アロワナ⑦
続編17~19
十七
「待たせたな」雄三は今日も濃いサングラスをかけていた。
「おう、よう来たな」修は渋い表情を雄三に向けた。
「浮かない顔してるな」
「サングラスは取らんか」
「何だか機嫌が悪いんだな」
「よかけん、飲め」
修は黙ってビールグラスに冷酒を注いだ。
「今日は泊まりやろう?」
「おう、新宿のリージェントホテルだ」
「贅沢なホテルに泊まっとうとやなぁ」
「事務所が予約してるんだ。俺の好みじゃないよ」
「ほんなら、前の話の続きをじっくり聞かせてもらうばい。東京進出の前に話したい。そう言うとったよな」
雄三は無言でうなずいた。
「その前に何か食べさせてくれ」
雄三はお腹を空かせているのか、ギョーザと麻婆豆腐、それにチャーハンまで注文した。
すると、雄三は飲み残しのグラスに気づいて訊いてきた。
「今まで誰と一緒だったんだ?」
何も知らない雄三は、殴ってやりたくなるほど呑気に見える。
「会社の同僚たい。夕方から飲んどった」
修は面倒臭そうな顔で答えた。
「休日の酒か、いいよなサラリーマンは。俺なんか土日の感覚もなくなっちゃったよ」
雄三は機嫌の悪い修に気を遣って、丁寧に冷酒を注いだ。修は注ぎ終わる前にグラスを取り上げ、そのまま一気に呷った。
「兄貴が子どもを殺したとか言うとったよな。それはどういうこっちゃ」
「うん・・・・・・、何か東京に来たら、もうどうでもいいかな、なんて思えちゃってさぁ。俺がメジャーになったら、彼女も昔のことなんて忘れてくれるんじゃないのかな」
東京でのライブコンサートを前にして、雄三は案の定有頂天になっているようだ。昔の癖は直っていない。
「いい加減なことば言うたらあかん。今でも彼女は苦しんどるはずや」
「えっ?修は言ってたじゃないか、彼女はもう結婚して幸せに暮らしているかもしれないって。だからもういいんじゃないのか?俺が有名なミュージシャンだって分かったら、彼女は過去のことなんて忘れてくれるさ」
修は業を煮やして言葉を荒げた。
「雄三ッ、お前は過去を洗いざらい話して東京ば進出するて言うたやないか。それが今度はなんや。お前の正義感はどげんしたとやッ」
修は雄三の傲慢な態度に気水がこみ上げてきた。
「もうどうでもいいような気がしてさぁ」
「なんがかーッ、ふざくんな!」
雄三は修の大声に翻弄されて、こころはいつの間にか遠い昔に飛んでいた。
当時、桐子は小学一年生、彼女は天満橋の薬品会社の娘だった。ある日、近所の小学生数人が桐子の母親から誕生会に呼ばれた。いつもは俺のことをまったく関知しない桂月だったが、たまたまそのことを知ったとたんに怒り出し、誕生会には行かせてくれなかった。しかし、当時学年が違う桐子とは、近所に住んでいるというだけでほとんど面識もなく、特に誕生会が中止になったことを気にすることはなかった。そのあとすぐに、田舎で創作をしたい、という桂月の我がままで、山村家は天満橋から北の箕面に引っ越しをした。それからは、一度も天満橋に行くこともなく、俺はそのまま大阪の大学に進学した。しかし三回生のとき、学園祭で偶然に桐子と再会した。桐子を最後に見たのは彼女が六歳のときだったが、十七歳の桐子は見違えるほど綺麗になっていた。見事に魅力的な容姿の持ち主に変身していた。風に揺れる黒い髪。甘いミルクを湛えたような純白の肌。漆黒の眸。桜色の可憐な唇。俺は桐子のすべてに魅了されてしまった。桐子は遠い空から地上に舞い降りた天使のようだった。そして俺が天満橋に住んでいたこと、ましてや桂月の息子だということすらまったく忘れていた。いや幼いときのことなど憶えていなかったのかもしれない。そのころ、桂月の絵は世間に認められてはいたが、彼の人間としての評判は芳しいものではなかった。だから桐子と付き合うために、俺は桐子の忘却を歓迎した。そして、自分の生い立ち、ましてや家族のことなどには一切口をつぐんだ。桐子も何も訊こうとはしない。ただ「幸せな家庭を作りたい」と口癖のように話していた。俺は彼女の前では、ギターの好きな田舎出の青年でとおしていた・・・・・・。あの事故が起きるまでは。
「おい雄三、どげんしたとか」雄三は、修に肩を揺すられて我に返った。
しばらく目をしばたいてから、修の罵声に返答しなくては、とポツリポツリと話し始めた。
「俺が学生のとき、一緒に歩いていた彼女が、兄貴の運転する車に撥ねられたんだ。兄貴はそのまま逃げたよ。要するにひき逃げだよ。俺も結局、怪我をした彼女を介抱しなかった・・・・・・。卑怯な俺は、何もせずにそのまま逃げたんだよ」
雄三は人としての最低の義務を放棄したのか・・・・・・。修のこころの中に、更に憎悪が膨らんでいった。
その彼女の正体は「桐子」だ、と感づいてはいたが、修は桐子の話を切り出そうとは思わなかった。それより雄三にすべて白状させることを優先した。
「なんで、そげなことしたとや」
雄三は辛そうに顔を歪めた。
「彼女は妊娠していた。ちょうど五カ月目に入ったとこだった。俺は彼女から妊娠を打ち明けられたとき、正直いって、しまったと思ったよ。俺は、就職したら結婚しよう、って約束したけど、家族を養うことにどうしようもない不安を感じたんだ」
「なんやとッ、もういっぺん言うてみい。アホなことぬかすなーッ」
修はカウンターを平手で叩いてまた罵声を浴びせた。
「そんなに怒るなよ」
雄三はとっさにしかめた顔を逸らした。
