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アロワナ  作者: 修さん
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アロワナ②

続編7~8

 七


 幕の内弁当にお茶、列車の旅の定番だ。智明は下りの「のぞみ」に乗ると、すぐに弁当を開いて黙々と箸を動かした。

 今日は「全国業務部長会議」の日だ。六月は大阪本社、十二月は東京本社。年に二回、西と東の本社で全社会議が開かれる。

 智明は会議に出席することにはあまり気が進まなかったが、翌日、昔桐子と一緒に仕事をしていた大阪北支社の池川和子と会うことになっている。

 会議はその日の午後から始まり、翌日の午前中で終了した。

 中味のない会議に、全国から二百人もの人間を集めるのは如何なものか、といつも疑問を持つのだが、今回大阪に来た目的は和子に会うことだ。旅費が浮くわけだから、今度の出張に限っては文句など言うつもりはなかった。

 智明は、淀屋橋の大阪本社を出ると、御堂筋線で難波まで行き、ぶらぶらとミナミで時間をつぶした。和子とは五時半に心斎橋の串揚げ屋で会う約束をしている。


「お久しぶりー」店の奥から大きく手を振るのが見えた。

 和子は桐子と同じ歳だ。大阪の大学を中退してアメリカに行ったまま、二年もの間帰ってこなかった。封建的な母親は身勝手な和子に激怒して、帰国しても家には入れなかった。そのまま母子の関係は修復せず、和子はやむなく大阪の祖母の家に居候をして、うちの会社に事務員として入社した。和子から直接聞いたことはないが、周りからそういう話を聞いている。智明は和子と一緒に仕事をしたことはなかったが、組合の活動を通じて以前から懇意にしていた。

