神樹幻想秘話 新緑の芽
神様にお願いをしたことはありますか?
あの日、ボクはカミサマに出会ったーーー。
静かに砂が流れ着く砂辺で引いて流れる波を見ながら、いつの間にかボクはそこに立っていた。
「…迷子?」
声に向かって顔を上げる。
背の高い人、顔は高くて見えない。優し気な声から女性なのはわかる。
いつの間にか、手を握られていた。
いや、ボクが伸ばしたのかもしれない。
「うん、ずっと。でも、やっと見つけたかもしれない」
その手を離しちゃいけない。急に湧き上がる恐怖にも似た衝動。
「そう、良かった。
これ以上進んだら還れなくなっちゃうから、帰り道を見つけれたなら良かった」
危なかった。
理解してはいけない、でも、ここは二度と来たらいけないのだと、心でもなく魂が言っている。
「ここは、死んだ人が来る場所なの?」
「違うよ、もっと深い場所。
ここは、最後まで使い切った人が最後に至る場所。
もう戻らない、戻れない。ここは、この星に還る為の場所。混ざって溶かしてすべて濾されてから、皆、星に還っていく」
サラサラと砂の様に見えたのは、すべて砕けて濾される途中の魂の欠片。
海の様に見えるのは、これから星へと還る最後の輝きの流れ。
「人の魂はもっと上で巡るから」
彼女が指さすその先は、白く霞んだ空の先。
雲の様に見えるのは、巡る世界の魂の流れ、まだ生きたい、まだ行きたい、と願う若い魂が巡る場所なのだ。
海の先、遠く遠くに聳える天地を支える大樹の幹にそって、二つの循環が分かたれ、時に零れ落ちながらも巡っていく。
「帰り道はあそこ、上を目指していくの。
上へ上へ。ずっと上って行って、いつか私が居る場所まで上がっておいで」
顔は変わらず見えないけど、それでも、彼女の顔は笑っている様な気がした。
遠く、遠くの幹を上へ上へ。
何時しか、ボクは鳥みたいに空を飛んでいた。
幹は大きくその先は見えない。
遠くから見ると、その大樹は、誰かの揺り籠の様で。そして、誰かの墓標の様にも見えた。
遠く、遠く、高く、高く。
何時しか、巡る光の雲も越えて。
私は、微睡から目を覚ました―――。
目の前には、私に縋りつき泣く両親の姿があった。
少し、不思議そうな顔で微笑む医者らしき姿。看護師らしき姿の人も何人かいる。
後に聞かされた話では、私の呼吸は一時止まっていたらしい。
あと数分、遅ければ脳死していてもおかしくない時間、私の体は何度か生死の境目を越えていたそうだ。
「あんたが息を吹き返したときの医者の顔と言ったら、思い出すだけでも笑えるよ」
フェフェとも言いそうな顔でニコニコと笑う、隣の御婆さん。
よく来るお孫さんからはキヌコさんと呼ばれている彼女は、よく笑うお婆ちゃんだった。
時たま、高そうなスーツ姿の大人が神妙な顔でお見舞いに来ると、高級品だと思われるお土産のフルーツを嬉々として押し付けてくる。
「いやいや、いいものを見させてもらった。
老い先短い婆の、お節介、受け取っておくれな、今はいっぱい食べてズレを治さんといかん」
偶に不思議な言い回しを使うが、いたって普通好々爺を絵にかいたようなキヌコさんに勧められ食べたフルーツは間違いなく高級品のお味だった。
「ズレって何?」
「お嬢ちゃん、あの世に逝っておったろ?
