アロワナ⑤
続編13~15
十三
刑事部屋の柱時計は午後十時を指していた。
「柳田さん、高尾山口駅周辺でも山頂でも、山村を目撃した人間は見つかりませんでした」
「茶店と土産屋はすべてあたったのか?」
「ほとんどあたりましたよ。土日にかけて聞き込みをしたんですが・・・・・・、ダメでした。高尾山は、最近の登山ブームでごった返していました。それに、特に若い女性に人気があって、赤だのピンクだの、それこそ今風のアウトドアファッションの人間がゴロゴロいましたよ。今どき赤いヤッケを着た男なんてまったく目立たない、って茶店のばあさんが言ってました」
柳田は訝しげな顔をした。
「高尾山なんて、オタク男か、年寄り夫婦が行くとこじゃないのか?」
稲垣は呆れ顔で口を歪めた。
「そんな考え、時代錯誤もいいとこですよ。今や高尾山は年間二百万人以上の観光客が訪れる場所ですよ。山の中腹にはビアガーデンだってあるんですから。僕ら八王子に勤務する人間が知らなくてどうするんですか」
「そんなに怒るなよ。目撃者を見つけられなかった言いわけに聞こえるぞ」
「まぁ、本音はそうですけどね。今後もしばらく聞き込みは続けますよ」
稲垣は土産に買ってきた饅頭を、立て続けに二つ頬張った。
「チエちゃんお茶ー」稲垣はまた饅頭を喉につまらせたようだ。
「バカッ。お茶くらい自分で淹れろ」
「チエちゃん、ごめん。もう大丈夫だから」
刑事課の紅一点チエは、稲垣のそそっかしさに呆れて、ぬるめのほうじ茶を運んできてくれた。
「あまりイライラしないでくださいよ。事件の推理がつまってくると、いつもこうですね」
チエはニッコリ笑って饅頭を一つ摘まんだ。
「もう十時過ぎですよ。早くお家に帰ったらどうですか?私の事件は昨日で一件落着。明日からお休みしまーす」
「チエちゃん、暇なら『高尾山事件』の応援頼むよ」
稲垣は目をつむって両手を合わせた。
「ダメだね。明日から四日間は沖縄。せいぜい頑張ってちょうだい」
チエは、そそくさと机の上を整理して帰っていった。
「チエちゃん、いいなぁ。沖縄かぁ」
「稲垣、羨ましがってるんじゃないよ。事件はこれからだ。少し気を引き締めろ」
「はーい」稲垣は能天気な顔をして、三つ目の饅頭を口に放り込んだ。
柳田は日野の官舎に戻る電車の中で、事件の流れを整理してみた。
あの成実という女が、山村を殺害したことに異論はない。成実は何かを隠している。
しかし、殺害の動機はいったい何だろう。セクハラだけでは殺意など生じない。万一生じたとしても、社内のセクハラ相談窓口に電話をするのが先だろう。突然殺害を実行することなど考えられない。
事件の前日に山村と食事をともにした。そこで何があったのか?「シャンピニョン」の店員は、成実が怒って店を出ていった、と証言している。成実はセクハラ程度で怒るはずがない。男性社会の中で、酸いも甘いも噛み分けてきたはずだ。彼女と話してみるとそれがよく分かる。ならば、なぜ山村を殺す必要があったのか。成実は「シャンピニョン」で何かを知った。もしくは何かを見つけた。キーホルダーについていた成実の指紋はそこでつけられたのか。もしそうだとしたら、いったい何を意味しているのだろう。
あの夜、成実は山村に電話をしている。たぶん高尾山に誘ったのだろう。そのあと藤田に入れた電話は、きっとアリバイ工作のためのものに違いない。藤田と一緒にいた女は本当に成実なのか。いや、成実が高尾山にいないと、推理は根本から崩れてしまう。成実が若いころ大阪北支社で起こした事故に、目撃者として藤田が登場している。調書にはそう記されていた・・・・・・。あれを事故ではなく事件とみるなら、成実が関与した一連のことは、すべて事件じゃないのか。すると、共犯はやはり藤田なのか。もう時効になった事件もあるが、調べてみる価値はあるのかもしれない。
柳田は捜査の疲れが出たのか、電車の中で猛烈な睡魔に襲われた。そして思考が徐々に宙を飛び始めた。
「明日は久々の明けだ。駅前で一杯飲んでいくか」極度の疲労が柳田を繁華街に誘った。足早に改札を抜けて空を仰ぐと、剣のように尖った三日月が輝いていた。
十四
狭い借家の居間で、二人は卓袱台を挟んで座っていた。
猫の額ほどの小さな庭には、数本のコスモスが西日を浴びて揺れている。
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン。柱時計が四回鳴ってときを告げた。
外の爽やかさとは無縁のように、居間には重い空気が淀んでいる。
「私、絶対育てないわよッ」
倫子は夫の勇に強く言い切った。
「・・・・・・でも、仕方がないじゃないか」
「仕方がない?何言ってるのよッ。私が汗水たらして働いているときに、貴方はあんな売女と遊び呆けていたのよね。子どもを産めない私は、もう妻じゃないのねッ」
「そんなことはない。お前が子どもを産めないことと、俺が外に女を作ったこととは何も関係がない」
「じゃぁ、どうして愛人の子を私が育てなきゃいけないの?貴方たちが処理すればいいことじゃない」
「俺はお前と離婚する気はない。それを知って、あいつは子どもを放棄したんだ。俺があいつに曖昧なことを言っていたのかもしれない。そうだとしたら謝る。でも、今となっては俺たちが育てなきゃ、施設にでも入れるしかないんだよ。俺の子どもだ。そんな無責任なことはしたくない」
「貴方ッ。無責任なことはしたくないって?何を言ってるのッ。すべてに無責任だったからこうなったんでしょー。それに離婚したくないって?何勝手なこと言ってるの。それって、私の実家の財産を狙っているからでしょう。そうよ、それで貴方はからだの不自由な私と結婚したのよ。売女の子どもなんて、施設にでも入れて貴方が面倒みなさいよッ」
興奮した倫子は、卓袱台に置いてあったミカンを思い切りつぶした。果汁が血飛沫のように飛び散った。
三年前、倫子は勇と結婚してすぐに医者に子どもができないことを告げられた。
「卵巣が卵子を作ろうとせんのですなぁ」まるで他人事のようにあっけらかんと宣告された。二十二歳の時だった。加えて、子どものときに交通事故に遭い右足が不自由だ。勇に対して常に負い目があった。だからといって、今回のことはまったく別の問題だ。ただ、一生こどもが持てないことを考えると、怒りの中で微妙にこころは揺れていた。プライドと現実の間で、倫子の気持ちは立ちすくんでいた。
「お前も言っていたじゃないか。将来は施設から子どもを譲り受けて育てよう、って。だから、施設にいる子を譲り受けたと思って育ててくれよ」
勇は顔の前で両手を合わせた。
夜々、夫と肌を撫で合い皮膚を擦り合わせていた女の子どもなんか、育てる人間などいるわけがない。
「・・・・・・・ウワァァァー」倫子は堰を切ったように大声を上げた。喉をつまらせた子どものように泣きじゃくっている。
勇は自分が吐いた言葉を反芻してみた。言ってはいけないことを口にしていた、と気づき、しばらくの間沈黙した。
一頻り泣いたあと、倫子は改めて考えてみた。
このままだと、不実な夫と一生二人だけで暮らしていくことになるのだろう。もしかしたら、二人の間に子どもがいた方がいいのではないか。子どもには愛情を感じないかもしれないが、育てているうちに生まれるのが愛情ではないのか。この際、夫のことなど無視して、子どもにかけてみようか・・・・・・。でも、世間でよくあるように、子どもが不良になったらどうしよう。ましてや警察沙汰にでもなったらどうしよう。夫は自分の過ちなど忘れて、お前のせいだと叱責するだろう。そして、世間は逃げた売女のことは忘れて、不良に育てた私を許さないだろう。苦労など買ってするものではない。まだ子どもは何も知らない。それなら今のうちに施設に放り込まれた方が・・・・・・。
いやッ、違うー。私が育てないことで、私は夫と変化のない暗い人生を送り、子どもは施設で親のいない寂しい人生を送ることになる。今から夫に傅く生活をやめて自分のために生きようとするなら、やはり子どもを持つしかないのではないか・・・・・・。