「久しぶりだね」和子と会うのは五年ぶりだ。

 和子はまったく変わっていなかった。背が高く女性としては理想的なスタイルを維持している。懐かしい香水の匂いがした。

透きとおるような肌に切れ長の目、チョコンとのった鼻とキュートな唇。長い黒髪が似合う日本的な美人だ。まだ四十そこそこに見える。

「今日はトモちゃんに会えると思うと嬉しくて、五時ピタで上がってきたのよ」

「無理させたな。俺だって楽しみにしてたよ」

「明日は土曜日だから、今日はゆっくりできるんでしょう?」

「うん。明日は京都にでも一泊して、日曜日に東京に帰ろうと思ってる」

「じゃぁゆっくり飲みましょう」

 和子は右の頬に小さなえくぼを作った。

「ところで、お祖母さんの節子さんは元気にしてるの?」

「それが・・・・・・、昨年亡くなったの。九十四だったわ」

 和子は眉尻を下げて煙草に火をつけた。細いフィルターが可愛い口元によく似合う。

「えー?五年前に家に寄せてもらったときは、あんなに元気だったのに・・・・・・」

「肺炎だったのよ。もう歳だったから仕方がないわ」

 和子は唇を丸めて細い煙を吐き出した。

「じゃぁ、和子はあんなに大きな家に一人で住んでるのか?」

 和子の家は天満橋にある旧家で、昔は大きな薬問屋を営んでいた。大阪城のすぐそばにある。

「そうよ、一人でいると結構怖いのよ。誰かに部屋でも貸そうかしら」

「そうか、じゃぁ大阪に骨を埋めるつもりだな、和子は」

「そういうことになるのかなぁ・・・・・・」

 和子はわずかに捲れた上唇をペロリと舐めた。

 そうこうしているうちに、ビールと串揚げが運ばれてきた。

「じゃぁ、お疲れさーん」二人はジョッキを軽く持ちあげた。

和子はこころから嬉しそうな顔をして、瞬く間にジョッキを半分ほど空けた。

「これだよなー。この紅ショウガの串揚げが、また酒に合うんだよー」

智明も負けじとビールを一気に流し込んだ。

「ところで、今年桐子が、そっちに転勤したんだって?」

 智明がさっきから期待していた問いかけだった。

「そうなんだ。首都圏は特に他社との競争が熾烈で、女性の営業所長にとっては厳しい環境なんだけど、意外に頑張ってるよ」

「トラブルは起こしてないの?」

「うん、今のところはね」

 和子はゆっくりと顎を引いた。

「でも・・・・・・、きっと何か起こるわよ」

 和子は一点を見つめたまま、アスパラの串揚げをソースに浸して半分ほど齧った。

「縁起の悪いこと言わないでくれよ」

 智明は和子の目をじっと見つめた。

「そんなに見つめないでよッ。緊張しちゃうわ」

 和子は白い歯を見せて笑った。

「ごめん、ごめん。でも成実さんにそんな素振りはないよ」

「今のところはそうかもしれないけど・・・・・・。トモちゃんは桐子の本性を知らないのよ」

 和子は、昔同僚だった桐子のことをよく知っているはずだ。智明は妙にこころがざわついて、しきりに目をしばたかせた。

「聞いてるでしょう?名古屋でのこと」

「いや、よくは知らないよ」智明は、桐子の友人が死んだということしか知らなかった。

「本当に知らないの?有名な話よ」

 和子は不思議そうな目をして、智明の顔を舐めるように見た。

「よかったら教えてくれよ」

 智明は、やっと話が本題に入った、とこころの中でほくそ笑んだ。

「うーん。・・・・・・よけいな話かもね」

 和子は目を逸らして、海老の串揚げを頬張った。

「意地悪するなよ。今俺は彼女の上司なんだ。何があったのか知っておきたいよ」

 和子はニヤリと笑って泡盛を注文した。

「じゃぁ、泡盛付き合ってよ」

「お安いことだよ」智明は腹を決めた。今日はとことん和子に付き合おう。

 和子は煙草に火をつけて、細い煙を天井に向けて吹き上げた。

「事件があったのは二年前の夏よ。『賀茂涼二』という和子の同僚が死んだのよ。賀茂さんは大阪の出身だから、私、彼のことよく知ってるの」

まただ。こんな共通点なんて本当にあるのか。もうこれは偶然ではない。智明はこころの中で自分に言い切った。

「どんな事件なんだ」

「賀茂さんはねぇ、桐子と同じ営業所長をしていたの。彼は桐子のことが好きだったみたいね。仕事が終わると、毎晩桐子にメールを入れてたみたいよ。桐子はずっと無視してたんだけど、いいかげん可哀相になって、ある日、デートを承諾したの。彼女、私にそうメールしてきたわ」

「ふ~ん。よくある話だね」

「うん、そこまではね」和子は気だるそうな目を智明に向けた。もう酔ってきたのだろうか、少し潤んでいる。

「賀茂さんはねぇ、とても海が好きだったの。知多の海岸に行っては、よく釣りをしてたみたい。ときには、船ですぐの日間賀島に渡って、海に潜ったりもしてたらしいわ」

「ごめん、ちょっと待って。彼は沖縄のような南の島も好きだったのかな?」

「よく知ってるわね、そうよ。彼は一人で、沖縄本島や、慶良間諸島、石垣島、西表島、与那国島・・・・・・、数えたら切がないくらい南の島に行ってたみたいよ」

 そうだ。まさにそうだ。すべての男に共通点がある。これは絶対に偶然じゃない。智明は口の中でブツブツとつぶやいた。

「何言ってんの?」和子は訝しげに智明を見た。

「悪いな。よけいなこと思い出しちゃってさぁ。続きを頼む」

「ちゃんと聞いてよ、まったくぅ」

 智明は口元を引き締めて、和子の顔をじっと見た。

「最初のうち賀茂さんは、桐子の気を引くために何度も離島に潜りに行こう、って誘ってたようなんだけど、桐子は海が嫌いだったから、まったく興味を示さなかったらしいわ。賀茂さん、桐子のことまるっきり分かってなかったのよね。彼、優しくて誠実な人なんだけど、見た目がそんなにいいわけでもないし、内気な性格で少し女々しいところがあるの。気の強い桐子とはまず合わないタイプよ。だから賀茂さんは彼女にふられっぱなしだったのよ」

 桐子は海が嫌い?そんなことはないはずだ。好きだから奄美大島まで行ったんだろう。智明は怪訝そうな顔をして泡盛の水割りをグビリと流し込んだ。

「成実さんは海が嫌いなの?」

「そうよ。私が入社したころ彼女から聞いたわ。彼女、入社前にあることがあって、海が嫌いになったらしいの」

「何があったんだろう」

「詳しいことは知らないけど・・・・・・、昔の男が海を好きだった、いや海に関係があったのかもね。その男に恨みを持ったままだから、海が嫌いなんじゃないの?今考えるとそんな気がするわ。でも・・・・・・、これ、ただの勘だからね」

 和子はわずかに白い歯を見せた。

 海に関係がある男・・・・・・。智明は頭が混乱して急に黙り込んだ。

「何考えてるの?トモちゃん」

「成実さんは、本当に海が嫌いだったの?」またしつこく問いかけた。

「もーう、間違いないわよ。彼女が直に私に言ったんだから。要するに私とは正反対なのよ」和子は頬を膨らませた。

「そうかー。不思議だ」智明は小さな声でつぶやいた。

「何か気になることでもあるの?」

「いや何でもない。ごめん」

 しかし、智明はしつこく首をひねった。

「今日のトモちゃん、何だか変よ」

「本当にごめん。ちょっと疲れてるのかな」

「なら、いいけど。少し飲んだら」

 和子はすぐに二人分の泡盛を注文した。

「どこまで話したんだっけ。あぁ、そうそう。・・・・・・でも八月になって、桐子はある条件を出したの。そして、その条件を賀茂さんが呑んだから、デートっていうのかな、旅行っていうのかな。それを承諾したの。そして旅先で事件は起きたのよ」

「条件?」智明は首をかしげた。

「まぁ、条件というよりも希望だね。『ダイヤモンド富士が見たい・・・・・・。それを叶えてくれるなら一緒に旅行に行くわ』ってね。それで二人して行ったんだって、富士山が見えるところにね」

「しかし、和子も一緒に行ったみたいに詳しいな」

「違うのよぅ。組合にいた幸ちゃん夫婦が桐子たちに同行したのよ。でも、嫌々ながらね。二人だけで行ったりすると足がつく、って思ったんじゃないの?周りの目をすごく気にする子だから、当然よね」

「じゃぁ、幸ちゃんから事件の一部始終を聞いたのかい?」

「そうよ。今は、もう退職して大阪の実家に住んでるけどね」

「一緒に行った幸ちゃんから聞いたのなら、話の内容に信憑性があるな」

「でしょう?」和子は鼻を上に向けてニヤリとした。

「それで、どんな事件だったの?」

「たしか、八月十九日って言ってたかなぁ。四人は富士六湖の六番目の湖『田貫湖』に出かけたの」

「えっー?富士六湖なんてあるの?」

「うん。六番目の湖は、普段は枯渇している『赤池』だとか、人造湖の『田貫湖』だとか言われてるけど、『ダイヤモンド富士』で有名なのは『田貫湖』よ。まぁ、ここでは富士六湖がどちらなのかは関係ないじゃない。とにかくそこに行ったのよ」

