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アロワナ  作者: 修さん
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アロワナ④

続編11~12

 十一


 翌朝、支社には重苦しい空気が流れていた。事務職の女性社員は口元を手で隠し、ひそひそ話にいとまがない。

 智明は第二応接室のドアを静かに開けた。

「事情聴取は私が最初ですか?」

 奥の壁側に座る柳田は、智明を正視したまま大きくうなずいた。

 智明は、自分が一番疑われているのではないか、と感じ、いくぶん顔を紅潮させた。

 すぐに柳田と稲垣による事情聴取が始まった。二人の手には、現時点での社員名簿と過去三年間の退職者名簿がある。昨日柏原に依頼していたものだ。支社に関係しているすべての人間を調べるつもりらしい。

「いや、山村さんと一番近しい立場におられたのが山瀬さんですからね。全般的なことを含めてお伺いしたいのですよ」

「分かりました」智明は無論初めての経験だ。言いようのない不安を覚えた。

「まず、今年になってから山瀬さんは、山村さんにかなり不満を持たれていたようですね。山村さんから、仕事上で再三注意を受けていた。そして、ときには罵声も浴びせられていた。やり方が甘い、営業所長にもう少し厳しくあたれ、とね」

「そんなこと誰から聞いたのですか」

「数人の方がおっしゃっていましたよ」

 柳田は白い歯を見せて嫌らしく笑った。

 智明は、柳田のその一言でかんぜんに冷静さを欠いてしまった。

「煙草を吸ってもいいですか?」わずかに声が震えた。

 このところ煙草はやめていたのだが、今日は煙草でも吸わないとやっていられないだろう、とキヨスクで買い求めて用意をしていたのだ。

「どうぞ」柳田がジッポーで火をつけてくれた。

 天井に向けて強く煙を吐いた智明は、テレビで見る取り調べの風景を彷彿とさせるな、と客観的に状況をとらえ、少し落ち着きを取り戻した。

「うちみたいな民間企業は、面白おかしく人の噂をする人間が多いのですよ。社内には私利私欲が渦巻いていますからね。バブル崩壊後、出世ための競争は熾烈です。年功序列制が崩壊して、今は年俸制でしょう。いたるところで勤続年数に関係なく賃金の逆転現象が生じています。昔は、賃金闘争をしてわずかでもベースアップが勝ち取れれば賞賛された組合も、時代の流れにまったく適応できていません。ですから、自分で戦うしかないんですよ。今言われたことは、こんな時代だからこそ起こりうる誹謗中傷、要するに足の引っ張り合いですよ」

 一気に捲し立てると、一瞬上を向いて深く煙草の煙を吸い込んだ。

 智明は組合の役員をしていた癖が抜けない。客観的に会社の現状を説くことによって、警察によけいな疑惑を与えたのではとないか、と少し後悔した。

「ふ~ん。我々と違って民間の会社はそういう状況なのですか。しかし、先日も支社長室から大きな声が聞こえてきたと聞きました。相当厳しく注意されていたようですね。これは噂ではなく事実でしょう。部下の方がおっしゃっていましたよ。何ら組合とは関係ありませんよね。ところで、そのとき支社長に反論されたのですか?」

 坂崎はもうしゃべったのか。智明は警察の捜査のスピードに舌を巻いた。そして薄目を開けて、諦め切った顔で返答した。

「残念ながら反論なんてできません。それが民間企業の組織です」

「そうですか、何だか軍隊みたいですね。お宅の会社はかなり風通しが悪いのでしょうね。そんな会社、将来的にどうでしょうか」

「そんな会社?ちょっと待ってください柳田さん。支社長が死んだこととうちの会社の内情に何の関係があるのですか。まったく関係ないことでしょう」

 智明は事実を指摘されて、焦りを隠すことができなかった。

 仕事のことで恨みを持った社員が支社長を殺害した、と柳田は思っているのだろうか。でも、ひょっとしたら・・・・・・、それが当たっているのかもしれない。

「すみませんねぇ、言葉遣いが粗野で。それに商売柄よけいなことまで言ってしまいました。考えたら警察組織も似たり寄ったりかもしれませんね」

 その言葉に、智明は敏感に反応した。

「テレビで刑事ドラマをよく観ますが、上下関係の厳しさは民間の比じゃないでしょう」

 柳田は薄い笑いを浮かべた。

「一握りのキャリアと、砂の数ほどいるノンキャリア、いつも啀み合っていますよ。それが捜査に支障をきたすことだって多々あります。要するに足の引っ張り合いです。旧態然とした組織ですよ」

 柳田の目に悲哀が浮かんだ。

「あぁ、すみません。仕事中によけいなことを・・・・・・。忘れてください」

柳田は頬を少し緩めて、隣でメモを取っている稲垣に目配せをした。

「ところで山瀬さん。先週の金曜日は大阪で会議があったそうですが、その日は東京に戻っておられませんね。どちらにいらしたのですか?」

 稲垣は姿勢を正して訊いてきた。

「もうそこまで調べているのですか。やはり警察というのは民間と違いますね。怖い組織ですよ。僕ら素人は、その調査の仕組みについてはまったく想像もつきません」

 智明は意識して警察を揶揄した。

「はぁ。それくらい分からないと、警察とは言えないでしょう」

 稲垣は涼しい顔をして目を細めた。

「その日は大阪の友人の家に泊まりました」

「どこのどなたですか?」

 稲垣は透かさず追い討ちをかけてきた。

「そんなことまで言わないといけないんですか?」

「いえ、おっしゃりたくなければ結構です。しかし、間違いなくこの先お話しいただくことになると思いますが・・・・・・」

「うっー」智明は唇を噛んだ。

「大阪北支社の池川和子という人の家です」

「山瀬さんは遠距離恋愛なさっているんですか?」

「失礼じゃないですかッ、どうしてそんなことまで訊かれないといけないのですか。いい加減にしてくださいッ」

 智明は、稲垣の興味本位な言葉に全身の血を逆流させた。

「申しわけありません。よけいなことでしたねぇ」

腕を組んでいた柳田が、軽く手を振って稲垣を制した。

「当たり前でしょう」怒りの収まらない智明は、強く言い放った。

「ところで、土曜日はどうされていましたか?」

 ここにきて智明は、自分のアリバイを訊かれている、ということがやっと理解できた。そして、素直に話した方が身のためだ、と憤慨する自分に言い聞かせた。

「土曜日は、和子、いや、池川さんの家を九時前に出て京都に向かいました」

「旅館にチェックインされたのは、確か夜の七時でしたよねぇ?」

「何だ、もう分かっているんじゃないですか」

「ですから、京都で何をなさっていたのですか?」

 智明は慌てた。自分の行動を証明してくれる人がいない。世間ではこうやって事件が捏造されていくのか。一瞬頭の中が白くなった。

「天満橋から京阪電車で出町柳まで行きました。それから更に鞍馬まで行って、また宝ヶ池まで戻ってきて大原に向かいました。夕方大原を出て、東山三条にある『法皇館』という旅館にチェックインしました。翌日の日曜日は、総務部長の柏原が言ったとおりです。知恩院にいるときに彼から電話がありました。こんなところでいいでしょうか」

