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アロワナ  作者: 修さん
1/9

アロワナ①

続編あり

【プロローグ】


 若い女が赤いベビーカーを押しながらゆっくりと歩いてくる。

東急東横線のホームは、焔が立ち上るほどの熱をはらんでいた。

淡い色の麻の帽子の陰で、細い目が勝ち誇ったように微笑んでいる。

紺色のノースリーブを着た若い女は、ふと立ち止り、少しかがんでハンカチをそっと子どもの額にあてた。

ホームは線路側に少し傾斜している・・・・・・。

「ルルルー、ルルルー」突然携帯の音が鳴った。

若い女は画面をしばらく見たあと、ニッコリと笑って返信を始めた。

周りのことをすべて拒絶するかのように、携帯を一心不乱に操っている。

幼げな細いからだは、子どもが一緒でなければまだ学生のように見える。

油蝉の声がスコールのように襲いかかる。

とにかく暑い。暑くてホームの表面が泡立っているのでは、とさえ思えてくる。

「まもなく二番線を電車が通過いたします。黄色い線の内側まで・・・・・・」

 抑揚のない暑苦しい声がホームに響き渡った。

女の目は真っ赤に充血し爛々と輝いている。その周りに刻まれた皺からは、油のような濃い汗がしみ出していた。

無用に大きな胸はだらしなく垂れ下り、くびれのない腰は窮屈そうに喘いでいる。

女はベビーカーの前でぎこちなくかがみ込んだ。

―子どもの赤い寝床を、思いきり蹴飛ばしてやりたい―

「可愛いわねぇー。バブバブ」

スヤスヤと気持ちよさそうに眠る子の、マシュマロのような頬に手を触れた。

 若い女はメールを打つ手を止めて、迷惑顔でその女を一瞥した。

鬱陶しそうにベビーカーの日除けを少しだけ上げて、また携帯の画面に集中した。

一瞬、気休めのようなぬるい風がホームを吹き抜けた。

 すると、赤いベビーカーがほんの少し動いた。若い女は気づかない。そして、ベビーカーはゆっくりと滑り始めた。

まだ携帯から目を離そうとしない。

むせるような湿気がじっとりとからだに纏わりつく。額には珠のような汗が無数に張りついていた。

「あッ!」携帯が蜉蝣のように蠢くコンクリートに転がり落ちた。

 若い女の顔が母親のそれに変わると、スローモーションのように頬が引きつっていく。

「あああぁー、キャアァァァァ―」

 一瞬、蝉の声がやんだ・・・・・・。

「プワァァァーン」警笛が静寂を切りさき、耳をつんざく。地鳴りのようなブレーキの音がけたたましく響き渡り、辺りに赤い戦慄を走らせた。

 戦車のような重厚さで、ゆっくりとすべてを破壊しながら電車は通り過ぎていく。

 モノクロの風景の中で、「赤い色」が砕けて、花火のように宙を舞った。


 一


「ウィィーン、キュッキュッ、ウィィーン、キュッキュッ」

スウィッチをオンにすると、プリンターが一斉にうなりを上げて、事務室の静寂を切りさいた。

 また長い一日が始まる。時計の針は午前六時を指していた。

 山瀬智明は自販機のコーヒーをすすりながら、会議の資料を作るためにパソコンを開いた。昨夜の酒が残っているのか、何度も目をしばたいている。

 智明は、「東洋生命保険」首都圏第二統括支社のナンバー2、業務部長の職にある。学生時代、サッカー部に所属していた彼は、誰が見てもスポーツマンだと分かる堂々たる体格をしている。色浅黒く、涼しげな目が印象的だ。今年四十二になる。

 首都圏第二統括支社は、渋谷の宮益坂の中ほどに建つ十階建てのビルにある。首都圏の西部エリアにある二十の営業所を管轄していて、八百名の営業社員と二百名の内勤社員を抱えている。

今日は、人事異動による転入者を迎え、新年度の進発会議が開かれることになっていた。


 社員通用口の鉄のドアが、ギーッと鈍い音を立てて開いた。

「おはよっすー」智明の直属の部下、坂崎が眠そうな目をして事務室に入ってきた。トイレに行っていたのか、自販機の紙コップを口にくわえたままハンカチで手を拭いている。

「部長、今日は早いっすねぇ」

「資料はまだできてないんだろう。四時からの会議に間に合うのか?」

 智明は坂崎に厳しい目を向けた。

「大丈夫ですよ、昨日は終電でしたからね。かなり進みましたよ。二時にはあがるんじゃないすか」

 坂崎は度の強い眼鏡を取って白い歯を見せた。

「そうか、昨日は頑張ってくれたんだ」

 智明は表情を崩してコーヒーをひとすすりした。

「営業所長の転入者はたしか四人でしたよね。転入の挨拶の順番はどうしますか?」

「四人の年齢と前任地の役職はどうだったっけ。それと職位は?」

 智明はカロリーメイトを口にくわえて、じっとパソコンの画面に見入っている。

 坂崎は机の上の異動通知をまじまじと見た。

「えーっと、一番若いのが藤田紘一、四十一。前任は仙台支社の事務スタッフです。所長は今回が初場所ですね。それから次に若いのが岡本武司、四十三。前任は松本支社の松本西営業所長。所長は二場所目です。二人とも職位は課長代理ですね」

「ふぅーん、二人とも課長じゃないのか。かなり昇格が遅れてるな」

智明は渋い顔をした。

「それと、西澤修、五十二歳。前任地は愛知支社です。名古屋東営業所・・・・・・。へぇー、名門の営業所ですね。職位は副部長です」

「西澤さんか・・・・・・、懐かしいなぁ」

 智明は新入社員のころ、西澤と一緒に仕事をしたことがある。本社の営業人事部に配属されたとき、年上の彼が色々と面倒を見てくれた。お世話になった先輩だ。奥さんを亡くしたと聞いているが、元気にしているのだろうか。

 智明は込み上げるものがあるのか、わずかに顔を上げて目を閉じた。

「あとは、成実桐子。例のオバサンですよ。四十九歳、職位は部長です。出世してますねぇ。前任は愛知支社の名古屋本町営業所。西澤さんのところより大きな営業所ですよ。でも・・・・・・、この人、大変らしいですね」

 坂崎も噂で聞いているのか、コーヒーを飲み干すと苦虫を噛みつぶした。

「まぁそう言っても、実際に会ってみないと分からないからな。そうか、前任地で西澤先輩と一緒だったのか・・・・・・」

 智明はぼうーっとパソコンの画面を見続けた。

そしてしばらくすると、智明はやっと口を開いた。

「挨拶は職位順にしよう。その方が問題ないだろう」

「そうですね、その方が無難ですよ。彼女のプライドもあるでしょうから。彼女、行く先々の支社で『女王さま』と呼ばれてたみたいですからね・・・・・・。最初は気をつけましょうよ」


「業務部長、支社長がお呼びです」

 業務係の有希ちゃんが内線で伝えてきた。

「了解、すぐ行く」智明は机の上に積まれた資料の中からレジュメを抜き出すと、慌てて隣の支社長室に向かった。

「資料はいつごろできそうだ」

 支社長の山村了司は、応接のソファーに座ってテーブルに足を投げ出している。

「はい、二時半にはでき上がるかと」

智明は直立不動で答えた。

「各部にも急ぐように言うんだッ。三時には転入組の四人の所長が顔を出す。先に今年度の業務方針だけは伝えておきたいからな」

 智明の右頬がわずかに引きつった。

「かしこまりました。できしだいお持ちします」

「できしだいじゃないッ。二時までに持ってこいッ」

「はい、承知しました」

 智明はわずかに目を逸らして、口を真一文字に結んだ。

「それからなぁ、最近、営業所長へのあたりが弱いらしいな。だめなやつには、人格を否定するくらいに厳しくやれ、といつも言ってるじゃないか。何やってるんだッ。業績は人格だぞッ」