戻ってきて、ズレを治すのは食べ物が一番手っ取り早い。
向こうでは、何も口にしてないようじゃし、こちらの物一杯食べて幸せになんのが一番なんよ」
「ごめんなさい。お婆ちゃん昔からちょっと信心深くて。
苦手な物あったら、気にしなくてもいいからね」
キヌコさんをはさんでニコニコと笑うお孫さん。
口ではそう言いつつも、口元が綻んでいることからお孫さんに愛されているのが解る。
お孫さんは、大学生くらいのキレイなお姉さんで、何かあったらいつでも連絡してねと連絡先を教えてくれたのだが、私のスマホは事故の影響で破損してしまっている。
そう、事故の―――。
学校からの帰り道、車に撥ねられた私は一月ほど意識不明の状態で病棟に入っていたそうだ。
脳波は動いていたそうで、脳死判定は出ていなかったが、それでも、いつ意識が戻るかわからなった状態。そして、先日その状態は一気に悪化し、一時、心肺停止の状態にまで陥ったのだそうだ。
それが、奇跡の様に意識が回復し、今はこうして隣のお婆ちゃんと楽しくお喋りをしている、世の中不思議に満ちている。
あの夢の中で誰かに送り還された私は、それが、もしかしたら泡沫の夢では無く、一時の臨死体験が起こしたあの世へ転がり込んでしまった誰かの追憶であったのでは、と、今は感じている。
「…嬢ちゃん」
「うん?」
「出来たら、全部、忘れなさい。
何を見ちまったかは聞かないが、きっと、嬢ちゃんは、本来踏み込んだらいけないところに迷い込んじまったはずだ。
これからの長い人生、その記憶は嬢ちゃんには不要な物だ。
それにな、忘れたところで、還してくれた方はきっと怒りもせんし悲しみもせん」
なぜか、彼女は寂し気な瞳で私を見ていた。
―――いや、もしかするとその視線は、私を通してずっと遠く。いまだ、あの砂辺の畔でたたずむ彼女の姿を見ていたのかもしれない。
ーーーーーーー
私が元気に退院した日から、何度かお見舞いに行くと、キヌコさんは色々な話をしてくれた。
彼女の人生だったり、昔話、そして、旦那さんとの馴れ初め。
その中には、彼女の生業にしてきた事も含まれていた。
「私の一族は、代々、まじないを生業にしていた家系でね」
夏の暑い日。
蝉が大合唱する中で、ニコニコと思い出を語っていたキヌコさんは、懐かしむようにそう言った。
「家業自体は、すでに孫のうららが継いだ。
偶に、ほれ、スーツ着た偉そうなのが見舞いに来るじゃろ、あれらは、元の顧客じゃな、仕事は孫に引き継いだが義理堅い人はああしていまだに顔見せに来よるのよ」
今日も、枕元には高級品だと思われるお見舞品が置かれており、既に向かれたリンゴが私の前に並べられていた。
「まじない?」
「うん。最近では呪術士かのう?
ほれ、あにめとやらでも、それを基にしたのがあるのじゃろ?」
「え?何、何か退治したりするの?」
「カッカァ。それは、わしらの生業じゃないのぉ。
気持ち程度にお祓いくらいはするが、それらは神職だったり住職の仕事、他人の領分にズカズカ踏み込んでもいいことなんざないさ。
それにな、そういった仕事は主に修行中の若いのの為の仕事よ。若いころは、良く手伝いなんぞで駆り出されたこともあるが、この年では滅多にせんなぁ」
「ふうぅん、じゃあ鬼なんてのもいないの?」
「いるぞ、鬼」
「「いるの!?」」
なぜか、隣にいたうららさんも驚いている。
「今代の管理者の一人が、粗方始末をつけたからのう、今は静かなもんじゃが、昔はひどかったぞ。
あ奴らは、好んで人の心に巣くうからの。
大きな大戦の後はよく力をつけて暴れておった。ワシの若いころ、やつらを大人しくさせるので飯を食っていた時期もある」
「知らなった……」
「うららは、小さかったからのぉ。
10年も前は、まだよく暴れておった、今代の管理者が修行代わりに押し付けられて良く怒り狂っておったわ」
「強いの?」
ふむ、と言葉を探すようにキヌコさんは、首を傾げた。
「強い、というか、恐い、かのう」
「…恐い」
「うむ、わしは年老いただけが取り柄の、まあ、中堅がいい所じゃ。
だがの、最近、最後の奉公と別件で本家筋に連絡を取ってみたのだが、本家筋の者達ですら彼の管理者の存在を喪失しておった、わしも含めて知っているはずの管理者の存在を忘れておったのよ」
「忘れる?
そこまで強い存在を忘れるなんてことがあるの?」
「あるぞ、滅多には無いが、あまりにも相手の格が早く上がったりすると、それを同じ存在と同一視できなくなって、喪失する。
嘗ての記憶では、強く歪んでいるがそれでも人の枠にとどまっておった。しかし、つい最近知覚した彼の方は既に神の領域に踏み込んでおったわ。
あれは、知って理解している者でなければ同一の存在だと思えまい」
「…そんなことが」
「ねえ、そんなすごい人がいるなら、その人にお願いしたら、願い事がかなうの?」
「…え?」
「…ん?」
不思議そうに首を傾げる二人。
その姿は、年は違えども、血筋を感じる程似通った姿であった。
「どうなのかしら?」
「まあ、そんなこともあるかもしれんのう?」
すまん、面白くない話じゃったな。
そう言って笑う。キヌコさんとうららさん。その後、うららさんは仕事の為席を外し、キヌコさんだけになった。
その段になって、私は、気になっていたことをキヌコさんに聞いてみた。
「ねえ、どうして、お婆ちゃんはその人のこと思い出したの?」
「……ああ、見えたからよ。
嬢ちゃんが生死の境をさ迷っておる時、不憫でな、わしは、お主を迎えに行ったんじゃ
賽の河原で、お主らしき女子を見つけた時、お主は二人と手を繋いでおった。
小さな男の子と、そして、目を合わすことも憚られるお方が一緒であった。
嬢ちゃんはな、たぶん生まれてすぐか、生まれる前に双子の片割れがおったのよ。男の子の方は、お主の欠けたモノを埋めるようにお主に混ざり合って消えた。そして、彼の人はそれを満足げに見送ってから、また下へ下へと、帰っていった」
「…うん」
「それが、かつて見た管理者の至った先だと気が付いたのは、お主が起きた後の話じゃったがな」
遠い目をしていた。
懐かしむような、しかし、どこか畏怖するような。
「どんな人だったの?」
「見えないさ、顔なんぞ。
高さが違いすぎる、見上げる事すら許されん」
ああ、と納得した。
あの時手を繋いだ彼女の顔が見えなったのは、理由があったのだと。
「ただ、不思議な話。
思ったよりは優し気な方ではあったね」
「優しげなのが不思議なの?」
「ああ、そこまで至ってしまった人っていうのはね、もう神様と一緒さ。
自らに実害がない限り私ら人間が何をしたところで、気にも留めない。私らなんて虫けらと一緒なのさ、お嬢さんは、虫に優しい声をかけるかい?
