新しい靴の音
その日、商店街に聞き慣れない音がした。
こつ、こつ、こつ。
少し硬い、軽い足音。
朝のシャッターが上がるころ、通りの端に小さな軽トラックが止まっていた。荷台には段ボールがいくつも積まれている。
向かいの、長いこと閉まったままだった店の前だ。
貼り紙の端がめくれ、色あせたシャッターがゆっくりと持ち上がる。
がららら。
久しぶりの音だった。
魚屋の大将が顔を上げる。
「……開くのか」
八百屋のおばさんも、手を止める。
「誰か入るって話は聞いてたけどねえ」
ガブは時計屋の石段にいた。
目を細め、いつもと違う空気を嗅いでいる。
段ボールを運び出しているのは、若い女性だった。短い髪に、大きめのシャツ。額に少し汗を浮かべている。
こつ、こつ。
履き慣れていない新しい靴が、通りに音を落とす。
ガブは立ち上がる。
ゆっくりと歩き、少し距離を保ったまま、様子を見る。
女性はシャッターの内側から、ほこりを掃き出している。長いあいだ閉じていた店の中の匂いが、ふわりと広がる。
古い木の匂い。
少し湿った壁の匂い。
それから、まだ何もない空っぽの匂い。
「こんにちは」
女性は通りに向かって頭を下げる。
少し遅れて、八百屋のおばさんが手を振る。
「なに屋さんになるの?」
「えっと……喫茶店です」
その言葉に、商店街の空気が少しだけ揺れる。
「喫茶店?」
魚屋の大将がつぶやく。
「コーヒーの」
女性は照れくさそうに笑う。
ガブはその声を聞きながら、足元の影を踏む。
喫茶店。
商店街には、昔、ひとつあった。けれどもう何年も前に閉まったきりだ。
女性は段ボールをひとつ開ける。中から、小さなカップが出てくる。白くて、縁が少し丸い。
それを両手で持ち、光にかざす。
まだ何も入っていない。
それでも、何かが始まりそうな形をしている。
午前中、女性は何度も店の外と中を行き来する。
こつ、こつ。
そのたびに、新しい靴の音が通りに落ちる。
ガブはその動きを目で追う。
近づきすぎず、離れすぎず。
やがて女性は、ふとガブに気づく。
「あ」
しゃがむ。
目が合う。
「こんにちは」
ガブは瞬きする。
「ここに住んでるの?」
返事はない。
女性は少し手を伸ばしかけて、止める。
「触らせてくれなさそうだね」
笑う。
ガブはその場に座る。
逃げない。
けれど、寄らない。
その距離を、女性は尊重する。
午後になると、店の奥から、かすかに豆を挽く音が聞こえた。
がり、がり。
まだ看板も出ていない。けれど、匂いは先に広がる。
コーヒーの香ばしい匂い。
魚屋の潮の匂いとも、八百屋の青い匂いとも違う。
少し苦くて、あたたかい匂い。
ガブの鼻が、ひくりと動く。
時計屋のおじいさんが、店の奥から顔を出す。
「ほう」
それだけ言う。
午後三時ごろ、女性は店先に小さな黒板を出した。
白いチョークで書かれている。
「準備中 来週オープン」
その文字は、少しだけ震えている。
ガブは黒板の前に座る。
まるで、番をするみたいに。
通りすがりの人が足を止める。
「喫茶店だって」
「へえ」
小さな声が重なる。
夕方、女性はシャッターを半分下ろす。
一日の終わりの顔をしている。
けれど、その目は少しだけ明るい。
「また明日、よろしくね」
誰に向けたのか、はっきりしない言葉。
ガブは黒板の横で丸くなる。
商店街の灯りが、ぽつぽつとつく。
魚屋も、八百屋も、時計屋も、いつものように店を閉める。
けれど今日は、少しだけ違う匂いが残っている。
コーヒーの香り。
まだ始まっていない店の、はじまりの匂い。
ガブは目を閉じる。
新しいものは、少しだけ風を変える。
けれど、風が変わっても、石段の場所は変わらない。
商店街は今日も、ちゃんとここにある。
その中に、ひとつ、新しい灯りが増えるだけ。
野良猫ガブは、今日も何も決めない。
ただ、新しい靴の音を聞いていただけだ。
それだけで、通りは少しだけ、楽しみになる。