 智明は素直に、しかし事務的に答えた。

「京都での行動を証明してくれる方はいますかねぇ」

「一人で観光してたんですから、そんな人いませんよッ」

「お一人でねぇ」柳田はわざと鼻の頭を擦った。

 男の一人旅なんて、柳田から見ればまったく信用できない話だろう。

「何が可笑しいんですか」智明は憮然として言った。

 柳田はその質問には答えずに、話を逸らした。

「それじゃぁ、大阪にいらしたことは今日にでも池川さんに訊いてみましょう」

「何だか僕は容疑者みたいですね」

「そんなことはありませんよ」稲垣が鼻で笑った。

 智明は黙って和子の家を出たことを後悔した。和子は証言してくれるだろうか、それにしても警察は、証言、証拠がないとまったく納得してくれない。改めて警察の嫌らしさを痛感した。

「柳田さん、言っておきますけど、僕を疑っているのならそれは筋違いですよ。僕は午後七時に旅館にチェックインしたんです。支社長の死亡推定時刻は四時から六時の間でしょう。四時に高尾山で支社長を殺害したとして、東京駅までは移動に一時間以上かかります。それから『のぞみ』に乗ったとしましょうか。五時の『のぞみ』に乗って、六時半に京都に着くことができますか?京都駅から旅館までは、三十分もかかるんですよ」

 智明は頬を引きつらせた。

「そうですねぇ。死亡推定時刻は確かに四時から六時です。でも二時ころに山村さんを橋から突き落として、息絶えたのが四時から六時。それなら可能ですよね。『のぞみ』なら東京、京都間を二時間二十分程度で走ります。すぐに高尾山をケーブルカーで下りて四時ころの『のぞみ』に乗れば、ちょうど間に合いますよ」

 柳田はまた白い歯を見せた。

 この柳田という男は何ていうやつなんだ。智明はほとほと呆れた。

「どうして、そういうストーリーを勝手に作るんですか?僕は何もしていませんよ。もう勘弁してくださいッ」

 智明は、柳田の言葉にかんぜんに自分を見失ってしまい、両手に震えさえ感じた。

「いやぁすみません。別に脅かしたわけではないんですよ。少し言い過ぎましたかねぇ。私どもは山瀬さんを疑っているわけではありません。警察は、今のような探り方をするということです。そのような警察の捜査をご理解いただいて、少しご協力いただこうと思っただけです。お気を悪くされたのなら謝ります」

 柳田は淡々と話したあと、煙草に火をつけてゆっくりとふかした。

「よく調べてみてくださいッ。間違いなく京都にいましたからッ」

 智明は憔悴を隠せずに、泰然自若としている柳田に言葉を投げつけた。

「山瀬さん、ありがとうございました。またお話をお伺いすることになると思いますが、そのときはよろしく」

「あっ、あぁ」怒りの収まらない智明は、どちらとも取れない曖昧な言葉を残した。

「次は西澤さんです。控室にいらっしゃると思いますので、声をかけていただけますか」

 ぼうーっとした頭を抱え、後ろからかすかに聞える柳田の声に、智明は上気した顔で首を縦に振った。

やはり誰かが山村を殺したのか、それがいったい誰なのかまったく見当もつかない。言えることは、柳田はもう殺人事件だと断定しているということだけだ。しかし、その自信の拠り所はいったい何なのだろう。考えれば考えるほど、頭の中の思考力は弛緩していった。


 部屋を出ると、ちょうど業務係の有希が第一応接室から出てきた。

「有希ちゃんどうしたんだ」智明は囁くように声をかけた。

「こっちの部屋では、若い女子事務員ばかりを事情聴取してるんですよ。そっちとは違う刑事が二人来ています」

 有希は青みを帯びた顔で口を尖らせた。

「そっちの部屋でもやってるのかッ」

「この四、五日で、全員が呼ばれるみたいですよ。だって支社長さんが殺されたんですから・・・・・・。奥の会議室が、事情を聞かれる社員の控室になってます」

 入社したての有希でさえ、殺人事件だと理解しているのか。智明は呆れて大きなため息を吐いた。

「そうかー、困ったもんだ。これじゃぁ、仕事してる場合じゃないな」

 隣の部屋では、若い部下たちが調べられているのか。それも女性ばかりだ。社内に渦巻く噂の本質を問い質すには、若い女性が最適なのだろう。

智明は控室までの短い距離をゆっくりと歩いた。


控室のドアをそっと開けた。

窓際に座る西澤が軽く右手を上げた。言葉は発しない。

桐子も心細い顔で振り返った。濃紺のジャケットの下に、水色のブラウスを着ている。桐子にしてはまともな色合わせだ。ただ真っ赤な口紅がそれを台無しにしていた。

広い控室で待っていたのは、その二人と支社の若い男性社員だった。

「西澤さん、僕は終わりました。刑事が待ってますよ」

「どげして、今年の転入組が先に呼ばれるとやろ。わけが分からんのう」

「今度の件は、怨恨による犯行だと思ってるんじゃないですか」

「怨恨なら、そげな可能性はみんな一緒やないか」

 修は口を尖らせた。

「もし、昨年も在籍していた人間が犯人なら、昨年事件が起こっていたはずだ。警察はそう思っているんでしょう。今年転勤してきた人間が、支社長に対して過去に恨みを持っていた。転勤の機会をとらえて、すぐにその恨みを晴らした。そんなところじゃないでしょうか」

