もう一つの名前
昼前の商店街は、やわらかい日差しに包まれていた。
時計屋の石段の上で、ガブはいつものように丸くなっている。石はすっかり春の温度になり、背中がじんわりあたたかい。
遠くから、子どもたちの声が近づいてくる。
「今日いるかな」
「昨日見た!」
ランドセルを背負った三人の子どもが、商店街を走ってくる。
八百屋のおばさんが笑う。
「また猫探しかい」
「うん!」
子どもたちは通りをきょろきょろ見回す。
「ガブはいる」
一人が指さす。
石段の上のガブを見て、みんなうなずく。
「でも、もう一匹!」
そのときだった。
通りの向こう、電柱の影から、灰色の体がそっと現れる。
小さくて、少し細い猫。
子どもたちは一斉に声を上げる。
「いた!」
灰色の猫はびくっとして立ち止まる。
逃げようか、どうしようか、迷っている様子だ。
子どもたちはしゃがむ。
「大丈夫だよ」
一人が言う。
けれど、近づきすぎない。
ガブを見て学んだ距離だ。
灰色の猫はそのまま座る。
完全に安心しているわけではないが、逃げるほどでもない。
子どもたちは小さな声で相談を始める。
「名前どうする?」
「まだないよね」
「ガブみたいに」
八百屋のおばさんが聞こえるように言う。
「勝手に決める気かい」
子どもたちは笑う。
「だって猫だもん」
灰色の猫をじっと見る。
「色で決める?」
「グレー」
「それはそのまま」
「ねずみ?」
「猫だよ」
みんな首をかしげる。
そのとき、一番小さい子がぽつりと言う。
「ふわ」
「え?」
「ふわってしてる」
確かに、灰色の毛は少しふわっとしている。
風が吹くと、やわらかく揺れる。
「ふわ、いいじゃん」
「ふわだ」
子どもたちはうなずく。
「今日からふわ!」
灰色の猫は、自分の名前が決まったことを知らない。
ただ、子どもたちを見ている。
ガブは石段の上から、その様子を眺めている。
子どもたちが振り向く。
「ガブ」
石段に向かって言う。
「新しい猫、ふわだよ」
ガブは目を細める。
それだけだ。
午後になると、商店街の人たちにも名前が広まる。
「ふわ?」
魚屋の大将が言う。
「そう」
八百屋のおばさんが笑う。
「子どもたちがつけた」
喫茶ひだまりの女性も外に出てくる。
灰色の猫を見つける。
「ふわ、か」
小さくうなずく。
夕方、通りの真ん中で、二匹の猫が少しだけ近い場所にいる。
石段の上にガブ。
その下の地面に、ふわ。
距離はまだある。
けれど、同じ通りにいる。
風が二匹の間を通る。
魚の匂い。
野菜の匂い。
コーヒーの匂い。
そして、新しい猫の匂い。
子どもたちが帰りながら手を振る。
「またね、ふわ!」
灰色の猫は少しだけ首をかしげる。
ガブは静かに目を閉じる。
商店街には、ガブがいる。
そして今日から、もう一匹。
ふわという名前の猫がいる。
野良猫ガブは、今日も何もしない。
ただ、石段の上で昼寝をしていただけだ。
その下で、新しい名前が生まれていた。
それだけで、商店街は少しだけにぎやかになる。




