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ヴィオレッタは改めて家の中に向き直った。
小さな玄関ホールだった。
そうは言っても、平民の家としてかなりの広さのように思う。富裕層の多い住宅街の中でもやや大きめの家かもしれない。天井も、ヴィオレッタの頭よりはずいぶん高いところにある。
公爵令嬢として当たり前に貴族屋敷で過ごしてきたヴィオレッタが、前世の記憶を差し引いても狭苦しさを感じられないのだから、やはり空間の使い方が良いのだろう。
とりわけ天井の高さを意識しているようには見えないから、住む人の背がよっぽど高いことを念頭においての造りなのかしら。
あまり平民の家では見られない設計だ。
例えばエルフはすらりとスタイルが良いし、獣人は大柄な体格の者も多い。そうした異種族を迎え入れることが考えられている家は、どんな簡素な様式でも、自然天井は高くなる。
どれだけ平凡な造りに見えても、平民印を冠する者の家、ということなのでしょうね。
ホールの左側の空間には、二階に続く螺旋階段。
かなり余裕のある造りで、前世の記憶から老後も登りやすそうだと咄嗟に考えてしまう。
一方右側はすぐに壁になっていて、こちらに靴箱や鏡と言った雑具が寄せられている。
右側の壁には扉も取り付けられていた。
開けてみると、対面したのは窓に面した流し台。広々とした洗濯室で、流し台を挟んだ両脇の壁にもそれぞれ扉がある。
浴室やトイレに繋がっているのでしょう。
ホールを抜けて廊下に出てれば、左手に扉がある。右側にはないのは、きっと壁の向こうに水回りの部屋があるからだ。
扉の先は応接室のようだった。
ただ、どのソファーの座面にも何かの資料らしき紙束や本が載っていて、ローテーブルのちょうど真ん中に、でんと分厚い辞書とメモ帳が据えられている。花瓶は空で、横転していた。
......わざとなのかしら。
本来はこの部屋で家主を待つべきなのでしょうけど、ここで待っていいものかどうか判断を決めかねたので、次に進むことにした。
あの資料も、人目に触れて良いものなのかわからない。
次の扉は左右両方にあった。
左は書斎だった。この部屋こそ他人が勝手に入ってはいけない場所だと思うので、すぐに後にする。
気になるのは、どうも先ほどの応接室に繋がっているらしき扉があったこと。プライベートな空間なはずの書斎が、客人を迎え入れる応接室に繋がっている......あの部屋は本当に応接室だったのかしら?
右の扉は、とても広い台所だった。ダイニング・キッチンと言うのかしら、調理するための空間とダイニングテーブルがあって、壁には食器棚が並んでいる。
どうやら右側の部屋はこれで終わりらしい。
書斎の向こう、左の最後の扉を開けてみると、ファイリングされた資料が棚に仕舞ってある部屋だった。
やはり勝手に入ってはいけないだろうと、扉を閉める。
結局、安全に入れるのは台所くらいのようだ。
さすがに勝手に二階も見て回るわけにはいかないだろう。ただでさえ、許可なく一階を見て回ってしまった。
台所でまず目に入ったのは、小ぶりなダイニングテーブル。辛うじて二つ揃えたに違いないことが良く伝わってくる、椅子二脚。
一脚には、読みかけらしいしおりの挟まったたくさんの本が積んであった。こんなところにも本がある。
もう一脚は明らかに家主が普段から使っているもので、待っている間に我が物顔で座っていいものか悩ましい。
庭に面した突き当りの壁はほぼ全面が調理スペースで、中央の大きな調理台から、左がコンロ、右が流し台となっていた。
壁際の調理スペースと、ダイニングテーブルに挟まれる形で、その真ん中の空間にもまた別の小ぶりの調理台がある。たぶんだけれど、ここでパンやパイの生地を用意したり、お菓子を作ったりするんじゃないかしら。
だというのに、この広い調理スペースで目に見えて置かれている調理器具は、コンロにかけられたフライパンと、調理台の上に乗せられた薬缶のみだった。
小ぶりな方の調理台に至っては本来の使い方もされず、紅茶缶が一つに、マグカップと空の水差しが置いてあるだけ。
廊下側の壁の大きな食器棚に収まっているのは、いかにもな大量買いの白い食器類。
ダイニングテーブルの上には、本の積まれていないの椅子の近くに、グラスと畳まれた新聞がぽつんと置いてあった。
それくらいのものだ。
......なんというか、とても一人暮らしの男性らしい家ねえ。
清潔だし、整頓されているし、きっと自炊もしていらっしゃるのでしょうけれども。
広い台所が勿体ないと思ってしまうのは、前世に料理をしていたからかしら。
どちらにせよ、腰を落ち着けられそうな場所はなさそう。
そしてお孫さんはいらっしゃらなさそう。
小さな調理台に近寄って、触れない程度に、マグカップの取っ手にそっと自分の手をかざしてみる。
取っ手が大きい。
どれくらいの手の大きさになるのかしら......身長はどのくらいあるのかしら? もしかしたら天井の高さは来客のためなどでなく、この家の主人のためなのかもしれなかった。首が痛くならいといいけれど...。
手持ち無沙汰に調理スペースを眺めて回ることにして、ヴィオレッタはややコンロ近くの床に引き上げ式の扉を見つけた。あら、もしかして地下貯蔵庫まで...。
壁沿いの調理台は右端で途切れ、その代わりに庭へ続く勝手口がある。
ヴィオレッタは勝手口も開けた。
せめて庭には、少し座って待てるベンチでもないものかと思ったのだ。あるいは、あまり気を遣うことなく、何かやれることでも見つけられないものかと。