倫子の気持ちは、育てる方にいくぶん傾いてはいたが、夕飯どきを過ぎても結論は出なかった。夫の勇は近所の飲み屋にでも逃げたのだろう。もう一生帰ってこなくていい。それならそれで、このまま家も夫も捨てて逃げ出せる。でも・・・・・・、それではあまりにも短絡的過ぎるような気もする。気持ちは揺れ続けた。
苦渋の選択に結論を出せないまま、倫子は泣き疲れた子どものように、卓袱台に顔をふせて寝入ってしまった。
「お母さん。私どうしたらいいの?」
「勇さんも困ったものね」
母の節子は驚きもせずに、優しい眼差しを倫子に向けた。
「やっぱり勇には夷人の血が流れているのよ」
「そういうこと言うのはやめなさい。みっともないわよ」
「そんなこと言ったって・・・・・・」涙をじっと堪えた。
倫子は子どもの退院を前にして、翌日、大阪の実家に戻ってきたのだった。
「あの女がいっそ堕してくれてれば、こんな嫌なことで悩まされなかったのに。勇も本当に優柔不断な男よね。結婚をちらつかせて、子どもを産むように誘導したのよ。間違いないわ。産めない私への嫌がらせよー」
節子は穏やかな顔で倫子を窘めた。
「貴女の価値観で判断したらダメよ。子どもは命を授かったんだから、もう私たちと同じ意思のある人間よ。自分のことより子ども将来のことを考えて判断しなさい」
倫子はたちまち頬を膨らませた。
「本当にあのオンナッ、流産でもしてくれればよかったのよ」
「バカなこと言うのはやめなさいッ。子どもはもう手足をバタつかせて、ニッコリ笑っているのよ」
「じゃぁお母さんは、私に育てろって言うの?」
「どんな子でも、誰の子でも、子どもっていうのは純真無垢で大人の希望よ。貴女の人生も、子どもによって大きく変わるかもしれないわ。案ずるより産むが易しよ」
節子は、今にも涙をこぼしそうな倫子に笑いかけた。それから倫子の右足に目を移して、今度は顔を曇らせた。
倫子はじっと考えを巡らせている。
「こんな足じゃ、二人なんて育てられないわ。無理よ、絶対に無理よッ」
倫子はついに涙をこぼした。
節子も気持ちの置き場に戸惑い、思わず目を潤ませた。
「それこそ、勇さんが助けてくれるわよ。あの人の過ちなんだから」
倫子はとたんに目を吊り上げて、節子に食ってかかった。
「お母さん、何言ってるのッ。もうあの人なんてあてにしないわ。どうせほとぼりが冷めたら、また外で遊ぶに決まってるわ。子どもが小学校に入学したら、私、絶対に離婚してやる。そして子どもと一緒に生きていくわ」
倫子は自分が言っていることに驚いた。これが母性というものだろうか。いつの間にか子どもを育てるという女の本能が、どす黒い水を浄化するかのように、倫子の憎しみを駆逐していった。
「貴女、やっぱり育てる気があるのよ。今日は私にそれを確認しにきただけなのよ」
節子は真顔で倫子を見つめた。
倫子はわずかに上を向いて目を泳がせた。
「・・・・・・そうかもね」涙はすっかり乾いていた。
「でも、いくら何でもこの足じゃ二人は無理よ。一人ならまだしも・・・・・・。あの女、二卵性双生児なんか産んで、きっと足の悪い私に対する嫌がらせよ」
「いい加減にしなさい。嫌がらせで子どもなんて産めないわよ」
節子は、また興奮し始めた倫子を窘めた。
「じゃぁ、どうしたらいいの?」
節子は自分の不注意で倫子の足を不自由にした、と日ごろから倫子に負い目を感じていた。
「ごめんなさいね。お母さんも少し言い過ぎたわ。よく考えたら、一人を育てるのさえ大変なのに・・・・・・、二人はとても無理よね」
節子は新聞紙に広げた栗の渋皮を剥きながら黙り込んだ。
すると倫子は、いい考えが浮かんだ、とでも言いたげに、笑みを浮かべて口を開いた。
「お母さん、今働いてるの?」
「お父さんが亡くなってからは、仕事らしい仕事はしてないわ。いっときお父さんの跡を継いで社長になってくれ、っていう話もあったけど、今は非常勤役員として、週に一度経理を見てるだけ。その方が気楽よ」
節子は番茶をひと口すすった。
「お父さんが死んでもう二年か。お父さん、本当に死ぬのが早すぎたよ。もし生きてたら、勇のことこっぴどく叱りつけただろうにね」
「そうね。正義感の強い人だったからね」
節子は昔を懐かしむかのように、頬づえをついて目を潤ませた。
「ところで、薬って儲かるの?」
突然、倫子は節子の生活に言及した。
「まぁ、そこそこね。昔と違って、今は健康保険が普及して病院にかかる人も多くなったからね」
「ふ~ん。じゃぁ、お母さん楽で暇な暮らししてるんだ。まだ四十五だっていうのにね」
「うん。お父さんが残してくれた財産もあるし、お給与もいくらかあるわ。ぼちぼちかしら」
倫子は勇との生活に疲れて、今まで節子の暮らしを気にするどころではなかった。考えてみると、節子は裕福な暮らしをしているようだし、まだ若い。今からの人生をどう生きていくのだろう。
「お母さん、将来どうするの?」
「今は何も考えてないわ。暗い時代も終わって、ようやくいい世の中になってきたわ。今後は女性もやりたいことをやれるわよ。私もそろそろ何かやらないとね」
倫子はしばし目をつむると再び大きく見開いた。
「じゃぁ、子ども・・・・・・、育ててよ!」
「えぇー?」節子は開いた口が塞がらなかった。目を丸くしたまま身動きひとつしない。
「い、今何て言ったの?」
「一緒に子どもを育てようよ」
「一緒にって、同居するってこと?私はお父さんが建ててくれたこの家から離れるつもりはないわよ」
「違うわよ。ひとりずつ育てるのよ」
倫子の顔は熱を帯びて赤味を増していた。
「私と?」節子は思いもよらない倫子の提案に、どうしていいか分からず口を真一文字に結んだ。
「そうよ、お母さんも育てれば。まだ若いんだし、子どもを育てることで生活に張りができるかもしれないよ。そうすることで、結果的に私の応援もできるじゃない」
「でも、そ、それはちょっと。私は無理よ。貴女を育てたのは、もう遠い昔のことだもの」
節子は何度も目をしばたいた。
「私なんか始めてよ。それに・・・・・・、いや、もううしろ向きなことを言うのはやめるわ。お母さん二人でやろうよ。人生変わるかもしれないよッ」
節子はぬるくなった番茶に口をつけたあと、そっとため息を吐いた。
金銭的に問題はないけれど、体力がどうか。子どもが二十歳を迎えたとき、私は六十五歳。自分の体裁よりも子どもが可哀想ではないか。父兄参観日に子どもがからかわれることは目に見えている。でも足の悪い倫子のことを考えると、娘の倫子こそ不憫だ。今は、先のことは考えずに倫子を助けるべきではないのか。彼女を障害者にしたのは、この私。無理に見合いを勧めて、今の亭主と結婚させたのも私。だから・・・・・・、自分にできることはすべてやってあげるべきではないのか。いや、そうするべきだろう。
「お母さん。案ずるより産むが易しよ」
倫子の顔は明るく輝いていた。
「・・・・・・でもねぇ」
節子はまだ踏ん切りがつかなかった。
ぼーっと庭の池を見ていると、小さな緋鯉が飛び跳ねた。
ポチャンという透きとおった水音が、晩秋に佇む静寂に小さな風穴を開けた。
「二人もいるのよ、不幸を背負って生まれてきた子どもが。私たちが手を差し伸べないと」
倫子は何かに押されるように、揺れるこころを固めた。
節子はふせていた顔を上げ、真剣な目をして正面を見た。
「そうね。やってみるか」力強い声だった。
「でも二人を絶対に会わせてはだめよッ。せめて自分を確立する十八まではね」
節子は口元を硬く引き締めた。
「仲良く育てたらどうなの?」
倫子は怪訝そうな顔をした。
「そんなのダメに決まってるじゃない。まず二人には、絶対に生い立ちを教えてはダメッ。不幸な生い立ちなんて消し去るのよ。そして姉妹がいることも教えてはダメッ。とにかく、別々の人生を送らせるの。そうしないと、こんな辛い境遇を二人が知ったら、どうなると思う?とたんに人が信じられなくなって、きっと人生に絶望するわ。子どもは他人同士。とにかく会わせないことよ。これだけは守ってッ」
節子の強い言葉に倫子は大きくうなずいた。
