魚屋の大将とガブ
朝の空気はまだ冷たかった。
魚屋の大将は、いつものようにシャッターを半分だけ開けてから、店の奥へ戻った。氷の音、発泡スチロールのこすれる音、水の跳ねる音。それらが混ざって、商店街の朝になる。
店先に並べた銀色の魚は、どれもよく光っている。鯖、鯵、鯛。大将は手早く値札を立てながら、小さく息を吐いた。
「……ふう」
その足元に、いつのまにか影が落ちる。
見なくてもわかる。
「まだ早いぞ」
言いながらも、声はきつくない。
ガブは氷の入ったケースのそばに座り、じっと魚を見ている。狙っているわけではない。ただ見ているだけだ。
「やらんぞ」
大将は言う。
ガブは瞬きひとつで返事をする。
商店街の者たちは、よく言う。大将は無口で愛想がない、と。確かに、大声で笑うことは少ないし、世間話も得意ではない。
けれど、魚の扱いだけは丁寧だった。
包丁を入れる角度も、氷の敷き方も、どれも静かに整っている。
昼前、常連の奥さんがやってきた。
「今日は何がいいかしらねえ」
「鯵がいい」
短い答え。
「じゃあ三枚におろして」
「……うん」
手が動く。包丁がすっと骨に沿う。無駄がない。
奥さんは少し迷ったように言った。
「息子さん、帰ってきたんでしょう?」
包丁の動きが、ほんのわずかに止まった。
「まあな」
それだけ。
「一緒にやるの?」
「さあな」
会話はそれ以上続かない。
奥さんはそれを責めない。魚を受け取り、「ありがとう」と言って去っていく。
ガブはその様子を、氷の向こうから見ている。
昼を過ぎるころ、店の奥から若い男が出てきた。大将の息子だ。背が高く、少しだけ都会の匂いがする。
「親父、これ値段違うよ」
「ああ?」
「この鯛、昨日の札のままだ」
大将は無言で札を直す。
息子はため息をついた。
「ちゃんと見ろよ」
その言葉に、大将は何も返さない。
ガブは氷のケースから飛び降り、二人の間をゆっくり横切る。まるで、空気の重さを測るみたいに。
息子がガブを見る。
「こいつ、まだいるのか」
「いるな」
「触っても平気?」
「知らん」
息子はしゃがみ、手を差し出す。
ガブは少し考えたあと、その手の匂いをかいだ。魚の匂いではない。洗剤と、少しの汗の匂い。
ふい、と顔を背ける。
「なんだよ」
息子は苦笑する。
大将はその様子を、横目で見ている。
午後になると、客足は途切れた。氷が少し溶け、水が細く流れていく。
息子は店の奥へ戻り、大将は一人で店先に立つ。
ガブはいつもの位置に座る。
しばらくして、大将は小さな鯵を一尾、新聞紙に包んだ。
「売りもんじゃないやつだ」
誰に言うでもなく、そう呟く。
新聞紙を広げ、端に置く。
ガブはすぐには近づかない。日差しの角度が変わるのを待つみたいに、目を細めている。
「いらんのか」
大将が言うと、ようやく立ち上がる。
一歩。二歩。
匂いをかぐ。
それから、そっと口をつける。
骨を残して、きれいに食べる。
大将はそれを黙って見ている。
「……あいつはな」
ぽつりと声が落ちる。
「魚、好きじゃないんだと」
誰も聞いていない。
ガブは食べ終わり、前足をなめている。
「継がんかもしれん」
風が吹き、値札が揺れる。
「別に、それでもいい」
言葉は、氷の溶ける音にまぎれる。
ガブはゆっくりと大将の足元へ来て、そこに座る。
触れない距離。
けれど、離れない距離。
大将は少しだけ視線を落とす。
「……お前は楽でいいな」
返事はない。
ただ、しっぽが一度、床を打つ。
夕方、息子が再び店先に出てきた。
「親父」
「ああ?」
「明日、早く来るよ」
大将は顔を上げる。
「氷の入れ方、教えろ」
短い沈黙。
「……朝五時だぞ」
「いいよ」
それだけの会話。
ガブはその間を、ゆっくり横切る。
夕焼けが、魚の鱗をやわらかく染める。
店じまいの時間が近づく。
大将はシャッターを下ろす前に、足元を見る。
ガブはいない。
もう時計屋の石段に戻っている。
「勝手なやつだ」
そう言いながら、大将の声は少しだけ軽い。
シャッターが下りる。
商店街の灯りがぽつぽつと消える。
時計屋の前で、ガブは丸くなる。
遠くから、魚屋の奥で笑う声が一瞬だけ聞こえた。
いつもより、少しだけやわらかい声だった。
ガブは目を閉じる。
明日も氷は光り、
魚は並び、
言わない言葉が、店先に置かれる。
それでいい。
野良猫ガブは、今日も何も解決しない。
ただ、そばにいただけだ。




