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アロワナ  作者: 修さん
3/9

アロワナ③

続編9~10

 九


「いつまでもペチャクチャしゃべってんじゃないよッ。仕事もしてないのに何くっちゃべってんだ。事務所にいたって保険んなんか取れないよッ。もう店閉めるから、とっとと帰えんなーッ」

 桐子はダミ声を響かせた。

 営業社員も気分屋の桐子には慣れたもので、すぐに蜘蛛の子を散らすように帰っていった。

 桐子が勤務する「目黒営業所」は中目黒の駅前にある。

今日は支社長の山村に呼ばれていた。きっと営業所経営の現状を確認したいのだ。それに支社長とて、たまには女と二人で飲みたいときもあるのだろう。

桐子は重いからだを引きずりながら、東横線で渋谷に向かった。

 もう七時になろうとしていた。車内は空調が効いていないのか蒸し蒸しする暑さだ。

 桐子はドアのそばに立って外を眺めていた。隣にはハーフパンツに黒いTシャツを着た女が、二歳くらいの子どもの手を引いて立っている。

 しばらくすると、突然その子がぐずり始め、とうとう泣き出してしまった。車内に大きな泣き声が響く。仕事帰りで疲れ果てている乗客は、目を逸らして何食わぬ顔をしている。

 桐子はドアにからだを寄せて、両手で耳を塞いだ。しかし泣き声は酷くなるばかりだ。

「ほら泣かないの。もうすぐ着くからね。パパが駅で待ってるよ」

 柔和な顔をした女は、余裕をもって子どもをあやした。

しかし子どもは癇癪を起し、火がついたように泣きじゃくった。もう止めようがない。

桐子は振り向いて、キーッと女を睨んだ。顔がみるみる歪み始める。額からは汗が滴り落ちた・・・・・・。

「ウルサァァァ―イー」

 突然、桐子の怒号が響き渡った。

車内は水を打ったように静まり返り、ガタンゴトンと車輪だけが重い音を刻んでいる。

 子どもは驚いて、ピタリと泣くのをやめた。女の顔からサーッと血の気がひいた。

「小僧、ビービー泣くんじゃないッ。あんたもこんな時間に子どもを乗せるなッ。混んでることぐらい分かるだろう。子どもの身にもなってみろッ。バカッ!」

 女は何度も頭を下げ続けた。そして終点までの五分間、口を開く客は誰もいなかった。

 渋谷に着くと、桐子は何もなかったかのように電車を降りた。

電車の中吊り広告に『ユウヤ!いよいよ東京進出。八月にサマーライブ!』という見出しが躍っていた。

「どうしていつもこうなんだろう。気がついたらあんな罵声を。それも幼い子どもの母親に・・・・・・」

 桐子はブツブツとこころの中でつぶやいた。


 後悔の思いに苛まれながら店に着くと、山村はすでにシャンパンを口にしていた。

 指定された店は、エクセルタワーホテルの最上階にある「シャンピニョン」というフランス料理の店だった。

 桐子は可愛らしく首を軽くかしげて会釈をした。

「お待たせしました。支社長さん、もう飲まれているんですかぁ?」

 桐子はドレス風のワンピースの裾を少し上げて、ウェイターが引いてくれた椅子にゆっくりと腰を下ろした。

「遅かったじゃないか桐子君。我慢できずに一人で飲んでいたよ」

「何を我慢できなかったんですか?女は色々準備があるんですよぅ」

 桐子は片目をつむると、右頬に綺麗なえくぼを作った。

「じゃぁ、乾杯をしよう」

 赤い唇、透きとおるように白い首すじ、はち切れんばかりの胸・・・・・・、山村は桐子の全身を舐めるように視姦した。

桐子はその濁った目に吐き気を覚えた。

「支社長さん、美人を前にして飲むと、きっと美味しいですよ」

 それでも、その夜のアニメ声は絶好調だった。二人は軽くグラスを重ねた。

「君の方が美味しいかも。ファッ、ファッ、ファッ」

 このッ、セクハラオジン!桐子は頬をピクリと動かした。

 最初に出されたのは、生の海老とホタテを、フレッシュチーズソースで和えた前菜だ。散りばめられたミントが爽やかさを際立たせている。

「美味しいですぅ。支社長さんいいお店知っていますね」

 桐子はほんのりと顔を赤くした。