「まぁ、どげでもよかたい。なら、行ってくるわ」修は足早で控室を出ていった。

 ドアが閉まると、桐子は怨めしそうに智明の顔を見た。

「私なんて何も関係ないのに、事情聴取されるなんて心外です。そう思いません?」

「そうですよね。成実さんこそいい迷惑ですよ」

 今日は桐子のアニメ声が、何となく空々しく聞えた。

 しばらくすると有希が智明を呼びにきた。

「業務部長、篠田人事課長がお見えです」

「あぁ、すぐ行く」智明は桐子に軽く会釈をすると、急いで部屋を出ていった。


 事務所内を簡素なパーティションで囲った小会議室で、正樹は煙草をくゆらせていた。

「遅かったな」

「本社で山村さんの葬儀の打ち合わせをしていたんだ」

 正樹は煙草を口からはずし、カップコーヒーをすすった。

「俺も、今事情聴取が終わったとこだ。今日の予定は?」

「悪いな。今から大阪に行く。葬儀の準備だ」

「何だよ。今後の支社運営の打ち合わせはどうなるんだ」

 智明は口元を曲げた。

「仕方ないじゃないか、緊急事態なんだから。そう拗ねるなよ」

 すると、正樹はカバンから分厚い冊子を取り出した。

「先にこれを読んでおいてくれ。打ち合わせはそのあとだ」

 正樹は煙草を消すと白い歯を見せた。

冊子の表紙には『支社緊急時対応マニュアル』と書いてあった。

「マニュアル、マニュアルか。俺はマックの従業員じゃないんだぞッ」

 智明は顔を歪めて下唇を突き出した。

「まぁ、そう言うなよ。大阪で待ってるぞ」

 正樹は重そうなカバンを肩にかけて、そそくさと部屋を出ていった。


 第二応接室からしくしくと泣き声が聞こえる。

 部屋には香水の匂いが漂っていた。豊潤だが何ともきつい匂いだ。

 柳田はこの匂いに苦い思い出がある。昔の女の匂いだ。その女がかすかに漂わせていたのが、まさにこの香水だった。

 柳田は鼻をシュンと鳴らした。

「私がどうして疑われなければならないのですか?」

 桐子はマスカラが取れないように、ハンカチを細くして丁寧に涙を拭った。

「疑っているわけではありませんよ。事情をお訊きしているだけですから、どうぞ落ち着いてください」

 桐子はじっとうつむいている。

「どういった事情で金曜日の夜に山村さんとお会いになったのか、ということを訊いているんです」

「誰がそんなことを?」

「ですから誰から聞いたというわけではありません。山村さんの財布の中から『シャンピニョン』という店の領収証が出てきたのです。その店の従業員に、支社の方々の集合写真を見せたところ、同伴者は成実さんだ、ということが分かりました」

「はぁ?『シャンピニョン』?そんな名前でしたか」

 とたんに桐子は目を逸らした。

「ちッ!」そしてこころの中で舌打ちをした。

「それに先に帰られたそうですね。どんな理由からですか?」

 柳田は舐めるように桐子を見た。

「誘われたんですよ。ただそれだけッ」

 桐子は相手を自分の敵だと認識すると、手のひらを返したようにぞんざいなしゃべり方をする。

「食事のあと、二次会に誘われたということですか?」

「違いますよ。ホテルに誘われたんですよ。最初から下ごころがあって、突然、私を食事に誘ったんです。だから、食事が終わるとお決まりのコース。バカのひとつ覚えみたいに、泊っていこう、って強引に誘ってきたんです。下劣な男でしょッ」

 死人に口なし。桐子は安心して嘘を吐いた。

「それで、怒って先に帰られたんですね」

「そうよ。あんなクソジジイ、誰が寝てやるもんですかッ」

 柳田は、桐子のダミ声を不快に感じて、一瞬顔を逸らした。

「それとその日の夜、自宅から山村さんに電話をされていますね。自宅の電話の履歴に残っていましたよ」

「そんなことまで・・・・・・」

 桐子は頬をピクリと動かした。

やっぱりね。あれは公衆電話にしておいてよかった。桐子はそっと胸を撫で下ろした。

「お礼の電話をしただけですよ。不味くても、とりあえず食事をごちそうになったんだから」

「翌日の打ち合わせをしたんじゃありませんか?」

 稲垣が上目遣いに桐子を見た。

「そんなセクハラされて、何でデートに誘わなければいけないのッ」

 桐子は右頬を引きつらせた。

「私は、成実さんがデートに誘った、なんて言っていませんよ。打ち合わせ、って言っただけです。あまり先走らない方がいいと思いますよ。成実さんのためにもね」

 稲垣は含み笑いをして手帳を開いた。

「煙草を吸わせてちょうだい」

桐子は慌てて煙草をくわえた。そして心の中で、今言ったことの浅はかさを後悔した。過去の事件のときと違って、今日の桐子は弁解の切れを欠いていた。

「おつけしますよ」柳田がジッポーで火をつけようとした。

「よけいなことしないでッ。自分でつけるから。このライターじゃないと煙草が不味くなるわ」

 苛立つ桐子は細長いカルティエのライターで火をつけた。

 捲れた唇で強くくわえ込んでいるからなのか、真っ白なフィルターが真っ赤に染まっていく。

「ところで土曜日は何をなさっていましたか?」

 柳田は冷静な口調で桐子に訊いた。

「どうせ電話の履歴を調べたんでしょう?翌日、同僚の藤田君とディズニーランドに行く約束をしてたから、その夜の十一時ころ、彼に電話して打ち合わせをしたわ。だから当然土曜日は舞浜にいたわよ」

 桐子は天井に向けて勢いよく煙を吐いた。

「そうですか。一日いらしたのですか?」

「当たり前じゃないッ。一、二時間だけディズニーランドで遊ぶ人なんている?十二時から夜の十時までいましたーッ」

 桐子は腹立たしげに答えた。

「そうでしたか。ありがとうございました」

 柳田はわずかに白い歯を見せた。

「どうせこのあと、藤田君に訊くんでしょう?今日は彼も呼んでるんですよね」

「よく分かりましたね。そのとおりです。今日お呼びしているのは、過去に大阪に勤務された方、大阪出身の方、それと大阪の学校を出られた方です。要するに大阪に関連がある方を全員お呼びしています」

