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はじめてのコーヒー

朝の空気は、いつもより少しだけ軽かった。


商店街の真ん中、あの長く閉まっていた店の前に、小さな木の看板が立っている。


「喫茶 ひだまり」


丸い文字で、そう書いてある。


シャッターはもう上がっていて、ガラス越しに白いカーテンが揺れている。中には小さなテーブルが三つ。窓際には観葉植物がひとつ。


そして、ほのかに漂うコーヒーの匂い。


ガブは時計屋の石段から、その様子を見ていた。


目を細め、匂いを確かめる。


魚屋の大将が通りがかりに立ち止まる。


「今日か」


八百屋のおばさんも顔を出す。


「今日だねえ」


店の中では、あの若い女性がカウンターを拭いている。エプロンをきちんと結び直し、深呼吸をひとつ。


扉の札が「OPEN」に裏返る。


からん、と小さな鈴の音。


まだ誰も入っていないのに、女性は少し背筋を伸ばす。


ガブはゆっくり立ち上がり、店の前まで歩いていく。扉のすぐそばには行かない。黒板の横、いつもの距離で座る。


しばらくして、最初の客が現れた。


八百屋のおばさんだった。


「一番乗りかねえ」


そう言って、からん、と扉を押す。


鈴の音が、商店街にこぼれる。


ガブの耳が、ぴくりと動く。


店の中は、まだ少しだけ新しい匂いがする。木の匂いと、洗ったばかりの布の匂い。そして、淹れたてのコーヒー。


「いらっしゃいませ」


女性の声は、少しだけ緊張している。


「おすすめは?」


「ブレンドです」


少し間をおいてから、そう答える。


コーヒー豆を挽く音が響く。


がり、がり。


お湯が落ちる音。


とく、とく、とく。


静かな時間が流れる。


外では魚屋の大将が、何となく店の前を通る。中をちらりと見るが、入らない。その代わり、ガブの横に立つ。


「どうだ」


聞いているわけでもないのに、そう言う。


ガブは動かない。


やがて、店の中から小さな笑い声が聞こえる。


「おいしい」


八百屋のおばさんの声だ。


それを聞いて、女性の肩が少し下がる。


「よかった」


その声は、さっきよりも自然だった。


昼前になると、ぽつりぽつりと客が増える。時計屋のおじいさんも、珍しく店を少し早めに閉めてやってきた。


「コーヒーを」


短い注文。


店の中に、ちく、たく、の代わりに、とく、とく、の音が響く。


ガブは店の外で丸くなっている。扉が開くたび、コーヒーの匂いが濃くなる。


鼻先を少しだけ上げる。


午後三時。


商店街は、やわらかい光に包まれる。


魚屋の大将が、とうとう店の前に立つ。


中をのぞく。


女性と目が合う。


「……ブレンド」


それだけ言って入る。


からん、と鈴が鳴る。


ガブはその音を聞きながら、目を細める。


店の中では、大将が少し落ち着かなさそうに椅子に座っている。カップが置かれる。


湯気が立つ。


大将は一口飲む。


何も言わない。


女性が不安そうに見る。


「……苦くないな」


それだけ。


けれど、悪い顔はしていない。


夕方が近づくころ、店の中は一度だけ満席になった。三つのテーブルがすべて埋まり、カウンターにも人がいる。


大きなにぎわいではない。


けれど、確かな人の気配。


ガブは黒板の前で丸くなり、通りを見ている。


新しい匂いは、もう商店街に馴染み始めている。


魚の匂いと、野菜の匂いと、少し古い木の匂い。


そこに、コーヒーの苦い匂いが混ざる。


どれも、ぶつからない。


夕暮れ。


女性は扉の札を「CLOSE」にひっくり返す。


ふう、と大きく息を吐く。


扉を開けて外に出ると、ガブがすぐそばにいる。


「あ」


しゃがむ。


「ありがとうね」


何に対しての礼なのか、自分でもわかっていないような声。


ガブはじっと見る。


逃げない。


女性はそっと手を伸ばす。


指先が、ガブの背中に触れる。


ほんの一瞬。


ガブは動かない。


それだけで、女性は小さく笑う。


「明日も、よろしくね」


シャッターが半分下りる。


商店街の灯りが、いつものようにともる。


けれど今日は、新しい窓から漏れる灯りがひとつ増えた。


やわらかい、あたたかい色。


ガブは時計屋の石段に戻る。


目を閉じる。


今日、商店街にひとつ、はじめてが生まれた。


けれど、特別に騒がしいわけではない。


いつもの一日に、そっと重なっただけ。


それがちょうどいい。


野良猫ガブは、今日も何も決めない。


ただ、はじめてのコーヒーの匂いの中で、丸くなっていただけだ。


それだけで、商店街は少しだけ、あたたかい。


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