「たまにはいいんじゃないか?居酒屋ばかりじゃ、味覚がおかしくなるよ」

 山村は落ち着かない様子で、シャルドネのワインを口に含んだ。

「ところで、仕事の方はどうだい?」

「特に・・・・・・」桐子はニッコリと笑った。

「いや、うまくいっているかと思ってね」

「うまくやっています。食事のとき、仕事の話はどうでしょうか?」

「すまん。言われてみればそうだな。もっと楽しい話をしよう」

 山村は右手で薄くなった頭を掻いた。

「ところで、NHKの大河ドラマは見てるかな?あれはためになるよなぁ」

 こんな場所で大河ドラマ?桐子は軽く唇を尖らせた。

「そうですか?見ていません」

 わざわざ来てやってんだから、もうすこし面白い話でもしろよ。ダセェーよなぁ。桐子は聞えないように舌打ちをした。

 山村は桐子の反応に視点が定まらなかった。

 しばらくすると、冷製のコンソメスープとレバーのパテが運ばれてきた。

 山村は音を立ててスープをすすると、また面白くない話を始めた。

「ところで、桐子君は歌舞伎には興味があるのかなぁ」

「ハッー?カブキ?」桐子は大阪歌舞伎に精通していたが、目を白黒させてまったく知らない振りをした。

「今度、勘三郎と團十郎が共演するんだよ。よかったら一緒に行かないかな?」

 知ったかぶりしてんじゃないよ。歌舞伎の趣味なんかないくせに。

「すみません。私高卒ですから、そんな教養ないんです」

「大丈夫だよ。僕がついているから。しっかり解説してあげるよ」

 桐子は無言で山村を睨んだ。

「アッ、ごめん、ごめん。興味がなかったみたいだな。じゃぁ巨人戦を観に行こう。VIPシートを取ってあげるから」

 山村は社内で悪事を重ねて私腹を肥やしてきた、と聞いている。その金を使ってプロの女と豪遊してきたわりには、素人女のあつかいにはまったく未熟のようだ。たまには普通の年増の女とやりたい、という下ごころを隠せないでいる。くどき方はまるで田舎のオッサンだ。

「しょうもないッ」こころの中で、品格の欠片もない山村を軽蔑した。

桐子は煙草に火をつけると、真横を向いて細い煙を吐き出した。

「支社長さん。私、大阪出身なんですよ。だから酷い巨人アレルギー。そのくらい分からないんですか?」

 山村は額の汗を拭きながら慌ててかぶりを振った。

「いやぁ、よっ、よく分かるよ。実は僕も大阪出身なんだ。その気持ち分かるなぁ」

 山村は額に油のような汗を浮かべている。

 桐子は、それを聞いてキラリと目を光らせた。

「へぇー。支社長さんも大阪出身ですか?」

 山村は子どものように大きくうなずいて、やっと意を得たり、と大阪の話を始めた。

「僕も大阪にいた時分はよく遊んだよ。これでも結構もてたんだよ。女もよく泣かせたなぁ。それと、僕は昔から海が好きでねぇ。北海道とか沖縄によく船で行ったもんだよ。僕は一人旅をしたかったんだけどね。いつも彼女が纏わりついて、一人にさせてくれないんだよ。ファッファッファッー」

 山村は嫌らしい目つきをして醜く笑った。

 金がないから、船で行くしかなかったんだろう。桐子はせせら笑った。

「ふーん。そうでしたか、大変でしたねぇ。でも私、船酔いが酷くて・・・・・・。船が嫌いだから海も嫌いです」

「飛行機で行くのならいいんじゃないのかな?」

「ごめんなさい。私、閉所恐怖症なんです」

 山村は、それを聞いてしばらく黙り込んだ。何のことはない、もう話題がつきてしまったのだ。惨めな気持ちがこころの中に広がった。

 そのあと、メイン料理の「鴨のコンフィ」が出てきたが、食べ終わるまで二言、三言しか会話はなく、ナイフとフォークの渇いた音だけが虚しく響いた。

 二人のテーブルに食後のコーヒーが出てきた。山村は手持無沙汰な様子で、ポケットの中をゴソゴソと探っている。

「支社長さん、何だか落ち着きがないですね」

 桐子は、山村の品のない行動に嘆息を漏らした。

「あぁ、すまない。こ、これを触っていたんだ。昔、沖縄で買ったものなんだよ。大したものじゃないんだけど。一度大阪で失くしてしまってね。また沖縄までわざわざ買いにいった代物なんだ。触っていると妙に気持ちが落ち着くんだよ」