「冷静に考えてみい。そげな裏切り聞いたことなかぞッ」
「俺にも事情があったんだ」
「それは、なんやーッ」
雄三は、グラスいっぱいに満たされた冷酒を一気に呷った。
「大学を卒業してすぐに家庭を持つことが怖かったんだ。父親になることが怖かった。俺の親は桂月なんだよ。そんな親から学ぶものは何もなかった。物ごころついたときから、桂月は家にいたことなんてなかったよ。母親のいない俺は、たまに家を訪ねてくる親父の愛人に育てられたようなものだ。誕生日、クリスマス、それに正月だって、俺にとっては普通の日でしかなかった。普通の家庭の姿形なんて、俺にはとても想像もできなかったんだ・・・・・・」
修は少し冷静さを取り戻したのか、じっと話に聞き入っている。
「だから彼女のことが・・・・・・、そう、楽しくはしゃぐ彼女のことが鬱陶しくなったんだよ。そんなときに事故が起こったんだ。兄貴が現場から逃げたあとも彼女の意識は朦朧としたままだった。でも、出血もそれほどなかったから、俺は軽傷だと思ったんだ。いや、自分にそう言い聞かせたのかもしれない。そしてこの事故は、彼女と別れるための絶好のチャンスだと思えてきたんだ。ちょうど、デビューの話が持ち上がっていたときだからな。女を妊娠させたこと、更にはこの事故が表ざたになれば、デビューの話はなくなる。そして一生チャンスは巡ってこない。俺はこのまま身を隠して、ほとぼりが冷めたころに芸名でデビューする。それが一番いい方法だと思ったんだ。俺が消え失せて証言しなければ、兄貴も逃げとおせる。そして、俺にとっては自分が経験したことのない家庭を作らなくて済む。そんな気持ちになったんだよ」
「そげなこと言うても、お前がデビューしたら、彼女に告発されて警察はすぐに動くばい。そしたらお前は事情聴取されて、兄貴はすぐに逮捕されるたい」
「そうだよ。自分でも最初は軽率な考えだと思っていた。でも親父から電話があったんだ。『何とかするから、今の女とは別れろ』とね。また親父が収めてくれる。俺はすべて無視してやり過ごせばいいんだ。親父なら府警までは何とかなるはずだ・・・・・・。結果的には警察はまったく動かなかったよ」
「またやて、そげん親父に助けてもろとるとか。オヤジ、オヤジて、お前は親父が嫌いやったんとちゃうか?都合のよかときだけ親父に助けてもらうやて、最低やッ。言うとることとやっとることが反対やなかかーッ」
雄三はふせていた顔を上げた。
「そんなことはない。沖縄の事件は親父には頼っていない」
「なんやそれ?他にも人に迷惑かけたことがあるんか?」
雄三は慌てて右手で口を押さえた。よけいなことまで口を滑らせてしまった。
「お前には関係ない。ちょっとしたことだ」
「長い間、売れんで苦労しとうと思うとったけど、親父の庇護のもとでぬくぬく生きとったんやな。結局、だらしのう怠惰な生活を送っとたんやろ。そやないか?いい加減なやっちゃで、お前ちゅうやつは」
修は肩を落として大きなため息を吐いた。
「仕方ないよ、歌が売れなかったんだから。その間、俺は親父に金の無心を続けたよ。俺に冷たかった親父に、罪滅ぼしをさせてあげたというわけさ。親孝行のようなものだよ」
雄三は呑気そうに餃子を摘まんだ。
修は口を歪めて、もうこれ以上聞きたくない、という顔をした。
「・・・・・・雄三。昔のお前と今のお前、どっちがほんまの雄三なんやッ。もう、俺はよう分からん」
「今の俺だ。ここにいるのが本当の俺だよ」
雄三は迷うことなく嘯いた。そして冷酒をなみなみと注いで、知らん顔で半分ほどを空にした。
「雄三、大阪で俺と話をしたとき、売れるまでは大変な苦労をした、て言うたよなぁ。あれは?」
雄三は人をバカにしたように笑った。
「そんなことくらい分かるだろう?お前だって子どもじゃないんだから。いいか、五十を越えた男がメジャーデビューするんだよ。『苦節三十年』って宣伝しないと売れないだろう。だから身近な人間にもそう言っただけだよ」
修は、信じられないという顔をして、首を何度も左右に振った。そして目を閉じると、一気に冷酒を飲み干した。
「ふう~、ほんなら俺を騙したんか。おうっ雄三、言うてみい」
「こういうことは身内から欺かないとな。そんなに簡単に世間は騙せないんだよ」
「そげなこと・・・・・・」修は肩で息を吐くと、崩れるようにからだを沈めた。両手はわなわなと震えている。
「こいつは俺まで騙したいうこっちゃ。最低や!」こころの中で思いきりツバを吐いた。
修は下を向いたまま、声を立てずに涙を流している。
桐子のことが不憫でならない。桐子の女としてのからだを壊したのは山村了司だ。しかし、女としてのこころを壊してしまったのは山村雄三に他ならない。桐子の女を凌辱し、ズタズタに切り裂いたのはこの男たちだ。
修は、お台場で倒れた桐子の姿を思い浮かべていた。
桐子は腰骨にボルトを何本も打ち込まれ、胎盤を作れないからだにされた・・・・・・。だから幼い子どもを見ると、いつも微笑んだあとに目を潤ませる。更にその子を見守る若い夫婦。夫を見ると昔の雄三を思い出し、隣で微笑む妻に嫉妬する。本当なら私がそこに立っているはずなのに、と。
あの事故から今日まで、桐子は何百回、いや、何千回と幼い子どもを連れた若い夫婦を見てきたことだろう。見る度に神経をすり減らしていったんだ。そしてこころは狂気に侵され続けた。だから・・・・・・、「アロワナ」のキーホルダーを持つ男を捜し続けることで、こころのバランスを保ってきたんだ。そして、水子に「まゆ」という名前までつけて供養し続けることで、誰にも言えない苦悩を抱える自分を癒してきたんだ。
