【コミカライズ】聖女の辞め方〜庶民聖女は今日も元気に規律を破る〜
「神のご加護がありますように……」
神殿による管理のもと、治癒の力を持った神に選ばれし聖女たちは、今日も健気に奉仕する。
そんな聖女の不思議な力に少しでもあやかろうと、神殿や聖女の派遣先には毎日たくさんの人々が精一杯の寄付金を携え、長蛇の列に並んでいた。
「本日はここまでです」
夕刻の鐘の音と共に、神官はまだ続いている列にそう大きな声で宣言し、神殿の門を閉めようとする。
当然ながら、締め出されそうになった人々はざわりとどよめき、不満の声をあげた。
「そんな!昨日の夜からこの列に並んでいるのですが……!!」
みすぼらしい格好をした男の腕には、風邪を拗らせ肺炎になり、苦しそうに咳を繰り返す幼い娘がいた。
神官はその娘に不憫そうな視線を投げかけながら、それでも容赦なく門を閉める。
ガシャン、と無慈悲な音がその場に響いた。
「そのままお待ちいただければ、明日には聖女様の恵みを受けることができるでしょう。残念ながら、聖女様の力は無尽蔵ではございません。貴方だけではなく、万人が長くこの恵みを受け取るためにも、聖女様には休息が必要なのです」
「そんな……」
男はがくりと膝を突いたが、朝からずっと人々を癒し続けている聖女に休息をと言われてしまえば、それ以上何も言えるわけがない。
「今晩は冷えそうだが、一緒に頑張ろうな。明日になれば聖女様が治してくれて、元気になるぞ」
男は全財産に等しい、なけなしの銀貨をぎゅっと握りしめて、娘を抱えたまま神殿の門の前に座り込んだ。
***
「はぁ、今日も疲れたわぁ〜」
「あなたはまだいいじゃない、今日は貴族が相手だったのでしょう?私なんて、庶民の中でも最底辺を引き当ててしまって、触れるところを探すのが大変だったんだから」
慈悲深い聖女たちも、数人集まれば井戸端会議をはじめるものだ。
人々はそれを知らないだけで、神殿や聖女たちの歴史と同じ時間だけ目にすることができる、当たり前の光景である。
「あら、いつも最底辺は庶民聖女が担当するのに、今日は休み?」
「今日は派遣に行ってるのよ。いれば庶民臭さが移りそうで嫌な気分になるけど、いなければいないで不便なのよね、あの子」
聖女らしからぬ会話を繰り広げながら、きゃはは、と蔑むような嗤いをあげる女性たち。
会話だけを聞けば到底慈悲深い聖女たちの会話とは思えないが、彼女たちが正真正銘の聖女であることは、彼女たち一人一人の横に見目麗しい聖女専用の護衛騎士がそれぞれ控えていることで証明されていた。
「ただいま戻りました」
食事を終えた聖女たちが歓談する中、タイミングよくこの神殿ではひとりしかいない庶民出身の聖女が戻って来る。
鮮やかな装飾品を身に纏った美しい貴族出身の聖女が揃う中、庶民聖女と呼ばれる聖女は神殿から配給されている質素な衣装だけを着て、正装ではあるものの誰もが敬遠して使わない、口元しか見えないベールをかぶっていた。
ある意味このベールそのものが聖女の顔である。
「あら、お帰りなさい庶民……じゃない、シアナ」
「ちょうど良かったわ。明日はシアナ、最底辺の担当ですって」
シアナと呼ばれた聖女は、唯一見える口元で笑顔を作った。
「はい、わかりました」
「最底辺は数が多いから、シアナにおあつらえ向きよね」
嫌味と嫉妬のこもった声で言われ、シアナは返事をせずに頭を下げる。
三年前、十六歳でこの神殿に連れてこられたシアナがこの神殿で一番、ずば抜けて膨大な治癒力を所持しているのだ。
当然ほかの聖女たちは面白く思わなかったが、今まで誰もが担当を拒否する「最底辺」と内輪で呼ぶ寄付金の少ない人々をシアナに押し付けることができるようになったことだけは歓迎した。
「あら、話していたらもうこんな時間。早く部屋へ戻って、イイコトしましょう?」
シアナの帰宅で時計を確認した聖女が、自分の護衛騎士を甘えた声で誘う。
「今日は部屋じゃなくて、中庭にしない?」
他の聖女たちも、それぞれの護衛騎士に意味ありげな視線を投げかけ、護衛騎士たちも「よろこんで」とその手にキスをした。
公の場でいちゃいちゃしだす聖女と護衛騎士をベールで視界に入れないようにしながら、シアナは自分の護衛騎士であるウォリスと食事を済ませる。
ウォリスはどの護衛騎士よりも大柄な体躯の、もっさりとした頭と髭であまり聖女の横に並ぶには適切ではない出で立ちの護衛騎士だ。
一年に一度、聖女は自分の護衛騎士を指名する。
清廉な聖女たちに選ばれた護衛騎士たちは日夜修練に明け暮れ、聖女に仇為す者を撃退する誉ある職だ……というのは、庶民が抱く幻想である。
護衛騎士はお飾りだ。
多少腕に覚えがあるものの、聖女の実家である貴族が抱える私兵に入隊する目的で、護衛騎士に名乗りを上げる。
実力があれば普通に入隊試験を受ければいいものの、いわゆるコネ入隊を希望するのだから、その実力は自ずと知れたものである。