 和子は運ばれてきたホタテの串揚げを、ふぅふぅ言いながら頬張った。

「昼過ぎに田貫湖に着いた四人は、テントを張ったり、バーベキューの準備をしたり、それはもう楽しそうにはしゃいでたらしいわ。桐子は昔からアウトドア好きだから、先頭に立って働いてたみたいよ」

「キャンプかぁ、何だか楽しそうだな。俺も行ってみたいよな」

 智明は子どものように相好を崩した。

「桐子の昔の彼がアウトドア派でさぁ、桐子もかなり鍛えられたらしいわ。だからキャンプの設営には詳しいのよ。キャンプ用品の使い方なんかもよく知ってるわ、彼女」

「ふ~ん、そんなふうには見えないけどなぁ」

「今はもうやってないんだろうけどね。子どももいないのに、わざわざ虫に悩まされるキャンプなんて、もう行かないわよぅ」

「女の人ってそうなんだ」智明はストレートをひと口飲んで、口元を曲げた。

「でもね。不思議なことに、賀茂さんと桐子はキャンプの前からもうできてたみたいなの」

「何でそんなことが分かるの?」

「だって・・・・・・、幸ちゃんが言ってたわよ。二人用のテントを張るとき、桐子が幸ちゃんにこう言ったらしいの。『幸ちゃんたちのテントは、私たちのテントから離れたところに張ってね。だって、夜中にあの声が聞こえたら恥ずかしいじゃない』だってさぁ。あの歳でね。嫌になっちゃうわー」

 和子は自分の言ったことに、少し顔を赤らめた。

「本当にそんなこと言ったのか?」

「だって、幸ちゃんがそう言ってたもん。間違いないわよ」

 テントを自分たちから離れたところに設営させるなんて、きっと別の目的があるはずだ。智明は怪訝そうな顔を和子に向けた。

「まぁ、女っていくつになってもそんなものよ」

「それから?」智明は少し酔いの回った和子を急かせた。

「それから、バーベキューをして飲んで食べて、楽しい宴会だったらしいわ」

「そんなことはどうでもいいよ。事故はいつ起きたんだ。どんな事故だったんだ。俺は賀茂さんが死んだことしか知らないんだよ」

「ちょっと待ってよ。本当に賀茂さんがどんな事故で死んだのか知らないの?」

「そうだよ。たぶん、会社が事実をオープンにしなかったんだろう。情報は俺のところまでは流れてこなかったよ」

 智明は顔をしかめて、チェイサーで泡盛を流し込んだ。和子は平気な顔でロックをグイッと空けた。

「その夜は、ビールのほかに焼酎を二本も空けたんだってさ。かなりの量よね。そして夜中の二時ころに、桐子たちのテントが燃えたのよ。周りの人たちは、早朝のダイヤモンド富士を見るために早く寝てたから、火の勢いが強くなるまで誰も気づかなかったみたい。それに、桐子たちのテントはトイレの近くに張られてて、そばには一張のテントもなかったみたいなの。死んだのは、テントで寝てた賀茂さんだけよ」

「トイレの近く?普通、女性じゃなくてもそんなところ避けるだろう。いくら綺麗なトイレでもそれは変だよ」

「十メートルくらい離れてたらしいけど、そこを選んだのは桐子らしいわ。周りにテントを張る人なんかいないから、その静かな環境がよかったんじゃないの?」

 智明は口を尖らせると、わざとらしく鼻を摘まんだ。

「信じられないな」

「でも・・・・・・、でも事実だからね」

 和子の目がわずかに泳いだ。

「いくら何でもそんな場所にテントを張るなんて、俺は、他意があったとしか思えない。トイレを何かのための目印にしたとか、ね」

「そうかなぁ」聞きとれないほどの小さな声だった。

「それで、成実さんはテントが燃えてるとき何をしてたんだ」

「幸ちゃんたちが寝たあとも、桐子たちは湖岸に張ったタープテントの下でお酒を飲んでたようなの。かなり酔った賀茂さんは、ふらつきながらテントに戻ったみたいだけど、桐子は気分が悪くなって、そのままタープテントの下で寝入ったんだって。テントまでは百メートルほどあって、全焼するまで気がつかなかった、ってさ。まぁ気がついたとしても、テントなんてあっという間に焼け落ちちゃうから・・・・・・。要するに火ダルマになった賀茂さんにまったく気がつかなかったのよ」