「私が育てる子どもは、本人には可哀相だけど、施設からもらい受けた子にするわ。両親は行方不明。そういうことにする。会社の従業員にも徹底しておくわ。貴女の方は、ただ役所に届けるだけ。自分の子どもとして育てられるわよ。いい、二人は赤の他人。分かってるわね」
倫子は何かに憑かれたような顔をして、黙って首を縦に振った。
「あなたは長女を育てなさい。育てやすいっていうからね。私が二女を育てるわ。ねぇ分かってるの?もう私たちも当分会えないわよ」
自分が母に頼んだことだけど、こんなふうに母が納得してくれるとは・・・・・・。倫子は想像を超える展開に、言葉を失くしてしまった。
「フフフッー、アッハハハー」和子は気味悪く笑った。
「・・・・・・今話したことが、私たちの忌まわしい生い立ちよ。たいした話じゃないけどね」
和子は何もなかったかのように、白けた顔をして厚いトーストの角を齧った。
「そうだったのか・・・・・・」
智明はそれ以上言葉が出てこない。
「私たちは売女の娘なのよ。気持ち悪いでしょう?」
「そ、そんなこと言うなよ」
智明は慌ててコーヒーを口に運んだ。目は虚ろだ。額には汗が浮き出ていた。こんな不思議な感覚にとらわれたことはない。からだが寒い。凍えるように寒い。
「トモちゃんがこっそり忍び込んだ部屋、誰の部屋だと思う?」
和子は眠っていなかったのか・・・・・・。演技だったんだ。俺が隣の部屋を覗いたことを知っていたんだ。智明の顔は青みを増した。
「私の部屋よ。ウフッ。そして、今私が使ってる部屋、そう、昨日トモちゃんとセックスした部屋は、本当は桐子の部屋なのよ。彼女、東京にいるでしょう。だから私が使ってるの。ウフッ」
和子の頭の中は、前回会ったことと今回のことが錯乱している。智明はもう何が何だか分からなくなりかけていた。
和子は、齧りかけの厚いトーストに思い切りフォークを突き刺した。鋭い金属音が居間に響いた。
「それと、大事なアルバム、盗み見したのね。あれ桐子のアルバムよ。桐子のことは放っておいて、って言ったのに。どうして?桐子にどんな興味があるの?」
智明は背中に流れる汗を感じた。
「そ、それはない」
「そう・・・・・・。ならいいけど」
和子は食卓のケチャップを取り上げ、スクランブルエッグが隠れるほどにその赤を絞り出した。黄色い卵が真っ赤に染まった。
「トモちゃん、朝ごはんしっかり食べてよ。ケチャップ好きでしょう。もうホントに子どもなんだから」
「ん、うぅ・・・・・・」
智明は和子の陰湿な言い回しに、何と答えたらいいのか分からず、ただ音を立てて何度も唾を飲みこんだ。
「桐子より私よ。私に子どもを産ませて。ねぇ産ませて。子どもが私のからだに宿るように抱いてよ。ねぇトモちゃん」
隣に座る和子は、目を潤ませてからだを密着させてきた。
和子の吐息が耳を擽ると、智明は両足がわなわなと震えた。
「そんな・・・・・・、冗談言うなよ」いくぶんからだを引いた。
そして、和子の虚ろな眼差しに笑いを引きつらせた。
「トモちゃん、つれないわね。汚れた私となんか交わりたくないんでしょう」
ふぅーっ、とため息を漏らして和子は目を逸らした。目には涙が溜まっている。
「でもいいの。もうどうにもならないから。私、男を受け入れられないからだなの・・・・・・。あのときからね」
和子はひと滴の涙をこぼした。
「和子、大丈夫か?」
智明は、そんなありふれた言葉しか口に出せなかった。
「実は、私たちの父親は私生児。白人との混血なの。その白人は、父が産まれるとすぐに日本を逃げ出したんだって。父親にはその男の血が流れているのよ。だからあの売女と・・・・・・。フッフッフッ。そう、私たちのからだも、その濁った血が流れているのよ」
和子はトマトジュースをひと口飲んだ。口元が赤く汚れた。
「私たちは、両親から譲り受けた濁った血を、清らかな血にしたかっただけなの。濁った血だって、今の私たちを生かしている血よ。普通の女のように普通の男と交わることによって、その血を浄化させたかった・・・・・・。堕胎される、いや、殺される運命にあった私たちよ。生き延びたからには、何代かかってもこの血を綺麗にしたかったの」
「両親のことを悪く言うのはよせ。両親がいたからこそ、和子も妹さんも、今この時代に生きてるんだ」
「ふん、綺麗ごとね」和子は鼻を鳴らして右頬だけで笑った。
「私はねぇ、真剣に子どもが欲しかったの。でも・・・・・・、ある事件、そう、あのことがあってから、どうしてもこのからだが男を受け入れようとしないの。男の卑劣な犯罪は許されても、女は真実を語ることさえ許されなかった。そして深い傷を負ったまま、いつの間にかこの歳。今からなんてもう産めないでしょう。でも桐子は私と違って、一度だけ子どもを産むチャンスがあったの。親に望まれた幸せな子どもをね。桐子の妊娠が分かったとき、私たちは歓喜のあまり抱き合って泣いたわ。でも結局、それも儚く消えた・・・・・・。あの男のせいでね。あの男は、二人のたった一度のチャンスを、虫けらをつぶすように踏み躙ったのよ。許せないッ、絶対に許せないッ」
和子のコメカミに、今にも破裂しそうな血管が浮かび上がった。
「ふぅー」和子は大きなため息を吐いた。
「私たちが、愛人の子どもだというだけでどれだけ苦汁を嘗めてきたか、ボンボンの貴方には分からないわよ。特に妹の桐子は、親のない子どもというだけで、それは酷い差別の中で生きてきたわ。『拾われた子。ばばあの子。売春婦の子』そう囃し立てられながらね・・・・・・。だから、桐子は大阪を離れて暮らしたかったのよ。そのために、キャビンアテンダントになることを夢見て、その専門学校に進学することにしたの。でも、さっき話したように、桐子は入学前に妊娠したわ。夢を捨てる代りに、新しい希望を授かったのよ。私は自分のことのように嬉しかった。私たちには、この血を絶やしてはいけない使命があったからね。ただそのあと・・・・・・、あの男が子どもを殺してしまったの。そして、あいつも子どもを見捨てたのー」
和子はつぶれたような声で恨みを吐き捨てた。
智明は耳を塞ぎたいと思いつつも、辛うじて和子の言葉を受け入れた。
「分かる?こんな酷い男ってどこにいる?あんなやつら、存在自体が許せないッ」
顔を紅潮させた和子は、音が聞こえるほどにギリギリと歯ぎしりをした。
待てよ。聞いていると、和子の話は興奮が頂点に達したのか支離滅裂だが、どうも事件に絡んだ男は二人いるような気がする。いつの間にか男が複数形になっているじゃないか。いったい何があったんだ。
智明の手のひらには、じっとりと汗が纏わりついていた。
和子の目は泳いでいる。薬でもやっているかのように、呂律が危うくなってきた。
「専門学校に行けなかった桐子はねぇ、一年後に、お祖母さんの知り合いの勧めで『東洋生命』に就職したの。今考えると、誰か有力者のコネだったのかもしれないわ。卒業して一年遊んでいたのに、大手企業に入れるなんて不思議だもの」
「そうだな。あの時代は就職難だったはずだ」
和子は黙ってうなずいたあと、ミネラルウォーターのボトルを半分ほど空けた。口元からだらしなく水がこぼれ落ちた。
「そして普通の暮らしを始めたわ。でも十年ほど過ぎてこころの傷が癒え始めたころ、偶然あるものを見たのよ。桐子にとって思い出したくないものをね・・・・・・。そう私にとってもね。私も欠員があって、運よく『東洋生命』に入社したけれど、それが不幸だったのか、幸運だったのか、今となってはもう分からないわ。どちらにしても、もうあと戻りはできないから」
和子は、一瞬息が止まったかのように口をへの字に曲げ、しばらくすると、ゆっくりと長い息を吐き出した。
「それを見てから桐子は変わったわ。そして、そのとき男も死んだ・・・・・・」
智明は、奇妙な話に顔をしかめた。そしてもう尋常とは思えない和子に、何も問いかけようとはしなかった。