「お前が今座っとるその椅子には、さっきまでお前が捨てた桐子が座っとったんやッ。俺にとって大切な桐子が座っとったんやーッ」修はこころの中で叫けんだ。
「俺はもう帰るぞ。ホテルに女を待たせているからな」
雄三は面倒臭そうに言った。
「ちょっと待たんかッ。その女の名前は?」
「サヤカっていうけど」
雄三は鼻で笑って、くわえ煙草のままサングラスをかけた。
「違うッ、アホなことぬかすなーッ。お前がぼろ布のように捨てた女の名前やッ」
修の目は血が噴き出したように赤く染まっている。
「・・・・・・うっ」雄三は口ごもった。
「帰る前に言わんかッ。お前がボロボロにした女の・・・・・・、お、女の名前や!」
修の目からドッと涙が溢れた。
「もう忘れたなぁ。三十年以上も前のことだぞ」
雄三はくわえた煙草を吹き捨てた。
「くさんッ、忘れたとか言わせんぞーッ」
『桐子いう女やろう』という一言を修は呑み込んだ。
「修、お前酔ってるぞ。みっともない。俺はもうホテルに戻る」
雄三は、金糸を織り込んだ派手なジャケットを抱えて立ち上がった。
修は大きな息を吐くと、下から雄三を睨みつけた。
「雄三、俺はお前がメジャーデビューを前にして変わったと思うとった。ばってん考えてみたら、お前はなんも変っとりゃせんかったな。お前は昔から悪の権化やッ」
修は腸が煮え繰り返り、うしろで結んだ髪を引っつかんで雄三を引きずり回してやりたかった。しかしまだ分別のかけらは残っていた。無念にもそう言うのが精一杯だった。
「俺が悪の権化?分かった、分かった。修、もうこれ以上飲むなよ。ライブ当日のスケジュールとチケット郵送しておくよ。ライブの日は楽屋まで遊びにこい」
修は立ち去る雄三から目を逸らすと、雄三が使ったグラスを床に叩きつけた。
十八
鬱陶しい梅雨が明けた。中央線の窓から見える景色は、木々の深い藍色が鮮烈だ。
吉祥寺駅に降り立つと、パソコンからプリントアウトした地図をバッグから取り出した。初めての駅に戸惑いながらも、公園口の改札を出ると、左手に井の頭線の乗り場を見ながら外への階段を下りていった。すると右手に、華やかな飲食店が軒を連ねているのが見えた。大阪の心斎橋筋商店街と比べたらチンケだなぁ。和子は唇を尖らせてそうつぶやいた。
ふとうしろを振り向いた。誰もいない。大阪から誰かにつけられているような気がしてならない。どこからか二つの眼で見られているような・・・・・・。
気のせいだろう。和子は何事もなかったかのように、丸井の横を通り抜けて桐子が住むマンションに急いだ。徐々に緑が多くなっていく。井の頭公園が近いのだろう。真上から射す太陽の光が木々の緑を鮮やかに浮き立たせていた。
公園入口と書かれた案内板の手前を左に曲がると、小ぢんまりした瀟洒なマンションが見えてきた。深い緑に抱かれた白い建物は、場所柄もあってかメルヘンチックに見える。
あれが桐子のマンションか・・・・・・。和子は逸る気持ちを抑えて立ち止まると、注意深く周りを見回した。誰もいなかった。
エレベーターに乗ると七階のボタンを押した。桐子は最上階に住んでいる。窮屈な箱から降りると、すぐ隣が桐子の部屋だった。七○七号室。
和子は、インタフォンのボタンを押さずに軽くドアをノックした。静かにドアが開いた。桐子は無言で目配せすると、素早く和子を招き入れた。
「しばらくね、お姉ちゃん。元気だった?」桐子は声を抑えて訊いた。
和子は無言のまま軽くうなずくと、縦長に設計された二LDKの奥の部屋に向かった。
「仏壇はどこ?」
桐子はコーヒーを淹れながら返答した。
「寝室のデスクの上よ」
和子は天満橋の家にも同じような仏壇を置いている。位牌をじっと見ながら正坐をすると、線香を立てて、桐子に聞こえないようにそっと囁いた。
「まゆちゃん。二人の男がママを置き去りにしなければ、貴女は助かったのよ。そして私たちの周りで楽しそうに遊んでいたはずよ。でも、やっと恨みを晴らしてあげたわ。だから今度は私たちの恨みを晴らすわよ。あいつが死んだ今、やっと私たちの恨みを晴らす番が巡ってきたのよ。祈っていてね、まゆちゃん。大阪のおばちゃんの子ども、「ゆみ」ちゃんのことも忘れないでよ。二人はこの世に産まれてこなかったけど、従姉妹どうしなんだからね・・・・・・」
和子はゆっくりと振り向くと、今度は桐子に聞こえるように大きな声で話しかけた。
「ちゃんと産まれていれば、『まゆちゃん』もそろそろ三十歳よね。長かったわー」
「えっ!何言ってるの、お姉ちゃん。まゆは、まゆはまだ産まれたばかりよ」
桐子は突然妙なことを言った。
「ごめんなさい、勘違いしたわ。そ、そうよね。まゆちゃんはこの間産まれたばかりよね」
「当たり前じゃない。まだ歯もはえてないのよ」
桐子は、突然軽い発作を起こしたようだ。和子は反対に少し冷静さを取り戻した。
桐子をこれ以上刺激しないように、和子は静かに仏壇を離れた。そして旅行バッグから土産を取り出すと、ダイニングの椅子にゆっくりと腰を下ろした。
「これお土産。蓬莱の豚まん。珍しくもないけど、お昼に一緒に食べようと思ってね」
「わぁ嬉しいー。懐かしいわ」
桐子は強張った顔をいくぶん緩めた。
和子は一頻り部屋を舐め回すと、コーヒーをひと口すすっておもむろに切り出した。