「誰も気づかなかったのか?」

「そうよ」和子はいかにも見ていたかのように断定した。

 智明は、和子も田貫湖に行ったような、奇妙な感覚に襲われた。

「テントの中に敷くマットにねぇ、ランタンとかバーナーに使うホワイトガソリンがしみ込んでいたんだって。だからほんの一瞬で燃え上がったのよ」

「何でそんなものが」

 智明は大きく首をかしげた。

「その後、警察の事情聴取があったようなんだけど、桐子は警察に詫びたらしいわ」

「それじゃぁ、本当は成実さんが・・・・・・」

「違うわよ。慌てないで」

和子はシガレットケースから煙草を取り出して、ゆっくりと火をつけた。

「今日は桐子のことばかりね。久しぶりに会ったのに・・・・・・」

 智明は少し顔をふせて詫びてみせた。

「ごめん。聞き出したら止まらなくなっちゃってさぁ」

 智明は、桐子に対する執拗なまでの好奇心に、自分でも驚きを隠せなかった。

「いいわ。時間はたっぷりあるんだから・・・・・・、じっくり話してあげる」

 和子は薄い唇を丹念に舐めたあと、煙草を軽くくわえた。

「賀茂さんは、酔っぱらってフラフラしてたんで、テントに入るときにその脇に置いてあったホワイトガソリンのタンクを蹴飛ばしたのよ。それがこぼれて、テントのマットにしみ込んだの。そのあと、ヘビースモーカーの賀茂さんは寝煙草をしたのよ。それが引火して、一瞬のうちにテントは燃え上がったらしいわ」

「そうだったのか・・・・・・。悲惨だなぁ」

 智明は眉間に皺を寄せた。

「もし、ガソリンタンクの蓋が閉まってれば問題なかったんだけど、それが空けっ放しだったのよ。桐子がランタンにホワイトガソリンを入れたとき、閉め忘れてそのままテントの脇に置いたんだって。それで桐子は警察に詫びたのよ。私のせいだって。泣きじゃくったらしいわよ」

「うーん、何となくでき過ぎてるな」智明はぼそっとつぶやいた。

「どう思う?この事件」かなり酔っているのか、和子の唇は赤く濡れていた。

「事故じゃないと思う。殺されたんだ」

「ほんとッ?」煙草が和子の指から滑り落ちた。

和子は何もなかったかのように、ゆっくりと拾い上げて灰皿でつぶした。

「だって、タープテントから成実さんたちのテント、そして幸ちゃんたちのテント。あまりにも離れ過ぎだ。トライアングルの形に距離を取っていたんだろう。俺はアウトドアに関しては素人だけど、普通タープのそばにテントは張るだろう。それに二つのテントを離して張るなんておかしいよ」

「そう言えばそうね・・・・・・」

 和子は右頬をピクリとさせた。

「成実さんはそのときいくつだ。もう子どもじゃないんだろう?何もダイヤモンド富士を見にきてまで、トイレのそばに張ったテントでセックスしたい、なんていうのは異常だよ。それに夜中のセックスの声を気にしてたのに、彼を先に寝かせて、ひとりで起きているのもおかしい。二人で寝るために、幸ちゃんのテントと距離を置いたんだし・・・・・・。ガキじゃないんだからなぁ」

 智明は、辻褄が合わない話にいらだって、語気を強めた。

 和子はとっさに目を逸らし、口をわずかに歪めた。

「そ、そうよね。幸ちゃんたちは、十一時過ぎには寝た、って言ってたしね」

「普通そうだよな。だって、翌日はダイヤモンド富士を見るために、早く起きなきゃいけないわけだからな。それとも若い子のように、夜通しのパーティーをするかだ」

「・・・・・・」和子は大きくうなずいた。

「それに、ホワイトガソリンがテントのそばに置いてあるのもおかしい。電灯の代わりに使うランタンは、タープテントのポールにかけるものだし、ガソリンバーナーはクッキング用だろ?だったら、タープテントの下で食事をするわけだから、バーナーもその辺にセッティングするはずだよ。だから、ガソリンタンクはタープテントの脇にでも置いてないとな。遠く離れたテントのそばに置くなんて、あり得ないね」

「そうね。学校を出てからキャンプなんてやったことのない私でも理解できるわ。でも事件にならなかったんだから・・・・・・、今さら言っても仕方ないよ」

 泡盛をひと口飲んでから和子は言った。

 智明は少し疲れたのか、何度も首を回しながら考えた。

今の自分は、いたずらに事件のことを勘ぐり過ぎて、うがった見方をしているのかもしれない。どうしてなんだ。もっと素直な気持ちにならなければ・・・・・・。

「でもさ、色々言っても、しょせん俺の邪推だし、ここでいくら話しても本当のところは分からないよな。警察はきちんと調べたんだろう?」

 智明は桐子の潔白を信じたかったが、なぜか得体の知れない蟠りがこころの奥でくすぶり続けていた。

「そうよ、幸ちゃんも色々訊かれたらしいわ。現場にはおかしなところもあったんだろうけど、すべてが燃えつきたわけだから、調べても何も出なかったみたいよ」

「要するに、事故として処理されたんだ」智明はため息を吐いた。

「結局、桐子の供述がすべて。だから結果はシロだって。疑っても仕方がないわ。この話はもうやめようよ」

 和子はカマンベールの串揚げを齧って、妙な笑いを浮かべた。

「そういうことだな」

 でも、やはり不思議だ・・・・・・。成実が関係した男は、転落死、自殺、水死、焼死。死因は異なるが、死んだ男には妙な共通点がある。ただの偶然だろうか。それとも・・・・・・。いや考え過ぎだ。やはり偶然だろう。彼女はそんな悪人じゃない。殺された男たち、いや死んだ男たちに過失があったんだ。