 桐子は、ふ~ん、という顔をして嘯いた。

「何で大阪なの?大阪、大阪、大阪。何の関係があるのよッ」

「すみません。今の段階ではお答えできません」

 柳田は目だけで冷ややかに笑った。

 山村は数年前に大阪北支社にいたことがある。柳田は、そのときに怨恨がなかったか、をまず調べようとしたのだった。

「まぁ、そんなことどうでもいいけど。せいぜい頑張って捜査してくださいな」

声はアニメ声に変わっていた。

 桐子が出ていったあと、稲垣がうなった。

「きつい匂いですねぇ。この香水、確か『カマン』とか、『スマン』とかいう香水ですよ。僕の妹が時々つけています」

稲垣は顔をしかめて、鼻の頭を摘まんだ。

 すると、柳田は呆れ顔で稲垣を見た。そしてこころの中でつぶやいた。

「ウィンザー化粧品の『アマン』だよ。何も知っちゃいないなぁ」

 柳田は軽く鼻を鳴らした。


 十二


「もう弔問客が来とるなぁ」

 修は大きな山門の前で智明に話しかけた。

 箕面市の山間部にあるこの寺で、十一時から葬儀が行われることになっている。

「支社長の実家は名家なんでしょう。こんな由緒のある立派なお寺で告別式をやるんですからね」

 朱の色で塗られた本堂を中心に、広大な敷地が広がっている。敷地内には宝物館や宿坊、更には茶屋までもが点在している。

「それにしてもでかい寺やなぁ」

 修は周りを見渡して、壮大な建築物に何度もうなずいている。

「昔から山岳信仰で栄えた真言宗のお寺ですよ」

 智明はサラリと答えた。

「やっぱり坊主の息子はよう知っとるなぁ」

 修と智明は本堂に向かって、玉砂利の音を立てながらゆっくりと歩いた。

 まだ十時とあって、葬儀の準備の真っ最中だ。そのうち、智明は打ち合わせのために本堂裏の寺務所に消えていった。修は手持無沙汰で、弥勒菩薩の大仏や大師堂の周りを漫ろ歩いていた。

 すると、本堂の隣にある大師堂の脇を、髪をうしろで束ねた男が足早に通り過ぎた。

「あれッ?雄三やないか」

男は振り向いた。

「おう、修。来てくれたのか」

 修は何が何だか分からず首をかしげた。

「お前、こげなところでなんしようとや」

「何してるって、了司は俺の兄貴だよ」

「えッ!そげなこと聞いとらんぞ」

「兄貴が修と同じ会社に勤務してるなんて、俺には関係ないことだ。それに、今まで兄貴とはほとんど交流がなかったんだよ。今日は葬式だから仕方なく来てるだけだッ」

 雄三は強い口調で言って、視線を逸らした。

「なんや、水臭いやっちゃなぁ。言うてくれたらよかとに」

「すまん。特に他意はなかったんだよ」

「俺は今日泊まりばい。時間があるとならホテルに顔ば出さんか?」

「おう、分かった。何ていうホテルだ」

「梅田にある『大阪サンパレスホテル』ちゅうとこや」

「了解、五時ころには行けると思う」

 修は狐につままれたような顔をして、何度も首をひねった。


 修は、サンパレスホテルの地下にある『天勢』という天ぷら屋で雄三を待っていた。

「しかし、なんで兄貴のことを内緒にしとったとやろ。立派な兄貴やちゅうのに・・・・・・、二人の間になんかあったとやろか。弟がやっと有名人になったと思うたら、兄貴が死ぬやて、世の中うもういかんもんやなぁ」

ブツブツと独りごとを言いながら、修は灘の冷酒を口に運んだ。

すると店の引き戸が、ガラガラと音を立てて開いた。

「待たせたな」雄三は喪服のままネクタイを取ってあらわれた。

 疲れた顔の雄三は、修の隣に座るなり、カウンター前のねたを見ながら天ぷらを注文した。

「大将、これと、これと、これやってよ」

 指差したのは、穴子と小柱、それに新鮮な稚鮎だった。

「へいよ。山村さん久しぶりでんなぁ。今日はオフでっか?」

「今日は身内の葬式でね。仕事はキャンセルしたよ」

「そら忙しおましたなぁ。山村さんも今からやさかい、からだには気をつけなあきまへんで」

「ありがとう。肝に銘じとくよ」

 この店は雄三に指定された店だ。昔から懇意にしているのだろう。

「修、今日はありがとう。お陰で無事に終わったよ」

「でもビックリしたわ。お前がうちの支社長の弟やったとは、知らんかったなぁ」

「昔、色々あってさ。それから兄貴とはほとんど付き合いがないんだ」

 雄三はふし目がちに話すと、冷酒を一気に飲み干した。

「まぁよかよか。人間色々あるたい」

 修は、三十年前の女と関連があるな、と瞬時に察した。稚鮎の天ぷらを口に運ぶと、爽やかな緑の香りがした。

雄三は修の思いに気が回らないのだろう、ほどなくすべての天ぷらをたいらげた。

「ところで、今日は親戚の人との付き合いはよかとか?」

「親戚のことより、親父がかなり憔悴してるよ。叔父たちがついてくれてるから大丈夫だろうけど・・・・・・。まぁ俺には関係ないよ。親戚とはもう縁を切ってるからな」

 雄三は特に気に留める様子もなく、更に天ぷらを注文した。

「親父さんはあの有名な日本画家、『山村桂月』やったよな」

「今は有名でも何でもない。ただの老人だ。昔から俺には関心を示さない男だった」

 雄三は修から目を逸らして、オクラの天ぷらを頬張った。

「葬式じゃ気丈に振舞っとったけど、自分よか先に子どもが死んだとやろ。そらぁ、相当憔悴しとるはずやで、親父さん」

「あんなやつでも、子どもが先にあの世にいったんだから、そうかもしれないな」

 雄三は苦い顔をして軽くうなずいた。

 そのあと、冷酒を熱燗に変えて、しばらく差しつ差されつの時間が過ぎていった。

「ところで修、お前仕事はうまくいってるのか?」

「転勤ばかりで結構からだがしんどいよ。上はギャーギャー煩いけど、まぁこんな時代やからな。辛抱、辛抱。何とか一人でやっとるたい」

 修は悲しげな笑いを浮かべた。

「それにしても、兄貴はよく出世できたよな。あんなやつが、何で執行役員になったんだ?」

 雄三はおもむろに修を覗き込んだ。

「そりゃぁ、立派な業績を上げたからやで。うちの会社は業績オンリーや。どないなことしてでも、ちゅうのはちょっと言い過ぎかもしれんけど、業績を上げさえすりゃぁ出世するたい。民間の会社はどこっもそげなもんばい。俺は好かんけどな」

 修は不満げに答えた。

「へぇー、あんな兄貴でも出世するんだ・・・・・・」

 雄三は目を閉じた。

「雄三、お前ほんまに兄貴のこと知らんかったとやなぁ。亡くなったから言うとやなかばってん、山村支社長はあんまり部下に好かれとらんかった。いや、ほんまのこと言うと、かなり嫌われとった。そやから、今度の事故も事件やないかて疑われとるんや」