「ところで、あのあと変わったことはない?」
「事情聴取が二度あったきりよ。でも、刑事は私が持ってるキーホルダーに興味があったみたい。きっと営業所の事務員が、私がいつも持ってる、って証言したのよ。間違いないわ。このまま何も起こらないといいんだけど・・・・・・」
「私のところも稲垣という新米の刑事が来たきりよ。でも・・・・・・、支社の福澤に聞いたところによると、私たちのことを結構嗅ぎ回っているらしいわ」
「えっ、本当?大丈夫かしら」
桐子は心配そうな顔をして、両手で頬を挟んだ。
「大丈夫よ。私と貴女の関係なんて誰も分からないわ。だって戸籍が別なんだから。それに、キーホルダーの連鎖なんて、バカな警察には解明できないわ。死んだ人間に共通するものがあのキーホルダーだなんて、どうやって調べるのよ。無能な田舎警察ならなおさら無理よ」
「そうよね。あんな『アロワナ』が事件の鍵だなんて、神様だって分からないわよね」
桐子はそっと乳房に手を触れて、胸を撫で下ろす仕草をした。
土産の豚まんを食べ終わるころ、和子は思い出したように口を開いた。
「それより桐子、貴女少し太ったわよ。高尾山の事件が終わって安心してるんじゃないでしょうね。それに柔になった。仕事のときに演じる荒い性格はどうしたの?」
桐子は和子の言葉に頬を歪めた。二卵性双生児だけど、和子にすべて主導権を握られている。姉の和子にはいつまで経っても頭が上がらない。
「お姉ちゃんと二人のときは、普段のままでいさせてよ」
桐子はプイッと横を向いた。
「しょうがないわねぇ。いつまでも子どもなんだから」
和子は姉らしく桐子を窘めた。
「でも、お姉ちゃんこそ人のことは言えないわ。そうとう太ったんじゃないの?私びっくりしちゃった」
和子は、とっさにバツが悪そうな顔をした。
「そんなこと言ったって・・・・・・、毎日、夜は家から出られないのよ。誰かが見張ってるような気がするの。だから食べるしかないの。寝てるとき以外は何か食べてるわ。仕方ないでしょう」
和子は、妊婦のように下腹を擦りながら背中を反らした。
「そんなに心配することないと思うわ。尾行なんてされてないわよ」
「だめよ。次の仕事が終わるまで安心なんてできない」
桐子はその言葉を聞くと、訝しげな顔で和子を見つめた。
「何言ってるの、お姉ちゃん。もうこれで終わりでしょう?」
桐子は、山村を殺したことで当然すべてが終わった、と思っていたし、これで長年の恨みが晴れて、支障をきたしていた精神が、わずかながら癒えつつあるような気もする。
犯人の正体を突き止めるために、どれほどの時間を費やし、どれだけ女を削ってきたことか・・・・・・。
大阪北の山田の件は、本当に一瞬のことだった。本当によく憶えていない。寮の階段で山田のキーホルダーを見たときから自分の行動は神に操られているようだった。
車に撥ねられたときの忌まわしい記憶、その後の辛い思いが瞬時に脳裏をかすめた。殺すつもりなどなかった・・・・・・。子どもが死んだ。でもその事実をずっと受け入れられずに、鬱屈した時間を過ごしてきた。だから、子どもが吸うはずだった乳房を山田につかまれたときは、琴線に触れられたというよりも、琴線をプツリと切られたような気がして、からだが勝手に山田を蹴り上げていた。
それからだ。「リョージ」という名を耳にすると、どうしようもなく胸がざわつき、その男に近づいてしまう。そして男を貪りながら、キーホルダーを飢えた犬のようにあさる。
「アロワナ」という獲物を見つけた瞬間・・・・・・、今度は神が操るのではなく、こころの中に自分の意思としてはっきりとした殺意が湧き起こるのだ。どうにも耐えられない殺意だった。その殺意を行動に導いてくれたのが和子だった。だから和子には感謝している。いくら感謝しても足りないほどだ。そして、姉妹という血縁の暖かさがずっと心身を温めてくれている。どれだけ詫びても済むものではない。復讐のために和子の人生の大半を私が奪ったからだ。
数万の社員がいる東洋生命に、「リョージ」は何人いたことか。気の遠くなるような作業に、途方もない時間を費やした。でも・・・・・・、でも今、本当の犯人である山村が死んで、もう誰も殺す必要などなくなったのだ。これ以上望むものはない。これからは、死んでしまった「まゆ」と一緒に生きていくつもりだ。あまりにも身勝手だけど、もうそっとしておいて欲しい・・・・・・。
「桐子、何寝ぼけたこと言ってるの。もう一人の男を始末しないと、私の過去は終わらないのよ。貴女はいいわよ、山村が死んだから・・・・・・。でも私の最終目的は山村了司じゃないのよッ」
和子は強い口調で言い放った。
「じゃぁ、誰?」
桐子は懇願するような目で和子を見た。
「同じ山村でも・・・・・・、山村雄三よ!」
和子は苦い顔をして吐き捨てた。同時に桐子の顔が醜く歪んだ。
「どうしてッ。どうしてあの人を殺さなければいけないの?あの人は卑怯な男だけど、それでもまゆの父親よ」
「何言ってるのッ。あんな男、貴女とまゆを見捨てたばかりじゃなく、私まで・・・・・・。今度は桐子が私に協力する番よ。そうじゃない?」
和子の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「どうしたの?お姉ちゃん。何があったの?」
和子は椅子から立ち上がり、ふらふらと奥の部屋に移動した。そして仏壇の前に静かに座った。