「その男が死んでから、高卒の桐子は上にのし上がるために躍起になったのよ。魅力的なからだ、巧みな言葉、思わせぶりな態度、そしてお金。手段は選ばなかったわ。あの男たちを捜すためにね。出世していくと、ただの事務員と違って上司との出会いも徐々に増えていくでしょう?偉そうでバカな男を使えるだけ使ったのよ。悪いけど私も応援したわ。というよりも、私が主導権を握って男を消していったの。消しゴムで汚れた名前を消すようにね。その名前は「リョージ」。そしてやっとよ。でももういいの。もうすぐ終わるのよ、トモちゃん」
「待てよ和子。何が言いたいんだ?」
智明は、いくら和子の話の節を繋ぎ合わせても、言おうとしていることがまったく理解できなかった。
「トモちゃんはいいの。どうせ出世して、私のような下々のことなんか忘れていくのよ。貴方は組合で副委員長をして、出世のために箔をつけたんだし、役員の若い娘とも遊べたでしょう?フフッー。結局私は、貴方にも、そして誰にも愛されなかったわ。トモちゃん、今さらいいわよ、私となんか交わらなくても・・・・・・。その代り、もう私と桐子のことを嗅ぎ回らないでね。お願いだからそっとしておいて。本当にお願いだから」
和子の唇は赤く躍動するように震えている。
和子には今まで知り得なかった感情が湧き起っていた。初めて本音で人を好きになったのかもしれない。だからこそ、悪戯をして智明を困らせるかのように、秘められた真実を婉曲に表現して見せたのだ。自分の決意が揺らぐことのないよう、智明への思いを断ち切るために。いや、もしかしたら、このまま砕けていく自分を繋ぎ止めて欲しい、と智明に救いを求めたのかもしれない。
「私の恨みもきっと晴らすわ。もう時間の問題よ」
和子は狂っている。智明はそう断定せざるを得なかった。
また事件を起こそうとしているのか、また男を殺そうとしているのか。悪夢のような怨念は誰に向けられているんだ。
智明は血が滲むほどきつく唇を噛んだ。
十五
シトシトと降り続く雨が、薄暗い刑事部屋を更に暗くしていた。
「えぇーッ、『アロワナ』を発見した?」
稲垣はカレーパンを喉につまらせた。
「ど、どこで見つけたの」
沖縄にいるチエからの電話だった。
「さっきホテルにチェックインしたら、渡された鍵に『アロワナ』のキーホルダーがついてたの」
「色、形は、同じものに間違いないのか?」
「うーん。見せてもらったものと一緒だけど・・・・・・、こっちの方がひと回り大きいかな。でも、ホテルのアメニティーショップで売ってるわ。山村が持ってたものと同じ大きさのものをね。フフッ、お手柄でしょう」
「よっしゃー、お手柄お手柄。で、ホテルの名は?」
「名護にある『ユシナテラス』よ」
「えぇー?そんな高級ホテルに泊まってるのか」
稲垣は思わず椅子からからだを起こした。
「大きな声出して騒いでいるんじゃないッ」
突然、柳田が横から手を伸ばして受話器を取り上げた。
「ん?『ユシナテラス』か」
「そう、超高級ですよー」
「いいホテルだな。でもそっちも梅雨で鬱陶しいだろう。こっちは少し前に梅雨入りしたぞ」
「何言ってんですか。沖縄はもう梅雨明けしてますよーだ。本土の梅雨入りはこちらの梅雨明け。空はピーカンですよー」
「そうか・・・・・・。じゃぁ悪いなぁ」
「何がですか?」
「すまない。一連の死んだ男が過去に宿泊していないか調べてくれないか」
「えぇー?私、休暇ですよー」
「だから悪いな、ピーカンなのに」
「でも、そんな昔の客のことなんか・・・・・・」
「そこは沖縄サミットをやったホテルだ。開業からすべての客を登録しているはずだ」
「しょうがないなぁ。分かりました」
「あとで、稲垣が男たちのフルネームと生年月日をメールするからな」
「もう、柳田さんたら強引なんだから。お陰でオフが台無しですよ」
チエの膨れっ面が受話器を通して伝わってきた。
「分かった、分かった。休暇中だってことくらい重々分かっているよ。だからこうしてお願いしているんだ。帰ってきたら、ナポリタンの大盛り奢るから。お土産?そんなもの遠慮しておくよ。その代り『アロワナ』のキーホルダーを買ってきてくれ。もちろん代金は払うよ。頼んだぞ」
柳田は受話器を置くと、嬉しそうに笑みを浮かべて片目をつむった。
今日、稲垣という刑事が突然訪ねてきた。高尾山の事件についてはもう目星がついたのだろうか。いやそんなはずはない。今までと同じように、凶器も見つからなければ目撃証言もないはずだ。ドジを踏んではいない。あれだけ念入りに、考えて、考えて、考え抜いてきたのだから・・・・・・。ただ、山村に近い人間の動向を調べているだけだろう。
何人もの犠牲を出して、やっと加害者の山村にたどり着いた。あとは最後の一人だ。長い、本当に長い道のりだった。
桐子の話によると、支社のすべての人間を調べているらしい。桐子は本命ではないはずだ。そのうち、捜査の焦点は山村の贈収賄に移るだろう。福澤が、山村の犯行をすっかり漏らしてくれているはずだ。ほとぼりが冷めるまでもう少しの辛抱だ。
しかし、智明に対するこの気持ちは何だろう。真剣に人を好きになったことなどなかったのに・・・・・・。智明の前では本当の自分をさらけ出すことができない。そんな自分がもどかしい。もっと素直になりたい・・・・・・。あいつに汚されたこのからだを智明に委ねてしまいたい。子どもなど産めなくてもいい。智明に全身が壊れるほど抱きしめられて、産まれたままのからだに戻りたい。
「智明ッ!智明ッ!お願いーッ」
和子は暗い居間で、思わず声を張り上げていた。
こんな気持ち、今さら智明に届くわけもない。ただ虚しく響くだけだ。智明が私を愛してくれてさえいれば、とっくにこころの傷も癒えていたのに。
でもここまできたら・・・・・・、もうあと戻りなどできない。あと一人。女としての自分をダメにした男を抹殺してあげる。それですべては終わりだ。完全犯罪は終わるんだ。
和子は買っておいた高級シャンパンをがぶ飲みした。
「ハッハッハッハッー、ウワッハッハッハッー。乾杯よ、乾杯ー」
大阪北支社と桐子の実家を洗うために大阪に出張していた稲垣が、三日ぶりに署に帰ってきた。
チエも沖縄から戻り、静かだった刑事部屋もいつもの活気を取り戻していた。
柳田を加えた三人は、すぐに会議室に集合した。
「柳田さん。新しい事実が分かりました。成実の実家を訪ねましたが、妙な人が住んでいましたよ。誰だと思いますか?」
稲垣は自慢げに鼻を少し上向かせた。
「焦らさないで早く言ってよッ」チエが横から口を挿んだ。
「それが・・・・・・、成実の実家は山瀬が大阪で泊まった家だったんですよ」
「じゃぁ池川和子がいたのか?」
稲垣は大きくうなずいた。
柳田に早く知らせたかったが、休暇届けの確認の他に重要な手がかりをつかんだため、和子のことを連絡しないまま、急いで東京に戻ってきたのだった。
「そうなんですよ。連絡が今になってすみません」
「やはり思ったとおりだな。梅田北署の捜査員によると、大阪北支社の古株の事務員が、それらしきことを臭わせていたようだからな」
「どういうことです」稲垣は口を尖らせた。
「言わなかったかなぁ」
「聞いていませんよ。そんなこと」
「まぁ、黙って聞きましょうよ」チエが可愛い口元に人差し指を立てた。
「大阪北時代、成実は天満橋から会社に通っていたらしい。それと、よっぽど仲がいいのか、帰りはほとんど池川と一緒だったようだ。友人以上の関係みたいだ、ってその事務員は言っていたらしいぞ」
「やっぱり。二人は大阪時代、ずっと同じ家に住んでいたんですね」
稲垣は小さな目を思い切り開けた。
「二人とも結婚していないのに苗字が違う。これにはきっとわけがあるんだ」
「それじゃぁ柳田さんは、二人は姉妹だと・・・・・・」
「俺の勘はそう言っているよ。どちらにしても、今度の事件に池川という女が絡んでいるような気がするな」
「どういった理由で?」
チエは興味津々なのか、急にからだを乗り出してきた。
「山瀬のアリバイの件で電話したとき、池川は妙なことを言っていたからな」
「えっ、何て言ってたんですか?」
「俺にこう訊いてきたんだよ。『その事件で誰か亡くなったんですか?』とな。俺はただ、ある事件があって山瀬さんのその日の行動を確認しています、と言っただけなのに。おかしな発言だったよ」