聖女に選ばれるには大事な要素があり、それが「見た目」と「性技」である。
神殿の内部は聖女とその護衛騎士が夜な夜な交わるほどに堕落し、寄付金次第で患者の優先順位をつけるまでに腐敗している。
また、神殿は寄付金を目当てに、聖女たちは治癒の力が枯渇することを恐れて自らの力を出し惜しみし、人々を完治させることはないのである。
神殿にとって、聖女は金づるだ。
だから、シアナのように膨大な治癒力を持った聖女は、どんなに規律を破ったとしても、破門されることはない。
しかし治癒力がなくなった聖女は、神殿に残ることができない。
だから聖女たちも治癒力を温存し、神殿で一年おきにパートナーとなる護衛騎士を代えて夜を愉しんでは、衣食住を整えられる生活から離れようとはしないのだった。
***
この国の女性は、誰しも生まれた時に治癒力を測る水晶に触れることが義務付けられており、その水晶の変化具合で力の有無や大きさがわかるようになっている。
しかし実際のところ、聖女の可能性を秘める女性はそのほとんどが貴族出身なので、庶民でその水晶の検査を受ける者はほぼいない。
シアナはもともと、医療院と呼ばれる施設にポンと捨てられた孤児だった。
本来であればそのまま孤児院に入れられるところだが、医療院に勤める二人の医師は、二人でシアナを育てることを決めた。
十五まで医療院の手伝いをしながらすくすくと育てられたシアナは、十六になると本格的に医療院のスタッフとして働き出し、これでやっと二人に恩返しができると思っていた矢先、医療院の引っ越しを手伝っていた時に事件は起きた。
シアナが埃をかぶっていた木箱の中身を確認しようとした際、木箱の中に入っていた水晶に触れ、それが眩い虹色の光を放ってしまったのである。
治癒力は持っているだけでは発揮できず、どうすれば外に放出して人々を癒す力に変換するのかを神殿から教わることで、聖女となれるのだ。
そのため、シアナが聖女としての潜在能力を持っていることは、それまで誰にも、本人ですらわからなかった。
水晶を虹色に光らせた日から、シアナの人生は変わってしまった。
保護という名目で神殿に連れ去られるようにして入れられ、医療院には毎月一回、仕送りと手紙を送ることだけは許されたが、聖女という肩書がついてしまったために、二人に会うことすら許されなくなった。
神殿はシアナにとって、牢獄のようなものだった。
楽しみと言えば、一日に三回の食事と、治癒した者たちの「ありがとう」という言葉だけ。
「気持ち悪い」
神殿での生活は、一言で言えば、それだった。
男を宛がわれ、飼われるような生活に慣れきって、なんの疑問も抱かない聖女たちも。
そんな聖女たちを崇め奉り、民心をコントロールして金を搾り取る神殿の聖職者たちも。
聖女と夜な夜な行為に耽り、いかに聖女の気持ちを自分に向けるかで競い合っている護衛騎士たちも。
庶民の生活を謳歌していたシアナにとってみれば、神殿での「当たり前」全てが理解できず、そして受け入れがたいものだった。
シアナが護衛騎士を選ばなければならない時、護衛騎士の候補たちは、庶民のシアナに気に入られないよう、表向きの選定試験で怪我を装ったり棄権したり、とにかくやる気を見せなかった。
シアナのベールの下の顔を見てみたいという一部の物好きだけが本気で戦ったが、それをものの数秒で叩きのめしたのが、ウォリスだった。
選定試験は、護衛騎士がその能力を聖女に見て貰う場であるが、結局は聖女が好みの男を見繕って任命するので、勝利を掴んでもあまり意味はない。
「やだわ、何あの野蛮な男」
「でも、髪を切らせて髭を剃らせて小奇麗にすれば、野性味溢れていて、色々なプレイができるかもしれなくてよ」
聖女たちが面白おかしくウォリスのことを話しているのを右から左へ流しながら、シアナはウォリスを自分の護衛騎士に任命した。
シアナが任命した決定的な理由が、ウォリスはシアナが聖女とわかり神殿に連れてこられてから護衛騎士候補となったので、ほかの聖女たちの護衛を務めたことがなかったからだ。
シアナはまだ神殿の暗黙のルールに染まっていないウォリスなら、聖女が夜を共にしなくても受け入れてくれるかもしれない、と考えた。
そして、その予感は的中した。
***
食事と入浴を済ませたシアナは、ぼろ布のようなフード付きのマントを羽織り、行為に耽る卑猥な喘ぎ声と水音をスルーして、こっそりと神殿を抜け出す。
神殿の外には、昼ほどは多くないものの、明日に備えて並んでいる人々が残っていた。
こんな時間に並ぶのは、全て金のない庶民である。
なぜなら金さえあれば、優先して聖女に会わせて貰えるからだ。
シアナは一番最初に並んでいる親子に近づき、「お水を配っています」と言いながら水を載せたお盆の下で、ゼェゼェと息をする女の子にこっそりと触れた。
「ああ、ありがとうございます」
父親がその水を受け取り一口飲むと、娘は水分を補給できるだろうかと苦しそうにしていた胸の中の娘を見る。
