八百屋のおばさんと、丸いトマト
朝いちばんに店を開けるのは、だいたい八百屋だ。
がらがら、と軽い音を立ててシャッターが上がると、青い匂いが商店街に広がる。土の匂い、葉っぱの匂い、朝露の匂い。
「よいしょっと」
八百屋のおばさんは、丸い背中を少しだけ伸ばしてから、木箱を並べていく。キャベツ、ほうれん草、にんじん、大根。色とりどりの野菜が、通りに顔を向ける。
その足元に、影が落ちる。
「おはよう、ガブ」
声は明るい。
ガブは返事をしない。ただ、段ボール箱の上にひらりと飛び乗る。まだ畳んでいない空き箱の上だ。
「そこはこれから使うんだけどねえ」
言いながらも、どかさない。
ガブは箱の端に座り、前足をそろえる。店の前を行き交う人を、じっと見ている。
「見張り番かい?」
おばさんは笑う。
午前中は忙しい。常連の奥さんたちが次々にやってくる。
「このトマト、甘い?」
「昨日のより甘いよ」
「ほんとに?」
「うちは嘘つかないよ」
そう言って、ひとつ手に取り、指で軽く弾く。ぽん、と軽い音。
「ほら、いい音してる」
根拠があるのかないのか、よくわからない理屈だ。それでも、みんな納得して買っていく。
ガブはそのやりとりを、箱の上から眺めている。
ときどき、ころん、と転がる野菜がある。今日は小さなじゃがいもだった。
それが足元に転がると、ガブは軽く前足で止める。
「おっと、ありがと」
おばさんが拾う。
「働き者だねえ」
ガブは顔を洗うふりをする。
昼前、少しだけ客足が途切れた。
おばさんは腰に手を当て、ふう、と息をつく。
「歳だねえ」
誰に言うでもなく、そうこぼす。
向かいの店は、去年閉めたままだ。シャッターは降りたまま、貼り紙の端が風に揺れている。
「うちもいつまでやれるかねえ」
その声は、小さい。
ガブは段ボールから降り、店先に置かれたトマトの箱の横に座る。真っ赤な丸い実が、いくつも並んでいる。
ひとつ、少しだけ形のいびつなトマトがあった。
売り物にするには、少しだけ見た目が悪い。
おばさんはそれを手に取り、しばらく眺める。
「お前みたいだね」
ぽつりと呟く。
ガブは目を細める。
「ちょっと曲がってて、ちょっとぼさぼさで」
トマトを持ち上げ、光にかざす。
「でも、ちゃんと赤い」
ガブは立ち上がり、トマトの匂いをかぐ。
「食べられないよ」
おばさんは笑い、そのトマトを店の端に置いた。
午後、学校帰りの子どもたちが通る。
「おばちゃーん、今日安いのなに?」
「今日はきゅうりだよ。三本百円」
「やすっ」
笑い声が弾む。
ガブは子どもの足元をすり抜ける。誰かがそっと背中に触れる。
「ふわふわ」
「触りすぎないの」
おばさんが言う。
ガブは少しだけ歩いてから、また店先に戻る。
夕方が近づくと、影が長くなる。
トマトの赤が、やわらかい色に変わる。
おばさんは、例のいびつなトマトを手に取った。
「これ、持ってくかい?」
魚屋の大将に声をかける。
「売りもんにならないやつ」
「いらん」
短い返事。
「だよねえ」
笑って、今度は定食屋のほうを見る。
「煮込みにでもするかい?」
「もらっとく」
そうして、トマトは店を渡る。
ガブはその様子を見ている。
商店街の中で、野菜も魚も、少しずつ行き来する。売り物にならないものも、どこかでちゃんと役に立つ。
おばさんは空になった箱を重ねながら、ぽつりと言う。
「一人じゃないって、便利だねえ」
ガブはしっぽを一度だけ動かす。
日が沈みかけるころ、最後の客が帰った。
「さて、と」
おばさんは腰を伸ばす。
その足元に、ガブが座る。
触れない距離。
けれど、すぐそば。
「うちが閉めたら、困るかい?」
問いかけは、風に混ざる。
ガブは顔を上げる。じっと見つめる。
何も言わない。
けれど、目を逸らさない。
おばさんは小さく笑う。
「困らないよねえ。野良だもんね」
そう言いながら、声は少しやわらいでいる。
「でも、あんたがいると、なんかね」
言葉の続きは出てこない。
代わりに、空になった段ボールをひとつ、石段の近くに置く。
「明日も座りな」
ガブはその箱に飛び乗る。
くるりと回り、丸くなる。
ちょうどいい大きさだ。
シャッターが半分下りる。
商店街の灯りが、ぽつぽつとともる。
赤いトマトはもうない。
けれど、店先にはまだ青い匂いが残っている。
「また明日ね、ガブ」
ガブは目を閉じる。
明日も、丸いトマトが並ぶだろう。
少し曲がったきゅうりも、土のついた大根も。
形はいろいろ。
それでも、ちゃんと並んでいる。
野良猫ガブは、今日も何も変えない。
ただ、八百屋の前で丸くなっていただけだ。
それだけで、商店街は少しだけ、やわらかい。