「ウワワァァァーン」和子は突然泣き出すと、仏壇の前に倒れ込むようにふせてしまった。
桐子は慌ててベランダの窓を閉め、すべてのカーテンを閉じた。
「どうしたの?お姉ちゃん」桐子は覆いかぶさるようにして、和子の震える肩を抱きしめた。
「柳田さん、間違いありません。山村が失くしたキーホルダーは、やはり『アロワナ』でした」
「福澤が証言したのか?」
稲垣は大きくうなずいた。
「事故のあと、仲間数人と『ユシナテラス』に行ったとき、山村は『事故で失くしたキーホルダーはこれなんだ』と言って、アメニティーショップで買っていたそうです」
柳田の顔に久しぶりに赤みが差した。
桐子が持っているキーホルダーは、三十年前、交通事故の現場で彼女が拾ったものだ。
「リョージ」という犯人は「アロワナ」を保有していた、たしかにそのときまでは。
しかし、犯人は犯人たる証拠の「アロワナ」をすでに失くしているのに、彼女はなぜその男を、いや、リョージを追い続けたんだ。
あの「ユシナテラス」は、毎年「全国もう一度行きたいホテル」のベスト3に入る超高級ホテルだ。客の八割がリピーターだと聞く。犯人はまた「ユシナテラス」に行くだろう。そして、ホテルの象徴でもある「アロワナ」を、きっともう一度手に入れるはずだ。彼女はそう踏んだんだ。間違いない。当然、あのキーホルダーが「ユシナテラス」のものだと本か何かで知ったのだろう。
そして桐子が持っている山村の「アロワナ」。二回目の事情聴取のとき、それを持参してもらい確認したが、「アロワナ」の腹部に「T・L・I」という文字が彫られていた。たぶんホテルのアメニティーショップが、客へのサービスで彫ったものだ。「東洋生命」要するにトウヨウ・ライフ・インシュアランスの略というわけだ。愛社精神の強かった山村がやりそうなことじゃないか。
彼女は、紹介されて東洋生命に入社した、と言っているが、これは嘘だ。東洋生命に勤務している「リョージ」を捜すために、作為的に入社したんだ。女を使ったのかどうか、それは分からない。しかし、あらゆる手を使って「アロワナ」に彫られていた「T・L・I」に入社したんだ。
桐子の動機はこれで解けた・・・・・・。
柳田は、嬉々とした顔で稲垣に問いかけた。
「ところで、池川に動きはないか?」
「池川を尾行している刑事によると、彼女は成実に会うために今日上京しているそうです」
「そうか・・・・・・、いよいよだな」
柳田は、髭の残る顎を何度も撫でた。
「と、言うと」
稲垣は、事件の終わりがまだつかめない、とばかりに困惑顔で柳田を見た。
「チエの報告によると、雄三が『ユシナテラス』に泊まった日に宿泊していた人間は、池川和子だ」
「えっー?やはりそうでしたか」
「二人の間に何かがあったんだ。もしくは何か事件が起こったんだ。その『ユシナテラス』というホテルでだ」
柳田は真っ赤な目をして煙草に火をつけた。
「稲垣、すぐ沖縄に飛んでくれ。急げ!また男が殺されるかもしれない」
少し落ち着いた和子は、外の空気を吸いたい、と言い出した。桐子は他人の目に触れることに躊躇したが、姉の憔悴しきった顔を見ると、どうしても断ることができなかった。
井の頭公園の木々の葉は、爽やかな風に揺れてカラカラと音を立てている。池の水面は、初夏の太陽の下でキラキラとまぶしそうにざわめいていた。カワセミの鳴き声だろうか、時折「チーチー」と静寂を突き抜けるような声がする。
桐子は池の中央に架かる七井橋を渡り、左側に少し歩いたところで足を止めた。
「お姉ちゃん。このへんに座ろうよ」二人は岸のそばにあるベンチに腰を下ろした。
水面を走り抜ける風が心地よい。
「気持ちのいい公園ね。貴女いいところに住んでるのね」
「・・・・・・そうかしら」
桐子はどう答えればいいのか戸惑った。
じっと水面を見つめながら、おもむろに和子は話し始めた。
「雄三が私に何をしたか、訊きたい?」
「・・・・・・」桐子はコックリとうなずいた。
「私・・・・・・、あいつにレイプされたの」
和子は、口ごもることなくはっきりと言い放った。
「えッ!」その言葉を聞いた桐子は、両手で顔を覆って唇を震わせている。声も出なかった。
「大阪でしばらくの間犯人を捜し回ったあと、警察も誰も助けてくれないし、精神的に落ち込んでどうにもならなかった時期があったでしょう。あのときは、大学にも通えなくなって自殺を考えたわ。ちょうどそのとき、通院していたメンタルクリニックの医者に旅行を勧められたのよ。それで、思い切って一人で沖縄に行ったの。貴女もそのこと憶えてるでしょう。あのときよ」
桐子はゆっくりと唾を呑み込んだ。「憶えてる・・・・・・」
「雄三も、逃げ回っていたのか、デビューがうまくいかなかったのか知らないけど、その日友人と『ユシナテラス』に来てたのよ。その男の正体が雄三だって、最近になってやっと分かったの」
桐子は身じろぎもせずにじっと聞き入っている。
「まぁお互い精神的に参っていたときよね。でも・・・・・・、絶対に許せないッ」
和子はせせら笑うように頬を歪めた。