すると娘はきょとんとした顔をして「パパ、寒いから帰ろ」と言って立ち上がり、父親の腕を引っ張った。
「だ、大丈夫なのか? 胸は苦しくないか? 咳は出ないのか?」
「うん、もうだいじょうぶだよ! ママと弟が待ってるから、早く帰ろ」
父親はよかったよかったと言いながら娘を抱き上げ、そのまま帰路に就いた。
――シアナは夜な夜な神殿を抜け出して、門の前で待つ重病人を無償で治癒していた。
当然、規律違反である。
因みにシアナが担当した治癒の対象者を完治させてしまうことも、規律違反である。
神殿の関知しないところで治癒力を行使することも、規律違反である。
金にがめつい神殿に違反がばれれば、シアナは破門である。
しかし、それこそシアナの願っていることで、また神殿が金づるのシアナを手放すわけもなかった。
だからシアナは三年前からずっと、自分の身体にある膨大な治癒力を使い切ることに尽力していた。
この無償の奉仕活動は、シアナにとって、自分が医療院に戻るためと、人助けと、神殿への嫌がらせを兼ねた活動だったのである。
「シアナ様」
去っていく親子の様子を眺めていたシアナは、急に後ろから声を掛けられて肩をびくりと揺らした。
「ウォリス、びっくりするから気配は消さないでください」
「それは失礼いたしました」
体格がいいので存在感がないわけではないのに、ほかの護衛騎士と違ってウォリスは気配を感じないので声を掛けられるたび驚かされる。
因みにウォリスには神殿に身を置いたシアナが夜の奉仕活動をしだしたことは、初日からバレた。
聖女の個室の中に護衛騎士の待機部屋があるのでいつかはバレるかもしれないとは思っていたのだが、まさか初日から神殿を抜け出したシアナの後をウォリスにつけられていたとは思わなかった。
シアナが酒場の立ち並ぶ路上で倒れている人を治癒している際、変な男たちに絡まれたところを助けてくれたことで、ウォリスがついてきていたことに初めて気づいたのだ。
ウォリスはシアナの行動を止めることも咎めることもせず、「昼に支障が出るほどの行動はおやめください。夜はしっかり休むべきです」と言っただけだった。
その日以来、シアナの後ろには必ず、昼夜問わず護衛騎士のウォリスが侍っている。
一人で大丈夫だから戻って休んでいいとウォリスに言ってみたこともあるけれど、「シアナ様の護衛が仕事ですので」と返されただけだった。
実際、ウォリスがいるのといなのとでは、安心感が格段に違う。
だからシアナは、ウォリスに甘えてしまっている自覚がありつつも、一刻も早く医療院に戻るため、今日も元気に規律を破っていた。
***
「あら、庶民の聖女じゃないの。護衛騎士と遊んであげていないと聞いたけれど、流石に三年間も放置は可哀想なのではなくて?」
「それとも、庶民聖女のほうが相手にしてもらえないのかしら?」
その日シアナは、勤務前の祈りの時間を終えて、護衛騎士たちの迎えを待機している際、聖女たちに絡まれていた。
げんなりした顔のシアナを助けるよう会話に入ってきたのが、神殿のお局様と言える大聖女だ。
「あらあなたたち、品のない話はもう少し小さな声でなさいな」
大聖女は、御年六十になるはずだ。しかし見た目は四十手前にしか見えず、聖女特有の若作りを体現している女性である。
「大聖女様」
大聖女は悪い人ではないと、シアナは考えていた。
というのも、シアナがほかの聖女たちの分まで進んで散々治癒をした結果、「自分が特別だとでも言いたいのかしらね」「治癒力が枯れることがないとでも思っているのかしら」「いいわね、庶民はどんな底辺の男とでも結婚できるから、神殿を出ても問題ないものね」と嫌味を言われて大喧嘩に発展した際、聖女たちの味方をしながら仲裁したのが大聖女だったのである。
大聖女は、「貴族はね、適齢期を逃せば、みんな実家のお荷物になってしまうの。それが嫌で、神殿にしかいられないのよ。適齢期の間に治癒力を使い切れれば元聖女という箔がつくからいいけれど、適齢期を過ぎてしまえば悲惨だわ。貴族の女は跡取り息子を産んで一人前だと言われるから、極力治癒力を使わず長く神殿にいて、男たちからチヤホヤされているほうが幸せだと考えてしまっても仕方がないと思うの」と、シアナに聖女たちの置かれた現状を教えてくれた。
大聖女のお陰で地位や考え方が違うだけだと理解したシアナは、それ以来聖女たちに自分のことでどんな暴言を吐かれても、腹が立たなくなった。
「申し訳ありません、大聖女様」
「お聞き苦しい話を失礼いたしました」
聖女たちが慌てて大聖女に謝罪すれば、大聖女はにこりと微笑んでそのまま迎えに来た護衛騎士と並んで大広間を去る。
聖女たちはその後ろ姿が見えなくなると「自分だって散々遊んできたくせに」と鼻で嗤い、再びシアナに絡んできた。
「ほら、噂をすれば来たわ。相変わらずむさくるしくて鬱陶しい髪型ですこと」
「けれど本当に、惚れ惚れする体躯ですわね」
腹は立たなくなった――しかし、それは自分のことを言われた場合に限りである。
