特に用はないのだけど
「特に用はないのだけど」というのが、彼が電話をしてきたときの口癖だった。話は本当に取りとめのないことばかりで、しかも途中で話題が尽きてしまうため、最後はいつも私が話し、彼は聞き役にまわるのだった。
その日も、いつもと同じだった。彼の「特に用はないのだけど」からはじまり、私が話し、彼が聞き役にまわる。しかし、私は違和感を覚えた。彼の相槌が少ないのだ。そのせいで会話に不自然な間ができていた。私は耐えられなくなり彼に尋ねた。
「どうしたの? 体調でも悪いの?」
しかし彼は黙ったままだった。
「ねえ、大丈夫?」彼はおしゃべりな方ではないが、無口なタイプではない。こんな風に会話がぎこちなくなることはこれまでなかった。もしかして彼に何かをいいづらいことがあるのではないかと思った。そう思うと私の頭の中にひとつの最悪な想像が浮かんだ。
『別れ話』
彼の仕事の関係で遠距離になって一年半、それは目に見えないものまでも遠い距離にしまったのかもしれなかった。まだ決まったわけではないのに、彼から別れ話を告げられるのではないかと思うと、急に涙が出てきた。我慢しようとしたが駄目だった。確かに私たちはケンカもする、いいことばかりではない、けれども私は彼のことが好きなのだ。
電話越しに私の異変を感じたのか、今度は彼が尋ねてきた。
「どうした?」
私は鼻をすすった。「……何でもない」
「もしかして泣いてるのか?」
「泣いてない」
「そうか……あのさ」私はついにきたと思った。怖かったが彼の一言一句を聞き逃してはいけないと思い、電話を耳に強く押し当てた。「あのさ、俺さ、再来月の四月にそっちに戻ることになったから」
「え?」「それで戻ったら俺と―――」
ドサッ
予想していたことと全く違う状況に気が抜け、私は電話を落としてしまい、慌てて拾った。
「―――んだ。どう?」
「ごめん。電話を落として聞いてなかった。もう一度言って」
「……いや、今度会った時に直接言うわ」
「そう、ならいいけど。それとこっち戻ってくるなら大したことでしょ。なのに何で『特に用はないのだけど』って電話してくる訳?」
「えっ、いやあ、それは……」
「それと前から言いたかったんだけど―――」
私は自分が泣いてしまったことを誤魔化すために、彼に日ごろの不満をぶつけたのだった。