「だろうな・・・・・・」

 雄三は大きくうなずいて、熱燗を二本注文した。

「なんか、兄貴のことにこだわりがあるみたいやな」

 雄三は昔を回想するかのように、天井を見つめてゆっくりと腕を組んだ。じっと何かを考えている。

 突然、雄三は大きめのグラスを注文して、それに酒を注いだ。そして、思いつめたようにその酒を一気に飲み干した。

「兄貴は殺されたのか?」

「そうや。警察はそう見とるたい」

「当然だよな、あんな卑怯なやつ。自業自得だ。まぁ俺も大したことは言えないけどな・・・・・・」

 雄三は一点を見つめながら、徐々に顔を紅潮させていった。

 しばらく沈黙が続いた。雄三は何を考えているのか動きを止めたままだ。

 すると、突然修の方を向いて、おもむろに口を開いた。

「兄貴は人を殺したんだ」細い声だった。

「なんやてッ、もう一回言うてみいッ」

「だから、人を殺したんだよ」

「なん言いようとか。雄三ッ」

 修はうろたえて目を白黒させた。

「殺されたのは子ども。それも俺の子どもだ」

「どないしたんやッ。詳しゅう話してみいッ、わけが分からん」思わず大きな声を出した。

「修ッ、声がでかいよ」

 雄三はこころを落ち着かせようとして、大きく息を吸った。

「ここじゃだめだ。俺は東京ではまだ顔を知られていない。今度リハーサルで東京に行く。そのとき詳しく話すよ」

「今日じゃあかんのか?」

「今からラジオ番組の生出演がある。時間がない」

「分かった。なら仕方なかばい。東京で待っとるぞ」

「俺だって話したい。東京進出までにはお前に話したいんだ。このささくれ立ったこころを何とかしたいんだよ。よく考えてみたら、兄貴は間違いなく殺されたんだ。間違いなく昔の事件が関係してる・・・・・・。だったら今度は俺だ。きっと俺が狙われる」

 雄三はそう言い残すと、呼んでいたハイヤーで店をあとにした。


 智明は、大阪サンパレスホテルの隣にある居酒屋で和子と対面していた。

「トモちゃん。置手紙の約束、早めに実現してくれたのね」

 和子は上を向いて鼻を膨らませた。

 今日の和子は、前回と違い濃い化粧をしている。真っ赤な口紅をぬり、目の周りを緑色のアイシャドーで光らせていた。

「まぁ、突発的な事故で大阪に来たんだから、俺が実現させたわけじゃないよ。偶然だよな」

「いいじゃない、偶然でも。今日は家に泊まっていってね」

 智明は無言で首を縦に振った。

「早速だけど、支社長が発見された日の夕方、警察から電話があったわよ。山瀬さんは事件の前日に池川さんのお宅に宿泊されましたか?だってー」

 和子は、じーっと智明の顔を覗き込んで話し始めた。

「あの日すぐに電話があったのか」

 智明は視線を落とした。

「そうよ。だから私は、山瀬さんとはずっと会ったことがありません。そう答えたわ」

「えッー何でそんな嘘を!」

 智明はとっさに顔を上げた。

「バカね。何でそんなにうろたえるの」

 和子は涼しい目をしてかすかに笑った。

「当たり前だろう。俺のアリバイが・・・・・・、まったく証明できないじゃないか。支社長は泊まった日の翌日に殺されたんだ。せめて大阪での行動が立証されないとヤバイよ」

 和子は煙草をゆっくりふかすと、雪のように白い頬を緩めた。

「うっそッー、ちゃんと答えておいたわよ」

 智明はそれを聞いて全身の力が抜けた。

「本当か?すまない・・・・・・」

 和子は小悪魔のようなえくぼを浮かべてニヤリとした。

「金曜の夜はセックスをしてました。二人は恋人同士です。だから時々大阪で会うんです、ってね。そこまで言ってあげたわ」

「えッ!」智明は愕然として、顔を白くした。

「何でそんな嘘まで・・・・・・。警察は信用するじゃないかッ」

「まんざら嘘でもないわ」

「だって・・・・・・」智明は当惑してしどろもどろになった。

「バカね。はっきり言った方が、二人が一緒にいたことを完璧に証明できるわ。ただ、恋人の証言は信憑性がないけどね」

 和子は智明の方を向いて片目をつむった。

「あのさぁ、いつから俺たち恋人になったの?普通に証言してくれたらいいのに」

 智明は腕を組んで口元を曲げた。

「トモちゃん、何にも覚えてないんだから。あの夜のこと」

 智明は、泊まった夜のことについてはほとんど記憶がなかった。ましてやベッドの上のことなど・・・・・・。言えることは、和子を抱いたのなら、その感覚を絶対に覚えているはずだ。覚えていないセックスなんてあり得ない。

「あのさぁ、あの夜何もしてないよ。俺・・・・・・」

 智明は少し投げやりに言った。

「えっ?間違ったこと、私言った?」

 和子は頬杖をつきながら冷酒をひと飲みした。

「だから・・・・・・、証言で、セックス云々だなんて」

 智明は、何でこんなことの真偽を争わなければならないんだ、と思いながら、ぬるくなったビールを一気に飲み干した。

 和子は、らっきょうを一つ摘まんで渋い顔をした。

「あの夜ね。トモちゃんのパンツを取って、トモちゃんのもの、舐めたり含んだりしたの。でもまったく反応がなかったわ。それもセックスの一つでしょ。覚えてない?言っとくけど、私恥ずかしい思いをしたのよ。もうー、冷たいったらありゃしない。そこまでいったら二人はもう恋人でしょッ」

「えっー、それ本当か?」

 智明は慌てて唾を飛ばした。

「嘘言ってどうするの。本当よ。私トモちゃんを起こそうとして頑張ったんだからね」

 和子の言うことはまったくのでたらめだったが、その嘘で智明を困らせてやりたかった。

そして男を受け入れることのできない和子は、智明のものが自分のからだに埋没することを想像しながら、こころの中だけでも智明と深く繋がっていたかった。

 智明は目をつむって、じっとあの夜のことを回想してみた。

「そんなことがあったのか。悪かったよ。でもそれだけで・・・・・・」智明は、恋人と言えるのか、という言葉を呑み込んだ。そして唇を少し尖らせた。

「でも・・・・・・、素っ裸で一緒のベッドに寝たら、世間では恋人って言わない?」

 和子は真っ赤なライターで煙草に火をつけた。

「まぁ、一般的にはね。でも俺の場合は・・・・・・」今度は、違う、という言葉を呑み込んだ。

 智明は、何て煮え切らない男だ、と自分を批判しながら、乳白色の煙を吐き出す和子の赤い唇をじっと見つめた。

しかしなぜだろうか、和子は桐子と同じ臭いがする。こころの底に重いものを抱えているような独特な臭いだ。特に今日は顔さえ似ているような気がする。真っ赤な口紅のせいだけではないだろう。智明は毒を吐き出すような顔をして、大きなため息を吐いた。