 智明の顔が青みを帯びた。

「し、しかし、パワハラの問題もありますし・・・・・・。告発でもされると、ややこしいことになるかと・・・・・・」

「パワハラ?そんなこと俺には関係ないッ。お前がすべて処理するんだよ。まだ会社の組織も分かってないのか?細かいことまで俺に言わせるなッ」

「・・・・・・はい」

 智明は拳を固く握ると、逃げるように支社長室を出ていった。

 山村は、昨年執行役員に昇格してこの支社に赴任してきた。態度は横柄で、誰に対して

も聞く耳をもたない。しかし、ことが起こるとまったくの逃げ腰になる。絵に描いたよう

な小心者だ。

山村の濁った目が眼鏡の奥で笑った。


 午後三時四十五分。九階の会議室に営業所長が集まり始めた。新年度のスタートとあって、みんな緊張した面持ちだ。智明は会議のセッティングに追われていて、新任の営業所長には会えないままだった。

 営業所長が、ロの字型に配置された机の周りに順次座り始めた。徐々に会議室の空気が張りつめていく。

 しばらくすると、新任の男性の営業所長が部屋に入ってきた。昨年度から在籍する営業所長はみなチラッと一瞥して、すぐに何気ない顔で机の資料に目を戻した。

 その後少し間をおいて、支社長、続いて例の桐子が姿をあらわした。入口で立ち止まり黙礼をした。室内は口を開く者などいないのだが、妙に空気だけがざわついた。

 綺麗な人だ・・・・・・。智明はポカンと口を開けている。

 身長が百六十五センチはあるだろうか、ヒールをはいているので百七十センチ以上の長身に見える。肌は透きとおるように艶やかだ。くっきりとした黒い瞳、すっきりと整った鼻、唇の両端がわずかに捲れたチャーミングな口。誰が見ても美形といえる顔立ちだ。黒いスーツの下から覗く薄いピンクのブラウスが妖艶な雰囲気を醸し出し、五センチほど膝上のスカートが脚線美を際立たせている。

 転入組の営業所長が各々指定された席につくと、司会役の智明がおもむろに口を開いた。

「では、ただいまより平成十六年度の進発収益戦略会議を開催いたします。起立、礼」

 会場は、二十名の営業所長とその営業所のスタッフ、そして支社幹部が十三名、合わせて五十名以上の人間で埋めつくされていた。

「それではまず支社長より、十名の転入者の紹介をさせていただきます」

 全員の目が、支社長が座る中央の席に向いた。

 転入者は、号令がかかったかのように全員が居住まいを正した。

 支社長が十名の転入者を紹介したあと、営業所長を皮切りに順次自己紹介を兼ねた挨拶が始まった。

 挨拶の初っ端は桐子だった。

 ブラウスの第二ボタンを開けた桐子は、背筋を伸ばし大きな胸を強調している。もうすぐ五十とは思えない容姿だ。

これが、有名な女王さまか・・・・・・。智明は改めて驚嘆の吐息を漏らした。

「はじめまして、成実桐子です」

 その声を聞いたとたん、今度は場の雰囲気がわずかに和んだ。

 可愛い声だー。アニメに出てくるお姫さまのような声だ。人前で繕ってはいるのだろうが、耳に心地よかった。目をつむっていると、中年の女性の声だとはとても思えない。桐子に目を戻すと、その年齢とのギャップに智明は軽いめまいを覚えた。

「私は、この二十名の営業所長の中で一番勤続が長いのではないかと思います。勤続年数は、たしか最年長の西澤さんと同じではないかと・・・・・・。高校を出て大阪北支社に一般職として入社したからです。十年ちょっと事務員をしたあと、三十歳の時に営業職になりました。それから営業スタッフを十年やり、四十歳の時に営業所長に昇格させていただきました」

 支社長をはじめ全員が真剣に耳を傾けている。

「営業所長を、福岡で三年、次に鹿児島で三年、それから愛知で三年、計九年やってまいりました。そしてこの度、名門の第二統括支社にお世話になることになりました」

 どこからともなく、ほうーっという声が聞こえた。

「何しろ東京は初めてなので、まだ右も左もよく分かりませんが、何卒ご指導のほどよろしくお願いいたします」

 数人を除く全員から大きな拍手が沸き起こった。その数人とは、以前桐子と職場をともにしたことがある人間だ。

 そのあと、残りの九名が挨拶をするが、ほとんどのものが真剣に聞いてはいない。みんな机の上にある「二○○四年度業務方針」に目を落としたままだった。


 二


 桐子は、吉祥寺の南町、井の頭公園のすぐそばに、2LDKのマンションを借り上げてもらった。環境は抜群だ。独身女性ということもあって優遇されたのか、集合社宅は嫌だとごねて強引に借りたのか、は分からない。しかし過去の転勤がすべてそうだったように、本社の役員にでも頼んで別格扱いにしてもらったのだろう。

 桐子以外の営業所長三人は、藤田、岡本が独身。そして西澤が単身赴任。そのため、桐子のマンションから歩いて五分ほどのところにあるワンルームの単身寮に押し込められていた。


 部屋のチャイムが鳴った。藤田紘一は休日だということもあって、ベッドに寝転んでうだうだしていた。昨日の歓迎会の酒がまだ残っている。

「誰だよ、こんなに早く」ベッドの脇に置いてある鏡を手にした。

 色白の端正な顔立ちだが、今日は少しまぶたが腫れぼったい。紘一は寝ぐせのついた髪を手櫛ですいて、急いで玄関に向かった。

「何やってんのよ。早く開けなさいッ」突然、怒鳴る声がした。

 紘一は慌ててチェーンをはずしてドアを開けた。

 桐子は、すぐさま紘一を押し退けるようにして部屋に入ってきた。当然、自分がはいていた赤のサンダルを揃えようともしない。

「桐子さん、どうしたんですか?こんな時間に。まだ朝の八時ですよ」

 桐子は無言で、表面がひび割れたグレーのソファーに腰を下ろした。

 ムームーのような黄色い花柄のワンピースをだらしなく着ている。汗で前髪の数本が額にべったりと張りついていた。朝起きてそのまま来たのだろうか。上着のカーディガンを脱ぐと、大きく開いたノースリーブの脇から、真っ赤なブラジャーが覗いた。桐子の汗ばんだすっぴんの顔は、皺が目立ち五十代半ばに見える。

紘一は、桐子の仕事上の顔が作りものであることを重々承知していたが、久しぶりに現実に触れ、驚きを新たにした。

「あんたッ。何でここに転勤してきたのよッ。私を監視するため?それとも昔のことをバラスため?何とか言いなさいよッ」

「桐子さん、ここは社宅ですよ。もう少し小さな声で話してくださいよ」

紘一はオロオロして両手を合わせた。

「そんなこと関係ないでしょッ。何で同じ支社に転勤してきたのか聞いてんのよッ」

「それは僕のせいじゃないですよぅ。会社が決めたことです。桐子さんが転勤してくるなんて僕も知りませんでしたよ」

 桐子はいらついた顔で煙草に火をつけた。

「灰皿は?」桐子のダミ声が響いた。

紘一は慌ててベッドの下の空き缶を取り出した。

「あんた、昔のこと絶対に言うんじゃないよッ。分かってるわねッ。それとヘマをやらかして、半年でこの支社を出なさいッ」

「そんな無茶なこと言わないでくださいよ、絶対しゃべりませんから。それに遠い昔のことです。みんな事件があったことすら忘れていますよ」

「ダメよ。とにかく早いうちにこの支社を出るのよ。私の知らない遠くの支社に行きなさい。いいわねッ」

「桐子さん、それだけは勘弁してくださいよ。僕、初めての所長職なんですよ」

 紘一は目に涙を溜めて懇願した。

「あんた、よく言えたもんだわね。あれだけ私のからだを弄んだのは、どこの誰よッ」

「弄んだなんて、人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。あれは、桐子さんの方から・・・・・・」

