第三章 秋 ― 形になる想い
夏が過ぎた。
蝉の声が消え、風が少し冷たくなった九月。
校庭の銀杏がうっすらと色づき始める。
季節の移ろいは、まるで誰かの人生のように静かで、残酷に美しかった。
陽翔は教室の窓際で、手帳を開いていた。
“死ぬまでにやりたいことリスト”の隅に、新しい項目を足す。
「俺の“言葉”を残す。」
その瞬間、ペン先が震えた。
この一行が、彼の残りの日々のすべてを変えていくことになる。
病院の定期検査の日。
モニターに映る心臓の波形を見つめながら、医師は静かに言った。
「……症状が少し進んでいます。無理はしないでくださいね」
「はい」
「学校生活は? 疲れが出ていませんか?」
「大丈夫です。……まだ行きたい場所も、会いたい人もいるんで」
医師は優しく微笑んだ。
「――それは、いいことですね」
病院を出た陽翔は、空を見上げた。
どこまでも澄んだ秋空が広がっていた。
死に向かう体を抱えながらも、心は確かに“生きよう”としていた。
放課後、図書室。
凛音が一冊のノートを差し出した。
「これ、貸してあげる」
「なにこれ?」
「“未来日記”っていうの。自分が死んだ後に残したい言葉を書くノート」
「……なんか、すごいタイトルだな」
凛音は笑う。
「ちょっと変でしょ。でもね、これ、弟が最後まで書いてた日記なの」
陽翔はページをめくった。
そこには、幼い文字でこう綴られていた。
“ぼくがいなくなっても、ママが笑えますように。”“お姉ちゃんが元気でいられますように。”
陽翔の胸に熱いものが込み上げた。
「……強い子だったんだね」
「うん。だから私、あの子の代わりに“生きて”るの」
凛音の言葉は、静かで力強かった。
その夜、陽翔は自分のノートに新しいページを開いた。
タイトルは「未来への手紙」。
宛先は――家族、友人、凛音、そして悠真。
まず書いたのは、家族への手紙だった。
父さんへ。
僕は、父さんみたいに強くはなれなかったけど、
最後まで生きようと思えるのは、父さんが僕に“背中”を見せてくれたからです。
だから、泣かないでください。
僕がいなくても、家族はちゃんと続いていくから。
次に母へ。
母さんへ。
夕飯の匂い、笑い声、手の温もり。全部、大好きでした。
もしまた生まれ変われたら、もう一度、母さんの子どもにしてください。
妹の紗菜へ。
紗菜へ。
お兄ちゃんのこと、たまに思い出してくれたら、それでいい。
でも泣くなよ。
紗菜が笑ってると、俺も天国で笑ってると思うから。
文字を書くたびに、涙が頬を伝った。
でも、その涙は悲しみではなく、“感謝”の色をしていた。
週末。
陽翔は悠真を自宅に呼んだ。
「お前んち、久々だな!」
リビングのテーブルにはカメラと三脚。
「なにこれ? 映画でも撮る気?」
「……俺の“記録”を撮る」
「記録?」
「うん。生きてる証。俺がいなくなった後、見てもらえるように」
悠真の表情が固まった。
「……どういう意味だよ、それ」
陽翔は黙ってカメラをセットした。
レンズを見つめながら、静かに息を整える。
そして、言葉を紡ぎ始めた。
「やあ。これを見てるみんな。もしかしたら、俺はもうここにいないかもしれません。でもね、俺はちゃんと生きました。たくさん笑って、泣いて、愛して。その全部が、宝物です」
悠真の喉が詰まった。
「おい……やめろよ、そんなこと言うな」
「ごめん。でも、言っときたいんだ」
「俺に黙ってたのかよ……!」
陽翔は小さくうなずいた。
「言えなかった。言ったら、普通の日々が壊れる気がして」
沈黙。
やがて悠真は陽翔の肩を掴んだ。
「ふざけんなよ。お前が死ぬとか、そんなの……俺、絶対受け入れねえ」
陽翔は涙をこらえながら、微笑んだ。
「ありがとな。……でも、俺、生きてたってことを残したいんだ」
悠真は拳を握り、震えながら言った。
「じゃあ俺も手伝う。お前の記録、全部俺が撮る」
「悠真……」
「文句言うな。俺のカメラ、悪くねえんだぞ」
ふたりは泣きながら笑った。
その笑顔の奥に、確かな“絆”があった。
十月。
文化祭の準備で学校がにぎわっていた。
陽翔は徐々に体が重くなり、階段を上るだけで息が切れるようになっていた。
そんな彼を支えたのは、凛音と悠真だった。
ある日、凛音が校舎裏に呼び出した。
「これ、あなたにあげる」
彼女が渡したのは、小さな銀のペンダント。
「弟の形見なんだけど、もう十分心の中にいるから。今度は陽翔くんに」
「……いいの?」
「うん。あなたのこと、弟と似てる気がする。――まっすぐで、優しいとこ」
陽翔は受け取った。
冷たい金属の中に、彼女の想いの温度が宿っていた。
「ありがとう、凛音。大切にする」
「うん。……ちゃんと、生きてね」
その笑顔に、彼はどうしようもなく惹かれていった。
恋という言葉を越えて、魂が触れ合うような感覚だった。
文化祭当日。
陽翔はクラス展示の映像担当として、カメラの前に立っていた。
みんなの笑顔、声、音楽。
すべてを撮りながら、彼は思った。
――この瞬間こそ、俺の“生きた証”なんだ。
撮影の途中、凛音が屋上から呼んだ。
「陽翔くん、ちょっと来て!」
風に揺れる髪、空を映す瞳。
「見て、空」
広がる雲間に、一筋の光が差していた。
「……綺麗だな」
「うん。ねえ陽翔くん」
「ん?」
「私ね、あなたと出会えてよかった」
陽翔は言葉を失った。
「……俺も」
凛音は小さく笑って言った。
「あなたが残すもの、ちゃんと見届けるから」
その言葉は、陽翔の心の奥で深く響いた。
――俺は、もう怖くない。
たとえ明日が来なくても、今を全力で生きている。
夜。
文化祭の打ち上げが終わり、帰り道の公園。
街灯の下で、陽翔と悠真が缶コーヒーを開けた。
「なあ陽翔。お前の記録、もう結構撮れたな」
「うん。……ありがとう」
「でもな、俺思うんだよ。“残す”ってのは、映像とかじゃなくて――生き様そのものなんじゃねえかって」
陽翔は少し笑ってうなずいた。
「それ、たぶん正解だ」
「だろ? ……お前、やっぱかっこいいわ」
「なにそれ」
「いや、マジで」
二人は笑い合った。
秋風が通り抜け、枯葉が足元を転がった。
その音が、どこか温かく聞こえた。
家に帰ると、母が待っていた。
「陽翔、これ見て」
テーブルには、昔のアルバムが開かれていた。
幼い陽翔が笑っている写真。
運動会、七五三、初めて自転車に乗れた日。
「……懐かしいな」
母は微笑みながら言った。
「あなた、いつも笑ってたのよ」
陽翔は写真を見つめ、ゆっくりと言った。
「母さん、ありがとう。俺、幸せだったよ」
その言葉に、母の目から静かに涙がこぼれた。
秋が深まり、木々の葉が赤く染まる頃。
陽翔の体は少しずつ動かなくなっていった。
だが、彼の中の“想い”は確かに形になっていた。
ノート、映像、手紙、そして笑顔。
それらすべてが、彼という存在の証だった。
――俺がいなくなっても、ちゃんと残るものがある。
彼はそう確信していた。