前に会ったときの和子はどこにいったんだろう。明らかに、和子は以前と変わっている。

「ところで、警察は犯人の目星をつけてるの?」

 和子は人差し指を真っ赤な下唇にあてた。なぜか和子の顔には、今まで見たことのない憂いの表情が浮かんでいた。

「まだ、社員の事情聴取が始まったばかりだからな。俺たちは皆目見当がつかないよ」

「そうか・・・・・・。でも桐子が関係しているなら、解決は無理かもね。また事故で処理されるのが落ちよ」

「えっ?」智明は和子の言葉を容易に受け入れることができなかった。

「だって、今までの事件とまったく同じじゃない。いや、ごめんなさい。そんな気がするわ」

 和子は冷めた顔でまた冷酒をひと飲みした。

 桐子が抱えている陰鬱な闇を、和子は知っているはずだ。間違いなくすべてを知っている。

「和子、成実さんのこと、ほかにも色々知ってんだろう?」

 和子の顔の翳りが少し濃くなった。そして煙草の煙を深く吸い込むと、真っ赤な紅で染まったフィルターを見つめながら口を開いた。

「彼女、ある男を捜していたのよ」

「男?それは誰だよ」

「でも・・・・・・、これを言うなら、それこそ貴方と私は本当の恋人同士じゃないとね。そういう関係になったら話してもいいわよ」

 和子は赤い唇をひと舐めして、その両端を吊り上げた。

「恋人じゃないと、こんなこと言えないわよー」

 和子に何があったのか、今日は口にする言葉と酒のペースが尋常ではない。

 智明は、和子のグラスに目をやる度に、徐々に酒が醒めていくのを感じた。

「いやごめん。俺たちもう恋人かもね・・・・・・」

 智明は、わざとじゃれ合う振りをして、自分の鼻が和子の鼻と擦れ合うほどに顔を寄せた。

桐子の闇を知りたい。どこからくる欲求なのか智明自身も分からなかった。そのためには和子が必要だ。

 和子の鼻が、智明の鼻に軽く触れた。

「捜しているのは殺人犯よ。フフッー」

和子は智明の鼻の頭に強く煙を吹きつけた。

智明は、赤い唇から噴射された毒に、まるで痺れたかのように全身を強張らせた。

「今まで順風満帆で過ごしてきた貴方には、まったく分からないかもね」

 和子の真っ白い頬がまた微妙に歪んだ。そのあとは、もう桐子のことに触れなくなってしまった。


柳田は署から少し離れた行きつけの喫茶店で、大好きな推理小説を読みながら好物のナポリタンを食べていた。

すると突然、入口のドアに飾られたカウベルを鳴らして稲垣が飛び込んできた。

「柳田さん。やっぱりここでしたか」

「どうした?そんなに慌てて」

 太ったからだが上下に揺れている。

「実は、ディズニーランドで、成実と思われる女が目撃されていました」

「えっ?それはないだろう。成実は高尾山に行っているはずだ。山村の尻についていた土は、靴で蹴り上げたときについたものだ。四号路のぬかるみを踏んだ靴で山村の尻を蹴り上げたんだ。そして山村は谷に転落した。山村の尻を蹴り上げたのは成実だ。俺は確信している」

 柳田は口の周りについたケチャップを拭うと、半分ほど残ったアイスコーヒーをひと飲みした。

「でも・・・・・・、藤田紘一と思われる男と一緒にいたようです」

「詳しく話してくれ」

 稲垣は柳田の正面の椅子に重そうに尻をのせた。

「二人のことを憶えていたのは、ランド内にあるイタリアンレストランのウェイトレスです。午後五時ころ、藤田と思われる男がコーラを飲んだ直後に咳き込んで、口に含んだコーラを辺りにまき散らしたそうです。そのとき前の客の服にかかり、ちょっとした騒ぎになったようですよ。そんなトラブルがあったので、藤田の隣に座っていた成実と思しき女のことを憶えていました。ただ、成実はサングラスをかけて帽子を深く被っていたようなんですが、ウェイトレスは彼女の写真を見ながら、断言はできないけどたぶんこの人です、って言っていましたよ。それともう一つ、きつい香水の匂いをさせていたそうです」

 稲垣は自慢げに厚い胸を反らした。

「午後五時か・・・・・・、それとコーラ。あまりにもでき過ぎてるな。十二時に入場しても、すぐに退場して高尾山に行き、山村を殺害して戻ってくることは可能だ。でも五時までに戻るのは、ちょっと無理だ。それから、コーラの件はわざとだ。う~ん、これで迷路の出口は見えなくなったな」

 柳田は眉間に皺を寄せた。

「その時間にいたのは間違いないようです」

 稲垣も口をきつく結んだ。

「でも、ウェイトレスははっきりと素顔を見たわけじゃないんだろう。からだつきは似ているのか?それと年格好は?」

 柳田はゆっくりと背中を起こして煙草に火をつけた。

「身長は百六十五センチ前後。髪の長さは肩を越えるくらいで、その色は黒。顔は色白、唇紅は真っ赤。派手な服に身を包んでいたようですが、四十代後半に見えたそうです。彼女の供述は成実の容姿にそっくりです」