「結果は同じでしょう。つべこべ言うなッ」

 紘一はずっと下を向いていたが、とりあえずその場しのぎで口を開いた。

「分かりました。必ずそうなるように努力します。ですから今日はこのへんで・・・・・・」

「聞きわけのいい子ねぇ。最初からそう言えばいいのよぅ」

桐子のダミ声がアニメ声に変わった。

 桐子はうつむく紘一の腕を取って、強引に自分の方に引き寄せた。そしてワンピースの右肩の紐をずり下ろすと、たるんだ大きな乳房を強引に引っ張り出した。

「こんなところで何するんですか」

「何って、昔散々やったことでしょう?」

 桐子は拒む紘一の頭を無造作につかみ、黒ずんだ乳首を無理やり紘一の口に押しつけた。

 生身の男の感触は久しぶりだった。桐子は時折ブルッとからだを震わせた。


 三


 翌日の日曜日、桐子は西澤修と飲む約束をしていた。三月まで同じ支社にいたので、二人だけで歓迎会をやる予定だ。

 昼過ぎに目覚めた桐子は修に電話を入れた。

「オサムちゃん、今日は早くから飲もうよ。あまり遅くなると月曜に差し支えるからね」

「よかよ。待ち合わせの時間は?」

「私が三時に寮まで迎えに行こうか?」

「なん言いようとか。周りの目があろうが。地理がよう分からんけん、吉祥寺駅の中央口にしようや」

「了解。じゃぁ三時ね」

 修は博多生まれで大阪の国立大学を出ている。博多弁に時折大阪弁が混じる妙な方言を使う。桐子が大阪出身ということもあり、名古屋では二人でよく飲みに出かけた。桐子の唯一親しい男だ。むろんからだは許していない。というよりも修がそういう色事にはまったく興味を示さないのだ。


 時計はもう一時を指していた。

 桐子は早速メイクに取りかかった。いつも、一時間以上はかけて化けるのだ。メイク教室など通ったこともないのだが、腕は見事なものだった。入念に化粧をすると、少し下膨れの頬がすっきりし、決して大きいとはいえない目がパッチリと輝きを帯びるのだ。そして、濡れたように光る口紅で唇をかたどる。縦皺がすーっと消えていった。

「今日のメイクは八十点だな」

 桐子は姿見に向って、胸を隠している黒髪をひと振りした。すでに張りを失った乳房が露わになった。

 そのあとは、下着との格闘が始まる。ガードルで、たるんだ腹の脂肪を無理やり包み込み、脇の下のだぶついた肉を前に寄せて、ブラジャーのカップにつめ込んだ。

「ふぅ~、段々きつくなるなぁ」

 桐子は一段落して煙草をくわえた。しかし気を許すと、いたるところの肉が飛び出してしまいそうだ。

 こんな私じゃなかったのに。からだつき、顔つきは仕方ないにしても、こころの中までこんなに荒んでしまった。三十年前、あのことさえなければ・・・・・・。

 桐子は、引越しのときから開けないでいる一個のダンボール箱を、ただじっと見つめていた。


「おう、待っとった?道に迷わんかったか」

 修はジェイプレの縦縞のボタンダウンに、カーキ色のチノパンをはいて、上からラルフローレンのカーディガンを羽織っていた。背が低くずんぐりしているが、その年代の男の中ではお洒落な方だ。彼は頑なにトラッド派を自称している。

「子どもじゃないのよ。中央口なんてすぐ分かったわ」

 修は目尻を指で軽く押さえた。

「しかし、どげな若い恰好しとうとや」

 桐子は膝上十センチほどのフリルのスカートに、大きなバラの刺繍を縫い込んだジージャンを着ている。長い髪をポニーテールにして、真っ赤なシュシュで飾っていた。

「べつに、オサムちゃんには関係ないじゃない。これくらい若くしとかないと、この美貌は保てないのよ」

「まぁよか。その代わり俺にはひっつくなよ」

「わかったよぅ」桐子はそう言うと、早速修の太い腕にしがみついてきた。

「待てよ、待たんかッ。今、ひっつくなて言うたやろ」

 桐子は駄々っ子のようにイヤイヤをして、更に強く修の腕をつかんだ。


 二人はいくつかの店を物色したあげく、駅のそばのホルモン屋に腰を落ち着けた。

「どや、東京は。大阪出身の桐子には合わんやろう」

 修は丸腸をつつきながら、ビールを旨そうに流し込んだ。

「そんなことないわよ。何だか楽しめそうな予感。でも、大阪と比べるとすべてが地味でちょっとケバさが足りないかもね。フフッー」

 桐子は、直径五センチ以上もあるゴールドリングのピアスを触りながら片目をつむった。

「ところで、うちの支社長、渋くて結構イケルじゃない」

 今まで上司を手玉に取ってきた桐子は、首の関節をボキボキッと鳴らした。

「桐子、またまずいことやらかさんといてくれよ。お前の周りでは、よう奇妙なことが起こるっちゃけん」

 修は分厚いハラミを口に放り込んだ。

「大阪北のこと?」

「それだけやないやろ。福岡の博多に勤務しとるときも、鹿児島でも、噂はぎょうさんある。それに、つい最近の名古屋でもそうやったやないか」

「それは、ぜ~んぶ、う・わ・さ。私は何もしてないよぅ」

 桐子は濃い目のポッピーを一気に飲み干した。

「大阪北のことだって、あれは私のせいじゃないよ」


 四


 梅雨時の激しい雨が降る日だった。桐子がちょうど事務職から営業職に職種変更した年の七月に、あの事件は起こった。

 全国のどの支社にも、入社したての営業社員を集めて、一人前の生保レディーに育てる組織があるのだが、桐子は三十歳で、その「新人社員トレーニングセンター」のトレーナーをやることになった。ちょうどその年、センターにはもう一人、総合職の新入社員が配属された。山田亮司という二十二歳の男だった。四月に入社した彼は本社で二ヶ月の研修を終え、六月に大阪北支社に赴任した。


 山田の歓迎会と称して、センター長の星野、桐子、山田の三人が淀屋橋の居酒屋に集まった。山田が沖縄好きだということもあって、沖縄料理の「かりゆし」という店だった。

「山田君、よく来たね。君のような超エリートが来てくれたら、うちのセンターも百人力だよ。ねぇ成実さん」

 前頭部が見事に禿げ上がり、脂ぎった赤ら顔の星野が目を細めた。

 山田は京都の国立大学を卒業したエリートだ。二年ほど現場を経験して、その後本社の経営企画とか、人事とかに戻る官僚なのだ。

「山田君、私も営業職は今度が初めてなの。ずっと事務職だったから。一緒に頑張ろうね」

 桐子は、アニメに出てくるお姫さまの声で、可愛くしおらしい女を演じた。

「ええ、まぁ」山田は不貞腐れて答えた。

 色白で金縁の眼鏡をかけた顔は、まさに知的で冷酷そうだ。こういう顔が官僚の顔なのかもしれない。下々の私など関係ないのだろう。桐子はそう思った。

「ところで成実さん。貴女も大学は国立ですか」

 その瞬間、桐子は頭の血が沸騰したかのごとく煮えたぎり、頬が赤く染まった。自分でもまったく意識してなかったことで、桐子自身も戸惑い、目を白黒させた。

 このときから、いや、営業の世界に入ってからかもしれない。よく考えてみれば、自分でもとらえどころのない野心と妙なプライドが、徐々に芽生え始めたような気がする。

「男はいつも他人の大学の名を訊く。話題がそれしかないかのように大学の名を訊く。訊いてどうするんだ。すでに卒業した大学を訊いてどうするんだ。屁の突っ張りにでもするのか」桐子は口の奥でブツブツとつぶやいた。

 自分が大学を出ていないことで、大卒に対しては常にコンプレックスを懐いてきた。今年営業職に転じたからには、更にそれが酷くなるのは目に見えている。こころの奥に見え隠れしていたものが、あっという間に山田という男に引きずり出されてしまったのだ。上の学校に行かなかったのは、思い出したくない事情があったのだが、今となってはどうしようもないことだ。自らその話題には触れないようにしてきたし、周囲も気を遣ってくれていたのに・・・・・・。