柳田は腕を組んで口をへの字に結んだ。
「そうですよね。柳田さんがアリバイの件で池川に電話したのは、山村が発見された日の夕方ですからね。日曜日で夕刊は休みだし、事件のことはテレビの首都圏ニュースでも流れていませんでした。だとすると、誰かが死んだなんて分かるわけがないんですよね」
稲垣はチエが買ってきた「ちんすこう」を口に放り込んだ。
「二人には何かあるわね。それと池川と恋愛関係にある山瀬も怪しいわ」
チエも訝しげな顔でコーヒーをすすった。
「それで、池川は何て言っていたんだ?」
「最初はビックリして慌てていましたが、しばらく粘ると、不貞腐れた顔で少しだけ話してくれましたよ。『桐子の実家はここ。私は若いときから居候してるだけ』とね。どういう関係なのかと訊くと、『親同士が昔知り合いだった』と言ったまま口を噤んでしまって、最後はけんもほろろに追い返されましたよ」
「池川は慌てていたのか。アリバイの確認のときには余裕をもって答えていたけどな・・・・・・」
柳田は鋭い目で一点を見つめた。
「絶対何かあるわね」チエは捜査班の一員になったように、首をひねり続けている。
「あぁ、それからもう一つ、いや、もう二つ大事なことを忘れていました」
「有給休暇の件か?」
「そうです。あの日の前後に休暇を取ったものはいませんでした。でも奇妙なことを発見しました。これが一つ目です。それともう一つは、山村の同期の人間から、重要な証言を得ました」
稲垣は満面の笑みを浮かべて鼻を擦った。
「山村支社長が亡くなった件で、社員の方の休暇届けを確認させていただきたいのですが」
「またえらいことでんなぁ。社員の有給休暇までチェックされるんでっか?」
大阪北支社の総務部長の佐々木は、入社以来同じエリアを離れない「渡り社員」と呼ばれている。十八で入社して三十五年間、府内にある四つの支社を行ったり来たりしている。家族と離れたくない、という理由で、毎年遠くへの転勤を拒んでいるのだ。家族と一緒にいたい、などとのたまう男はまったく使いものにならないらしい。会社にとっては頭の痛い社員だ。しかし、大阪のことには精通していて、反面使い勝手のいい社員でもある。
無精髭の佐々木は、アル中のようなトロンとした目で稲垣に応対した。
「うちの支社に容疑者でもいてるんでっか?」
もう事件のことは十分承知しているのだろう、佐々木は詳しい話を訊こうとはしなかった。稲垣も手間が省けて、単刀直入に用件を切り出したのだった。
「いいえ、参考までです。できれば、三十年前からのものを見せていただきたいのですが」
「そら、あんた。残ってまへんで。休暇届けの保存期間は十年でっさかい」
「じゃぁ、保存されているもので結構です。すべてお願いします」
「そない言われても、ぎょうさんありまっせ。全社員で七百人はおりますさかい」
「内勤の方だけで結構ですが」
「それなら百八十人ほどやから、ダンボール五箱分くらいでっしゃろ。この支社は物持がようて、たぶん十五、六年くらい前からなら残ってますやろ。事務員に書庫まで案内させますわ」
「助かります」稲垣は深く頭を下げて書庫に向かった。
柳田から受けた指示は、山村が死亡した日の前後に休暇を取った者がいないか調べろ、ということだった。しかし、稲垣は池川に会ったことで機転を利かせ、池川の過去の有給休暇まで調べるつもりだ。
すでに電話で、成実が過去に在籍した支社がある各所轄に応援を頼んでいる。成実の休暇届けをすべて調べてくれ、と。
稲垣は、我ながらいい仕事をしている、と暗くカビ臭い書庫でほくそ笑んでいた。
すると、いつの間にか笑みが消えた。
「いない。誰もいない。どうしてなんだッ」
六月五日、土曜日に山村は殺された。その前後の日に休暇を取った社員は一人もいなかった。束になっている六月分の休暇届けを隈なくチェックしたが、結局徒労に終わってしまった。
捜査本部は、大阪北支社に共犯がいるのでは、と踏んでいたのだが、かんぜんに当てがはずれた格好だ。すでに第二統括支社の方は確認済みだった。
「仕方がない。池川に絞ってみるか。もしかしたら池川が絡んでいるかもしれない」
稲垣は、残されたダンボールを見つめながら大きなため息を吐いた。
「今からが大変な仕事だ」
休暇届けは月ごとに束になっているため、事件前後の日に休みを取ったものがいないか調べるのは比較的容易だったが、今度は違う。池川に絞るとなると、全部の束から池川のものだけを抜かなければならなかった。気の遠くなるような作業だ。
「これじゃぁ四日はかかるぞ」稲垣は力なくつぶやいた。
肩を落として座りこむ稲垣は、うしろに人の気配を感じた。
「誰だッ、誰かいるのか!」
稲垣はとっさに上半身をふせると、日頃の習性で胸ポケットを弄った。当然、今日は拳銃など携えていない。
「驚かせてすみません」
目を上げると、書類棚の陰から、ワイシャツ姿の初老の男がぬうーっと顔を出した。
歳は五十代半ばだろうか、ごま塩頭を角刈りにした顔色の冴えない男が立っていた。
覇気はなく、人生に拗ねたような目で稲垣を見ている。
「佐々木さんから聞きました。お一人では大変でしょう。お手伝いしますよ」
ぼそぼそと、聞き取りにくい声で言った。
「お仕事があるんじゃないですか?」
「なぁに、仕事なんてありませんよ。あぁ、申し遅れました。私はこういう者です」
男は少しはにかみながら、アイロンのかかっていないワイシャツの胸ポケットから名刺を取り出した。
そこには『庶務室長 福澤正一』と書いてある。
稲垣も立ち上がって尻の埃をはたくと、内ポケットから警察手帳を出して見せた。
「稲垣といいます。山村さんの事件のことでおじゃましています」
「何でも言ってください。暇をもてあましていますから」
「いいえ、室長さんのお手を煩わせるわけにはいきませんよ」
福澤はニッコリ笑ってかぶりを振った。
「室長なんて名ばかりですよ。この支社に庶務室なんてありません。私が庶務室、要するになんでも屋です」
「なんでも屋?」稲垣は首をかしげた。
「分かりやすく言いますと、窓際族ですかね。わが社もご多分に洩れず、五年前にリストラの嵐が吹き荒れましてねぇ。頑として会社をやめなかった私はこの様ですよ。毎朝、新聞のスクラップを済ませたらもう仕事はありません。この時間、だいたい十一時ころから暇になるんですよ」
「・・・・・・はぁ。そうですか」稲垣は何と答えていいのか、返答に窮した。
「自慢じゃありませんが、四十代に地方の支社長までしたんですがね。業績が悪くて上げられてしまいました。そのあとは体のいい事業費削減。実態は人減らしのリストラですよ。たまたま病気も重なりましてね、今はこんな状態です。生きる屍とでも言うんでしょうか。晩年には人生の清算ができるんでしょうかねぇ。クックックックッー」
福澤は声を押し殺して笑った。
「今度の事件はもうご存じなのでしょう?」
福澤はゆっくりと顎を引いた。
「はい、聞いています。山村は私の同期でしてねぇ。彼のことはよく知っています。私とは正反対。いい加減な男でしたが、よく執行役員にまで出世しましたよ。本当は、悪いやつほど長生きするんですがねぇ。まぁ・・・・・・今度の件は自業自得でしょう」
稲垣の目の奥で何かが光った。これは好都合とばかりに、稲垣は書類がつまったダンボール箱を床に二つ並べた。
「座りませんか、福澤さん」
福澤は礼を言って、ゆっくりと腰を下ろした。そしてズボンのポケットを弄り煙草を一本抜くと、百円ライターで火をつけた。
「ここじゃまずいんじゃないですか」
「なあに、構いませんよ。子どもの火遊びじゃなし。火事なんて起こりませんよ」
福澤はいつもやっているかのように、書類棚の裏からコーヒーの空き缶を取り出した。
柳田は、今回の出張の前に言っていた。「山村はかなりあくどいことをやっていたらしい。大阪で何か手がかりでもつかめればいいのだが」
山村は数年前に、二年ほど大阪北の支社長をしていたことがある。支社長としては脂がのった時期だった。
この男から何か訊き出せるかもしれない。稲垣はそう思い、腹を据えて福澤からじっくりと話を訊くことにした。
