第一話 愛犬と冬の朝
「うぅ……寒い……」
布団から顔を出すと冷気が頬を撫でる。二度寝をしたいところだが、一日は以外に早く過ぎるものだ。有意義にするには早く起きる必要がある。
「琥珀は早起きだな……」
隣を見ると同居人は、とっくに起きて活動しているようだ。彼を待たせるのは忍びない。僕は用意しておいた厚手の靴下を履き、毛布を肩に掛けると部屋から出た。
「おはよう、琥珀」
「わふっ! わう!」
リビングに顔を出すと、同居人であるゴールデンレトリーバーの琥珀が駆け寄る。そして僕が寒がりなのを知っている為、彼は自慢の毛で足を温めてくれるのだ。
「ありがとう」
「わふっ」
琥珀の小さな頭を撫でる。冷たい指先に彼の鼻を押し付けると、自慢げに鼻を鳴らした。可愛くて頼りに相棒である。
僕の名前は本田陽介。休養の為に地元の田舎へと、相棒と共に戻って行きたアラサーだ。実家からは少し離れた平屋に、一ヶ月前から相棒と暮らしている。田畑が広がる慣れ親しんだ故郷での生活は日々楽しい。
○
「た……大変だ」
「わふぅ?」
ストーブの温風により部屋が暖まり、毛布を脱いだ僕はキッチンで顔を青くする。ご飯を食べ終えた琥珀が不思議そうに顔を上げた。
「パンがない……如何しよう……」
仕事に集中し過ぎていて、買い物をするのを忘れていた。冷蔵庫の中は空であり、我が家にあるのは調味料のみである。お腹が虚しい鳴き声を上げた。
壁掛け時計を確認するが、現在の時刻は午前七時である。スーパーは営業時間外だ。田舎である為、コンビニまでは二時間ほど歩かなければならない。朝の冷え切った空気の中を、歩く気にはなれず座り込んだ。
「ふぅ!」
「ん? 琥珀?」
背中に何かが押し付けられる。振り向くと琥珀がリードを咥えていた。
「あ……あの? 琥珀さん? まさか……」
彼が何を求めているのか理解してしまい、声が震える。しかし目の前で、瞳を爛々と輝かせる琥珀に拒否する言葉が見つからない。僕は観念し、コートに腕を通した。
〇
「わぁ……寒い。息が白くなるよぉ……」
「わふっ!」
刺すように冷たい朝の空気に包まれながら、僕はあぜ道を歩く。足元では霜柱を踏んだ音が響く。情けない声を上げる僕とは対照的に、先を歩く琥珀は楽しそうに尻尾を左右に振っている。彼の嬉しそうな様子を眺め頬が緩む。
「おはようさん!」
「あ、おはようございます。 わっ……」
砂利道への合流場所で、近所の白石さんに出会う。彼は実家の隣に住むお爺さんで、僕が小さい頃からの知り合いである。日に焼けた小麦色の肌に、白い髭が似合うダンディーなお爺さんだ。挨拶を交わしていると、不意にお腹が鳴き声を上げた。
「陽介くん、朝食べとらんのか?」
「はい……仕事に集中し過ぎて、食料がないことに気が付かなくて……」
白石さんの呆れた声に、寒風にさらされて冷たい筈の頬に熱が集まる。羞恥心から小さく呟いた。助けてくれと琥珀に視線を送るが、彼は白石さんに頭を撫でられ嬉しそうに尻尾を振っている。
「そりゃあいかんの……そうや! うちの孫がパン屋始めてな、そこ真っ直ぐ行った所や!」
「え……でも、まだ作業をしているのでは?」
考えるようにトレードマークの白い髭を撫でると、閃いたと大きな声を上げた。有り難い提案だが、七時台は開店準備をしている時間である。パン屋は早いところで九時、遅いところでは十時に開店するからだ。
「午前中限定らしいから大丈夫や! 今さっき顔を出して来たところや」
「あ、では行ってみますね。ありがとうございます」
「わん!」
自信満々に笑う彼からの情報に一安心をする。琥珀と共にお礼を告げると、教えて貰った道を歩き出した。
〇
「良い香りがしているね……」
「わふぅ!」
白石さんと別れた所から更に十五分程歩くと、一軒の古民家へと辿り着いた。表には木のテーブルが三つ程並び、開いた店の引き戸からはパンの焼ける良い香りが漂ってくる。