 桐子はビールをひと口飲んで、かろうじて冷静さを取り戻した。

「わ、私、高卒なんです。高校は城東区の・・・・・・」

 山田が桐子の言葉を遮った。

「高校の名前など結構です。別に私には関係ありませんよ。ふ~ん、そうでしたか」

 山田は軽蔑するような目で桐子を一瞥した。

「そうなんですよ。成実さんは家庭の事情で、高校を出たあと一年後にうちに入社したんです。でも優秀な人でしてねぇ。我々も期待してるところですよ」

 星野は取りなすかのように、揉み手をしながら黄色い歯を見せた。

 私に何を期待してくれているのか知らないけど、先の見えたあんたに期待してもらうことなんてないわ。桐子は聞こえないように舌打ちした。

「ところで社宅はどこですか?」桐子はとっさに話題を変えた。

「京橋の繁華街の方です。でも、どうしてあんなに環境の悪いとこに独身寮があるんですか?おまけに古い。あんなところじゃ、勤労意欲もなくなってしまいますよ」

「あぁ、京橋の独身寮ですか。支社まで近いし、便利でいいとこじゃないですか」

 桐子は例のアニメの声で山田を慰めた。

「実家がある東山と比べたら、あんなとこ・・・・・・」

 山田はフンと鼻を鳴らして、不味そうにゴーヤチャンプルーを摘まんだ。


 それからひと月が過ぎた。

 桐子は大卒の新入社員には負けたくないと、仕事に精を出すのではなく、「いい子振り」に磨きをかけた。社内の人間が「成実さんは本当にいい人ね」という度に、今まで味わったことのない不思議な快感を覚えていった。自分をいい人に見せることで評判を上げて、会社での評価をよくしていこうとしたのだった。

 四月に事務職から営業職に変わったばかりの桐子は、営業の知識も経験もない。ましてや学歴もない状況では、それしか方法が浮かばなかった。少しでも社内の地位を上げて、上位の役職者と懇意になる。それが、桐子のこころの奥に湧き起ったただ一つの目標だった。

 一方、山田は学生時代とは違う生活に慣れようと必死だった。営業という仕事には戸惑うばかりだ。桐子は将来の自分のために、表面上は優しく指導をしていたのだが、こころの中では、「こんなやつが将来私の人事を決める、延いては会社を動かすのか」と強い憤りを感じていた。


 その日の昼、山田の体調が急変した。湿度が百パーセントもあるのでは、と思えるほどの蒸し暑い日だった。営業社員と同行してセンターに戻ったあと、突然彼は倒れたのだ。

 桐子はすぐに、自分の車で山田を救急病院に運んだ。検査の結果、栄養失調に熱中症を併発したということだった。

 独り暮らしを始めて三カ月、山田はろくなものを食べていなかった。加えてこの猛暑、

ついにからだが悲鳴を上げてしまったのだ。桐子は、山田の容体よりも自分の社内での評判を気にして、演技だとは思われないように献身的なふるまいを見せた。


「いやぁ、山田さん、心配しましたよ。ちょっと頑張りすぎたかなぁ」

 星野は、病室のベッドで点滴をしている山田に声をかけた。

「もう大丈夫です。夕方には自宅に戻れるようです」

 憔悴しきっている山田に代わって、桐子が答えた。

「成実さん、ありがとう。君がいなかったら大変なことになってたよ」

「私がついてますから、センター長はセンターに戻ってください。夕方、彼を寮に送り届けます」

「そうか、すまないね。それじゃぁ、何かあったら連絡くださいよ」

 センターに戻っても仕事なんかないくせに、この役立たず。桐子はこころの中とは裏腹に、ニッコリと微笑みを返した。

 そのあと、桐子は病院で甲斐甲斐しく働いた。二、三時間の間に、嘔吐物で汚れたシャツをクリーニングに出し、代りのシャツを量販店で買い求め、更に薬局に寄ってアイスノンと栄養剤を仕入れた。そして何よりも、そのことを看護師たちに吹聴することを忘れなかった。

 何でこんなやつにこんなことまで、と思いながらも、周りの評判のために必要以上にからだと口を動かした。

夕方になると山田の体調もだいぶ回復した。

本当は、鬱陶しいからもう二、三日入院すればいいのに、と思ったのだが、救急病棟ではそうもいかない。やむなく、笑みを絶やさないように作り笑いを浮かべて、山田を寮まで送る準備を始めた。


京橋の独身寮は、雨に濡れてひっそりとしていた。

まだ夕方の六時、建物に面した駐車場には車は一台もなかった。当然だが、帰宅している社員は一人もいないのだろう。古い木造の寮は二階建て、全部で八部屋ある。古くなったアパートを建て直すつもりで会社が購入したのだが、この不況下で取り壊しの目処さえ立たず、とりあえず独身寮として使用していた。穴が開いた雨樋からは雨水が漏れて、錆びた鉄の階段を流れ落ちている。

車を降りた桐子は傘を広げながら山田に尋ねた。

「山田君、部屋はどこなの?」

「二階の一番手前です。すみません」

 桐子の手厚い看護に、少しは申しわけないと思っているのか、さすがの山田も今日はしおらしい。

「鍵はどこ?」桐子は雨音に負けないように大きな声で訊いた。

「これです」山田はずぶ濡れになった背広のポケットから鍵を取り出した。手には魚の形をした大きなキーホルダーが握られていた。

 鍵を受け取ると、雨と風に打たれて歪む桐子の顔が、更に険しさを増した。そして唇は死人のように色を失っていた。

「あっ・・・・・・、気をつけて。ゆ、ゆっくりよ。荷物はあとで降ろすから」

桐子の声は老婆のように掠れて、かすかに震えた。しかし、その声は激しい雨音にかき消されてしまった。雨脚が強さを増していく。ザァァーッという雨の音以外には何も聞こえない。