稲垣は手帳に目を落として、確認するように言った。額には汗が浮き出ている。

「本当にそこまで憶えているのかなぁ。それで入場券の控えは?」

 柳田は口元を丸めて煙を吐き出した。

「藤田は二枚保持していました。当然成実と一緒だった、と供述しています。控えに印字されている入場時刻は十二時五分でした」

「やっぱりでき過ぎているな」

 柳田は煙草をくわえたまま腕を組んだ。

「とりあえず、アリバイはあるんじゃないですか?」

「・・・・・・どうかなぁ」

 柳田は何度も首をひねった。

「柳田さん。僕は、ひょっとしたらアリバイより重要なことじゃないか、と思って成実の過去の転勤先を調べてみたんです」

「あぁ、過去に勤務した支社のことか」

「そうです。大阪北、博多、鹿児島、愛知。支社があるすべての所轄に問い合わせてみました」

 稲垣は下半身が窮屈なのか、重たい腹を抱えるようにからだを反らした。

「どうしてそんなことを?」

「いや、古株の事務員が言っていたじゃないですか。社内では成実は問題児だ、出世しているかもしれないけど、転勤先で相当あくどいことをしてきている、って」

「それで何か分かったのか?」

 稲垣は背広の内ポケットから、数枚の調書のコピーを取り出した。

「事件にはなりませんでしたが、先ほどの各支社で社員が死亡する事故が起こっています。そのすべてに成実が関係していたようなんですよ。これがそのときの調書のコピーです」

 柳田は大きくうなずいて調書を読み始めた。

 稲垣はまだ昼食を食べていないのか、チキンライスとホットケーキを注文した。

 柳田は、また妙な取合わせだ、と思いながらも、構わず調書を読み進めた。

 しばらくすると、柳田は顔を上げて煙草くわえた。

「どうですか?柳田さん」

 稲垣は、チキンライスを匙でこぼれるほどすくって口に運んだ。

「うーん。不思議なことがあるもんだ。何か面白いよなぁ」

 柳田は胸ポケットから取り出した鉛筆で、今度は調書の数ヶ所をチェックした。

「不思議なことって?」

柳田はまた「うーん」とうなって、しばらく目を閉じた。

「大阪北は山田。福岡は仲里。鹿児島は飯田だろう。そして愛知は賀茂。東京の首都圏第二は山村か。何かあるな・・・・・・」

「何があるんですか?」稲垣はホットケーキを頬張った。

「鉛筆でチェックしたところをよく見てみろよ」

 柳田はホットケーキが盛られた皿を端に寄せて、テーブルに調書のコピーを広げた。

「山田亮司。仲里良治。飯田遼二。それから、賀茂涼二に山村了司。どうだ?」

「亡くなった社員の名前ですね。それがどうかしたんですか?」

「まだ分からないのか?」

 稲垣はとっさに首をすくめた。

「全員『リョージ』じゃないか。いくら何万人もの従業員がいても、東洋生命は建設会社じゃないんだ。二十年間とはいえ、五人もの、それも女性が半数以上いる企業で、男性の『リョージ』だけが事故死するか?」

「あッ、な、なるほど」

 稲垣はホットケーキを喉につまらせて、激しく何度も咳き込んだ。

「大丈夫か?そんなに慌てるな」

「は、はい。すみません」

 稲垣はおしぼりで涙を拭いたあと、そのまま口の周りを拭った。そしてじっと調書に見入っている。

「本社の人事に確認したところ、確かに女性が亡くなった事故もあるにはあるんですが、二十年間にたった一件だけです。それも交通事故だということです」

 柳田は腕を組んで渇いた唇を舐めた。

「うぅん・・・・・・」

「こんな偶然、あるんでしょうか」

「分からん」

柳田は首を大きく左右に振って、吸いかけの煙草をつぶした。

「稲垣。山村のポケットにあった『アロワナ』のキーホルダーから、成実の指紋が発見されている。もう少し調べてみてくれ。それと、成実も同じものを持っている。成実が所長をしている営業所の事務員から証言が取れた。自宅の鍵を『アロワナ』のキーホルダーにつけているそうだ」


「トモちゃん。もう、ふうぅー。そろそろ行こうよ・・・・・・、私の家にぃー」

 智明は今夜の事態を予測して、かなり抑えて飲んでいた。

「そうだな。そろそろね」微妙に目を逸らして答えた。

 和子は何かを隠している。いや、消し去ろうとしているのか、前とは比べものにならないほどの酒を飲んでいた。

 智明は、桐子が誰を捜していたのか気にはなってはいたが、訊こうと思っても和子の酒のペースは、その思いを遥かに超えていた。

「しっかりしろよッ」智明は先に会計を済ませて和子の腕を取った。

 和子はすっかり千鳥足になって引き戸に肩をぶつけた。

「痛~いぃーッ」呂律は回っていない。

桐子に声も似ている・・・・・・。智明は甘えたような和子の言葉を耳にして、瞬時にそう感じた。

 前回と同じように、タクシーを拾って天満橋の家まで行った。運転手が心配するほど和子は泥酔している。

「和子―ッ。着いたよ」

 運転手と一緒に、和子を何とか車から引っ張り出したものの、彼女はちゃんと歩けずよろめいている。智明が和子を背負い、運転手がうしろを支えて、ようやく玄関の前まで運んだ。

「和子、鍵を出してくれよ」

「・・・・・・バ、バッグの中よー」

 智明は玄関前の土間に和子を一旦座らせて、和子のバッグを弄ると、取り出した鍵には魚の形をしたキーホルダーがついていた。その鍵を使い、ゆっくりと玄関を開けた。そして中に入ると、手さぐりで外灯のスイッチを入れ、また外に戻り和子を抱きかかえた。

「ふぅー」大阪城の天守閣の上には、上弦の月がくっきりと見えている。

玄関上の外灯に目を戻すと、光に浮かび上がった引き戸の右上に、薄汚れて黒ずんだ表札がおぼろげに見えた。

「あれッ!」智明は酒で充血した目を繰り返し擦った。

「成実」・・・・・・。間違いなく「成実」だ。くすんではいるが、「成実」という文字が彫られている。

智明はしばらくの間、表札を見ながら目をしばたかせた。

「どうしてこの家の表札が『成実』なんだ。大阪に『成実』という姓は多いのか。いや、こんな偶然なんてあり得ない」

 智明はしばらく玄関前に立ちすくんでいたが、すぐに我に返り、和子を抱えて居間に運び入れた。

 一旦ソファーに落ち着くと、和子は朝まで起きないだろう。智明はそのまま和子を背負って、ゆっくりと二階に上がった。ギシギシと板の軋む音がする。部屋に入ると、和子をそのままベッドに沈めた。

「プファー」和子は苦しそうに息を吐いて、大きな寝返りを打った。

 智明はベッドの脇に腰を落とし、和子の顔をまじまじと見た。

 頬骨あたりに淡いシミが浮かんでいる。目尻には熊手のように小皺が刻まれていた。唇には縦皺が・・・・・・。やはり似ている。五十になると多くの女がそうなのか。いや違う。そのシミ、皺、肌理、すべてが似ている。

