きな声を出した。
「喉が渇いちゃったね。グイッと一杯いきましょうよ。フフッー」
「そ、そうですね。柳田さん」
稲垣は柳田を気にしながら、いくぶん赤みの差したチエの顔を、宇宙人でも見るかのような目でまじまじと見た。
「・・・・・・じゃぁー、行くか」
柳田は曖昧な笑いを浮かべ、慌てて煙草を消した。
修は小さなテーブルで手紙をしたためていた。ゴミ箱にはいくつもの丸まった便せんが溜まっている。何度も書き直したのだろう。テーブルの隅には、コンビニで買ってきたのか、冷酒とサキイカが置いてある。床にはコンビニの袋が無造作に捨てられ、空になった冷酒の瓶が二本転がっていた。
「やっと終わったばい」修は両手を上に伸ばして、大きなため息を吐いた。もう時計は夜中の一時を指している。
できあがった一枚の手紙を、無地の封筒に入れて丁寧に封をした。
ゆっくり立ち上がると、封筒を机の引き出しにしまい、冷蔵庫のドアに貼ってあるカレンダーをじっと見た。
「十六日には投函せんとなぁ」そうつぶやいて、赤いマーカーで十六に印をつけた。
またテーブルにつくと、グラスに酒を注いで一気に半分ほど空けた。
「ふうー、ちと疲れたわ。慣れんことしたなぁ。明日は子どもたちに、こっちで有名なバームクーヘンでも送らんといかんなぁ。この夏休みは名古屋に帰れんからな・・・・・・」
修は渋い顔をして残りの酒を呷った。
しばらくすると立ち上がり、背広のポケットから名刺入れを引き抜いた。足が少しもつれている。そして死んだ妻の写真を取り出した。角がつぶれ、少しセピア色に染まりかかっている。
「万砂子ー、もうそろそろ人を好きになってもええんかなぁ」
修はじっと万砂子の笑顔を見つめながら、ゆっくりと酒をグラスに注いだ。
「ふうぅー、すまん。俺なぁ、もしかしたらもう好きになったのかもしれん。下の智花が高校を出るまでは頑張りたかった。でも・・・・・・、もう時間がないんや。俺が何とかせんと」
すると、電灯がチカチカし始め天井がわずかに揺れた。そして、どこからともなく弱々しい声が聞こえてきた。
『ええやないの、好きに生きたら。あんたの人生やもん』
「でも、まだ子どもが・・・・・・」
『ええよ。子どもは親のいいとこだけ取って産まれてきたんよ。親より強いもんよ。あんたがおらんでも、ちゃーんと育ってくれるわ。べたべたして子どもの人生邪魔したらあかん。どうせあんたの思うとおりにはならへんわ』
徐々にその声がしっかりとしてきた。
「なら・・・・・・、お前は?」
『私はええよう。こころもからだもあんたの世界から消えてしもたんよ。人間死んだらすべて消え去るんよ。あんたの思い、優しさを、誰かに注いであげんともったいないわぁ。そやろ?』
「でも家族に・・・・・・、め、迷惑をかけるかもしれん」
窓の手前に万砂子の姿がおぼろげに見えた。
『ええやない、ちっとの迷惑くらい。あんたよう頑張ってきたんやもん。自分の思うたこと貫いたらええやん。そうしぃ。ふっふっふっー。どうせあんた、決めたらやり通すやろ?そうしぃ。そうしたらええやん、ねっ。それじゃぁ、私そろそろ行くわ』
「ちっと待ちいやッ。万砂子!」
『ん?じゃぁ、消える前に一つだけ。ええ?』
万砂子は振り向いた。
「よかよ、なんや?」
『あんた、何でそこまで思いつめるん?』
「・・・・・・自分でもよう分からんけど。このままやと、あ、あいつは、一生失い続ける女のままで終わるんや。子ども、仲間、思い出。すべて失くして、一人で死んでいくんや。そやから、今なんとかしたいんや。俺が止めんと、あいつの人生は終わってしまうんや」
『ふ~ん、殊勝なことやねぇ。まぁええわ、そうしたり。ふふっ、なら行くわね』
「万砂子、待たんかッ。待たんかッ。万砂子―ッ」
万砂子は霧がひくように、窓の外に消えようとしていた。
修はすでに冷酒四本を空けている。ゆっくりと消えつつある万砂子に向かって、何度もその名を叫び続けた。
すべてが消え去り重い静寂が戻ると、修は万砂子の言葉をゆっくりと反芻した。
「あんたの人生はあんたが決めたら。か・・・・・・」
修は万砂子の写真を裏にしてテーブルに置いた。そして自分もゆっくりと顔をふせた。
神宮球場で握った桐子の手の温もりをかすかに思い出していた。修は目を閉じたまま固く拳を握りしめた。