それと同じ感覚だよ」
でも、ボクとつないだ手はとても暖かかった。
「もしかしたら、水子や、小さな子供と縁が深い方なのかもしれないねぇ」
「……水子?」
「ああ、生まれられなかった子どもの魂のことだよ。
親が、中絶したり、流産で流れてしまったりして、生まれる事の出来なかった魂さね。皆待ってるんだよ、親になる人の隣で、自分の体が出来上がるのをワクワクしながら待ってるのさ、ね」
「そうなんだ、じゃあ、その時の男の子も私と一緒に生まれてくるはずだった水子だったのかな」
「そういう事なんだろうね。
お嬢さんの欠けた場所にあの子は綺麗におさまった。多分、生きる根幹ともいうべき確たる場所に、嘗て分かたれたものが綺麗に収まるようにぴったりとね」
もしかしたら、私はお姉ちゃんだったのかもしれない。
もしかしたら、ボクはお兄ちゃんだったのかもしれない。
でも、今は私で、ボクも私で。
「あまり深く考えなさんな、帰ってこれなくなるよ」
「…うん」
夕日が差し込む中、朱い世界の中で、蝉の声だけが響いていた。
「…ボク」
「大丈夫。…坊は、祝福されとるよ」
無意識で伸ばした手が、皺皺の骨ばった手に強く握られていた。
暖かい何かが流れ込んでくるように、体温が移ってくる、いつの間にか、手が冷え込んでいたらしい。
「あの方自身が、きっと、その悲哀を抱えたことがあったのじゃろな。
お主を見るあの方の目はとても優しいものじゃった、顔が見えなくたってわかる。それほどに、坊が生まれてこれることに喜びを感じているものじゃったよ」
「…うん」
あの時掴んだ手は、僕を連れて空を飛んだ手は。
とても暖かった。
「カミサマにお願いごとをしてたんだ」
「そうかい」
「うん、ボクは生まれたい、ボクじゃなくなってもいいから、家族のもとに生まれたいって」
「……そうかい」
「ずっと、ずっと、願ってたんだ―――」
いつの間にか目の前が涙で曇っていた。私は、なんで泣いてるんだろう。
なんで、こんなことを喋っているのだろう。
「そしたら、カミサマが言ったの」
「なんて、言ったんだい?」
「迷子か?って」
「…そうかい」
「不思議だね、その時気が付いたの、ボクは帰る家がわからないんだけなんだって。
カミサマを見た瞬間わかったの、僕の帰り道が」
「……おかえり、坊や」
「…ただいま」
「生まれてきてくれて、ありがとうねぇ」
いつの間にか、ボクは骨ばった小さなキヌコさんの体にギュッと抱きしめられていた。
祖母の様に、母の様に、姉の様に。
ああ、ここがボクの帰る場所だったんだ。
カミサマ、ボクの願い事、叶ったよ―――。
―――その、一年後。
桜の蕾が綻ぶのを楽しみにしながら、キヌコさんは、旅立っていった。
私が、彼女の顔を見た、最後の日。
「バイバイ、お嬢ちゃん」
帰ろうする私の背に、彼女はずっと手を振っていた、でも、その視線はどこか遠くを見ていた。
「またねは、言わないよ。私は、もう、還るだけだからね」
彼女は、理解していた。
もう次は無い、あの時のボクとは違い、彼女は、もう長らく生き抜いていた。
彼女のすべてはあの地にて濾され、星に還って巡り、いつかまた、新しい芽として孵るまで大きな流れに流れていくだけ。
「うん、バイバイ、キヌコさん」
「ああ、そういえばボクの名前を聞いてなかったね」
「ボク…、ボクはね――――。」
朱い夕日の中。
真っ赤に染まった病室は、まるで、あの岸辺みたいで―――。
彼女は、花開く朱い蕾に包まれて、旅立っていった。
長い長い。
果て無き旅に。