「どうしたの?トモちゃん。もう酔ったの?」

 和子は赤い目で智明を睨んだ。

「何言ってるんだよ。これくらいじゃ酔わないよー」

 智明はグラスに残った泡盛を飲み干して、無理に白い歯を見せた。

「じゃぁ、どんどん飲もうよ。もう桐子のことは忘れてッ」

「おうー」智明も気分を変えるために、一気にシャツの袖を捲り上げて気合を入れた。


 店を出ると、時計は九時半を回っていた。

「うぁー、四時間も飲んでたのか」

 智明は夜空を見上げて大げさな声を上げた。

「まだ宵の口じゃない。もうちょっとだけ飲もうよぅ」

 和子は、智明の腕をつかんで甘えた声を出した。

「だめだ。もうこのへんにしよう」

 智明はタクシーを停めると、和子をシートの奥に押し込んでから、慌てて自分も乗り込んだ。


 天満橋駅を右折すると、左に大手門高校が見えた。奥には贅をつくした大阪城が、ライトアップされて輝いている。高校のすぐ右手が和子の家だ。タクシーは家の前の掘割から少し離れて停まった。

「お疲れさん。じゃぁな」智明は機械的に別れを告げた。

「何言ってるの。うちに寄っていってよ」

「だって、もう遅いよ」

「えっ?冷たいわねぇ。お祖母ちゃんにお線香くらいあげていってよぅ」

 和子の頬はリンゴ色に染まっている。

「ごめん。気がつかなかった。じゃぁ、少し寄っていくよ」

 智明は待たしていたタクシーに料金を払った。

 冠木門を越えて十メートルほど歩くと、竹垣の向こうに玄関が見えた。和子がゆっくりと引き戸を開けると、湿った空気が鼻をついた。

 四畳半はあるのでは、と思えるほどの三和土には、ポツンと赤いサンダルが置いてある。

「懐かしいな。でもこんな広い家に一人でいるのか・・・・・・」

 智明は重い沈黙に耐えきれず、何とか言葉を探し出した。

「そうよぅ」和子は振り向いてニヤリと笑った。

 廊下に上がると、黒光りしている板に天井の赤色灯がユラリと反射している。廊下の左右に三つずつ部屋が並んでいて、突当りは台所だ。和子の部屋は二階にあったような記憶がある。

「こっちに座ってて」台所の奥にある十畳ほどの居間に案内された。

 居間は立派な太い柱が使われており、重厚な雰囲気を醸し出している。が、今風の薄型テレビや、コンポ、パソコンがすっきりと配置されていて、女性の一人住まいだということが改めて実感できる。

智明は隣の部屋で仏壇に線香をあげたあと、居間の黒いソファーに腰を下ろした。

「ごめんなさい。こんな物しかなくて」

 和子は生ハムとチーズを盛ったガラスの皿をテーブルに置いた。

「もう気を遣うなよ」

淡い緑のエプロンがとても清楚に見える。

「これ開けてくれる?」和子は高級そうな白ワインを智明に差し出した。

 智明は上手にコルクを抜くと、二つのクリスタルグラスにワインを注いだ。

「乾杯ー」二人は、ともに妙な照れ臭さを感じた。

「ふぅ~、美味しい」和子は小さな口から軽い吐息を漏らした。

「でも、やっぱり一人には広すぎるな」

「そうなの。いつもこの部屋で食事をするのよ。何だか寂しいでしょう」

「いっそのこと、マンションにでも建て替えたらどうだ」

「でもねぇ・・・・・・。長いことお祖母ちゃんと暮らした家でしょう。やっぱり愛着があるのよね。結婚でもしたらいいんだろうけど、そんな人もいないし」

 和子は拗ねたように目線を落とした。

「和子なら大丈夫だよ。きっといい人が見つかるよ」

 言ったあとで、無責任な言葉を吐いたような気がして、智明は一瞬目をふせた。

「ありがとう。でも無理だと思うわ。もう子どもも産めないから、このままこの家で一人年老いていくだけよ」

 和子は上目遣いに智明を睨むと、寂しげに笑った。

「ところでさぁ、最近は潜ってるの?」

 雲行きがあやしくなるのを感じて、智明は突然話題を変えた。

「最近はさっぱりよ。だって一緒に潜ってくれる彼もいないもん」

「あれだけのダイビングの技術をもってるのに、もったいないなぁ」

「だったらトモちゃん、資格を取って一緒に潜ってくれる?」

「俺はだめだよ。泳げないもの」

「最近の男はみんなそう言って逃げるのよ。結局、トモちゃんもそいつらと一緒ね」

「だって・・・・・・、俺たち東京と大阪に離れて生活してるんだよ」

「いいじゃない。私、東京に行くわ。そして東京から二人で沖縄に飛ぼうよ。綺麗な海で魚と戯れて何日も過ごすの、楽しいわよ」

「そうだな。考えてとくよ」

 智明は人差し指で軽く鼻の頭を掻いた。

「気のない返事ね。私、やっぱりこの家で一人年老いていくんだわ。皺皺のオババになっちゃうね。フフッ」

「そんなに悪いように考えるなよ、必ず一度行くから。今夜は飲もう。ガンガンいこうよ」

 湿っぽくなった雰囲気を変えようと、智明は無理にはしゃいで見せた。

「そうね。今夜はつぶれるまで飲むかな。トモちゃん介抱してね」

 和子はピンクの舌をチョコンと出して、ぎこちなく片目をつむった。

「ところでさぁ、話を戻して悪いけど、桐子は幸せにしてるの?」

「東京に来てまだ三カ月だからよく分からないけど、今は吉祥寺の借り上げマンションに住んでるよ。楽しくやってんじゃないのかなぁ」

「そう、ならいいんだけど。あの子も私と同い歳でもうすぐ五十よ。寂しい思いしてないのかなぁ」

「支社で女性の営業所長は彼女一人だけど、仕事のことで別に相談もないし、男性社会にうまく溶け込んでるんだと思うよ」

「でもねぇ。昔の桐子は男性アレルギーだったのよ」

和子は口元についたワインをペロリと舐めた。

「へぇー、そんなふうには見えないけどな」

「彼女、高校を出たあと、キャビンアテンダントになるための専門学校に行く予定だったのよ。でも入学直前にやめたらしいわ。その後一年遅れでうちに入社したの。きっと当時何かあったのよ。私が入社したてのころ、詳しいことは訊かなかったけど、それが原因で男性アレルギーになった、って言ってたわ」