 智明はしばらく和子の寝顔を見つめた。そして、和子の頭を軽く撫でた。

「成実」あの表札は何だろう。考えてみなくても祖母が「成実」という姓だったことは理解できる。

和子に姉妹はいるのだろうか?智明はふと思った。尋ねたことはなかった。東京に両親がいて絶縁状態だ、と聞いてはいたが・・・・・・。そうなると「池川」は父方の姓だ。母方は「成実」。そう考えるのが自然だ。和子の母親の旧姓が「成実」なのだろう。両親の離婚、再婚がないとすれば、それしかない。

 智明は酔いもあって、頭の中がかなり混乱してきた。

 一階の居間で飲み直そう、と寝室のドアを開けようとしたとき、右側の壁に張り付くようにしている小さな本棚に気づいた。

 下段の隅に、ワイン色のアルバムのようなものが三冊見えた。

 和子が熟睡していることを確認すると、智明はその中の一冊を手に取った。パラパラと捲ってみると、和子の高校時代の写真だった。和子はバスケ部に所属していたのか・・・・・・。試合のときの写真が多い。屈託のない笑顔の写真であふれていた。アルバムは高校の卒業式の写真で終わっている。アルバムの表紙にはNO3と印字されていた。

更に二冊目に手を触れようとすると、和子はまた苦しそうに寝返りを打って、うつぶせになった。「プファー」と何度も息を吐いている。智明はあまりにも荒い息遣いが心配になった。

苦しそうな顔をしている和子を見かねて、智明は青いワンピースの背中のファスナーを下ろし、ゆっくりと足元からワンピースを抜き取った。濃紺のキャミソールが露わになる。絹のような光沢だ。次にキャミソールのストラップを肘のところまで下ろした。突然真っ赤なブラジャーがあらわれた。真っ白い無垢な背中が目を刺すようにまぶしい。智明は一瞬頭がふらついた。顔を逸らしながらホックをはずし、肩を両手で抱えてからだを少し持ち上げてから、素早くそのブラジャーを取り去った。生温かい布の感触が手のひらに残る。そしてまたキャミソールのストラップを肩に戻して、和子を仰向けに反転させた。透き通るような白い乳房を見ることはなかった。

 でも、本当に熟睡しているのだろうか。智明はしばらく和子の寝顔を見つめた。

 しばらくすると、寝息が落ち着いてきた。智明は二冊のアルバムを抱えて、音を立てないように、そうーっと部屋を出た。

 ふと奥を見ると、前には気づかなかったのか、隣に同じような木製のドアが見える。廊下の突当りはトイレのようだ。隣の部屋は物置きとして使われているのか。それとも誰かの部屋だろうか。しかし、この広い旧家には和子しか住んでいないはずだ。妙な冷気を感じる。

 智明は興味本位でドアのノブを回した。鍵はかかっていない。ゆっくりとドアを開けると、真っ暗な部屋からわずかに香の匂いがした。ドアの横にある電気のスイッチを押すと、突然、原色で彩られた部屋が浮かび上がった。まぶしいほどだ。智明は思わずアルバムを落としそうになった。

 真っ白い壁に黒い床。ピンクのカーテンに真っ赤なベッドカバー。緑色の箪笥に黄色い机。例えようのない幻覚的な極彩色の部屋だ。

 一歩中に入ると、壁の奥に取り付けてある棚の上に、真っ黒い仏壇のような箱が見えた。その中には位牌のようなものがある。智明は何かに呪われているような戦慄を覚えて、一歩も足を踏み出せなかった。

目を出窓の方に転じると、その手前には、おどろおどろしい二体のフランス人形と三体の日本人形。そして薄汚れたぬいぐるみが、数十体も並べてある。

「何なんだッ。これは!」驚愕のあまり思わず大きな声が出そうになった。智明は慌てて右手で口を塞いだ。全身に鳥肌が立ち、震えるほどの寒気を覚えた。

 しばらく使われてないのか、至る所に薄く埃がかぶっている。長居するところではない。智明は唇を震わせながら部屋のドアをすばやく閉めた。慌てて階段を下りると、大きな冷蔵庫からビールを取り出し、テーブルの隅の椅子にドカッと音を立てて座った。

 勢いよく缶ビールのプルタブを抜いた。プシューという音がおぞましく部屋に響く。汗もかいていないのに喉がカラカラだ。一気にビールを飲み干した。

 誰の部屋だー。あの気味の悪い部屋は。祖母が使っていた部屋じゃないのは明らかだ。和子の部屋は手前にある。じゃぁ、誰の部屋なんだ。誰かが住んでいたのか。どう見ても若い女、いや精神が病んでいる女の部屋だ。・・・・・・それとも、悪霊でも住んでいるのか。智明は非現実的な考えに至るほど、ショックを受けていた。

 智明は、居間のサイドボードに置いてあったバーボンを取り出し、ゆっくりと膠着し始めた意識の中で、チビリチビリと、猫のように琥珀色の液体を舐め続けた。

 ふと床に目をやると、まったく忘れていた。アルバムが落ちている。もうどうでもよかったが、夢遊病者のように、ふわりと拾ってテーブルに二冊を重ねた。

 何気なくNO2を開くと、和子の中学時代のスナップがところ狭しと貼られていた。所々に可愛いアニメのシールが挿んである。すばやく捲ってみたが、どうということはない。

 同じようにNO1を開いた。

最初のページには、乳母車に並んで座る二人の乳児の写真が貼ってある。写真はそれ一枚だけだ。生後二カ月くらいだろうか、二人とも似た顔をして笑っている。智明は思わず頬を緩めた。その写真の周りには、数枚の写真を剥ぎ取ったような跡が残っている。

 次のページは、もう和子の入園式の写真だった。二、三ページで幼稚園の時代が終わると、それからは小学校時代の写真ばかりだ。和子の子ども時代の笑顔が、妙に大人びて見える。

 最初の一枚の写真。一人は当然和子だろう。しかしもう一人は誰なのか。姉妹にしては歳が同じくらいだ。だとすると、近所の子どもだろうか・・・・・・。

 智明はまた頭が混乱してきた。冷蔵庫から二本目のビールを取り出し、一気に半分ほど空けた。喉が大きな音を立てた。

 あの部屋、あの子ども。この家にもう一人、幻の女でもいるのかー。

 アルバムを和子の部屋に戻したあと、智明はぼんやりとした頭を抱えて、居間のソファーで浅い眠りについた。


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