「二日目の夜だったわ。ホテルのレストランで早めの夕食を済ませ、興味本位で敷地内にある泡盛の古酒バーに行ってみたの。店に入ると、暗い照明の中で二人の男が飲んでたわ。そのうち、大阪でバンドをやってる、っていう二人の席に呼ばれて一緒に飲んだのよ。私も考えてみたら甘かったし不用心だったわ。あんな高級ホテルには変な人間は泊まっていない、って思い込んでたの。四十五度もある古酒のカクテルを半ば無理やり飲まされて、朦朧としたまま、プライベートビーチのはずれにある岩陰に連れていかれたのよ。それからのことはおぞましくて口にも出したくないわ。遠のいていく意識の中で、膣の中に入った砂がざらついて、火傷したように痛かったことだけは憶えてるわ。しばらく、力の抜けたからだを任せていると、『やばい。人が来るぞッ』っていう声が聞こえたの。それっきりよ・・・・・・。死んでも絶対に許さないッ」
和子は毒でも吐き出すかのように、口を酷く歪めた。
桐子は目に涙を溜めて、水面をじっと見つめている。本当に男は雄三だったのか、まだ半信半疑だった。
「そのあと警備員に発見されて、病院に運ばれたの。性器からは出血が酷く、しばらく痛みが取れなかったわ。数日入院したけど、からだの傷は癒えてもこころの傷はどうにもならなかった・・・・・・。入院中に警察にも届けたわ。でも、名前も分からない男は捜せない、ってうやむやにされたのよ」
和子は唇を震わせながらも、か細い声で何とか話を続けた。
「ホテルに泊まってる男だって、警察に言わなかったの?」
「当然言ったわよ。でもその日は、男性の団体客が多い割には、二人連れの男性客はいなかったのよ。たぶん、四、五人で宿泊したグループの二人が私を襲ったのよ。間違いないわ。結局、ほとんどの男性客は翌日の早朝にはチェックアウトしていて、犯人もそれにまぎれてホテルから逃げ出したのよ。警察によると、証拠なんて何も残ってなかったらしいわ。まぁ、ちゃんとした捜査なんてやってないだろうけどね」
和子は、三十年前の遠い沖縄に立ちつくしていた。
「宿泊者名簿は見せてもらえなかったの?」
「そんなこと、ホテルがやってくれるわけないでしょう。他の客に迷惑がかかる、って見せてくれなかったわ。地元の警察だって観光協会と癒着していて、捜査はすぐに打ち切りよ。挙句の果てには『狂言じゃないのか』だって。最悪よー。それから私は警察を恨み続けたわ。一連の事件は全部そう。私の恨みを昇華させたのよ。証拠が残っていない、っていい加減にあしらわれたんだから、その仕返しよ。私たちも証拠をまったく残してないでしょう。警察なんて・・・・・・。ケッ!」
和子は恨みを吐き捨てた。
「桐子も知ってるでしょう。今に至っても、私が男を受け入れることができないのを。事件のあとアメリカに渡ってからも、レイプの後遺症は酷くなっていったわ。そのあとはもう奈落の底よ。どうしてもできなかった、男のからだを受け入れることだけは。からだが拒絶反応を起こすのよね。貴女もそうでしょう?」
和子は、公園に響くカワセミの声を打ち消すかのように大きなため息を吐いた。
桐子の顔がまた激しく歪んだ。
「違うわ。私は会社で『リョージ』を捜すために、その手段として好きでもない男を受け入れたわ。こころが歪んでいたからね。でも反対に、好きな人と愛を確かめ合おうとすると、どうしてもできないの。子どもをはらめないと思うと、からだがまったく開かなかった。私は、妊娠すると母子ともに死亡する危険がある、って医者から言われてるから・・・・・・。だから、そんなからだにした男が憎かった。とにかく、リョージという名の男が憎かったの」
和子はそれを聞いてクックックッと笑った。
「そうよ、・・・・・・そうよね。よく分かるわ。でも子どものことだけじゃないはずよ。貴女を、いや、貴女と子どもを捨てて逃げた雄三のこともトラウマでしょう?そうに決まってるわ。二人とも男運がなかった、ってこと?違うよね。そんなことじゃ済まされないわ。私たち重大な犯罪の被害者だってことよ。女として許し難い犯罪のね」
「・・・・・・そうかもしれない」
二人は放心したかのように、しばらく岸辺を見つめた。
桐子は雄三のことを考えていた。事故のあと雄三が逃げたのは、ただの判断ミス、できごころ。そんな類のものじゃなかったのか・・・・・・。それから雄三はどんな生活をしてきたのだろう。修と新宿で飲んだあの日、雄三はどこに消えたのか。そして和子は雄三と会ったのだろうか。もし会っていないとすれば、どうしてレイプの犯人が雄三だと特定できたのだろうか。きっと和子の勘違いだ。雄三は優しいこころを持った人間だ、ということは私が一番よく知っている。和子の雄三に対する怨念は、交通事故を起こした山村了司の弟だということに起因しているはずだ。だから、自分の欲望を満たすために和子の性を弄んだレイプ犯を、お門違いの雄三に仕立て上げたのだ。殺す目標がなくなってしまった今、次の目標を無理やり雄三にせざるを得なかったのだ。もはや殺人の流れを止められない和子はかんぜんに狂っている。
桐子は、和子を刺激しないように声を抑えてそっと訊いてみた。
「でも・・・・・・、どうしてレイプの犯人が雄三だと分かったの?」
和子はじっと目を閉じた。雄三が犯人だと確信したときのことを思い出しているのだろうか。
「ちょうど半年前だったかなぁ。私の友人が『ユウヤ』のファンでね。ライブに行こうって誘われたの。私は、『ユウヤ』なんてまったく知らなかったから、興味ない、って断ったんだけどね。それじゃぁ、彼のブログだけでも見て、って言うから、何気なくブログを覗いたの。その中には驚くべきものがあったわ。雄三の若いころのスナップ写真が何枚も貼り付けてあったのよ。その一枚が沖縄のときのものだった・・・・・・。今の雄三とはまるで別人だったけど、その顔は、まさに私が記憶している沖縄の男だったわ」