「溜まったら、私が相手してあげるわよ?」
聖女の一人が近付いてきたウォリスをからかった瞬間、シアナはその聖女の目の前に自分の顔を突き出した。
「きゃ!」
「大丈夫ですか!? シアナ様、乱暴なことはおやめください!」
相手の聖女の護衛騎士が慌てて駆け寄り、自分の聖女の肩を抱いて引き寄せてシアナとの距離を取らせる。
本当は髪を引っ張ったり頬を叩いたりしたいところなのだが、顔を突き出したことすらも乱暴なことになるようだ。
普段は庶民より下品で卑猥な言動をしているため聖女にも貴族にも到底見えないのに、こういう時だけは聖女たちは本当に貴族の集まりなのだな、とシアナは感じる。
「申し訳ないですが、ウォリスには相手を選ぶ権利があります」
シアナは腹を立てながら聖女に言った。
実直なウォリスは、今のところどんなに美しい聖女が声を掛けても、誰の誘いにも乗ったことがないらしい。
あまりになびかないので、聖女の間ではどうやら男が好きなのではないか、護衛騎士の中に意中の相手がいるのではないか、と噂されるほどだ。
育った環境も影響しているのだろうが、ウォリスの相手が誰であろうと、シアナには関係なかった。折角美しい聖女たちの誘惑から逃れ続けているのだから、唯一の相手を見つけて愛を育んで欲しいと願っていた。
「何度も伝えていますが、間に合っておりますので」
ウォリスは平坦な声でその聖女に伝えたが、シアナはその言葉に引っ掛かりを覚えて尋ねる。
「何度も? ……何度も誘われているということですか?」
「はい」
ウォリスは頷く。
「やだわ貴女、本当はウォリスみたいながっしりしたタイプがお好きなの?」
「ちょ、ちょっと、それは私ではないわ! ウォリス、適当なことを言わないで頂戴!」
ほかの聖女に揶揄われた聖女が、その場から慌てて去っていく。それを追いかける護衛騎士は、ウォリスとまではいかなくとも多少がっちりして見えた。
***
「ねぇ聞いた!? 大聖女様が、落籍するんですってよ!」
「聞いたわよ、あの歳で身請けしてくれる相手がいるなんて、驚きだわ」
「でもお相手は爺なのでしょう? 私だったら嫌だわ」
聖女たちが口々に好き勝手会話を弾ませる中、シアナは中庭で護衛騎士と二人、ゆったりと楽しそうに談笑する大聖女に声を掛けた。
「大聖女様、ご歓談中失礼いたします。今少し、お話をさせて頂くことは可能でしょうか?」
「あらシアナ、どうぞこちらへ」
「大聖女様が神殿を去られると伺いました。治癒力が尽きたのですか?」
真っ直ぐに尋ねるシアナに、大聖女は一度目を瞬かせると、クスクスと笑う。
ほかの貴族出身の貴族たちは遠回しに、けれども面白おかしく事の真相を尋ねてくるのに、シアナだけは直球で、かつ切実な問いであることがわかり、大聖女を答える気にさせた。
「いいえ、まだ少し残っているわ。けれども、その残りの治癒力の分をこの人が払って下さると言って」
大聖女の傍にいた初老の護衛騎士が、軽く頭を下げる。
シアナが神殿に来た時には、いやそれよりずっと前から、大聖女が指名する護衛騎士は初老の彼、ただ一人だった。
「私に財力がなく、こんなに待たせてしまって申し訳ありません」
「何を言うの。私はあなたさえいれば、どこでも幸せですよ」
貴族の中でも男爵、しかも跡継ぎではないということで聖女の護衛騎士になった男性は、大聖女を神殿から落籍させて二人で幸せになるために、ただひたすら必死でお金を貯め続けたらしい。
「でも、これからは二人で自由に、どこへでも行けることがとても嬉しいの」
大聖女と護衛騎士の絆に、シアナの目頭が熱くなる。
しかし、泣いている場合ではない。神殿には、シアナが知らない落籍という仕組みがあったのだから。
「残りの治癒力を払うとは、どういう意味でしょうか?」
「ああ……シアナは治癒力が膨大だから、聞かされなかったかもしれませんね。聖女の残りの治癒力で神殿が手に入れることのできる寄付金を計算して、それを払えれば神殿から落籍することができるのよ」
「神殿を出るには、そんな方法があったのですね……」
「ええ。けれど、シアナのように治癒力の膨大な子は、金額が高すぎてまず寄付金を払うことができないわ。私はもう歳だし治癒力も残り僅かだから、なんとかなったけれど」
「そうでしたか。教えてくださり、ありがとうございます。それと……おめでとうございます」
シアナがペコリと頭を下げると、大聖女は綺麗な笑みを返してくれた。
***
自分には使えない手段だったな、と思いながら、シアナは聖女の共同風呂にゆったりと浸かる。
医療院に連絡をすれば多くの現金を持たない二人は借金をしてでもシアナを落籍させてくれようとするだろうから、むしろ知らせるわけにはいかない。
かといって、シアナ自身が借金をして自分を買い取るようお願いできるような親切で信頼できる人もいない。
ふう、とため息をつきながらシアナは温かい湯を両手で掬った。