 和子は、なぜこんなことを口にしたのか、自分でも分からなかった。いずれにしても智明に媚びているのは、桐子に妙なジェラシーを感じたからだろう。

「ふーん」智明はわざと興味がないような振りをしてグラスを空けた。

 和子は、酔っているからもうこのへんにした方がいい、と思いながらも漏れ出る言葉を止めることはできなかった。

「しばらくの間入院してた、って言ってたかなぁ」

「体調でも壊して、一年を棒に振ったんだろう」

「そんな単純なことじゃないと思うわ。色々あったみたいよ。家庭環境も複雑みたいだし」

 和子は染みが広がった天井をじっと見つめたあと、神妙な顔で煙草をふかした。

 そのことが今までの事件に関係しているのか。智明は桐子の空白の一年が気になったが、もうこれ以上桐子の話題に触れるのは控えた方がいいと思った。華やかな東京で暮らす桐子に、和子が嫉妬しているように感じたからだ。

「もうやめようよ、重たい話は。酒が不味くなる」

「そうね。ごめんなさい。トモちゃん、ポテトフライ食べる?冷凍ものだけど」

「うん、いいね。ケチャップをたっぷり添えてよ」智明はニッコリと笑った。

「昔から好きねぇ。ケチャップなんて、子どもみたい」

「いいんだよ、いつまでも子どもでね。ひょっとしたら、結婚できないのはケチャップ好きのせいかなぁ」

 和子は口に手を当ててクスッと笑った。

 淡いブルーのカーテンを揺らして、一陣の風が吹きこんだ。静かな夜だった。


 八


「雄三、元気そうやなぁ」

「修こそ変わらないよ」

 修は大学時代の友人の結婚式で、金曜日から大阪に来ていた。

「鈴木は五十過ぎて初婚だとさ。考えたら羨ましいよなー」

 雄三はラウンジの他の客に気を遣いながらも派手な声で笑った。

サングラスのお陰で、誰も彼がユウヤだとは気づいていない。

「嫁はんはひと回り以上も下やぞ。それこそ犯罪ばい。明日の披露宴で少しからこうてやらんといかんなぁ」

 大学時代、雄三と同じゼミにいた修は、二年ぶりの再会にすっかりこころが和んでいた。

「相手は三十八歳やて。十四も年下か。人生どこに幸せが隠れとるか分からんなぁ」

「まさにそのとおりだな。俺もあんなことがなかったら・・・・・・」

 雄三はつぶやき、サングラスをはずした。右耳に光る派手なピアスと、うしろで束ねた長い髪が、常人の世界にはいない人間だということを物語っている。

「雄三とはもう三十年以上の付き合いか。まぁ、お互い昔のことは時効ばい」

「俺なんかこんな商売してるから、過去のトラブルは些細なことでもタブーなんだよな」

 修は分かったようにうなずいて、コーラをグビリと流し込んだ。

「四回生の冬やったかなぁ、お前の突然の言葉にビックリしたばい」

「そうだったよなぁ、確か雪が降ってたよ」

「あのときお前、『就職の内定を断るかもしれない。俺は音楽で身を立てたいんだ』そう言うたもんなぁ。俺は、『バカなことぬかすな。世間はそんなに甘いもんやなかぞ』そう諭したど、結局お前は聞かんかった。あげな大企業の内定を袖にするやて・・・・・・、俺たちから見ると尋常やなかった。思うたとおり、お前はデビューしても鳴かず飛ばずやったよな。そして音楽事務所でプータローをしとったとき、お前を元気づけようと、みんなで旅行ばしたよなぁ。そやけど帰ってくると、お前はすぐに消息ば絶った。再会でけたんは俺の結婚式やった・・・・・・。思い出すのう」

 雄三は遠くを見るような目をして、煙草を深く吸い込んだ。

「確か卒業前の三月だったかな。でも、やっぱり就職して地道に暮らそう、と思い直したときだった。付き合っていた女と色々あってさぁ。自暴自棄になってしまった。というか、本当はあの女のしがらみから抜け出したかったのかもね。それに、ちょうど今の事務所から強引に誘われていたしな。仕方がなかったよ。直前になって就職をやめたんだ。それからしばらくして、気晴らしでお前たちと旅行に行ったけど、帰ってきても状況は変わらなかった。まったくやる気が無くなってさぁ、それでみんなの前から姿を消したんだ。すまなかった」

 雄三はバツが悪そうに目を逸らした。

「でも、なんがあったか知らんけど、厳しい芸能界で成功でけてよかったやないか。大したもんや。高三の娘の結花なんか、お前のサインが欲しいて俺に拝みよったぞ。『ユウヤ』のサインが手に入るならパパのこと一生大事にする、ちゅうてな。五十過ぎた男に若い子が群がる。こんなことあっていいのかのぅ」