山村は大きなキーホルダーを取り出して、テーブルの上に静かに置いた。

「あッ、それ!」桐子はそれを見たとたん、目が釘付けになってしまった。

それは、淡水に生息する肉食の古代魚「アロワナ」のキーホルダーだった。長さは七、八センチ。水牛の角をアロワナの形に彫り込んである。使い込まれているのか、全体が黒い光沢を放っている。

「これッ、どこで?」

 桐子はそのキーホルダーを奪うように取り上げ、手のひらにのせてまじまじと見た。

今までと同様に、今度の転勤についても「リョージ」という男が複数在籍するこの支社を指定して本社に根回しをしたのだ。今回頼んだ男は当時の人事課長の小西だった。どんな悪事を重ねたのか、今では常務にまで出世していた。「昔の関係をセクハラ対策委員会に暴露する」と言って脅して、無理やり人事を承諾させた。しかし転勤したばかりのこの支社で、こんなに早く「アロワナ」を持った「リョージ」に会えるとは思わなかった。桐子は幸運な巡り合わせに感謝した。

「だから、沖縄だよ」自慢げに笑う口元からは、並びの悪い黄色い歯が覗いた。

桐子がこんなに興味を示すとは、山村は思ってもいなかった。

「だから沖縄のどこッ」

 桐子は背中に悪寒を感じた。

「どうしたんだよ、桐子君。そんなに慌てて」

 山村は、桐子がやっと自分に関心を示してくれた、とにやけてだらしない口元に唾を溜めた。

 桐子の目線は落ち着きなく宙を泳いでいる。

 ほんの一瞬、桐子の頭の中は真っ赤に染まった。

「何か、思い出でもあるのかな?」

 山村はにやけた顔で、鼻と下ごころを膨らませた。

「あっ、すみません。この魚、肉食の古代魚でしょう?私何だか怖くて、びっくりしたんです。ただそれだけですから・・・・・・」

 桐子は慌ててキーホルダーを山村に返した。

 山村は急にうろたえた桐子を、たまらなく愛おしく感じた。コーヒーを飲み終えると、青ざめた顔の桐子を恐る恐る誘ってみた。

「今日は遅くなってもいいんだろう。ちょっとバーで飲み直そうよ。今後の人事は悪いようにしないから」

 山村は赤ら顔をテカテカと光らせて、テーブルに置いた桐子の手に、自分の手をぎこちなく重ねた。

「はあっ?私・・・・・・、『まゆ』が家で待っていますから、このへんで失礼します」

 桐子は山村の手を跳ねのけると、すぐにからだを反転させた。

 一瞬、死んだ山田のことが脳裏をかすめた。あのときと一緒じゃない。桐子のこころは激しく動揺した。

 山村は目を丸くして、失禁でもしたかのように呆然としている。

「えっ!『まゆ』?桐子君、君はそのぅ、独身じゃあ・・・・・・」

 桐子は山村に背中を向けたまま言った。

「よけいなことは忘れてください。いいですね」

 桐子は立ち上がると、急いで出口に向かった。

 山村はあとを追うようにして、用意していたメモ紙を桐子の手に握らせた。

 ツカツカと歩いて店の出口まで来ると、桐子はバッグの中を弄った。すると冷たい感触のものが手に触れた。それはまさしく山村が持っていたものと同じキーホルダーだった。

 桐子はエレベーターの前で一瞬立ち止まり、激しく肩を震わせた。


 桐子は自宅に戻ると、仏壇の前に静かに座った。

 おもむろに、バッグの中からキーホルダーを取り出し、それを位牌の右側に置いた。

ろうそくに火をつけ、それをじっと見つめた。少し欠けた尾ひれが、長い年月の経過を

物語っている。