聖女たちがいない時間を見計らって入るので、辺りには誰もいない。
今日もほかの聖女の十倍の人数を完治させ、更に夜も抜け出して治癒するものだから、クタクタだ。
しかし、聖女たちが嫌がる最底辺と呼ばれる人たちからは、手当ては少なくとも労力以上の感謝とやりがいをいつも与えて貰っていた。
聖女たちは自分が癒した相手の寄付金の数パーセントを手当てとして支給されるので、特に寄付金の少ない庶民の相手を嫌がるのだ。
シアナにも大金があればもう少し早くこの監獄から抜け出せるのかもしれないが、今まで支給された手当てはそのほとんどを医療院への仕送りにつぎ込んでいたので、手持ちはほとんどない。
親代わりの二人の医師からは仕送りはしなくても大丈夫だから、自分のことに使いなさいという旨の手紙が返って来るけれども、その言葉を鵜吞みにしていいものかどうかも怪しいところだった。
いかんせん、彼らの活動は聖女たちよりもよっぽど、見返りを求めない奉仕精神に基づいているからだ。
「……でしょう? ほら、誰もいないわよ。早くおいでなさいな」
「はい、聖女様」
長湯をしながら聖女の辞め方に思いを馳せていれば、静かだった共同風呂に男女の声が響く。
聖女専用の共同風呂であるのに、護衛騎士を誘う聖女がいることにシアナは愕然とし、慌てて湯帷子を絞ることもせずに風呂から脱衣室へと移動した。
「ん……、いいわ、そ……きゃあ!」
「聖女様……うわあ!」
脱衣室ですでにコトを始めていた二人は、いるとは思っていなかった第三者の登場に驚きながらも、シアナの顔を見て呆ける。
自分がベールをかぶっていないことに気づいたシアナは、さっさと二人から見えない場所まで移動すると神殿内用の簡易服を羽織って共同風呂から飛び出した。
「シアナ様、大丈夫ですか?」
「ウォリス」
シアナがなかなか個室へ戻って来ないことに気づいたウォリスが、様子を見に来てくれたようだ。
三年の間で、ウォリスの顔を見ただけで安堵する気持ちを自覚しながら、シアナはベールを装着する。
「顔を見られてしまったかもしれません」
「では、急いで戻りましょう」
ウォリスはそう言うとシアナを横抱きにして、シアナの個室まで規格外の速さで駆けた。
***
次の日から、聖女の共同風呂に初代聖女と思わしき絶世の美女の亡霊が現れた、という噂が広まった。
「……よかった、バレなかったみたい」
シアナはベールの上から、そっと自分の顔に触れる。
シアナは昔から、その美貌で誘拐されかけたり乱暴されそうになったりと、大変な目に遭いやすい子供だった。
育ての親代わりである医療院の二人は、仕方なくシアナの顔には皮膚炎の痕があるということにして、外出する際はシアナにベールをかぶらせたり、医療院の引っ越しも視野に入れるなどして、シアナに降りかかる災いから守ろうとした。
幸いにも医療院は元々移動式の医院で各所を転々としたため、引っ越しに関してはハードルが高くなかったのだ。
医療院は特に戦士や騎士、そして傭兵など傷ついた者たちが多くいる場所を巡り、お世話になった者たちは互いが医療院を害することのないよう牽制しあったため、シアナは無骨な荒くれ者たちに特に可愛がられ、怖い目に遭うことはなかった。
特に辺境伯領へ場所を移動した際は、辺境伯とそこの私兵を束ねる騎士団長が医療院に感謝を示し、保護や援助を約束してくれたので、シアナは安全で快適な唯一ベールを外せる期間を過ごしていた。
辺境伯領の騎士団は統制がしっかり取れており、高圧的な態度を取る兵士もまずおらず、そこでは医療院自体も厚遇され十分な対価を得ることが出来ていた。
しかしどこにでも、ルールを守れない輩はいる。
五年の月日を辺境伯領で過ごしていたが、ある日シアナは領民から乱暴されそうになり、比較的国境近辺も落ち着いて怪我人が少ない時期になったことから、親代わりの二人はその地も引っ越すことに決めた。
そしてその引っ越しの準備をしていた矢先に、水晶が虹色に輝いてしまったのである。
ベールの下の顔を知られれば、ほかの聖女の護衛騎士が自分の護衛騎士になりたがるかもしれないし、そのことでほかの聖女たちの恨みを買うかもしれない。
神殿の中は貞淑とはかけ離れている環境であり、いつ貞操の危機に遭うかわからない。
金にがめつい神殿の聖職者たちは、シアナを高値でどこかへ売り飛ばそうとするかもしれない。
そんな状況の中でシアナにできることは、ただひたすら顔を隠して治癒力を枯らし、自分の商品価値を下げてさっさと神殿から去ることだけだった。
***
「これはどうしたことか。シアナ、お前の膨大な治癒力は、今やほかの聖女たちと大差ないぞ」
聖女たちは半年に一度、水晶に手を当て自分に残された治癒力の量を確認する。
愕然とする大神官を前に、シアナは心の中でひとりほくそ笑んだ。
「シアナにだけ無理をさせたり、完治するまで治癒力を使わせたりはしていないだろうな?」
「ほかの聖女様たちと大差ない時間しか触れておりません」