「福澤さんと山村さんは入社したあと、やはり転勤で地方を回られたのですか?」
福澤は遠くに向けて煙を吐き出した。
「私たちは入社後、本社で一年ほど研修を受けたあと、地方に転勤しました。私は四国の高知、山村は香川でした。隣の支社だったので、一緒によく遊びにいきました。金毘羅、大歩危、小歩危、四万十川、色々遊び回りましたよ。夢を抱えたいい時期だった」
福澤は光の入らない書庫で、まぶしそうに目を細めた。
「それから三年後、私はこの大坂北支社に。珍しいことに今の私は出戻りですよ。山村は本社の企画部に転勤になりました。山村は大抜擢でしたよ。まぁ、コネがあったという話ですがね」
福澤は空き缶に煙草の吸殻をねじ込み、また新しい煙草に火をつけた。
「そのコネとは?」稲垣は興味深そうに福澤の口元を見つめた。ヘビースモーカーにしては綺麗な歯をしている。
「日本画家の『山村桂月』をご存じでしょう。彼の父親です。うちの会社はそのころから毎年、顧客用に『桂月』のカレンダーを製作していましてね。それも格安で・・・・・・。そのコネですよ。『桂月』は政界にも経済界にも顔が利きましたからね」
「その後は?」稲垣は重い尻を床に落として体育座りをした。
「彼は大阪の箕面に実家がありましたから、実家に戻ってきたときは二人でよく遊びましたよ。そしてよく飲みました。彼は転勤した翌年に結婚したんですが、それからは、私が東京に行くようになりました。奥さんの手料理を何度かごちそうになりましたよ」
「そうですか。ところで、山村さんの社内の評判はあまりよくなかったようですが、そのへんのことは?」
福澤は煙草を消したあと、しばらく目を閉じて考えている。
「山村さんが殺された、いや、亡くなった原因を調べているのです。奥さんも真相を知りたがっておられます。話してください」
福澤はまた煙草に火をつけた。
「彼は死んだのですから・・・・・・、もう話してもいいでしょう」
稲垣は音を立てて唾を飲み込んだ。
「彼は企画部から業務部に移って、会社全体の販促商品を扱うポジションにつきました。何万人という営業社員が使う商品ですから、使う金も半端じゃありません。億単位です。当時彼は、『桂月』のカレンダーを世話してやっている、という傲慢な態度がありありで、遊びも派手になり金遣いも極端に荒くなっていました。私も銀座の超高級クラブによく連れていってもらいましたよ」
煙草の紫煙が立ち上り、天井のすぐ下で傘を作っている。
「まぁ、バックマージンというやつですかね。普段営業社員は、販促商品を会社からの斡旋品の中から選んで、自己負担で買うのですが、年に数回、全営業社員に無料で配布することがあります。我が社では、営業社員は五万人近く在籍していますから、一人当たり十個としても五十万個というロットです。それをうまく悪用していたのですよ」
「あぁ、あの『生命保険のキャンペーン月』とか何とかいうやつですか?」
「そのとおりです。その月には、大量のギフト品を使うのです」福澤は大きくうなずいた。
「昔は、七月と十一月の二回でしたが、今はもうメリハリがなくなって、年の半分以上がキャンペーン月じゃないでしょうか。使い古された戦術はあっても、ちゃんとした戦略などありません。そんな状態ですから、キャンペーンに頼らざるを得ないのですよ。そして余裕のない戦いに、営業社員は疲弊し切っています。経営者はそれに気づいているのに、気づかない振りをしている。挙句の果てにリストラでことを乗り切ろうとする。リストラは経営陣が責任を取ってから行う最後の手段ですよ。まぁそんなこと、私みたいな立場の人間にとってはどうでもいいことですが。・・・・・・でも、まだまだ至る所に見過ごされている無駄があります。現場で使う金もほとんどが飲み食いばかり。販促商品にしても、誰かが私腹を肥やしていますよ。それに山村は絡んでいたのです」
「どのような不正をしていたのですか?山村さんは」
稲垣は上目遣いに福澤を見た。
「二束三文のギフト品を、何と倍以上の価格で仕入れるんです。例えば五十円のティッシュを百円とか、百円のハンカチを二百円とかで購入するんですよ。そして、その差額をバックマージンとして受け取っていたようです。一個十円を上乗せするとしても、五十万個なら五百万ですよ。先ほど言いましたが、当然百円の上乗せもあったはずです。そうなると、その額は五千万にものぼります。二百円なら億という金がバックされるのですよ」
「本当ですかッー。そんなに莫大な額のお金が動くんですか」
稲垣は自分の生活とはかけ離れた金額に目を丸くした。
「その真偽は分かりません。今となっては闇の中ですから・・・・・・。でも、少なくとも現金化できるものが渡っていたのは間違いないでしょうね」
稲垣は口を半開きにしたまま、数字に弱い頭をしきりにひねった。
「でも、恨み、妬みは持たれるでしょうが、殺人にまで発展するでしょうか。告発で終わるんじゃないでしょうか」
「たしかに・・・・・・。そのことで恨みは買っていなかったようです。結果的に、彼は各部署のえらいさんに金をばらまいていましたからね。それで役員にまでなれたようなものですよ。大した大学も出ていない彼が・・・・・・」
「へぇー、民間企業ではそれほど大学が重要なのですか?」
「あの時代はそうでした。入社するにも指定大学制度というのがありましてね。指定されていない大学の人間は、面接さえも受けさせてもらえませんでしたよ」
福澤は薄い笑いを浮かべて、煙草の煙を深く吸いこんだ。
「当時は、パソコンも普及していない時代でしたから、会社説明会の会場に行って初めて指定校を伝えられましたよ。『国立大学、東京五大学、関西四大学。それ以外の大学の学生さんは退席ください』とね。彼の大学は指定校外でしたから、たぶん入社もコネでしょう。それに比べると、今なんかいい時代ですよ。指定校制度なんてものはないし、誰にでもチャンスが与えられていますからね。選り好みが激しい自分を棚に上げて、会社とか世の中のせいにしている。今の学生は甘えていますよねぇ。そう思いませんか?」
「はぁ、私は警察官なので警察学校のことしか・・・・・・」
稲垣は、剃り残しの髭が残る顎を何度も擦った。
「すみません、よけいなことでした。歳をとると、昨日のことは忘れているのに、昔のことはしっかり憶えているんですよ。昔の話など稲垣さんの仕事には関係ありませんでしたよね」
「いえ、昔のお話は若い我々にとっては貴重なものです」
稲垣にとっては、大学の話などどうでもよかったが、いたく感心したような振りをして笑みを浮かべた。
しかし贈収賄の話については、簡単に聞き流すことはできなかった。稲垣は黙って頭を巡らせた。
考えてみれば酷い不正行為だ。しかし、しょせん我々とは管轄が違うし、本人が会社から告発されているわけでもない。それに、もう山村は死んでいる。今ここで騒ぎ立てることではないだろう。それより他にこの事件に繋がる何かがあるはずだ。稲垣は贈収賄の件については無視を決め込んだ。
「福澤さん、他に何か思い当たることは?。山村さんが恨みを買うようなことはありませんでしたか?」
福澤はしばらく目をつむり、煙草をゆっくりとふかした。
「そういえば、これはとっくに時効なんでしょうね。会社には関係ないことですが、私が大阪にいたとき、こんなことがありましたよ」
稲垣は更にからだを沈め、ダンボール箱に座る福澤を見上げた。
「もう遠い昔の話ですが・・・・・・、私が大阪北に転勤した翌年でした。彼が結婚する少し前だったと思います。そのときは、私もまだ独身で会社の寮に住んでいました。三月だったでしょうか、実家に帰省していた彼が、夜の十一時ころに電話をしてきましてね。『人を撥ねた。どうしよう。助けてくれッ』と泣いているんですよ。今どこにいるんだ、と訊くと、大阪城公園の南側、森ノ宮駅の公衆電話から電話している、と言うんです。すぐ行くから待ってろ、と言って私は寮を飛び出しました。私の寮は京阪沿線の関目というところにありましたので、二十分くらいで森ノ宮駅に着きました。それから、フロント部分がかなりへこんでいましたが、私が山村の車を運転して現場を離れました。彼の呼気からは酒の臭いがしていましたよ」