「修、そんなに持ち上げるなよ。サインなんていくらでもするからさぁ。勘弁してくれよ、お前から言われると妙に照れるよ」

 修は雄三の笑顔が懐かしかった。

「ところで、芸名の『ユウヤ』やけど、どっからきとんのや」

 雄三はニッコリ笑って答えた。

「本名を反対にしただけだよ。山村雄三なんてカッコ悪い名前だからな」

「山村の『ヤ』に雄三の『ユウ』か。で、『ユウヤ』。考えたら単純やなぁ。でも新しい芸名や。心機一転、頑張りやー」

 修は周囲を気にすることなく豪快に笑った。

 ホテルのラウンジに大きな声が響くと、ユウヤがいることに気づいたのか、周りがざわつき始めた。

「すまん雄三。みんな気づいたみたいや」

 修は申しわけなさそうな顔をして周りを見渡した。何人もの若い女たちが口々に「ユウヤ」と名前を呼びながら、雄三に驚嘆の視線を送っている。

「構わないよ。お前と二人で話ができるなんて、もう二度とないかもしれないんだからな」

「なん言いようとか、またお前のコンサートば観に行くたい」

 雄三はそれを聞いて、テレビでは見ることのできない自然な笑みを浮かべた。


「トモちゃん。私もう飲めない」

「だったら、無理して飲むんじゃないよ」

 智明は黒光りする柱にかかった時計を見た。もう午前二時だった。

「ちょっ、ちょっと・・・・・・、飲み過ぎたね」

 和子はまったく呂律が回っていなかった。そしてすでに着替えていたスウェットの袖を捲り上げた。

 智明もすっかり酩酊していて、ポツリポツリとしか言葉が出てこない。

「も、もう泊めてくれ。これじゃ、あ、今から・・・・・・、ホテルは無理だ。ごめん・・・・・・」

 和子は、こんな場面の経験が豊富なのだろうか、すんなりと言った。

「あったり前よ。いっ、いっしょに寝ようよぅ」

 一緒に寝たって、こんなに酔っているわけだから、何もできない。そう、俺は何もできないんだ。智明はかすかな理性で納得して、ふらつく足で浴室に消えた。

二階には俺用の布団が敷いてあるんだろうか。智明はシャワーを頭から浴びながら、一人で妄想を働かせた。でも、もう限界に近い。ただ寝るだけだろう。和子だって無論そのはずだ。

「トモちゃん、髪を乾かしたらすぐ寝ていいよ。寝床は二階の手前の部屋だからね。絶対に間違えないでよ。私もシャワー浴びるから、先に寝ててよ」

 浴室のドアを開けると、居間の方から和子の声が聞こえた。

「うん、先に寝かせてもらう。今日は飲み過ぎたよー」

 智明は二階にある手前の部屋のドアを開けた。何の香りだろうか、記憶の片隅にある匂いがした。

八畳ほどの部屋には、真っ白なシーツで包まれた大きなダブルベッドがある。微妙に身体が強張った。

智明は短パンとランニングに着替え。ベッドに飛び乗って大きなため息を吐いた。そしていっぱいに両手を伸ばした。

「ふぅ~、もうダメだー。限界」

 しばらくウトウトして、二十分ほど経っただろうか。寝入る寸前にかすかに人の気配がした。夢の中をさまよっている智明は、朦朧とする意識の中でからだの左側に暖かいものを感じた。和子の肌だった。