 桐子は階段の下まで来ると、山田の手を取った。

 階段は雨で滑りやすくなっている。桐子は慎重に一段ずつ上っていった。山田は桐子に手を引かれ、気だるそうについていく。

 階段の上まで来ると、桐子は軽く息を吐いて立ち止まった。雨に濡れて額にべったりと張りついた前髪を、何度もかき上げている。

するとうしろから、一段下にいる山田の手が桐子の右肩をつかんだ。

 あッ!と思った瞬間、山田の腕が肩を滑り、その手が左の乳房に触れた。そして桐子に覆いかぶさるように、上背のある山田の体重が背中にのしかかった。

「あうぅー」真っ赤な傘が宙を舞った。

桐子は雨を切りさくように、うしろに立つ山田を思い切り蹴り上げた。どこを蹴ったのかは分からなかった。山田はもんどり打って転がり落ちた。

ゴン、ゴン、ゴン、と鉄に頭を打ちつける音がした、と思ったら、最後には駐車場のコンクリートの上で、グシャッという断末魔のような鈍い音を響かせた。

桐子は二階の踊り場で、山田に背を向けたまま、息を殺して立ちすくんでいた。ふと足元を見ると、右の靴がなかった。

ゆっくり振り返ると、駐車場に山田は転がっていた。アスファルトの上に瞬く間に血が広がっていく。雨で流されまいと、おびただしい量の血が辺りを占領した。

桐子は目を凝らして赤い靴を探した。すると血溜まりの中に何かが見えた。靴は血の色に同化して石榴色に染まっていた。


ほんの少し間があったのだろうか、今となってはよく憶えていない。いや、思い出せない。

車のエンジン音が大きくなってきた。すると一台の車が桐子の車のうしろをふさいだ。

中から出てきたのは、今年大阪北支社に転勤してきた、山田の同期「藤田紘一」だった。

藤田は無言で、石榴のように割れた山田の頭をじっと見た。そして、駐車場から二階の桐子を見上げて言った。

「どうしてここに、・・・・・・成実さんの靴があるんですか?」


 山田が何をしようとしたのか、偶然そうなったのかは、まったく分からない。自分に殺意があったのか、なかったのか、も・・・・・・。

 ただ、「人は簡単に死ぬ。そして、簡単に殺せる」桐子はそのことだけをこころに刻み込んだ。

 結局、山田の死は事故として処理された。

 そして翌年、成実桐子はセンター長に昇格した。


「桐子、なんぼ~っとしとうとか。もちっと飲まにゃぁ」

 修はジュージューと焼けるテッチャンを摘まんだ。

「ごめん、ごめん。やっぱ疲れが溜まってんのよ」

 桐子も焼けたアカセンを頬張った。

「うっま~い。オサムちゃんこれ美味しいよ。食べて、食べて」

「おう、どれどれ。ホンマやなぁ」

「でしょう。この店結構いけてるね。大阪に負けないかもよ」

 桐子はわずかに捲れた唇を軽く拭って、焼酎のサイダー割を二つ注文した。

「ところで桐子、昨日の会議でお前がしゃべった内容、憶えとうか?」

 修がかしこまって訊いた。

「ぜ~んぜん」桐子は素っ気ない態度で、センマイの味噌和えを口に放り込んだ。

「お前なぁ、昨日の挨拶で、俺と勤続が一緒やて言うたやろ?よう考えてみい。俺より桐子の方が一年長いはずや。俺が五十二、桐子が四十九、桐子が高校出て入社したんなら、そういう計算になるやろ」

