第零話:砂嵐の後の、静かな世界
ハル――現実世界での彼は、騒がしい都会の喧騒の中で、
常に「数字」に追われる生活を送っていた。
仕事のノルマ、SNSの通知、流行のニュース。
世界はあまりに速く、
情報の濁流に飲み込まれそうになっていたある日、
彼はふと立ち寄った中古ショップで、
旧世代のVRデバイスと『エテニウム・オンライン』のパッケージを手にする。
「……誰もいないところで、ただ、静かにしていたいな」
そんな逃避行のような気持ちで、彼は初めて仮想世界にダイブした。
ログインしてすぐ、広場では大勢のプレイヤーが叫んでいた。
「ギルドメンバー募集!」
「効率最強のレベリングはここだ!」
「リセマラ終了、当たり武器引いた!」
そこは現実と変わらない、数字と効率が支配する場所だった。
ハルは少しだけ溜息をつき、賑やかな広場から逃げるように、
人気のない路地裏へと足を進めた。
そこにあったのは、グラフィックの隅っこに配置された、
ただの「雨曝しのベンチ」と、その傍らに捨てられていた「錆びた鉄の短剣」だった。
何気なく、その短剣を拾い上げてみる。
最新のVR技術が再現したのは、
金属の冷たさと、ザラリとした錆の感触だった。
「……これ、生きてるみたいだ」
ハルは、インベントリに最初から入っていた「初心者用砥石」を取り出した。
攻略サイトにはこう書いてあったはずだ。
『初期装備は弱いので、すぐに街の店で買い替えるのが正解』。
だが、ハルはベンチに座り、無心で剣を研ぎ始めた。
シュッ、シュッ、という規則正しい音。
火花が散り、錆の下から鈍い銀色の肌が見えてくる。
一時間、二時間。
通り過ぎるプレイヤーたちは「あいつ、何やってんだ?」と奇異の目で見ていく。
だが、ハルには分かっていた。
今、この瞬間、自分は世界の誰よりも、このゲームの「質感」を楽しんでいる。
「……できた」
三時間かけて研ぎ上がった二本の短剣は、
初期装備とは思えないほど、鏡のように美しく月光を反射していた。
その時、ハルの視界に小さな、本当に小さな光の粒が舞った。
それはシステムが用意したエフェクトではなく、
あまりに丁寧に物を扱ったことによる、
プログラムの「ゆらぎ」だったのかもしれない。
「次は、この剣で、あの森の奥にある美味しい木の実を採りに行こう。
……そうだ、綺麗な石も見つけたら、この剣と一緒に磨いてあげよう」
最強の武器はいらない。
伝説の称号も興味ない。
ただ、自分が「良い」と思ったものを、自分の手で確かめたい。
ハルがゆっくりと立ち上がった時、
彼の影が、一瞬だけ楽しそうに跳ねた。
それは、世界が彼を「特別な観測者」として認識した瞬間だった。
第0話 完
【ハルの初期ステータス】
動機: 心の平穏
プレイスタイル: 徹底した寄り道、物の質感の追求
最初の「やりたいこと」: この剣が、どこまで輝くか見てみたい。