 智明は酔って意識が遠のくことを恨みながらも、そのまま肌の感触を喪失して、深い眠りに落ちてしまった。


 翌朝、智明は鳥の声で目覚めた。左腕に柔らかいものが触れている。からだにかけられた夏掛けを両手で取り払うと、隣で眠る和子の上半身が露わになった。

 薄目を開けた和子はそれを隠そうともしない。すると、おもむろに上半身を起こして智明を覗き込んだ。

「よく眠れた?」和子は冷ややかに笑った。

 智明は、何もつけていない下半身を両手で押さえて天井を見た。

いつ下着を脱いだのだろう。まったく覚えがない。まさかッ。何もしていないはずだ。そうだ絶対何もしていない。

「う、うん。眠れたよ」

 和子が髪をかき上げると、張りのある形のよい乳房が揺れた。

子どもを産んでいないせいか、からだの線がまったく崩れていない。桜色の小さな乳首が、乳輪に埋もれているかのように見える。

 智明は自分のものがピクッと脈打つのを感じて、急に和子から目を逸らした。

「寝過ごしちゃった。携帯の目覚ましかけてたんだけどなぁ」

 時計を見ると八時を少し過ぎていた。

「疲れてたのよ。たまにはいいんじゃない」

 和子は軽い笑みを湛えて、シーツで胸を覆った。

「ふぅー」渇いた唇から、後悔とも満足ともとれない小さな息を漏らした。


 一階に下りると、溢れんばかりの日差しが部屋を占領していた。鳥のさえずりが絶え間なく聞こえてくる。

 ゆったりとコーヒーを飲みながら、和子は口を開いた。

「今夜こそ、ちゃんと泊まっていってね。トモちゃん」

 嘘とも本音ともつかない言葉を投げた。

「そうだな」智明はイェスともノーともつかない言葉を返した。

「パンを切らしてるの。ちょっと買ってくるわ。それとねぇ・・・・・・、あまり桐子に近づかない方がいいわよ」

 桐子に対する嫉妬なのか、畏怖なのか、智明には見当がつかなかった。

和子が出かけると、智明はすぐに帰り仕度を始めた。「もうここから離れたほうがいい」得体のしれない何かが智明を囃したてた。

 智明は慌ててメモ書きを残し、すぐに和子の家を離れた。


―和子へ

楽しい時間をありがとう。

今日は予定どおり京都に行きます。

また休みを取って必ず大阪に来ます。

そのときはよろしく。

智明―


「のぞみは何時だ?」

「たしか六時やったな」

「じゃぁまだ時間はあるな。でも、名古屋の家には寄らなくていいのか?」

「今回はよか。慌ただしいけん次にしとく。子どものことは、ばあさんがしっかりみてくれとる。明日は単身寮で久しぶりの洗濯や。ぎょうさん溜まっとるばい」

「それなら決まりだ。時間まで最上階のレストランでビールでも飲もう」

「そやな」

 レストランにはすでに西日が射しこんでいた。店内の客は疎らで、フロアには気だるいジャズが流れている。

「しかし、よか結婚式やったなぁ。雄三、お前の演奏も大したもんばい。さすがにプロたい、ギター一本であんだけ客を魅了するとはなぁ」

「そんなに煽てるなよ。でもバックバンドが入ればもっとよかったけどな」

 雄三はほっとしたのか、ニヤリと笑ってやっとサングラスをはずした。

「しかし、お前よう成功したなぁ。本当によかったばい。俺の結婚式で再会ばしたときは、泣かず飛ばずで、ほんまにうらぶれとったもんなぁ」

「でもあのときは、どさ回りでもある程度の収入はあったんだ。だから修の結婚式に出席できたんだよ。本当に地獄を見たのはそれからだったよ」

「そうか、辛か時代が長ごう続いたんやなぁ」

 しばらくして、雄三は西日に目を細めながら切り出した。

「修、実はなぁ。俺、今度東京に進出することになったんだ。この歳で東京は抵抗があるんだけどな。事務所が煩いんだよ、今がチャンスだって」

「へぇー、よかったやないか。またお前と会う機会が増えるばい」

「八月に『渋谷パークホール』でライブをやるから、よかったら来ないか?」

「行く行く。絶対に行くばい」

「今度チケットを送るからよろしくな」

「おう、十枚ばかり買うちゃるばい」

「何言ってんだ。タダでいいよ」

 二人は人目も憚らず大きな声で笑った。

そのあと、修はコロナをゆっくり飲み干すと、椅子の背にからだをあずけた。

「ところで雄三、お前デビューしてから何年になるんや?」

「大学を卒業してからだからな・・・・・・、もう二十八年目だよ。何だか恥ずかしいよ」

「お前も苦労したとやなぁ」

 雄三はしんみりとした顔で下唇を噛んだ。

「苦労なんかしてないけど・・・・・・、デビュー前のあの女の件が、まだこころの隅でくすぶってるんだ」

「もう時効やて言うたやないかー」

「まぁな。でも、東京で成功できたらいよいよメジャーだ。そしたら彼女も許してくれると思うんだ。だから何としてでも成功しないとな」

「なんがあったんか知らんけど、遠い昔のことやろ。もう忘れえよ」

 雄三は半分ほど残ったコロナを一気に流し込んだ。

「いや忘れることはできない。俺は彼女を捨てた。それも酷い捨て方だった」

 雄三は上を向いてじっと目をつむった。

「彼女は十八だった。妊娠したんだ。あいつはすべてを捨てて俺についていく、って言ってくれたよ。俺も約束したんだ。内定している会社に入社したら、すぐにでも結婚しよう、ってね。でも・・・・・・、同時に音楽事務所からも誘いがあったんだ。俺は彼女との板ばさみで迷いに迷ったよ。ちょうどアイドルではキャンディーズ、シンガーソングライターでは当時の荒井由美が売れ始めたころだった。『お前を和製ロックのシンガーソングライターとして世に出したい』夢のような話だった。当時、俺は自信の塊だったから、自分を試してみたくて迷ったあげくその話を受けたんだ。いつの間にか彼女のことは忘れていたよ。今考えたら俺はバカだったよな。それだけで有名人の気分になって、それこそ有頂天だった。そのときに色々なことが重なってね。それに事務所からもきつく言われたんだよ。スキャンダルはタブーだからね、って。結局俺は彼女から逃げてしまった。彼女も失い、そして芸能界でもうまくいかなかった・・・・・・。人間として大事なものを失ったんじゃないのかな。そんな気がするよ」

 バーボンのソーダ割が運ばれてきた。

 可愛い顔をしたウェイトレスが、サングラスをはずした雄三に気づいて声を出そうとした。

 修はそれを見つけると、口に人差し指を立ててウェイトレスに目配せした。

「でもなぁ。今度の東京公演が成功すると、彼女も喜んでくれるたい」

「そうだといいんだけど・・・・・・」

 雄三は肩を落として上半身をかがめた。

「もうよか。あんまり考え込むな」

「今はどこにいるんだろうか。幸せにしてるのかなぁ」

 そう言うと、雄三はしばらく黙りこんだ。

「お前よかいい男と結婚して、きっと幸せに暮らしとるぞ。間違いなかー」

 修は勝手にその女のことを想像して、無責任なことを言った。

 しかし、雄三があれほど落ち込むとは、いったどんな女だったんだ。

 修は雄三の落胆ぶりを前にして、もうそれ以上訊くことはできなかった。



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