和子の表情は醜く歪んでいた。
「なぜ雄三なの?どうして雄三がそんなことを・・・・・・」桐子はこころの中で叫んでいた。
「貴女もブログを覗いてみれば。貴女と付き合ってたころの雄三がいるわよ」
桐子はじっと宙を見つめている。そして、ついに雄三の犯罪を確信した。雄三の「誤った行為」が「残虐な行為」へと形を変えていった。わずかに残っていた雄三への未練は、かんぜんに断ち切られてしまった。
「そんな男よッ。貴女が愛した雄三はッ」
和子は急に語気を荒くした。
しかし、アメリカに渡ったあとに訪れた悲惨な結末については、和子は一言も触れようとはしなかった。
我に返った桐子は、からだを和子の方に向けた。
「お姉ちゃん、今からどうするの?雄三をどうするの?」
和子は薄笑いを浮かべている。
「決まってるじゃない、そんなこと・・・・・・」
桐子は今にも泣き出しそうな顔で、和子をじっと見た。
雄三は憎い。でも、もうこれ以上罪は犯せない。お姉ちゃんのためにも、そして私のためにも・・・・・・。
「・・・・・・殺すの?」
和子は無言で目を閉じた。
「今日は、その打ち合わせでわざわざここまで来たのよ」
和子は目を大きく見開くと、口を手で押えながらケラケラと笑った。
十九
刑事部屋の電話がけたたましく鳴った。
「あぁ、稲垣か。で、どうだった」
「柳田さんの推理どおりです。名護南署に事件の記録が残っていました」
「その内容は?」
「その日、婦女暴行の訴えがありました。届け出たのは池川和子です」
柳田はニヤリと口元を曲げた。
「犯人は?」
「それが・・・・・・、まったく手がかりがなく、ホテルの宿泊客か、ホテルの近辺に住む男かも分からなかったようです。それに被害者の供述が支離滅裂で、狂言でないかとも疑われていました」
「そうか・・・・・・。池川はよほど取り乱していたんだろうな」
「結局お宮入りです」
「分かった」柳田はくわえていた煙草を灰皿に強く押し付けた。
「やはり、犯人は雄三ですか?」
「たぶんな。とにかくそのときの状況を詳しく調べてくれ。言っとくけど、遊びで沖縄に行ってるんじゃないからな」
「はい、はい。承知してますよ」
「場所は渋谷パークホール。実行日はライブ当日よ」
和子の声は落ち着いていた。気持ちは揺るがないのだろう。
「そんなの無理よ」
桐子は怖いものでも見るかのように目を細めた。
「無理じゃないわ。わざわざ『ユウヤ』のファンクラブにまで入って、当日のスケジュールまで調べたし、ホールの見取図も手に入れたのよ」
「もうやめようよ、お姉ちゃん。今度こそ捕まるわ」
和子は乱れた前髪の隙間から、じっと桐子を睨みつけている。
「貴女ッ、私の苦悩が分かるの?本当に分かってるの?」
和子はぬるくなったコーヒーをひと口すすると、カップを乱暴にテーブルに置いた。
「私がどれだけ貴女の歪んだ精神を支えてきたか、そして、どんな気持ちで貴女の恨みを晴らしてきたか、分かってるの?」
「・・・・・・分かってる。でも」
「でもじゃないの。雄三は私のからだもこころもボロボロにして、堕胎を免れてようやくこの世に産まれてきた私の未来を修復できないほどに踏みにじったのよ。私が子どもを産んで、またその子が子どもを産んで、私がこの世を去ろうとするころにやっと曾孫ができて、ようやく汚れた血が綺麗になるはずだったのよ。私がこの世に産み出すはずだった何人もの人間の命を、虫けらのように踏みにじったのは、貴女が愛した雄三なのよ」
桐子は下唇を強く噛んで、こころの痛みに顔を歪めている。
「私から産まれ出る子どもが何人いたと思う?曾孫まで含めると、そりゃぁもう沢山の子よ。それを全員殺したのよ、雄三は。死刑になって当然よ。それを私が執行してあげるの。どこが悪いの?フフフッー」
和子は口をすぼめて気味悪く笑った。
お姉ちゃんは私以上に精神を病んでいる。私の倍、いや数倍も病んでいる。今ここで説得するなんて無理だ。ここまできたら、「渋谷パークホール」まではお姉ちゃんの言うとおりにして、現場で何とかやめさせるしかない。どうにもならなければ、警察に捕まえてもらう。殺人を阻止するためにはもうそれしか方法がない。そして私も逮捕されるんだ・・・・・・。
桐子はこころを決めた。
「じゃぁ、どうやって殺すの?」
桐子は恐る恐る訊いた。
「ライブは、八月十七日。五時会場、六時開演よ。雄三は十一時に会場入りして、二時間リハーサルをするわ。それからいつものライブどおりに、一時過ぎから楽屋でファンクラブとの交流会。二時から軽い食事を済ませて、部屋で一人になって一時間ほど精神統一するはずよ。そのときがチャンスよ。私たちはファンとの交流会にまぎれて楽屋のそばにある化粧室に隠れるの。交流会が終わるころを見計らって楽屋から雄三をおびき出すのよ」
桐子は怯えた顔で、言葉を選びながらまた訊いた。
「どんな方法で、どこにおびき出すの?」
和子は、今さら何言ってるの、と言いたげな顔を桐子に向けた。
「貴女が楽屋に顔を出すと、あいつは必ず懐かしがって貴女を招き入れるわ。それからは対馬でやったことと同じよ。嘘八百を並べて裏の公園に呼びだしてよ。楽屋の奥にドアがあって、そこから公園に出ることができるわ」
「でも・・・・・・、公園じゃ人目につくわ」