「オサムちゃん、何細かいことにこだわってるの?」

「別にこだわっとうわけやないけど、俺が一番ジジイみたいで嫌や。どういうことや?」

 桐子は頬が桜色に染まっている。化粧が少し剥げてきたのか、目元の小皺がリアルに見え始めた。

「あのさぁ、私、高校卒業したあと・・・・・・、事情があって一年遊んでたの。言っとくけど悪い遊びじゃないわよ」

 桐子は硬い笑いを浮かべた。

「そうか?停学にでもなって、卒業でけんかったんとちゃうか?」

 修は半分になったサイダー割を飲み干した。

「違う、違う。私こう見えても結構まじめだったのよ。色々あったんだから」

「ほな、やっぱ俺の勤続年数と同じちゅうことか」

 修は目を細めてわずかに首をひねった。

 桐子はそれ以上、話にはのってこなかった。そして嫌な過去を忘れるためなのか、かなりの量の酒を飲んでいた。

 何か奥歯にものが挟まったような言い方が妙に気になったが、修は嫌な顔もせずに桐子の愚痴にとことん付き合った。


 好きな酒がやけに重くなり始めて、修はふと我に返った。店に来てから何時間経ったのだろうか。壁の時計を見ると針は九時を指していた。

「おう、もうこんな時間や」

 修はふらふらしながら席を立った。

「桐子ぅ、もう・・・・・・、もうそろそろ帰ろうや」

 修は呂律が回っていない。

「まだまだよ、柔なこと言わないでよぅ」

「桐子ぅ。もうこれ以上はダメばい」

「ふんッ、弱い男は嫌いよッ」

繰り返し注意する修を無視して、桐子は少し先にある「ハモニカ横丁」に消えていった。


 午前零時。遠くでうなるような風の音が聞こえる。

 薄灯りの下、桐子は地味な柄の座布団に正座した。

 ゆっくりと黒い涙がこぼれ落ちた。マスカラで汚れた目は深く窪んだように見える。

桐子はおもむろに、ただ一つ開けずにおいたダンボール箱の蓋を開けた。そして丸めた新聞紙を探ると、黒い箱のようなものを丁寧に取り出した。

 縦横三十センチ、深さ二十センチほどの木箱だ。漆をぬったかのように艶やかな光沢を帯びている。

 桐子は簡素なテーブルを北側の壁に据え、その上に空洞を手前にして木箱をのせた。

「暗かったでしょう。ごめんなさいね」

 今度はダンボール箱から、白いハンカチで包まれた板のようなものを丁寧に取り出した。

 蒲鉾板の形をした黒いものは・・・・・・、位牌だった。

「まゆちゃん、寂しかったわねぇ」

 桐子は位牌を顔に近づけて、何度も何度も頬ずりした。

 すると今度は、仏壇に見立てているのか、黒い木箱にゆっくりと位牌を納めた。

湿ったマッチを擦る音が、気味悪く「ジュバッ」と何度も響いた。

 青白い炎が桐子の影を揺らす。

「まゆちゃん、きっと見つけてあげるからね。もう少しの辛抱よ」

 桐子の目にもう涙はなかった。ただ、窪んだ目の下には、ピエロの舞台化粧のような黒い涙の痕が、ろうそくの淡い灯りに照らし出されていた。


 五


「どうだ?彼女の仕事ぶりは」

人事課長の篠田正樹は智明の顔を覗いた。

「うん。少し強引なところもあるようだけど、それ以外は特に」

「そうか、まだ大丈夫か・・・・・・」

 正樹は智明の同期で、現在人事課長をしている。

智明とは見た目は正反対。色白で、度の強い眼鏡が似合うインテリ顔をしている。冷ややかな薄い唇が印象的だ。

五月の連休明けに、二人は本社最上階の喫茶室で久しぶりに会っていた。

「色々な噂があったとは聞いてるけど、今のところは何もないよ」

「うん。それならいい」正樹は右頬だけでニヤリと笑った。

「奥歯にものの挟まったような言い方をされると、何か気になるなぁ」

「別に、今問題がなければそれでいいんだ」

「それが気になるんだよ」

 智明は、今度の人事に妙な違和感を覚えていた。

「噂の内容は知っているのか?」

 正樹は煙草に火をつけて深く吸い込んだ。

「少しは聞いてるけど・・・・・・、噂だからなぁ」

「どのへんまで知っているんだ?」

「彼女の周りで色々な事件、いや、事故かな。そんなことがあったってことは聞いてるよ」

 智明は少し顔を歪めて腕を組んだ。

「彼女が異動する度に、転勤先で事故が起こっているんだ。でも刑事事件でも何でもないからなぁ、噂の域を出ないんだよ」

「どんなことが起こったんだ?」

「うん。でもこれを言うと・・・・・・、まさに誹謗中傷だ」

 正樹は眼鏡を取って、軽く眉間を押さえた。

「正樹、じゃぁ何でうちの支社によこしたんだ、成実を。俺がいるからよこしたのか?俺に任せればいいと思ったのか?」

「いや、たまたまだ」

「本音は違うだろう。同期の俺がいたら、ことが起こったときに対応がし易いからだろう。図星じゃないか?」

 正樹はいくぶん頬を紅潮させたあと、わずかに目をふせた。

「まぁ、そういう意図がなかった、と言えば嘘になるけどな」

「それなら、当該支社の業務部長に中身を教えろよッ。何か起こったときに、俺が知らなかったんじゃ話にならないだろう。そうじゃないかッ」

「分かったよ。そんなに大きな声を出すな。ここじゃまずいから、今夜また会おう」

「じゃぁ、久しぶりに自由が丘に行こう。内緒話するのにいい店があるんだ」

 智明はやっと白い歯を見せて笑った。


 六


自由が丘駅前の脇道を二十メートルほど入ったところに店はある。角を曲がると「うな坂」と書かれた提灯が見えた。すでに辺りには鰻を焼く香ばしい匂いが立ち込めていた。

「聞かれたくない話をするときは、かえってこんな店がいいんだよ」

 二人は、二十人も座ればいっぱいになるコの字型のカウンターに座った。

テーブルは一卓もなく、メニューも驚くほど少ない。酒は、瓶ビール、日本酒、焼酎のみ、それも銘柄は一つ。食べ物も鰻の串焼きが数種類だけだ。

「おやじさん、ビールと、『白焼き』『きも』『かしら』二本ずつね」

 正樹は目を丸くしている。

「自由が丘にも、こんな懐かしい雰囲気の店があるんだな」

「いい店だろう、飾りがなくて。学生時代から通ってるんだ」

 智明は二つのグラスにビールを注いだ。

「ところで、お前も人事畑が長くなったなぁ」

「一度だけ現場に出たことがあるけど、通算するともう十五年になるかなぁ」

 正樹は白焼きに山葵をたっぷりとぬって口に運んだ。

「旨いなぁ、これ」

「そうだろう。店は古くてちょっとだけど、味と値段は折り紙つきだよ」

 智明も山椒を振りかけて、かしらを口いっぱいに頬張った。

「ところでさっきの件だけど、もう少し詳しく教えてくれよ」

 正樹は口元をわずかに引きつらせた。

「あぁ。でも、ここだけの話にしてくれよ」

「当然だよ」智明は首を大きく縦に振った。

「彼女の周りで起こった不可解なことは、俺が知っている限りでは四件ある」

 正樹は声を抑えて話し始めた。

 たぶんその四件がすべてだろう。正樹には申しわけないが、社員の悪事ばかりを探すのが人事だ。その人事が言うのなら間違いない。智明はそう思った。

「まず、大阪北で起こった事件だろう?」

「そうだ。あれは、俺も入社した翌年で地方にいたから、人事の先輩から聞いた話なんだけど、警察はかなりしつこかったらしいな。有名な話だからお前も知っているだろう。死んだのは『山田亮司』という新入社員だ」

「寮の階段から誤って落ちた、と聞いてるよ」

 正樹は静かに眼鏡をはずした。

「うん。一般的にはそう言われているけど・・・・・・。当時山田は、睡眠も食事もろくに取れずに栄養失調になっていたんだ。これは医者の診断書で明らかだ。その原因が成実桐子にあった、ということが同僚の間では真しやかに囁かれている。二十年近く経った今でもだ。『山田と肉体関係を持った上で、自分の仕事のほとんどを押しつけ、大阪での慣れない暮しに助言もしない。更には、新入社員にとって過酷なクレームまでも担当させる。そうすることで、山田は仕事に嫌気がさして会社を辞める。結果的に、センターの優秀なスタッフが一人減り、残された自分がクローズアップされる。だから出世のためにそう仕向けた』これが彼女に対する風評だ。山田は会社を辞める前に死亡退職したけどね。風評は当たらずとも遠からず、ってところかな。彼女が山田を寮まで送ったとき、そこで何があったかは知らないけど、寮の階段で彼は足を滑らせた。そして階段から落下したあげく、頭を強く打って死んだ。ただ検死の結果、なぜか膝にも骨が陥没するほどの酷い打撲痕が残っていたんだ。落下しただけではできない傷だったらしいよ。だから、それが人為的なものだ、と彼女は疑われた。周囲の人間は、彼女が山田を蹴落としたときのヒールの跡だ。そう言っているんだけどね。結局、警察は証拠がないことを理由に事故として処理したんだ。以上が大阪北の事故のあらましだ」

 正樹はビールが空になったことに気づいて、今度は冷酒を注文した。

 おやじさんは、グラスの下の受け皿から溢れるほどに、酒を気前よく注いでくれた。

「そうなのか、事件は闇に葬られたんだ・・・・・・」

「そういうことだ。でも証拠がない。証拠がない以上彼女は白だ」

「でも、それから彼女は、とんとん拍子に出世していったんだろう?」

 智明は正樹の顔を覗き込んだ。

「う~ん。それは偶然かもしれないよ」

 正樹が嘘を吐いたときの癖だ、鼻の頭を何度も人差し指で掻いた。

「ただ彼女は十九歳から事務員をやっていたんだけど、二十代の後半から、大阪北に出張してくる役員とか、部長クラスの人間と親密にしていたらしいよ。自分は事務員で転勤がないから、飛び込んでくる役職者を捕まえては親交を重ねていた。ときには、彼らに会うために休みを取って上京した。だから、コネで出世の道も開けた、と言われているんだ。実際に見たわけじゃないから、真偽についてはよく分からない。でも、成実のことを知っている人間は、今でも彼女のことを、『ウツボカズラ』と呼んでいるんだよ」

「ふんッ」正樹はうんざりしたように、鼻を鳴らした。

「その『ウツボカズラ』って?」

 智明は聞き慣れない植物名に首をかしげた。

「壺のような補虫器を持っている『食虫植物』だよ」

「あぁ、教科書で見たことがある。でも、例えが陰湿だな」

 智明は一瞬顔をしかめた。

「智明、ところで灰皿はどこにあるんだ」

 正樹は遠慮がちに小声で尋ねた。

 とっさにおやじさんが口を出してきた。

「うちは、酒と鰻以外にはよけいなものを置いてないんですよ。灰皿は床を使ってください。ゴミも捨ててもらって結構ですよ。どっちみち、店を閉めたら一斉に水を流して床の掃除をしますから」

 おやじさんは額から汗を垂らしながら、酒焼けした真っ赤な顔を綻ばせた。

「鷹揚に構えているなぁ、この店は」

 正樹は冷酒を一気に飲み干して、口元を緩めた。

 二人は何を回想しているのか、しばらくの間黙って酒を飲み続けた。


「次の博多の件はどうなんだ?」

 思い出したように、突然智明が口を開いた。

「博多の件かー。これもやっかいだったよ。博多は彼女が営業所長として赴任した初めての場所だ。赴任先は西博多営業所というところだった。営業所の規模はかなりのもので、内勤のスタッフを一人抱えていた。初陣で大きな営業所の所長になることはまずないんだけど、大阪北の支社長、これがまた強引でなぁ。人事に口を挿んできて大変だった。結局、とんでもない、という俺たち部下の意見は無視され、当時人事課長だった小西がその無謀な人事を呑みやがった。そのあとだ、成実が大阪北の支社長とできている、という話が伝わってきたのは・・・・・・。更にちょうどそのころ、小西がたまたま大阪北支社に出張したんだけど、小西とも関係がある、っていう噂も広がったよ。彼女はすでに出世のためには手段を選ばなくなっていたんだろうなぁ」

正樹はおしんこを摘まみながら淡々と話した。

「それが女王さまたる所以だな」

智明は、また苦々しい表情を浮かべて冷酒を飲み干した。

「でも・・・・・・、それが事件のすべてじゃないだろう?」

「智明、お前話の結末まで知っているのか?」

「だって、そんな話・・・・・・。男と女の話なんて山ほどあるからなぁ、うちの会社には」

「うっ・・・・・・」人事課長の正樹としては、答えようがなかった。

「当然その続きがあるよ。当時、西博多営業所には彼女より四つ年上の男性スッタフがいたんだけど、その彼が一年後に自殺したんだ。遺書はなかった。彼は沖縄出身でさぁ、高校を出たあと、事務職として大阪本社に入社したんだよ。五年間大阪北にいて、彼女の入社とは入れ替わりで福岡支社に転勤したんだ。そのあとは福岡支社で、結構長かったよなぁ、彼女が赴任してくる直前まで事務職をしていた。なのにその年、営業職に変わったんだ。男が事務職を続けていても先が見えている、と悟ったんだと思うよ。彼の異動は支社内異動で、何と、彼女が赴任する西博多営業所だったんだ」