大神官は怒りを露にして神官たちに詰め寄るが、神官たちも年々通常よりずっと早いペースで減っていくシアナの治癒力について気になっていたため、患者に触れる時間を監視していた。
そのためシアナが突出して長く患者に触れているということもなく、ほかの聖女たちと同等、いやそれより多くの人々を診るために、むしろ短い時間しか触れていないことを確認している。
ただし、それは見掛けだけの話だった。
より多くの治癒の力を授けようとするシアナは、ほかの聖女たちよりずっと前向きに治療に取り組んでいるため、短い時間で治療にあたることができるのだ。
そしてそのことを、神官たちは知らない。
神殿から落籍されるまで、あと少し。
シアナは掌を握りしめた。
――それから更に半年後。
シアナの願っていた時が、ようやく訪れようとしていた。
シアナの治癒力があと僅かであると判定されたのである。
そして護衛騎士の任命日の一週間ほど前、シアナは四年間自分の護衛騎士であり続けてくれたウォリスに頭を下げた。
「ウォリス、今迄本当にありがとうございました。私はもう護衛騎士を指名できる立場ではなくなるので聖女による護衛騎士の任命日にはおりませんが、お元気で」
「四年の間、シアナ様と時間を共にすることが出来て幸せでした」
ウォリスも丁寧に頭を下げる。
「ところでシアナ様、治癒力が枯渇したら、どうなさるおつもりですか?」
「勿論、医療院に戻ります」
シアナの脳裏に、自分を育ててくれた二人の医師が浮かんだ。
二人はこの四年の間に、辺境伯から直に頼まれる形で結局辺境伯領に再び医療院の場所を戻したと聞いている。
シアナの帰る場所は育ての親である二人がいる場所でしかなく、シアナの容姿がどんなにとある侯爵家の行方を晦ました令嬢に似ていようとも、訳あってその令嬢の亡骸が見つかり、娘がどこかに生み落した子供をその侯爵家が探していようとも、その門を叩く気にはなれなかった。
シアナは庶民の自分を気に入っており、特に神殿に所属してからは貴族に対して苦手意識の方が強くなったのだ。
シアナに流れる血が仮に貴族のものであったとしても、シアナは自分が庶民であること、とりわけ医療院の二人の子供として育てられたことをアイデンティティとして重視していた。
「今のシアナ様でしたら、私が神殿から落籍させることも可能ですが、もし差し支えなければ神官に話を通してもよろしいでしょうか?」
ウォリスの続けた言葉に、シアナは目を丸くする。
「それは、どういう意味ですか?」
「シアナ様の治癒力が枯れるまでのお金を私が支払い、今すぐ神殿から解放させるという意味です」
「ウォリスが私のお金を立て替えてくれるのですか?護衛騎士の仕事はどうするのです?私は貴族ではありませんから、騎士団に斡旋できませんよ」
「問題ありません。そもそも私は、シアナ様の護衛をするために護衛騎士を希望したのですから」
聞けばウォリスは辺境伯領の兵を束ねる騎士団長の、ひとり息子であるという。
過去にシアナから負傷した部下や自身の手当をして貰った経緯があり、辺境伯領の騎士団を抜けて聖女になってしまったシアナを追い掛け、護衛騎士候補生に名乗りを上げたそうだ。
ウォリスの他にも、辺境伯からシアナを守るように言われた騎士たちが何人か候補生に紛れ込んだらしいが、シアナが選んだのはウォリスだったという。
「そうだったのですね。ウォリス、巻き込んですみません」
「何をおっしゃいますか、シアナ様。シアナ様が医療院へ無事に戻られるまで、許されるならば戻ったあとも、お傍に侍らせていただければと思います」
自分の身請け金を立て替えてくれるというウォリスの提案に、シアナは何度も頷いて感謝を口にした。
ウォリスに借金する形になろうとも、シアナは聖女を辞めたかった。
そして任命日の前日までにウォリスは神殿と話をつけて、シアナを落籍させることに成功した。
「お待たせしました」
聖女の正装やヴェール、その他神殿から借りていた聖女の物品一式を神官に返却したシアナは、通り過ぎる時に足を止め、口を開けたまま呆けた聖女や神官たちには目もくれず、聖女たちに囲まれていたウォリスに声を掛ける。
それまでだんまりを決め込んでいたウォリスは、私服姿のシアナの登場に組んでいた両腕を下ろして一礼し、初めて微笑んだ。
「その声……、まさかシアナ?」
「えっ!?じゃあ、この方は」
髪は短く、髭は剃り、数才若返ったかのようにさっぱりとしたウォリスに群がっていた聖女たちは、シアナとウォリスを交互に見て唖然とした表情を浮かべる。
「今までお世話になりました」
見送りというより、見物に近い形の元同僚に二人で声を掛けて頭を下げると、「ま、待ちなさい、シアナ!」と神官たちがその行く手を阻もうとする。
「私はここにいる必要のない人間ですので、そこを退いていただけませんか?」
シアナはもう神殿所属ではないと強調しながらにっこりと笑う。
「大神官様が君を手放したのは何かの間違いだ、今確認に向かわせているから……」
