表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/27

魚屋の大将とガブ

朝の空気はまだ冷たかった。


魚屋の大将は、いつものようにシャッターを半分だけ開けてから、店の奥へ戻った。氷の音、発泡スチロールのこすれる音、水の跳ねる音。それらが混ざって、商店街の朝になる。


店先に並べた銀色の魚は、どれもよく光っている。鯖、鯵、鯛。大将は手早く値札を立てながら、小さく息を吐いた。


「……ふう」


その足元に、いつのまにか影が落ちる。


見なくてもわかる。


「まだ早いぞ」


言いながらも、声はきつくない。


ガブは氷の入ったケースのそばに座り、じっと魚を見ている。狙っているわけではない。ただ見ているだけだ。


「やらんぞ」


大将は言う。


ガブは瞬きひとつで返事をする。


商店街の者たちは、よく言う。大将は無口で愛想がない、と。確かに、大声で笑うことは少ないし、世間話も得意ではない。


けれど、魚の扱いだけは丁寧だった。


包丁を入れる角度も、氷の敷き方も、どれも静かに整っている。


昼前、常連の奥さんがやってきた。


「今日は何がいいかしらねえ」


「鯵がいい」


短い答え。


「じゃあ三枚におろして」


「……うん」


手が動く。包丁がすっと骨に沿う。無駄がない。


奥さんは少し迷ったように言った。


「息子さん、帰ってきたんでしょう?」


包丁の動きが、ほんのわずかに止まった。


「まあな」


それだけ。


「一緒にやるの?」


「さあな」


会話はそれ以上続かない。


奥さんはそれを責めない。魚を受け取り、「ありがとう」と言って去っていく。


ガブはその様子を、氷の向こうから見ている。


昼を過ぎるころ、店の奥から若い男が出てきた。大将の息子だ。背が高く、少しだけ都会の匂いがする。


「親父、これ値段違うよ」


「ああ?」


「この鯛、昨日の札のままだ」


大将は無言で札を直す。


息子はため息をついた。


「ちゃんと見ろよ」


その言葉に、大将は何も返さない。


ガブは氷のケースから飛び降り、二人の間をゆっくり横切る。まるで、空気の重さを測るみたいに。


息子がガブを見る。


「こいつ、まだいるのか」


「いるな」


「触っても平気?」


「知らん」


息子はしゃがみ、手を差し出す。


ガブは少し考えたあと、その手の匂いをかいだ。魚の匂いではない。洗剤と、少しの汗の匂い。


ふい、と顔を背ける。


「なんだよ」


息子は苦笑する。


大将はその様子を、横目で見ている。


午後になると、客足は途切れた。氷が少し溶け、水が細く流れていく。


息子は店の奥へ戻り、大将は一人で店先に立つ。


ガブはいつもの位置に座る。


しばらくして、大将は小さな鯵を一尾、新聞紙に包んだ。


「売りもんじゃないやつだ」


誰に言うでもなく、そう呟く。


新聞紙を広げ、端に置く。


ガブはすぐには近づかない。日差しの角度が変わるのを待つみたいに、目を細めている。


「いらんのか」


大将が言うと、ようやく立ち上がる。


一歩。二歩。


匂いをかぐ。


それから、そっと口をつける。


骨を残して、きれいに食べる。


大将はそれを黙って見ている。


「……あいつはな」


ぽつりと声が落ちる。


「魚、好きじゃないんだと」


誰も聞いていない。


ガブは食べ終わり、前足をなめている。


「継がんかもしれん」


風が吹き、値札が揺れる。


「別に、それでもいい」


言葉は、氷の溶ける音にまぎれる。


ガブはゆっくりと大将の足元へ来て、そこに座る。


触れない距離。


けれど、離れない距離。


大将は少しだけ視線を落とす。


「……お前は楽でいいな」


返事はない。


ただ、しっぽが一度、床を打つ。


夕方、息子が再び店先に出てきた。


「親父」


「ああ?」


「明日、早く来るよ」


大将は顔を上げる。


「氷の入れ方、教えろ」


短い沈黙。


「……朝五時だぞ」


「いいよ」


それだけの会話。


ガブはその間を、ゆっくり横切る。


夕焼けが、魚の鱗をやわらかく染める。


店じまいの時間が近づく。


大将はシャッターを下ろす前に、足元を見る。


ガブはいない。


もう時計屋の石段に戻っている。


「勝手なやつだ」


そう言いながら、大将の声は少しだけ軽い。


シャッターが下りる。


商店街の灯りがぽつぽつと消える。


時計屋の前で、ガブは丸くなる。


遠くから、魚屋の奥で笑う声が一瞬だけ聞こえた。


いつもより、少しだけやわらかい声だった。


ガブは目を閉じる。


明日も氷は光り、

魚は並び、

言わない言葉が、店先に置かれる。


それでいい。


野良猫ガブは、今日も何も解決しない。


ただ、そばにいただけだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