陽だまりの定位置
朝の商店街は、シャッターの音で目を覚ます。
がらがら、と鉄のこすれる音が通りに響くと、空気が少しだけ動き出す。
まだ人通りは少ない。けれど、パン屋の煙突からは甘い匂いがのぼり、魚屋の前には銀色のケースが並び始める。
その真ん中あたり、古い時計屋の前の石段に、ガブは丸くなっていた。
茶色と灰色の混ざった毛並みは、朝日を受けてやわらかく光っている。片耳の先が少しだけ欠けているのは、昔の小さな冒険の名残だ。目を閉じていると、ずいぶんおとなしく見える。
「おい、ガブ。そこ邪魔だぞ」
魚屋の大将が言う。声は太いが、足はそっと動く。
ガブは片目だけを開け、大将を見上げた。しばらく考えるように瞬きをしてから、ゆっくりと伸びをする。前足をぐいっと伸ばし、背中を山のように丸め、それから石段を一段下りた。
それで十分だった。
「まったく、偉そうだな」
大将はそう言いながら、口元は少しだけゆるんでいる。
商店街の誰もが、ガブに特別な期待をしていない。ねずみを取るわけでもなく、看板猫のように愛想を振りまくわけでもない。ただ、いるだけだ。
それでも、いないと少し落ち着かない。
八百屋のおばさんは、売り物にならなくなったキャベツの外葉を小さくちぎって、店の端に置く。ガブはそれを食べない。ただ匂いをかいで、満足したように座る。
「食べないなら置くなって顔してるねえ」
おばさんは笑う。
午前十時を過ぎるころ、商店街は少しにぎやかになる。買い物袋をさげた人たちが行き交い、自転車がゆっくり通り抜けていく。
時計屋の前は、ちょうど日がよく当たる。
ガブの定位置だ。
今日もそこに座り、前足をそろえ、通りを眺めている。しっぽがときどき、ぱたり、と石を打つ。
学校帰りの小さな女の子が立ち止まった。
「ガブー」
名前を呼ばれても、ガブはすぐには反応しない。三拍ほど置いてから、顔だけ向ける。
「今日ね、テスト満点だったんだよ」
女の子は報告する。
ガブはまばたきを一つ。
それだけだ。
「……すごいでしょ」
もう一度言う。
ガブは立ち上がり、女の子の足元を一周してから、また石段に戻る。
それだけで、女の子は満足する。
「またね」
走っていく背中を、ガブは目で追わない。代わりに、大きなあくびをした。
昼前になると、商店街の奥から揚げ物の匂いが流れてくる。定食屋の仕込みだ。
その匂いに誘われるように、ガブはゆっくり歩き出す。急がない。いつも同じ速さだ。
途中、クリーニング店の前で立ち止まる。風に揺れるビニールの音が好きなのだ。透明なカーテンのように揺れるそれを、じっと見つめる。
何を考えているのかはわからない。
けれど、その背中はとても落ち着いている。
定食屋の裏口は、少しだけ日陰になっている。夏でも涼しい場所だ。ガブはそこに座る。
「来たのか」
店主の女性が顔を出す。
「今日は何もないよ」
そう言いながら、小さな煮干しをひとつ、足元に転がす。
ガブはそれを見つめる。すぐには食べない。匂いを確かめ、周囲を一度見渡してから、ようやく口にする。
ぽり、と小さな音。
満足したのか、ひげがわずかに動く。
午後になると、商店街は少し静かになる。日差しが強くなり、人影もまばらになる。
ガブはまた、時計屋の前へ戻る。
石は温まっていて、ちょうどいい。
目を細める。耳だけが動く。遠くでトラックの音。風鈴のかすかな響き。どこかで笑い声。
商店街は、今日も同じように続いている。
特別なことは何も起きない。
誰かが大声で泣くこともなければ、大きな拍手が起こることもない。
けれど、小さな「よかった」がいくつも転がっている。
テストの満点。
ちょうどいい揚げ色のコロッケ。
思ったより甘かったトマト。
久しぶりに届いた手紙。
ガブはそれらを知らない。
知らないまま、そこにいる。
夕方、空がやわらかい色に変わるころ、商店街の影は長く伸びる。
ガブの影も、細く長く、通りに溶ける。
魚屋の大将が店じまいをしながら言う。
「明日も来いよ」
ガブは返事をしない。
ただ、しっぽを一度だけ動かす。
それが返事の代わりだと、商店街の誰もが知っている。
夜になると、通りは急に広く感じる。昼間のにぎわいが嘘のようだ。
ガブは商店街の端まで歩く。古い街灯の下で立ち止まり、空を見上げる。
月はまだ細い。
風が少しだけ冷たい。
ガブはくるりと向きを変え、再び商店街の真ん中へ戻る。時計屋の石段にひらりと飛び乗り、体を丸める。
ここが、今の居場所だ。
誰のものでもない。
けれど、確かにここにある場所。
遠くでシャッターが最後の音を立てる。
商店街の一日が終わる。
ガブは目を閉じる。
明日もきっと、同じ朝が来る。
がらがら、とシャッターの音がして、
パンの匂いが流れて、
誰かが名前を呼ぶ。
それでいい。
それだけでいい。
野良猫ガブは、今日も商店街にいる。