揺れる炎の下で、水牛の角に彫り込まれたアロワナが、一瞬、ブルッと身を反らしたよ

うに見えた。

「まゆちゃん。遠回りをしたけど、今度は間違いないわ。本当に長かったよねぇ」

 桐子の目は赤く腫れていた。

「やっぱり沖縄で作られたものみたい。でも、もうどこで作られたかなんて関係ないわ。問題はこれが誰のものだったか、よね」

桐子の頭の中で、「リョージー、リョージー」と呼ぶ声が繰り返し反響した。


 桐子はシャワーを浴びて部屋着に着変えたあと、椅子に座りじっと目をつむった。

「長い道のりだった。もう明日しかない。ここで怯んだら元の私に戻ってしまう。まゆちゃん、見ていてね」

 桐子は思い切って受話器を取った。そして、帰り際に山村から渡されたメモ紙を開いた。丁寧なことに、携帯と自宅の電話番号が書いてある。

 桐子は迷わず自宅を選び、数字を確認しながらゆっくりとボタンを押した。すると、すぐに山村が出た。期待して、電話のそばでじっと待っていたのだろう。どこまで下劣な男なんだ。

「夜分すみません、成実です。さっきはごめんなさい。支社長と二人きりだったんで、照れがあったのかも・・・・・・。冷たくしたように見えたでしょうね。本当にごめんなさい」

 当然、山村が電話に出ることは分かっていた。単身赴任で一人暮らしだからだ。

 桐子は身もこころも許してしまった女のように、かんぜんに口調を変えていた。声は得意のアニメ声だ。

「桐子君か?僕だよ、僕。リョージだよん。何も気にしてないよん。安心してよ。今から僕の部屋にお泊まりしてくれる?」

 山村は気持ちの悪いおどけた口調で答えた。すでに桐子の罠にはまっていたのだ。

 桐子はその口調にひどい吐き気を覚えた。

「いえ、今日はもう遅いから・・・・・・。明日はいかがですか?」

「い、いいよん。ど、どこで会うのかなぁ?」

「私、山が好きなんです。高尾山に行きませんか?」

「お、おう。い、いいよん」

 山村は高尾山と聞いて少し戸惑ったが、ハイキングのようなものだな、と思い直し、年甲斐もなくこころを弾ませた。

「そのあと、八王子でお食事でもして、夜はゆっくりしましょうよ」

 山村のだらしない赤ら顔が桐子の脳裏に浮かんだ。

「えっ、いいのか?」山村は、おどけるのをやめた。

「いいですよぅ」桐子は若い子のように語尾のアクセントを強くした。

 いいのか、だって。やはり、あのときの卑劣な犯人だ。卑怯だ、最低の男だ。いやその前に、人間として生存してはいけない男だ。あのリョージに間違いない。あんなバカな男に、どうして私が・・・・・・。

「それから、このことは二人だけの秘密ですよ。絶対口外しないでくださいね」

「あたり前じゃないか、絶対に口外しないよ」

 受話器を持つ手が震えている。

「あと、携帯の番号を教えてくれないかな」

 桐子は、受話器を投げてつけてやりたい衝動に駆られた。

「ダメダメ、携帯番号は明日。もっと親密になってからね・・・・・・」

 今度は自分が吐いた言葉に鳥肌が立ち、黄水が込み上げてきた。

「分かった、分かった。今夜は、いや、二人のアニバーサリーナイトは桐子君の言うとおりにしよう。でも明日は許さないぞぅー」

 何とも我慢できずに、桐子は左の手で自分の髪の毛を掻きむしった。

「はい、はい。それから、レストランでの話ですけど・・・・・・。『まゆ』っていうのは家で飼ってる猫のことですからね。じゃぁ、京王線の『高尾山口駅』に午後二時ということで」