 正樹は少し疲れたのか、じっと目を閉じて煙草を深く吸い込んだ。

「その営業所で何が起こったんだ?」

 智明は額の汗を拭きながら焦って訊いた。

「そうだよな、問題はそのあとだ」

「焦らさずに話せよ。お前はすべて知ってんだろう?」

「うん。でもよくある話だよ」

 正樹はもったいぶって、ゆっくりと冷酒のグラスを口に運んだ。

「この店の酒、旨いよなぁ」

 智明は赤い目で正樹を睨んだ。

「決めたなら早く話せよッ。一人で余裕もってどうすんだッ」

「そういう言い方するなよ。俺だって人事の人間だ。無理して話しているんだぞッ」

「分かってるよ」智明は軽く目を逸らした。

 このまま正樹を怒らせては情報が途絶えてしまう。智明はすぐに正樹に詫びた。

「すまん。人事課長というお前の立場をわきまえてなかったな」

「分かってくれればいいよ」

 正樹は声のトーンを極端に落とした。

「二人は同じ営業所で仕事をすることになったんだけど、彼女は昇格して慢心があったのかもしれない。加えて自分が偉くなったと勘違いしていたんだろうな。そのスタッフを土日も休ませずに働かせたようなんだ。自分はしっかりと休みを取っても、彼には許さなかった。年下といえども彼女は上司だ、彼も命令に従わざるを得なかったんだろうな。お前も当然分かっていると思うけど、今の時代の保険営業なんて、土日に営業しないとお客には会えないよな。でも、管理者は土日出勤の代休を必ず与えなければならない。それなのに、彼女は代休も与えずに、まだのんびりとした時代の田舎で、毎週土日出勤をさせていたんだ。考えたら鬼の上司だよ。その上コンプライアンスなんか完全に無視。そのスタッフに単独で保険の募集をさせて、営業社員が自ら募集したように操作していたんだよ。要するに付績していたんだな。当然、自己募集の契約を他人の成績にすることは、金融庁への届け出事故で、本人には重い懲戒処分が科せられる」

 そこまで話すと、正樹は煙草に火をつけてゆっくりとふかした。そして冷酒で喉を潤おすと、今度は更に小さな声で話し始めた。

「そのあと、その悪事は告発により発覚したんだ。彼女は、一切関知していない、と言い張って、処分内容は監督不行届きによるただの人事部長注意だった。でも・・・・・・、彼は減給、降格。酷い処分だった。そうなると、社内じゃ十年間は日の目を見ないよ。更に追い討ちをかけるように、支社内異動で対馬に飛ばされたんだ。それから間もなくして、彼はマンションの屋上から飛び降りて死んだよ・・・・・・。部下を踏み台にするとはまさにこのことだ」

 正樹は口元を歪めて大きく息を吐いた。

「そうだったのか・・・・・・。でも、彼女にはスタッフを異動させる権限なんてないよな」

 智明は冷酒をひと口飲んで首をひねった。

「当然さ。そのときも、福岡の支社長と太いパイプを作っていたんだよ。抜かりないやつだよ、成実っていう女は」

「で、そのあとのスタッフは?」

「後任はそれこそ優秀なやつだった。女好きの小西がまた絡んでいたんだよ。俺たち人事部員は虚仮にされたというわけさ」

 正樹は、今度はグラスいっぱいの冷酒を一気に飲み干し、ふう~っと腹の底から息を吐き出した。

「それで、また業績をグングン伸ばしたんだ」

 智明はカウンターに上半身をかぶせて、横に座る正樹を覗きこんだ。

「そのとおりだ。そこから彼女の躍進が始まった、と言われているよ。社内では有名な話だ」

「そうか・・・・・・、彼女が指示したという証拠は見つからなかったのか。というより自認しなかったんだ。酷い女だな」

 すると、正樹は半身に構えて智明の方にからだを向けた。

「智明、よく聞けよ。その密告者は誰だと思う?」

「う~ん・・・・・・。同じ営業所の営業社員か、事務員だろう?」

「はずれだー。それが・・・・・・、彼女自身だったようなんだ。夜の八時ころ、事務員が忘れ物を取りに営業所に戻ると、隣の部屋から彼女の声が聞こえたらしいよ。夜の十二時まで受け付けをしているお客様相談室に電話をしている彼女の声がね・・・・・・。その夜、彼女は接待で出かけることになっていたようだけど、事務員は予定が変わったんだろうと思い、じっと聞き耳を立てていたらしい。お客様相談室のオペレーターは、可愛らしいアニメ声を、西博多営業所長の声だと特定できるわけがない。『スタッフの仲里良治が不正を働いているんです。自分で保険を募集して、それを勝手に営業社員の成績に回しているようです。調査してください』そう言って告発していたようなんだ。その事務員も彼女のことを人事に報告したらしいけど・・・・・・。そのとき、直接成実の顔を見たわけじゃないからな。証拠がなかった。でも、もしかしたら接待で不在の成実に代って誰かが・・・・・・、身代わりで電話をしたのかもな。結局、仲里は不正を認めたけど、彼女は頑として認めなかった。大した女だよ。翌月、その事務員は交通事故で重傷を負って入院したんだ。そのあげくに、辞めたのか辞めさせられたのかははっきりしないけど、休職のまま半年後に退職したよ」

 正樹は天井に向けて大きなため息を吐いた。

「それが、昔の人事記録に残っているんだ」

「そうだったのか・・・・・・、そこまでやる女だったんだ。とんでもないやつだ。でも、そんなふうには見えないけどな」

 智明は信じられないのか、信じたくないのか、渋い顔で冷酒を呷った。

「どうだ、智明。もうこんなところでいいだろう?」

 正樹は煙草を深く吸い込むと、首を前に落として強く煙を吐き出した。

 智明は赤い目で正樹をじっと見つめた。

「悪いけど・・・・・・、もうひとつだけ教えてくれ、頼むッ。鹿児島の事件の真相は?」

「もういいだろう、今度にしようよ」

「それはないだろう。ここまで話してくれたんだから、最後にそれだけ頼むよ」

智明は何かに憑かれたかのように、次の事件の真相に思いを馳せた。

なぜなら、今しがた聞いた二つの事件の内容に、妙な共通点を発見したからだ。


 正樹は思い出すことに疲れてしまったのだろう、指で眉間を何度も押さえている。

「鹿児島支社のことか・・・・・・」

 正樹は大きなため息を吐いて、冷酒のお代りを注文した。

「鹿児島のことはお前も知っているんだろう?」

「少しはね。新聞に出てたからな。彼女の友人が旅行先で死んだんだよな」

「そうだよ。警察沙汰になったから、社内の人間なら大まかなことは知っているさ」

「でも詳しいことは・・・・・・。だから教えてくれよ」

「言っとくけど、俺が実際に見たわけじゃないからな」

「分かってるよ。お前が知ってる範囲でいいよ」

「智明、お前本当にしつこいよな」

 智明はその言葉を無視して、口を真一文字に結んだ。

「鹿児島の被害者、いや事故に遭遇した社員は、支社で法人部長をしていた『飯田遼二』という男だ。鹿児島の霧島営業所というところに転勤した彼女は、ちょうど四十四歳。五歳年上の飯田と半年ほど付き合ったあと、結婚を考えたらしいよ。飯田も大阪で勤務したことがあって、彼女と急速に親しくなったようだ。言っとくけど、当時の噂によるとだよ」

「そんなこと、言われなくても分かってるよッ」

 智明は気持ちがはやるのか、カタカタと貧乏ゆすりを始めた。

「赴任二年目の夏季休暇に、二人で奄美大島にいったときに、その事件は起こったんだよ」

 正樹は面倒臭いのか、口調が少しつっけんどんになってきた。いや、人事の人間として、自ら担当した忌まわしい事件を思い出したくないのかもしれない。

「飯田は昔から島が好きで、特に南の島によく旅行していたようなんだ」

「やっぱりな・・・・・・」智明は大きくうなずいた。

「何がやっぱりだッ」正樹は口を尖らせた。

「いや、何でもない。続きを頼む」

 智明は顔の前で両手を合わせた。

「それで海が好きな彼女と気が合って、二人でスクーバダイビングのライセンスを取ろう、ということになったらしい。ライセンスを取るために、わざわざ奄美大島まで行ったんだよ。三日間で取得したあと、滞在最後の四日目だった。飯田は、大島からフェリーで二十分ほどのところにある加計呂麻島の海に浮いていたんだ」