「何があったんだ、山村ッ。うろたえるな!」
薄暗い車内で福澤は山村の横面を張った。
「お前ッ、酒を飲んでるなッ」
山村は虚ろな目をして軽くうなずいた。
「上町筋を少し入った路地で、お、女を撥ねたんだ。もう何が何だか分からないよ。どうしようー」
山村は子どものように声をつまらせながら、涙をぼろぼろと流している。
「バカ野郎ッ、何で酒なんか飲んで運転したんだ」
山村の意識は朦朧としている。
「しっかりしろッ。落ち着いて最初から話せよッ」
福澤は煙草をくわえたまま、山村の胸ぐらをつかんで上半身を前後に揺すった。
「上町筋を北に向かって走っているとき、何を考えていたのか、ぼぅーっとしていて、気がついたら人を撥ねていたんだ。車を降りて現場に戻ったら、意識を失った女を男が抱きかかえて揺り起そうとしていた。スカートの中からは、どこから出てるいのか分からないけど、薄い血が腿を伝って流れていたよ。そして・・・・・・、振り向いたその男を見て、俺は更に血の気が失せた。このまま舌でも噛んで死のうかと思ったよ」
山村は、はぁー、はぁー、と息遣いが荒いうえに、全身をガタガタと震わせている。
「誰だったんだ。そいつは」
「それが・・・・・・、おっ、弟の雄三だった」
「何だとッ。だったら、女は雄三の彼女か?」
「たぶん・・・・・・」山村は、今度は苦しそうにぜぇぜぇと息を上げた。
「落ち着けッ。落ち着いて話せッ」福澤も口の端から泡を飛ばした。
「雄三は俺に気づくと、逆上して殴りかかってきたんだ。俺は何発も殴られた。でも運のいいことに、周りにはまったく人影がなかった。無性に怖くなった俺は、雄三の手を振り解くと無心で車の方に逃げたんだ。車までは百メートルほどあったけど、走りに走ったよ」
「そのあと森ノ宮まで逃げてきたのか?」
「いや、車のところまで来ると、鍵がないことに気がついた。たぶん現場に落としたんだろうと、俺は慌てた。真っ青な顔が真っ白になったような気がしたよ。遠くからは雄三の嗚咽がかすかに聞こえていた。そして雄三は彼女を抱えたまま振り向いて、犬の遠吠えのように、重く響く声で悲しそうに叫んだんだ。『リョージー、リョージー、戻ってこいよッ。逃げるんじゃないー』
その呪われたような声を聞いた俺は、ふと我に返った。一瞬、現場に戻ろうと考えたけど・・・・・・、からだは動かなかった。それに口の中は唾がなくなって、叫ぼうにもまったく口を開くことができなかった。そのとき急に、五月に控えた結婚のことや、内定した昇格のことが頭の中に浮かんだんだ。迷った、本当に迷ったよ。でも少し落ち着くと、バンパーの裏に予備の鍵を貼りつけていたことを思い出したんだ。俺は素早くそれを剥ぎ取り、無我夢中で車を発進させた。そして気がついたら森ノ宮にいたんだ。もう戻れないよー。あのとき鍵が見つからなければよかったんだッ。鍵が!」
山村の顔面は蒼白、唇は土色、すでに放心状態だった。
「何てことをしたんだ、俺は最悪だ。最悪だ~」
山村は、蚊の鳴くような声でうわごとのように繰り返した。
「落ち着けッ、落ち着くんだ!」福澤は助手席の背凭れをうしろに下げて、山村の興奮を抑えようとした。
「いいかよく聞くんだ。お前はもう出世コースに乗ってるんだ。このまま偉くなっていくんだよ。だから今日のことは忘れろ。何もなかったんだ。そして明日の早朝、東京に帰るんだ。いいなッ」
涙も涸れ果てた山村は、半分意識を失っているかのように、ほんの少しだけうなずいた。
「こんな車は、整備工場をやってるおやじに頼んで廃車にしてやる。お前は知らん顔でやり過ごすんだ。問題は弟だ。それも、俺が桂月に手を回して口を封じる。お前は弟との連絡を絶つんだ。すべて俺が勝手に動いたことにしろ。いいな、私情を挿むんじゃないぞッ。その代りお前が出世したときには、もし俺に何かあったら俺を助けろ。絶対これだけは忘れるなよッ。あとは失くした車の鍵だ・・・・・・。これも何とかする。きっと探し出して何とかするよ」
山村は全身を震わせて、ガチガチと歯音を立てながらゆっくりと顎を引いた。
「今から電車で実家に帰れ。タクシーじゃ足がつく。あとは打ち合わせどおりだ。いいな」
「そのあと、すぐ桂月さんに電話を入れました。私は、山村が本社に転勤になっても、しばらくの間、休みの度にやつの実家に遊びにいっていましたから、彼は私の頼みをすんなりと聞いてくれました。当然、桂月さんも思いは同じでした。そりゃぁ、息子が可愛いに決まっています。まず、雄三が所属している音楽事務所に圧力をかけてくれました。今回のことが公になったらデビューの話はなくなる。どんなことをしてでも女の口を封じるよう雄三を説得しろ、何なら金を用意するから、お前たちが直接女に手を下してもいい、とね。雄三は桂月さんの言うことは聞きませんでしたが、事務所の社長に対しては従順でしたからね。桂月さんにとって、あんな事務所をつぶすことなんて簡単なことでしたが、デビューのことがあるので、何百万か包んだんでしょうね、大事な息子のために。それから事故に遭った女の親が経営する会社、そう小さな薬品会社でしたかねぇ。そこにも手を回してくれました。最後は、桂月さんの秘書が、三百万くらいだったでしょうか、その金を女の入院先に届けました。慰謝料としてです。風の便りによると軽傷だったようで、新聞にも載りませんでしたし、警察も動いていなかったようです。示談で済んだんじゃないでしょうか。その後のことは私も知りません」
福澤は赤い目をして、ゆっくりと煙草をふかした。
「福澤さん。その女の人は誰ですか?何という名前ですか?」
稲垣は、じっとりと濡れた手のひらをズボンに擦りつけた。
「もう三十年も前のことですからねぇ。記憶にありませんなぁ」
福澤はじっと天井を見ている。
この人は知っている、女の名前を。稲垣はもう一度問いかけた。
「福澤さん、本当はご存じなのでしょう?」
福澤は辛そうな目をして、また煙草の煙を深く吸い込んだ。
「もし知っていたとしても・・・・・・、言えません。加害者にとっても被害者にとっても暴かれたくない過去ですよ。金でけりをつけているのですからね。山村はもうこの世にいませんし、彼女も今は幸せな生活を送っていると思いますよ。今更いいじゃありませんか、遠い昔のちょっとした過ちですよ。ここだけの話にしてください。そうです、山村は死んだんです」
話し終えたあと、目に涙を溜めた福澤は黙々と休暇届けの束を捲り始めた。
「稲垣さん。この作業は三日かかりますね。私もお手伝いしますから急ぎましょう」
「よろしくお願いします」
稲垣は、訊き出せなかったことに失意の色を浮かべたが、「俺がきっと暴き出してやる」そう誓って確認の作業を進めた。
福澤の手際のよさもあって、翌日の午後には作業は終了した。結果は思ったとおりだった。
大阪北の山田が死んだころについては、二十年も昔のことなので当然休暇届けは保存されていない。それ以外の、福岡の仲里、鹿児島の飯田、愛知の賀茂、この三件については、事件が起こった日の前後に池川は休暇を取っていた。
稲垣は自分の推理が的中し、一人書庫の片隅で笑いを噛み殺していた。
それに気づいたのか、福澤が言った。
「池川さんですか。いい人ですよ、あの人は」
福澤に池川の捜査のことをきづかれまいと、カムフラージュでその他数人の休暇届けも調べていたのに・・・・・・、福澤は察していたのか。稲垣は焦りを覚えた。
「池川さんが犯人というわけではありません。休暇届けは捜査の参考に過ぎません」
「そうでしょうね。あの人は、寂しがり屋でこころ根の優しい人です。悪いのはあの人じゃありませんよ。悪いのは今の時代です・・・・・・。虐待、自殺、孤独死。家族の絆なんてもうとっくに崩壊してしまいました。豊かさは実現できても、結局幸福は実現できなかった。どこへ行くのでしょうね我々は。でもこんな時代を作ったのは我々ですよ・・・・・・」
福澤は、まったく関係のないことをひとくさり論じて寂しそうに笑った。