「えっ!そんなに遅いのか?」

「大丈夫ですよ。明日の夜はエンドレスでしょう?」

 桐子は受話器を置くと、山村に犯されたような嫌悪感に襲われ、そのまま床に崩れ落ちた。


 十


 日曜の午前十時。東山の旅館をあとにした智明は、知恩院の男坂を上り御影堂に向かって歩いていた。

 昔、京都支社に勤務していたころ、休みの日はよくここに来ていた。実家が浄土宗の寺だということもあり、寺の境内にいると妙にこころが落ち着くのだ。

 御影堂の中に入ると、胸ポケットに入れた携帯が震えた。総務部長の柏原からだった。智明は慌てて御影堂を飛び出し電話に出た。

「もしもし、どうしたんですか?休日に」

「業務部長、大変なことが起きました。落ち着いて聞いてくださいね」

「はい。大丈夫です」

「支社長が、山村支社長が亡くなりました」

 智明は驚いて、思わず携帯を落としそうになった。

「えっ、本当ですか?いつ、どこで?」

「詳細はこちらでお話しします。今すぐ支社に来てください。今どこにいるんですか?」

「今は京都ですから、支社に着くのは、たぶん二時近くになると思います」

「そうなんですか、取り込み中すみません。じゃぁ、待ってますからお願いしますね」

 智明は山村の死を嘆くよりも、自分が支社長代行をやらなければならないことに、まず不安を感じた。

山村の死は、たぶん心臓発作か脳溢血だろう。致し方ない、冷静になるんだ。そう自分に言い聞かせた。


 支社の応接室のドアを開けると、修と柏原、それと知らない男が二人いた。

 下座にいる二人の男はすぐに立ち上がり、智明に手帳のようなものを見せて会釈をした。

「山瀬さんですね」

 すぐに刑事だと分かった智明は、怪訝そうな顔で頭を下げた。

「はい。業務部長の山瀬智明です」

 男は舐めるように智明を見た。

「八王子西署の柳田といいます。今回の事件を担当しますのでよろしく」

 智明は八王子西と聞いて、山村とどんな関係があるのだろう、と首をひねった。

 続けてもう一人の男も挨拶をした。

「同じく稲垣といいます。よろしくお願いします」

 柳田は歳が智明と同じくらいだろうか、背が高く色黒で、ガッシリとしたからだをしている。こめかみに横長の傷が走り、まるで経済ヤクザのような風貌だ。稲垣は、反対に色が白くずんぐりと太っていた。相撲でもしていたような体型だ。歳は三十前後だろう。いずれにしても、二人は刑事だと思わせる鋭く陰鬱な目をしている。

 もしかしたら、山村の死は事件なのか。智明はとっさにそう感じた。

「ここに刑事さんがいらっしゃるということは・・・・・・、支社長は殺された、ということですか?」

「いえね。まだそうと決まったわけではありません」

 柳田は手帳を捲り始めた。

「山村了司さんは、今朝の七時ころに遺体で発見されました。場所は高尾山の四号路という登山道です。四号路には途中に吊り橋がありましてね。その下の谷底に落ちているのを、女性の登山客が発見しました。谷底の草むらから、わずかに赤いヤッケが覗いていたそうです」

「死因は何だったのですか?」

 智明はからだを乗り出した。

「三十メートルほど下に落ちたのですから、まず頭蓋骨を骨折していました。それと内臓破裂です。橋の欄干の手前なんですが、落下防止用の網が破れているところがありましてね。そこから誤って落ちたようです」

「誤って落ちたのなら、事故じゃないですか?」

「だから、誤って落ちた可能性もあります。ただ落とされた可能性も捨てきれません」

「そういうことですか・・・・・・」智明は上を向いて軽く息を吐いた。

「でも業務部長、支社長は登山なんてやってましたか?」

 硬い顔をした柏原が横から口を挿んだ。

「ストレス解消のために登ったとやないやろか。俺は高尾山ば登ったことなかばってん。いうたらハイキングみたいなもんやろう。ハイキングの最中に人殺しやて・・・・・」

 修は事故だと言わんばかりに、じっと柳田の目を見た。

「僕は、支社長が一人で、たとえ低い山でも登るとは思えませんね。ストレス解消なら海に行くんじゃないでしょうか」

 柏原は、海の好きな山村が、房総とか三浦半島によく行っていたことを知っている。

「今のところ、事故か事件かははっきりしていませんが、死亡推定時刻は、昨日の午後四時から六時の間ではないかと思われます」

 稲垣はみんなの勝手な憶測を遮った。

「ところで、同行者はいなかったのですか?」

 智明は対面して座る柳田を下から見上げた。

「その件ですが、四号路は山の北側を通るルートです。展望がよくないため、他のルートに比べて登山客が少ないそうなんですよ。ですから、今のところ目撃者は見つかっていません。まぁ、明日の朝刊にでも載ると、色々な情報がもたらされると思いますが」

「そうですか・・・・・・。それじゃぁ、次に考えられるとすれば、自殺?」

 柳田は大きくかぶりを振った。

「わざわざ自殺するために登山する人なんていないでしょう。それはないと思いますよ。ただ・・・・・・、山村さんは新品のジーパンをはいていたようですが、その尻の部分に赤い土がついていました。その土が不思議といえば不思議なんですねぇ。それと新品のジーパン。普通は、登山なんてはき慣れたものをはくと思いませんか?」