桐子は気を取り直して、計画の盲点を突こうとした。
「貴女、何にも知らないのね。裏手の公園はプライベートパークよ。ライブがない日だけ一般に公開されているわ。だからその日は、公園内には誰もいないの。それに広くはないけど、大きな木が生い茂っていて、管理事務所の裏は死角になってるわ。公園の外側を走ってる道までは、粗大ゴミのように大きな袋に入れて運べばいいのよ」
「管理人はいないの?」
「いるのは、公開日だけ。いい?私はちゃんと調べてるのよ。今日はライブがある日だから、あとで下見もするわ」
和子は右頬で軽く笑った。
「呼び出したあとはどうするの?」
「何言ってるのッ、決まってるじゃない。また対馬のときのように、栄養剤とか興奮剤とか言って、貴女が睡眠薬を飲ませてよ。それから私が、背後からたっぷりと薬を吸わせてあげるわ。そのあとは、袋につめて待機させてる車に運び込むのよ。そして深夜に東京湾にでも捨てるわ。スクーバの錘をたくさん巻きつければ、絶対浮いてこないわよ。それで証拠も残らないってわけ。フフッ」
和子は不敵な笑いを浮かべて、汗でベタつく髪を掻き上げた。
「車はどうするの?」
桐子は今度の転勤が決まると、東京では使う必要のない車をすぐに手放したのだった。
「何柔なこと言ってるの。借りればいいじゃない」
「レンタカーなんかじゃ足がつくわ」
「だから貴女、今まで飼いならしてきたんでしょ?フフッ。西澤って男がいるじゃない。貴女にぞっこんだって噂よ。そいつから車を借りるか、運転手代りに手伝わせるか、どちらかにしてよ。今度は車がないと絶対に成功しないのよ。今から車買ったら足がつくでしょう」
「でも・・・・・・」桐子は困惑顔で下を向いた。
「でも、って、それ何よッ。私が貴女の壊れた神経を治すために、どんなことをしてきたと思ってるの?リョージを何人もやってきたのよッ。今度は貴女が主役になって実行する番でしょう。違う?それとも西澤は車を持ってない、って言うの?」
「持ってるわ。でも・・・・・・、オサムちゃんを巻き込むことなんてできないッ」
「貴女、昔から得意にしてる『いい子振り』っていうの、『可愛い子振り』っていうの、どっちでもいいけど、その裏技を、西澤にもたっぷりと使ってるんでしょう?西澤なんてどうにでもなるじゃない」
「そんなこと・・・・・・」桐子は自分を振り返った。
営業職になったときからの「いい子振り」は、まだ続いているのか。自覚しなくても周りからはそう見えるのだ。でも、それは事実じゃない。
「修のお陰もあって、自分の病んだこころは治り始めたのよ。そして今は、もう昔の自分じゃない。もう『いい子振り』なんかしていないわ」桐子はそう言いたかったが、自分のために今まで戦ってきてくれた和子には、どうしても口にすることができなかった。
最近時々思う。本命のリョージを殺したことよりも、ずっと陰で支えてくれた修の優しさの方が、病んだこころを快方に向かわせてくれるのかもしれない。修は私のこころの支え。そんな修を犯罪に巻き込むなんて・・・・・・。もうこれ以上醜悪な女にはなりたくない。
「そんなこと?何よそれッ」和子は冷たく言い放った。
桐子は顔をふせて唇を震わせた。
「貴女まさか、西澤のこと好きになったんじゃないだろうね?私、調べたんだけど、あの人雄三の親友らしいわね。まだ会ったことはないけど、同じ穴のムジナかもよ。ひょっとして、沖縄のもう一人の男はあいつだったりしてね」
和子は、クックックッと気味悪く笑った。
「やめてッ、あの人はそんな人じゃないわ」
波のように、何度も何度も和子の怨念が押し寄せて、桐子の神経を逆なでした。
西澤には妻がいない。十年前にガンで亡くしたのだ。その後、二人の子どもを西澤の母親が育てている。桐子は今まで西澤を異性として意識したことはなかった。しかしこのところ、西澤の優しさが妙にこころを揺らしている。
「とにかく、貴女がそのへんのこと手配してよッ。支社長をやったときなんて、私、その前日は大変だったんだからね。『明日、高尾山でやるから』なんて、私が家で山瀬と飲んでるときに、公衆電話から連絡してきたでしょう。山瀬がトイレに立ってたから助かったけど。本当に無茶するんだから・・・・・・。あの夜、山瀬が家に泊まったのよ。翌朝、家を出るに出れなくて、パンを買いにいく、って嘘をついて、普段着のままで東京まで来たんだからね。私が家を出たあと、山瀬はすぐに京都に行ってくれたからよかったようなものだけど・・・・・・。貴女はディズニーランド。私は高尾登山。いい気なもんよねー。それにスクーバのときも、バルブを閉めたのは結局私。テントにガソリンを撒いたのも私じゃないッ。貴女はただお膳立てをするだけ。直接手を下すのはすべて私ッ私ッ私ッ。そうよッ、私ばかりじゃない。私は大きなリスクを抱えてやってきたのよッ。それもすべて貴女のために。それくらい分かってよッ」
和子は般若のような顔をして、長い髪をかき上げた。
「でも、貴女は弱気だから私が手を下す、って言ったのはお姉ちゃんじゃない」
桐子は唇を震わせた。
「何言ってんのよッ。口答えするんじゃないわよッ」
「・・・・・・ごめんなさい、分かったわ。何とかする」桐子は半ば投げやりに答えた。
「実行日は八月十七日。ちょうど夏季休暇中よ。いいわね、手配ができたら早く連絡ちょうだいよ」
今度はその表情を一転させて、和子は能面のような顔で静かに笑った。