「ということは、死んでたんだー」智明は膝を両手で押さえて、貧乏ゆすりをやめた。

「そうだよ。俺が飯田の母親を連れて現地まで行ったから、詳細まで憶えているよ。悲惨な事件だったよな、あれは・・・・・・」

 正樹は煙草を深く吸うと、上を向いて一点を見つめた。

「・・・・・・警察から聞いたことを話してあげるよ」

 正樹は視線を元に戻して、吸いかけの煙草を床に捨てた。

「二人は、ライセンスを取ったばかりの四日目に、二人だけでダイビングをしよう、と大島からすぐの加計呂麻島に渡ったんだ。彼女によると、飯田が無理に誘ったようだけど、本当はどうだか。どちらにしても、ライセンスを取ったばかりでまだ素人同然だよ。二人だけで潜るのは無茶な話だ」

 正樹はグラスに三分の一ほど残った冷酒を飲み干した。

「彼女は事情聴取で、警察にこう言ったらしい」

『お昼過ぎに、安脚場西というダイビングスポットに潜った。十五分くらい経ったところで、五メートルほど先を泳いでいた彼は、レギュレーターの調子が悪くなったのか、BCジャケットをはずして何やらタンクを触り始めた。しばらくすると、何もなかったかのようにまたタンクを背負って更に深く潜っていった。その日は透視度が悪く、私は彼を見失ってしまった。そのあと急に怖くなって、すぐに浮上してボートに戻った。でも飯田は浮上してこなかった』

「そう言ったんだってよ。それしか憶えていないってね」

「じゃぁ、やっぱり事故だったんだ」

 智明は正樹のグラスを指差して、おやじさんに酒を注文した。

「でも、警察はそうは見ていなかった。残圧計を確認すると、飯田のタンクは四分の一ほどのエアが使われただけだった。二人のタンクには、通常なら一時間くらい潜水できるエアがつめてあったそうだ。彼女、成実のエアも四分の一しか減っていなかった。それに、飯田が引き上げられたとき、彼のタンクのバルブは閉まっていたそうだ」

「と、いうことは・・・・・・」

 智明は目を閉じてじっと考えてみた。

「考えることないさ。飯田が更に深く潜っていったなんてことは真っ赤な嘘だ。もしそうだとしたら、タンクのエアはもう少し減っていたはずだ。それに男性の方が女性よりエアの消費が早い。成実の言うことが真実なら、飯田のエアは三分の一以上減少しているはずだよ。要するに、潜って十五分ほど経ったところで、誰かが飯田のタンクのバルブを閉めたんだ。水中で背後から忍び寄ってバルブを閉めたんだよ。バルブは人為的な力じゃないと開け閉めできないんだ。・・・・・・あいつはとんでもないバディーだよ」

 智明は納得顔をしながらも、十分に理解できていない様子だ。

「ちょっと待てよ。上級者のお前と違って、俺はダイビングのことはよく知らないんだ」

 智明はわずかに口を尖らせた。

「ごめん、そうだったよな。少し説明するよ。エアタンクの上部には、エアを出すためのバルブがついているんだ。潜る前に、閉まっているバルブをいったん全開にしてまた少し戻す。こうしてエアが出る状態にセッティングするんだ。開け切ったままバルブを止めていると、次にバルブに触れたときに、開いているのか閉まっているのか分からなくなるからなんだ。そのタンクを背負って水中に潜るんだよ。だからエアを出すためのバルブは命綱と言ってもいい。それで潜る前後には、必ずバルブを確認することになっているんだ。そしてタンクのエアは、エアチューブを通じて口にくわえたレギュレーターに流れる。だから水の中でも空気が吸えるというわけさ。もし水中で、うしろから誰かがタンクのバルブを閉めたとしたら、エアの供給が止まってしまう。つまり空気が吸えなくなる。でも水中で自然にバルブが閉まるなんてことはまずあり得ない。万一何らかの手が加えられ、バルブが閉まって突然エアの供給が止まったとしたら・・・・・・、上級ライセンスを持っている俺だって、パニックになって窒息死してしまうよ。それくらいダイビングは危険と隣り合わせなんだ」

「へぇー、そうなのか」

 智明は目を丸くして何度もうなずいた。

「それに、ダイビングをするときは、普通はペアで潜るんだ。お互いをバディーと呼んでいる。そのバディーっていうのは、水中でお互いの安全を確認しながら助け合う義務を負っているんだ。そのためにレギュレーターは背中から二本伸びている。一本は自分のために。もう一本は『オクトパス』と呼ばれていて、予備のレギュレーターだ。バディーのエアが切れたり、何らかのアクシデントでエアが吸えなくなったときに、自分のエアをバディーに吸わせるために使うんだ。もし飯田の器具にトラブルが起こったら、彼女は自分の『オクトパス』で、彼にエアを吸わせる義務があるんだよ。それなのに・・・・・・」

 スクーバダイビングというスポーツを完全に冒涜された、と正樹は今でも思っている。悔しそうな顔をして、吸い口に歯型のついた煙草を床に叩きつけた。

「要するに、彼女はバディーとして飯田を助ける行動も起こさなかったし、ひょっとしたら、タンクのバルブを閉めた可能性もあるんだ。そういうことだろう?正樹」

「そのとおりだ」

智明は納得顔で口を真一文字に結んだ。

「それを警察も疑ったんだ。でも・・・・・・、エアの減り具合は、水中での運動の度合や、体調、水温などによっても異なる。一概に、飯田が十五分後にエアを吸えなくなって死んだとは言えない。死亡推定時刻も一時間ほどの幅があるから、潜り始めて十五分後だとはとても推定できなかった。その上バルブには指紋など残っているはずもない。結局、状況証拠もあやふや、ましてや物的証拠など何も残っていなかった」

「じゃぁ、バルブを閉めたのは誰だ」

智明は、一瞬右頬をピクつかせた。

「俺が訊きたいよ。彼女は、飯田がマリッジブルーになっていて、タンクのバルブを自ら閉めて、深く潜水していったんじゃないか、って言っていたそうだ。飯田は島が好きだから、死に場所をエメラルドブルーの海にしたかったんじゃないか、ってね」

 正樹は、人を小馬鹿にするような目をして笑った。

「自殺ということか?」

「結果的には、警察の見解はそういうことだ。手帳の走り書きが遺書だと認定されたんだよ。飯田の手帳には結婚に対する不安が綴られていたよ。俺もそれを見た。でも・・・・・・、五十になった男が、初めて結婚する恥じらい。言い換えれば、結婚への戸惑いをメモ書きしたようなものだった。あの歳で、美人で肉感的な女と結婚するんだからな。幸せの絶頂の中、今までもてたことのない男が成実に対して疑心暗鬼になるのは当然のことだ。飯田に自殺する理由なんてないよ。結婚が決まろうとしていたんだぞ。それも、婚前旅行で行った綺麗な海で死ぬやつなんているか?あの走り書きは遺書なんかじゃないッ」

 正樹は落とした声のトーンを急に上げた。

「そうだとしたら犯行の動機は何だ」

「それが分からないから事件にならなかったんだよ。飯田の死亡保険金の受取人は母親のままだったし、飯田にはほかに付き合っている女もいなかった。当然借金もない。ましてや、大阪に二人のマンションまで買おうとしていたんだぞ。殺される理由もないし、自殺する理由もないッ」

 智明はゆっくりと顔を上げた。

「でも、状況から考えるとやっぱり自殺だろう」

「いや違う。俺は現場に行ったんだけど、世界的にも有名な本当に綺麗な海だ。あれほど透明度の高い海は見たことがない。色鮮やかな熱帯魚が、波打ち際で跳ねるように泳いでいるんだ。人はあんなに綺麗な海で自殺なんてしない。絶対に自死など選ばない。だから彼女が殺したとしか思えないんだよ・・・・・・」

 正樹はきっぱりと言い切った。

「その根拠は?」

「何もない。でも・・・・・・、水中で飯田のタンクのバルブを閉めることができたのは、彼のそばにいた人間だけだ」

 正樹は煙草を深く吸って、肩で大きな息を吐いた。


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