 柳田はゆっくりと全員の顔を見やった。

どこが不思議なのか、智明には理解できなかった。他の二人も同じだろう。

「不思議とはどういう意味で?」

 柏原が首をかしげた。

「谷の土とは異なる赤い土が尻についていたんですよ。登山道の土、要するに四号路の土がついていたんです。それもジーパンの生地にすり込まれたかのように・・・・・・。険しい山でもないのに、登る途中で酷い尻もちでもついたんでしょうかね」

 柳田は眼鏡の奥で目を光らせた。

「途中で転んだんじゃないでしょうか」

 智明がとっさに答えた。

「それじゃぁ、膝とか太腿のあたりにもつくんじゃありませんか?それに、強い圧力がかかったのか、ぬり込まれたように土が付着しています」

「そう言われてみれば、そうですね」

 智明は目の動きを止めた。

「新品のジーパンに、高級そうな真っ赤なヤッケ。山村さんはおしゃれだったんですかねぇ。それとも、よほどこの登山を楽しみにしていたんでしょうか・・・・・・」

 応接室が一瞬静まり返った。

「あと・・・・・・、山村さんの血液から睡眠薬の成分が検出されています。これも不思議なんですねぇ。登山の前に睡眠薬を飲む。長いこと刑事をやっている私でも、まったく聞いたことがありません」

「そげなこと・・・・・・。ストレスかなんかで、常用しとったとやなかですか?」

 目を閉じていた修が口を開いた。

「睡眠薬を常用していた形跡はありませんよ。それじゃぁ、前日に眠れなくてスポットで飲んだんでしょうか。それにしては、登山の直前に飲んだような、強い反応があらわれていましたよ」

 智明は腕を組んで口元を曲げた。

「遊び人のように、LSDの類を服用して、テンションを上げる必要があったのでしょうか?それも、支社長ともあろう人が・・・・・・」

 また異様な沈黙が流れた。

「業務部長、ここは警察の捜査を待ちましょう」

 柏原が智明に目配せした。

「どちらにしても、明朝から社員の方に事情聴取をさせていただきます。お忙しいとは思いますが、ご協力よろしくお願いします」

「分かりました」柏原は深々と頭を下げた。

 すると、智明が柳田をじっと見つめて言った。

「協力は惜しみませんが、我々の会社も信用第一です。そのへんのところは、くれぐれもよろしくお願いいたします」

「もちろんです。ただ社内に犯人がいないことが条件ですがね・・・・・・」

 柳田は目の動きを止めたまま白い歯を見せた。


 智明は高円寺の社員寮に戻ると、すぐに正樹に電話を入れた。

「当然聞いているよな、支社長のこと」

「うん。午前中に柏原から電話をもらったよ。優秀な人だったから残念だ」

「弱ったよ、こんな時期に支社長がいなくなるなんて・・・・・・。来月はキャンペーン月だというのに、どうすればいいんだよ」

「まぁ、次の定例人事は十月だ。九月まではお前が代行を務めるしかないな」

「そうか、もう俺がやるしかないのか」

「あたり前だよ。お前ならできるさ。いや、お前の方がうまくやれるかもしれない」

 正樹は含みのある言い方をした。

「分かった。できるだけ頑張るよ。それとなぁ、明日から支社で警察の事情聴取が始まるようなんだ。聞いてるか?」

「えっ!初耳だ。今回の事故もまた事件なのか?」

「その可能性もあるってさ。八王子西署のナントカっていう刑事が言ってた」

「そうか・・・・・・、またかぁ。あいつが転勤した先では必ず何かが起こるな。今度もきっとあいつが絡んでいるような気がするなぁ」

「それはないと思うよ。成実と支社長には仕事以外に接点はない。たまたまの偶然だよ」

「まぁ、それを祈るよ」

「正樹。お前、他人事のように言うなよ。俺はこんなこと初めてだから困ってんだぞッ」

「分かったよ。俺も明日支社に行くから、今日は動くな。打ち合わせは明日だ」

 智明は正樹の言葉に少しほっとした。

しかし、いつか目撃者が現れて、同行者がいたと証言したら事件になる可能性は大だ。そのことを考えると、智明は気が気でならなかった。


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