「いらっしゃいませ! 待っていたわ! 陽介くん」
「日和ちゃんだったのか……あれ? 何で僕が来るのを知っていたの?」
硝子戸が大きく開くと、小麦色の肌に黒髪を纏めた女性が出迎えた。彼女は白石さん宅のお孫さんで、僕の幼馴染みの白石日和ちゃんである。
彼女がパン屋を始めたことにも驚きだが、僕がここを訪れることを知っていたことに疑問が浮かぶ。
「ふふ……お爺ちゃん、スマホデビューしたの!」
「おぉ……成程……」
日和ちゃんがかざすスマホには、お爺さんとのトーク履歴が表示されていた。連携の取れた孫と祖父である。
「くぅ?」
「この子は琥珀。琥珀、彼女は幼馴染みの日和ちゃんだよ」
連携に関心をしていると、琥珀が首を傾げていた。家の周辺住民とは挨拶を済ませたが、彼女とは初対面だったことを思い出す。しゃがみ、琥珀と彼女にそれぞれ紹介をする。
「あら、可愛い子! 初めまして、琥珀くん!」
「わふぅ!」
琥珀の頭を撫でる彼女と、嬉しそうに尻尾を振る琥珀。二人の仲が良い様子に頬が緩む。
「うっ……」
「あ! そうだ。お腹が空いていたのよね! ごめんね、そこのテラス席なら琥珀ちゃんと一緒にご飯を食べることが出来るわ!」
不意に僕のお腹が鳴き声を上げた。再び顔が熱くなる。日和ちゃんは、立ち上がると店内へと駆け出した。僕は指示された通りに近くの椅子に腰掛け、琥珀のリードを結んだ。
「お待たせ! 食品アレルギーないよね?」
「……うん、大丈夫だよ。ありがとう」
五分程すると、珈琲の香りと共に彼女が気のトレーを運んで来てくれた。半熟玉にサーモンとアボカドに、とろけるチーズのホットサンド。グラタンパンにチョココロネ。美味しそうだが、些か量が多くないだろうか?
「如何したの? あ、珈琲にお砂糖使う?」
「いや、大丈夫。その量が……多いかな?」
日和ちゃんが不思議そうに首を傾げる。折角用意して貰って難だが、僕は正直に彼女に小食であることを伝えた。
「入る量だけ食べれば大丈夫よ。残りは持ち帰り用に包むから、無理しなくていいわ」
「……うん。いただきます」
僕の主張に嫌な顔をせずに、助け舟まで出してくれる。優しい幼馴染みに感謝しながら、ホットサンドを一口齧った。すると食パンのサクサクとした食感が響くと、チーズの甘味が口に広がる。更に咀嚼すれば良い塩加減のサーモンと、濃厚なアボカドが絶妙なハーモニーを奏でる。
「ん! 美味しい! 日和ちゃん、美味しいよ。凄い!」
「ふふっ……そうでしょう。自信作だからね」
子どものような率直な感想を口にする。彼女は昔から変わらない、向日葵のような笑顔を向けた。珈琲を飲むと、程よい酸味が口をすっきりさせる。
「パン屋さんになったって知らなかったよ。凄いね、日和ちゃん……」
「地元で何かしたかったか、調理師免許取ったのよ。爺ちゃん婆ちゃんって朝早いじゃない? だから早朝パン屋なら、散歩のついでに来てくれるって算段よ」
「盛況なようで良かったよ」
「おかげさまでね!」
幼馴染みが活躍している姿を見ることが出来て、僕は大変満足である。昔から人の行動を観察する力に優れている、彼女ならではの商売方法に感心する。
「そうだ……言い忘れていた」
「?」
不意に彼女が真剣な表情をするので、思わず身構える。
「お帰りなさい、陽介くん」
「……っ! うん、ただいま……」
屈託のない笑みを浮かべた彼女に、僕は数回瞬きをした後に返事を返した。
〇
「良い散歩だったね、琥珀」
「わふぅ!」
食べきれなかったパンと、明日の朝食用に購入したパンを抱え帰宅する。すると、玄関先に野菜や紙袋に入ったタッパーが沢山置かれていた。
「実家と……白石さんからかな?」
「わん!」
如何やら僕がお腹を空かせていた情報が、実家まで共有されているようだ。タッパーには実家からの作り置きおかずで、ご丁寧にお米まで置かれている。琥珀が匂いを嗅ぐと正解だと、鳴き声を上げた。
優しい人達だと感謝しながら、荷物を家へと運んだ。