表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/27

新しい靴の音

その日、商店街に聞き慣れない音がした。


こつ、こつ、こつ。


少し硬い、軽い足音。


朝のシャッターが上がるころ、通りの端に小さな軽トラックが止まっていた。荷台には段ボールがいくつも積まれている。


向かいの、長いこと閉まったままだった店の前だ。


貼り紙の端がめくれ、色あせたシャッターがゆっくりと持ち上がる。


がららら。


久しぶりの音だった。


魚屋の大将が顔を上げる。


「……開くのか」


八百屋のおばさんも、手を止める。


「誰か入るって話は聞いてたけどねえ」


ガブは時計屋の石段にいた。


目を細め、いつもと違う空気を嗅いでいる。


段ボールを運び出しているのは、若い女性だった。短い髪に、大きめのシャツ。額に少し汗を浮かべている。


こつ、こつ。


履き慣れていない新しい靴が、通りに音を落とす。


ガブは立ち上がる。


ゆっくりと歩き、少し距離を保ったまま、様子を見る。


女性はシャッターの内側から、ほこりを掃き出している。長いあいだ閉じていた店の中の匂いが、ふわりと広がる。


古い木の匂い。


少し湿った壁の匂い。


それから、まだ何もない空っぽの匂い。


「こんにちは」


女性は通りに向かって頭を下げる。


少し遅れて、八百屋のおばさんが手を振る。


「なに屋さんになるの?」


「えっと……喫茶店です」


その言葉に、商店街の空気が少しだけ揺れる。


「喫茶店?」


魚屋の大将がつぶやく。


「コーヒーの」


女性は照れくさそうに笑う。


ガブはその声を聞きながら、足元の影を踏む。


喫茶店。


商店街には、昔、ひとつあった。けれどもう何年も前に閉まったきりだ。


女性は段ボールをひとつ開ける。中から、小さなカップが出てくる。白くて、縁が少し丸い。


それを両手で持ち、光にかざす。


まだ何も入っていない。


それでも、何かが始まりそうな形をしている。


午前中、女性は何度も店の外と中を行き来する。


こつ、こつ。


そのたびに、新しい靴の音が通りに落ちる。


ガブはその動きを目で追う。


近づきすぎず、離れすぎず。


やがて女性は、ふとガブに気づく。


「あ」


しゃがむ。


目が合う。


「こんにちは」


ガブは瞬きする。


「ここに住んでるの?」


返事はない。


女性は少し手を伸ばしかけて、止める。


「触らせてくれなさそうだね」


笑う。


ガブはその場に座る。


逃げない。


けれど、寄らない。


その距離を、女性は尊重する。


午後になると、店の奥から、かすかに豆を挽く音が聞こえた。


がり、がり。


まだ看板も出ていない。けれど、匂いは先に広がる。


コーヒーの香ばしい匂い。


魚屋の潮の匂いとも、八百屋の青い匂いとも違う。


少し苦くて、あたたかい匂い。


ガブの鼻が、ひくりと動く。


時計屋のおじいさんが、店の奥から顔を出す。


「ほう」


それだけ言う。


午後三時ごろ、女性は店先に小さな黒板を出した。


白いチョークで書かれている。


「準備中 来週オープン」


その文字は、少しだけ震えている。


ガブは黒板の前に座る。


まるで、番をするみたいに。


通りすがりの人が足を止める。


「喫茶店だって」


「へえ」


小さな声が重なる。


夕方、女性はシャッターを半分下ろす。


一日の終わりの顔をしている。


けれど、その目は少しだけ明るい。


「また明日、よろしくね」


誰に向けたのか、はっきりしない言葉。


ガブは黒板の横で丸くなる。


商店街の灯りが、ぽつぽつとつく。


魚屋も、八百屋も、時計屋も、いつものように店を閉める。


けれど今日は、少しだけ違う匂いが残っている。


コーヒーの香り。


まだ始まっていない店の、はじまりの匂い。


ガブは目を閉じる。


新しいものは、少しだけ風を変える。


けれど、風が変わっても、石段の場所は変わらない。


商店街は今日も、ちゃんとここにある。


その中に、ひとつ、新しい灯りが増えるだけ。


野良猫ガブは、今日も何も決めない。


ただ、新しい靴の音を聞いていただけだ。


それだけで、通りは少しだけ、楽しみになる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