神官たちはそう言いながら、チラ、チラ、とシアナを見る。ようは、シアナの容姿を見て本来の商品価値に気付き、もっと値を吊り上げようという話にほかならない。
「神殿や大神官様との契約は、そんなに軽いものなのですか? 私は確かに提示された金額を支払いましたし、こうして確かにシアナの身柄を引き受けたという証書も発行されているのに、神に誓いを立てる神殿の者たちがこうも簡単に間違いを犯すものなのですか?」
シアナと神官の間にウォリスがずいとその巨体を入れ、鋭く蔑みを含んだ視線で上から威圧する。
「いいえ、そういう意味ではありません。ただ、シアナは治癒力が元々膨大で……!」
「話になりませんね。私たちはもう失礼いたします」
ウォリスはシアナをひょいと横抱きにするとそのまま駆けて門をくぐり抜け、神官や聖女たちの前からあっという間に姿を消した。
「シアナ、これを」
「ありがとうございます、ウォリス」
医療院にいた時のように話すウォリスに親しみと喜びを感じながら、シアナは顔を隠せるような大きな帽子をウォリスから渡され、それを目深に被った。
***
辺境伯領までの道のりは、順調すぎるほどに順調だった。
神殿へ向かうときは育ての親と引き離され、外界から隔離されるように連行されて心細さや悲しみや後悔や不安しか抱えていなかったのに、今は希望に満ちた日が自分を待っているような気がして期待に胸が躍り、途中に立ち寄った街も存分に周って楽しむことが出来た。
気持ちひとつでこんなにも違うものかとシアナは不思議に思う。
馬車の中で一定の距離を保ったまま隣に座るウォリスを覗き見しながら、きっと彼がいるからこそここまで安心できるのであり、旅行気分を味わえるのだろうなとひとり頷いた。
「ウォリス、神殿から発行された証書を確認させて貰えませんか?」
「はい」
シアナがお願いすると、ウォリスはすぐにその証書をシアナに手渡す。
証書にはシアナの想像以上の金額が書き込まれていて、思わず気が遠くなった。
「……ウォリスに借金を返済できる日がいつになるのかわかりませんが、少しずつでも必ず返しますので……!」
わざわざ借金まみれの娘を嫁に貰おうとする人は少ないだろう。
シアナは大金持ちと恋に落ちない限り一生独身かもしれない、と覚悟を決めながら、それでも抜け出したかった場所から救ってくれたウォリスに誓った。
「お金のことは気にしないでください。辺境伯からも父からも、そして医療院からもシアナを取り戻すよう強く希望されていましたので。この証書がシアナを縛るものだとわかっておりますので心情的には破って差し上げたいのですが、それですと神殿から文句をつけられた時の証拠がなくなります。どうか手元に残すことをお許しください」
「勿論です。私のためにこんな大金を立て替えてくださるなんて、感謝しかありません。ウォリスがいなければ、私はまだ神殿に閉じ込められたままでしょうから……」
「シアナは本当に、自分のことをわかっていませんね」
「え?」
シアナの言葉にウォリスは目を細めて笑った。
どんな大金を払ってでも、シアナを手に入れたいと思う男はいくらでもいるだろう。
ただ、そのタイミングを一番に知ることができ、チャンスを手に入れたのが自分だったというだけだ。
「私はシアナのために身請けしたのではなく、自分のためにしました」
「え?」
「聖女とは結婚ができないので」
「え?」
「私はシアナと出会ってから、ずっと貴女に恋焦がれていました。これからは全力で私を好きになっていただけるよう努力しますので、どうか私を異性として見て頂けませんか?」
「ええ?」
ウォリスはシアナの手をすくい上げるとその甲にキスを落とし、求愛する。
一方、専任の護衛騎士でいながら一切性的な意味で触れようとしなかったウォリスがそんな想いを抱えているとは知らなかったシアナは驚きに目を見張った。
「ウォリスは、神殿で……その、私に何も望んでこなかったのに?」
ウォリスは親切だったが、ずっと事務的だった。
だからシアナはウォリスからの好意に全く気付かなかったのだ。
「シアナが護衛騎士に望んでいることは護衛のみだと理解っていて、そんなことを望むほど愚かではありません」
確かに、万が一ウォリスにそんなことを提案されれば自分はがっかりしていたか、下手をすれば軽蔑していたかもしれないとシアナは頷く。
シアナはウォリスを気に入っていた。
だから四年も続けてウォリスを指名したのだ。
ウォリスがあの野暮ったくむさくるしいと思わせる姿を取っていたのは、シアナと同じく、ほかの聖女から指名を貰わないためだったのだろう。
「シアナが聖女でなくなる日を夢見ていたのは、私も同じなのです」
ウォリスは端正な顔をふっと緩め、優しい眼差しでシアナを見つめた。
思わず胸がドキリと鳴って、シアナは慌てて視線を窓の外に向ける。
しかし、四年間という歳月をずっと見守り続け、告白をしてくれたウォリスには本音で返事をしなければという気持ちが強く、そのまま口を開いた。
