雨の日の匂い
朝から空は低かった。
雲は重く、商店街の屋根の上にのしかかるように広がっている。やがて、ぽつり、と一粒。続いて、ふた粒。
雨は静かに降り始めた。
がらがら、と上がるはずのシャッターの音も、今日はどこか控えめに聞こえる。濡れた地面は光を吸い込み、通りはいつもより暗い。
時計屋の石段は、今日は冷たい。
ガブは屋根のある八百屋の軒先にいる。積まれた段ボールの奥、雨の吹き込まない場所だ。
しとしと、と雨音が続く。
八百屋のおばさんは、店先にビニールの幕を下ろしながら言う。
「今日は静かだねえ」
返事はない。
ガブは前足をなめている。
雨の日は、匂いが濃くなる。
土の匂い。濡れた木の匂い。少し古いシャッターの匂い。魚屋から流れてくる、いつもよりやわらかい潮の匂い。
ガブは鼻をひくりと動かす。
商店街の人通りは少ない。傘がぽつり、ぽつりと通るだけ。足音も、水を含んでやわらかい。
魚屋の大将は、店先の氷にビニールをかぶせている。
「やりにくいな」
小さくこぼす。
その足元を、ガブが横切る。濡れた地面を踏みながらも、足取りは変わらない。
「おい、濡れるぞ」
言われても、気にしない。
定食屋の前では、暖簾が半分だけ下げられている。雨粒が布を伝い、ぽたぽたと落ちる。
ガブはその下をくぐり、しばらく立ち止まる。
いつもより、人の声が近く感じる。
雨が、余計な音を包んでしまうからだ。
昼前、小さな男の子が母親に手を引かれて走ってきた。
「走らないの」
母親が言う。
けれど男の子は、水たまりを見つけてしまう。
ばしゃん。
小さな水しぶき。
その近くで、ガブは立ち止まる。
男の子はガブに気づき、目を丸くする。
「雨でもいるんだ」
ガブは瞬きする。
男の子は傘を少し傾ける。ほんの少しだけ、ガブのほうへ。
母親が笑う。
「風邪ひいちゃうよ、猫さん」
ガブは一歩だけ後ろへ下がり、それからくるりと向きを変える。
助けはいらない、というふうに。
それでも、男の子は満足そうだ。
午後になると、雨脚が少し強くなる。
商店街の真ん中を流れる細い溝に、水が集まる。さらさら、と小さな川のようだ。
時計屋のおじいさんは、店の中で静かに時計を磨いている。
ちく、たく。
雨音に混ざる。
ガブはいつのまにか、時計屋の軒先に移動している。石段は濡れているが、屋根の端のぎりぎりの場所は乾いている。
そこに丸くなる。
雨粒が、屋根から落ちる。
ぽたん。
ぽたん。
その一定の間隔を、ガブはじっと聞いている。
やがて、商店街の奥から、ひとりの女性が傘もささずに歩いてくる。制服姿の高校生だ。肩が少し濡れている。
足取りは、重い。
時計屋の前で、立ち止まる。
ガブに気づく。
しばらく見つめる。
それから、石段の端に座る。濡れない場所を選んで。
「……はあ」
ため息が、雨に溶ける。
ガブは動かない。
高校生は、ぽつりと言う。
「雨、やだな」
返事はない。
「部活、休みになればいいのに」
ガブの耳が、少しだけ動く。
「でも、なくなったらなくなったで、困るか」
雨は、少しだけ弱まる。
高校生は立ち上がる前に、ガブのほうへ手を伸ばしかける。けれど、触れない。
そのまま立ち上がる。
「またね」
小さな声。
ガブは目を細める。
夕方になると、雨はやんだ。
雲の切れ間から、薄い光が差し込む。濡れた地面が、やわらかく光る。
商店街の人たちが、ほっとしたように外へ出てくる。ビニールを外し、水を掃き、いつもの通りを取り戻そうとする。
ガブはゆっくり立ち上がる。
濡れた毛をぶるりと震わせる。
小さな水滴が飛ぶ。
八百屋のおばさんが笑う。
「やめておくれよ」
魚屋の大将が言う。
「まったく」
けれど、どちらの声も、どこかやわらかい。
雨上がりの匂いが、商店街を包む。
さっきまでの重さが、少しだけ軽くなっている。
ガブは時計屋の石段に戻る。
まだ少し湿っているが、気にしない。
空には、薄い夕焼け。
水たまりに映る空も、同じ色だ。
今日は静かな一日だった。
大きな声も、強い日差しもなかった。
そのかわり、雨音がずっとそばにあった。
ガブは目を閉じる。
明日は晴れるかもしれない。
また、いつもの匂いが戻るだろう。
それでも、雨の日も悪くない。
商店街が少しだけ近くなるから。
野良猫ガブは、今日も何も変えない。
ただ、雨の匂いの中で丸くなっていただけだ。
それだけで、十分だった。




