表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/26

春の前の風

朝の風が、少しだけ変わっていた。


まだ寒い。吐く息は白い。けれど、その白さの奥に、どこかやわらかい匂いが混ざっている。


冬の終わりの匂いだ。


時計屋の石段で、ガブは丸くなっている。いつもの場所だが、太陽の当たる角度が、少しだけ高くなっている。


前よりも、長く日が当たる。


ガブは目を細める。


八百屋のおばさんが店先で言う。


「今日は風が違うねえ」


大きなキャベツを箱から出しながら、空を見上げる。


「もうすぐ春だよ」


魚屋の大将は、氷を砕きながら言う。


「まだ寒い」


「そうだけどさ」


おばさんは笑う。


「寒さの中に春が混ざってきたんだよ」


ガブはその会話を聞きながら、前足をゆっくり伸ばす。石段は、前より少しだけあたたかい。


通りを、小学生の列が歩いていく。ランドセルが揺れる。


「もうすぐ春休み!」


一人が叫ぶ。


「いいなあ」


八百屋のおばさんが言う。


ガブは子どもたちの足音を見送る。


そのあと、ゆっくりと立ち上がり、通りを歩き始める。


風が、ふわりと毛を揺らす。


冬の風より軽い。


商店街の奥、喫茶ひだまりの前に来る。扉はもう開いている。女性が外に小さな鉢植えを並べている。


小さな花のつぼみ。


まだ開いていない。


ガブはその前に座る。


女性が気づく。


「おはよう」


しゃがんで、鉢を少し動かす。


「これね、春になったら咲くらしいよ」


ガブは匂いをかぐ。


まだ花の匂いはしない。


土の匂いだけ。


それでも、どこか新しい匂いだ。


昼前になると、日差しがやわらかくなる。商店街の影が短くなる。


時計屋のおじいさんが店の外に出て、腕を伸ばす。


「暖かい」


それだけ言う。


ガブは石段から下りて、日向へ移動する。今日は日なたのほうが気持ちいい。


そのまま、ころんと横になる。


しっぽがゆっくり揺れる。


午後、八百屋のおばさんが小さな箱を出してくる。


「ほら」


中には、菜の花が並んでいる。


黄色い花が、まだ少し固い。


「春の野菜だよ」


通りすがりの人が足を止める。


ガブはその黄色をじっと見る。


太陽の色に似ている。


魚屋の大将も、ちらりと見る。


「春か」


「春だよ」


おばさんは笑う。


夕方になると、空が明るいまま長く残る。冬よりも、暗くなるのが遅い。


商店街の灯りがつく頃、まだ少し青い空が残っている。


ガブは時計屋の石段に戻る。


今日の石は、昨日よりも冷たくない。


遠くで子どもたちの声がする。


「もうすぐ桜だって!」


誰かが言う。


ガブはその言葉の意味を知らない。


けれど、空気が変わっていることは知っている。


冬は静かだった。


春は、少しだけざわざわする。


それでも、商店街の匂いは変わらない。


魚の匂い。

野菜の匂い。

コーヒーの匂い。

古い木の匂い。


そこに、ほんの少しだけ、新しい風が混ざる。


ガブは目を閉じる。


季節は、急がない。


ゆっくりと、通りを歩いてくる。


野良猫ガブは、今日も何もしない。


ただ、春の前の風の中で丸くなっていただけだ。


それだけで、商店街は少しだけ、明るくなる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