「……私も、ウォリスが好きです。けれど、私の抱えている気持ちが異性としてなのかは、わかりません」
シアナが正直に話せば、ウォリスは嬉しそうに笑った。
「今はそれで充分です」
やがて長い道のりを経て辺境伯領に到着したシアナは、四年ぶりに育ての親に再会することができた。
再会を喜ぶ二人とシアナは、抱き締め合いながらぽろぽろと涙を流す。
医療院で再び元気に働き始めたシアナは、本当に重症の患者に限り聖女の治癒力を解放して治癒力が尽きるまで奉仕した。
そしてようやくその能力が枯渇したことを水晶に手をあてて確認したシアナは、これで神殿に引き戻されることはないだろうと、育ての親と共に安堵のため息をついた。
そしてウォリスとは何度かデートを重ね、一年後には正式に交際をスタートした。
ウォリスは騎士団長だった父が現場を離れて指導者側にまわったのち、その実力で同じく騎士団長にまで上り詰めた。
そんなある日のこと。
シアナがウォリスの部下の手当てをしている中、明らかにその場で傷が回復していくことに気付いた二人は、目配せし合った。
「どういうことでしょうか?私の聖女の力はなくなったはずなのに……!」
頭を抱えるシアナに、ウォリスがひとつの仮説を立てる。
聖女の治癒力は、使えば減っていく。
枯渇すれば、当然治癒力は発揮されなくなる。
しかし、使わなければ徐々に回復していくのではないだろうか。
治癒力を枯らさないように努力する神殿や聖女はその事実を知らないし、またシアナのように神殿から逃れるためにわざと枯らした元聖女たちがその事実をわざわざ神殿に言うことはない。
「しかし、枯渇したことで追い出された今までの聖女たちは、なぜ治癒力が回復したことで神殿に戻ろうとは思わなかったのでしょうか?」
「どうでしょう。もしかすると、神殿に戻らなくていいほどその頃の生活に満足していたのか、治癒力を神殿に奪われることを嫌った誰かが聖女を閉じ込めたのか、もしくはシアナと枯渇したほかの聖女たちにはその力の回復にも隔たりがあったのか……なにかしら理由はありそうですね」
「そうですね。でも、できたらウォリスが言った、一番目の理由であって欲しいと思います」
生まれた時から神殿に入れられ、飼いらされたような生活を送っていた聖女であっても、外の世界や新しい価値観に触れて、楽しく豊かな人生を送って欲しいと心から思う。
「しかし……万が一にもシアナのことが神殿にでもバレたら厄介ですね」
ウォリスの言葉にシアナは深く頷く。
「せっかく円満に聖女を辞めたのに、またあの軟禁生活に戻るなんて、耐えられません……!!」
遠い目をして現実逃避をしようとするシアナの目の前に、小さな箱が置かれた。
「これは?」
「……こんな状況になる前からずっとシアナに伝えたくて、持ち歩いていたのですが……」
ウォリスが蓋を開けて、その中身を見たシアナはほぅ、と感嘆の声を上げた。
「まぁ、とても可愛くて綺麗ですね」
「神殿の規約では、聖女は神に仕えるので結婚を許されていません。シアナ以外の聖女は生まれた時から神殿に保護されていたので前例もありませんが、逆に既婚者は聖女になれないという規約もあります」
ウォリスはそう言いながら、シアナの指に箱から取り出した指輪をそっと装着する。
「本当はもっとロマンチックな場所で伝えようと思っていたのですが。どうか、私と一生を添い遂げていただけないでしょうか」
祈りを捧げるように、そのままシアナの指にそっとキスを落とした。
シアナはウォリスの手が微かに震えていることに気づき、敵の大軍を前にしても動じることもなく突進していく彼が、どうやら今この瞬間に緊張と不安を抱えているようだ、と不思議に思う。
シアナはウォリスに好きだと言葉でも行動でも伝えているつもりなのだが、自分の好意に対してウォリスのそれが比較にならないほど重たいことに薄々気付いていた。
治癒力を持った聖女だからではなく、美しい容姿でもなく、育ての両親に似て、本当に辛い状況に陥った他人に心から尽くし寄り添う優しさが好きだと教えてくれた時から、いや恐らくそれ以前から、シアナにとってウォリスは特別だったのだが、まだ伝え足りないらしい。
「ええ、喜んで。……私の治癒力は全ての患者のものですが、私の心は今までもこれからも、ウォリスただひとりのものですから」
「――シアナ、愛しています」
ウォリスは顔を喜びに綻ばせてシアナをぎゅうと抱き締めると、熱いキスを交わす。
シアナにとって、誰かを癒す仕事は天職だった。
聖女でなくても、医療院に捨てられた時から、それが運命だったのだとシアナは信じている。
聖女を辞めた騎士団長の奥様は、領地民に大切にされ、慕われ、尊ばれながら、今日もまたこっそりと傷や病を抱えた誰かを癒すのだった。
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