「手がかりはつかめた。でも民間人を捜査に交えたことは俺の失態だった。福澤はあまりにも知り過ぎた」
稲垣はこころの中で自分を責めながら、書庫をあとにした。
「これを見てください」
休暇届けのコピーを三枚取り出し、稲垣は言った。
「支社の事務員は、ほとんどが月に一度の割合で休みを取っていました。池川も例外ではありません。八年前、十月五日の日曜日に仲里は自殺しましたが、六日と七日に休みを取っています。休暇理由の爛には、『長崎旅行』と記されていました」
柳田は右手の指で顎を摘まんだ。九州の地図を思い浮かべているのだろう。
「長崎か。対馬は福岡県だろう?」
「えっー?違いますよ。対馬は博多の北にあるので、福岡県だと勘違いしている人が多いのですが、正解は長崎県対馬市です。ただ東洋生命では、対馬営業所は福岡支社の管轄です。よって、ほとんどの社員が、対馬は福岡県だと錯覚しているのではないでしょうか」
「そうか。じゃぁ、池川は周りの目を欺くために、わざと『長崎旅行』と書いたのかもな」
「そうだと思います」
「いや、待てよー」柳田は腕を組んで考えている。
「どうしたんです、柳田さん」
「いや、そうじゃないよ。池川は警察を舐めてかかっているんだ。あとで調べられること予想して、頓知のような仕掛けをしたんだ。殺しの直前に遊びごころか・・・・・・。警察をかんぜんに愚弄している」
柳田は鉛筆を机に叩きつけた。
「い、池川は間違いなく対馬に行ったんですね」稲垣は怯えた目を柳田に向けた。
「稲垣、対馬で聞き込みをする必要があるな」
「もう手配済みです」
「さすがね、稲垣さん」真っ赤な顔の柳田を気にして、チエは明るく振舞った。
「それから、奄美で飯田が水死した事件ですが。五年前の八月十六日に飯田は亡くなっています。東洋生命はその年、八月十二日から十六日までの五日間を、夏季休暇として設定していました。一斉に休みを取る営業職と違って、休暇中でも支社の窓口は開けているので、事務職は会社が設定した休みを部分的にずらして取らなければいけないのですが、池川は十四日から十八日までを夏季休暇にしていました。それから言い忘れましたが、福澤の話によると、彼女はダイビングの上級ライセンスを持っているそうです」
「うぅーん」柳田は煙草をくわえて腕組みをした。じっと考えを巡らせている。
「まさに臭うな・・・・・・。で、愛知の件は?」
稲垣は、沖縄土産の「サーターアンダギー」を慌てて口にねじ込んだ。
「そ、その件ですが・・・・・・」
また喉につまらせたようだ。
「稲垣さん、ほらお茶。慌てないで」チエが小まめに世話をやいた。
「そ、その件ですが、ダ、ダイヤモンド富士を観に行ったのが八月十九日、この日は木曜日です。池川は金曜日に休みを取っていました」
「そうか・・・・・・」柳田も目尻を下げて、サーターアンダギーを頬張った。
「山村の件に関しては、お話ししたとおりです。少し深入りし過ぎて、池川の情報を福澤に漏らしてしまいました。申しわけありません」
稲垣は神妙な顔をして頭を垂れた。
「まぁいいだろう。そうだとしても、福澤は人畜無害のようだ。よけいなことは漏らすまい。もし池川に漏れたとしても、それを差し引いてもあまりある収穫だ」
柳田はわずかに白い歯を見せた。
「問題は撥ねられた女ですよね。それが誰だか・・・・・・」
「それと、山村の弟だ。どこにいるのか捜し出すのが先決だ」
二人はテーブルの上に置かれた休暇届けをじっと見つめた。
「あッー、そういえば。・・・・・・山村の葬儀のとき、親族席の最後尾に座っていたのが弟の雄三じゃないでしょうか」
稲垣は、右の拳で左手のはらを叩いた。
「髪をうしろで束ねたあの男か?そういえば・・・・・・」
柳田は、葬儀の席で親族の素性を詳しく確認しなかったことを、今になって深く後悔した。
「大丈夫です。きっと捜し出してみせますよ。彼の居所を・・・・・・」
稲垣は柳田の横顔をチラッと見ると、威勢よく胸を張った。
すると、柳田は不安げな視線を稲垣に投げて、疲れたように背中を丸めた。
「まだですか?」突然チエが膨れっ面をして、柳田の肩を強く叩いた。
「痛いなぁ、どうしたんだ」柳田がチエを睨んだ。
「沖縄の話は聞きたくないんで・す・かッー」
チエは胸の前で「アロワナ」をブラブラさせた。
「あー、すまん。忘れてたッ」柳田は顔の前で手のひらを合わせた。
「チエちゃん、大事な話だから最後まで取っていたんだよー」
稲垣は薄い笑いを浮かべながら、見え見えの言いわけをした。
「まぁいいわ。お昼、ナポリタンごちそうしてくださいな」
「ははぁ。お安い御用でぇー」
重苦しい部屋の雰囲気がいくぶん和んだ。
「結果的には、全員『ユシナテラス』に宿泊したことがありました。柳田さんが言ったように、ホテルが顧客登録していましたから間違いありません」
チエは手帳を開いて、指で素早くページをなぞっている。
「何か共通点はあったのか?」
「今回の調査では、共通点は見つかりませんでした」
「そうか・・・・・・」
「開業当初、三十年ほど前に宿泊したのは山村了司です。友人六人と泊まっていました。さっき話に出てきた福澤さんの名前もありましたよ。ただその三年後と五年後にも一度ずつ宿泊しています。先ほどの稲垣さんの話ですと、結婚後ですね。残念ながらどちらも女性と一緒です。相手は奥さんではありませんでした」
チエは淡々と話すと、次のページを捲った。
「最初の宿泊は社内の友人との旅行だな。福澤とはかなり親しかったということか。あとは女との隠密旅行だな」
「ふん」柳田は鼻で笑った。
稲垣は満足そうな顔をして「ちんすこう」を口に入れた。
「あとの四人についてですが、山田亮司は大学時代の卒業旅行でしょう、友人三人と泊まっています。仲里は支社の後援者旅行で、添乗員として宿泊しました。飯田遼二は、たぶん離島巡りの旅行でしょうか、一人旅でした。最後は愛知の賀茂涼二ですが、彼は、両親、妹との家族旅行です。山田は二十一年前。仲里は十年前、ちょうど成実が福岡に転勤する前の年です。飯田も八年前。賀茂も五年前ですから、二人も成実と知り合う前でした」
チエはスラスラと水が流れるように、調査の結果を説明した。
「いやぁ大したもんだ」稲垣はチエの調査能力に舌を巻いた。
まだ二十代の新米刑事だというのに・・・・・・。俺もボヤボヤしていられない。このままではチエに頭が上がらなくなってしまう。稲垣は顔を上気させた。
「もしこの五人に共通点があるとしたら?」柳田が唐突に訊いた。
「全員が『ユシナテラス』に泊まったことは当然ですが、そのホテルで同じような事件を起こしたか、あるいはホテルに纏わる同じものを所有していたか、だと思います。日常の生活の中で、そばにいる人間がそれを察知できるとするなら・・・・・・、やはり、ホテルに関連する同じものを全員が持っていた。それも日常頻繁に使うようなものを。そのために彼らは狙われた」
チエは、細い指で「アロワナ」をブラブラさせながらニッコリと笑った。
「稲垣、事件があった各所轄に頼んで、彼らの遺留品リストをすべて確認するんだ。きっと何か見つかるはずだ」
「はい。分かりました」稲垣はきつく口を結んだ。
「あっ、もう一つ大事なことを忘れていました。山村了司が最初に宿泊した二年ほどあとですが、宿泊客のリストの中に山村雄三の名前がありました。山村を検索したときに、たまたまヒットしたんです。男友だちと泊まっていたようですが・・・・・・」チエはチョコンと首をかしげた。
「何、雄三も?」
柳田の目が輝いた。
「口コミで行ったんじゃないでしょうか。兄の山村から、とてもいいホテルだ、とでも聞かされたとか・・・・・・」
チエは、その理由がはっきりしないために語尾を濁した。
「でも交通事故のあと、二人は絶縁しているはずだ」
柳田は稲垣に目をやった。
「そうですよ。福澤がそう言っていましたから」
稲垣は窮屈そうに太い腕を組んだ。
雄三が泊まった日に、誰かほかに妙な人間が泊まっていたのかもしれない。思考がまた宙を飛び始めた。そして、柳田は軽い頭痛を覚えた。