そうして出た庭はというと、まあ、これはこれでなかなか素敵だと思った。
台所のちょうど反対側あたりの壁に蛇口が取り付けられていて、その傍らには鍬や鋤が立てかけられてある。
地面に置いてある剪定鋏も使った様子があるし、荒れているにしても枝や雑草で視界が遮られるほどではないから、きっと定期的に手を入れられてはいるのでしょうけど......ううん......お忙しいのでしょうね。
そのことは、部屋を見て回っただけでも良く分かった。
ベンチは探せばあるかもしれないけれども、少なくとも今すぐ使えそうなものはなかった。
中央にかつては水盤か噴水だったものがあるようだけれど......見事に土に埋まっている。
でもこれは、やることは見つけられたのではないかしら。
公爵令嬢という身分では、手仕事なんてとてもできたものではなかった。せいぜい、たしなみとしての刺繍くらい。でも今はそんな身の上でもないのだし。
家の土台の石積みまで、わずかに土汚れが届いている。よく見ると足元にも土の中にレンガが。
庭仕事とまではいかなくても、ここを綺麗にするくらいはできるのではないかしら。
勝手に家の物に触れるのも気が引けるけれど、何もせずにいるのもねえ。
なにせ、相手の方には会ったこともないとはいえ、ヴィオレッタもうこの家に嫁いでいる身なのだ。お客様に甘んじるのはいけないのではないかしら。
貴族との婚姻では妻の役割も違って、あまり勝手がわからない。簡単なお見合い結婚のようなものだと考えてはいるのだけれど、それも前世のものとどれだけ似ているのか...。ヴィオレッタとしてこの世界で生きてきた分には、まったくわからない。
せめて夫となった方が戻って来られたとき、少しでも何か快適にしておきたい。第一印象は良くしておきたいものねえ。
それでヴィオレッタはブラウスの袖をまくり上げ、壁から長い柄のブラシを取り上げた。
「水よ」
簡単な言葉で空から水を生み出す。
とりあえず、軽く土汚れを落としておきましょうか。土と水の魔法を上手く使えば、案外簡単に落ちるかもしれないわ。
しまった、髪が邪魔ね。何か留めるものも買っていればよかった。
ヴィオレッタは満足げに仕事の成果を眺めていた。
家の外壁下には、灰色のレンガの礎が整然と同じ高さで続いている。石積みだと思っていたものは、くすんだ色合いのレンガだった。
その上の漆喰壁もざっと水で洗い流したことで、あらかたの土埃は落ちている。
足元にも同じレンガの石敷きが見え、それがどうやら庭の小道として続いていたらしいことも見て取れた。
ヴィオレッタはしげしげとレンガを見下ろす。
大きさこそある程度揃えているものの、形も色合いも不揃いで、ばらばらに製造されたレンガの寄せ集めで道を作ったようだった。レンガ自体も経年で擦り切れて、土によく馴染んでいる。
ということは、小道も本当に庭の管理をやりやすくするために敷かれたのだろう。
敷石の形状や敷き方まで、装飾として整えられている貴族の庭ではまず見ないから、なんだか物珍しい気分だった。
ついで、その小道がどのように庭を巡っているのかと、庭の歩けるところまで痕跡を辿ってみる。
その途中途中で、萎れかけの花を摘んだり、折れたまま引っかかっている枝を取り除いたりした。
埋もれいている水盤は、魔法を使えば引き上げられそう。
たまに果樹に行き当たることもあったけれど、庭の自由奔放さに反して、どれも虫や病気がついていることはない。そのあたりの手入れは欠かしていないようで、家の主人の人柄が見えるような気がする。
お庭を楽しませてもらったヴィオレッタは、花をいくつか摘んで室内に戻った。
小さな方の調理台を少々使わせてもらって、花を並べる。ひとつひとつを手に取って、色合いや長さを確かめながら編んでいく。
花瓶はこの部屋に見当たらなかったから、花輪にして飾ろうと思ったのだ。
前世はお花をやっていた。生け花だけではなくて、今どきの、そうそう、フラワーアレンジメント。懐かしいわねえ。
器にも生けたらだめかしら。来客用の食器なんて使わないでしょうし、カップに生けるだけでもだいぶ変わるのだから。
他に何かやっておけることはないかしら...。
レイモンド殿下によると、その方は平民で、祖父ほども年上で、成り上がりでお金持ちらしい。そしてわたくしとお似合いだとか。これだけではほとんど何もわからない。
紅茶缶があるから、お茶を出してはいけないかしら。貴族令嬢の身分で家事は好まれなくても、お茶に関しては趣味のひとつとして身に着けておいたから、なかなか上手に淹れられる自信がある。
そうつらつらと考えながら、ヴィオレッタが出来上がった花輪を一つずつ窓枠に飾っていたときだ。
ガチャン、と音がした。
それから小さくカチカチと、ヴィオレッタも聞き覚えのある音。ちょうど、この家の扉が開いたときの音だ。
「あら......」
少なくとも、お茶について悩む必要はなくなった。
それから施錠する音。足音が廊下を通して近づいてきて、そして無造作に台所の扉が開かれる。
足音は持ち主と一緒に部屋に入り込んだ。
ダイニングテーブルから椅子が軽々と引かれ、そこに腰掛けながら手にしていた杖を背もたれに立てかける。
片手でテーブル上のグラスを引き寄せながら、もう片方の手の指が空中でピアノを弾くかのように軽やかに踊れば、まるでセラムの花弁のように調理台から水差しが飛んでくる。
ひとつ指を鳴らした音で、水差しは水で満たされた。それがグラスに注がれる。
「あら......あら、まあ......」
まあ。なんてこと。
さすがのヴィオレッタも少し驚いて、口元に手を寄せる。
もう一脚の椅子の座面に積まれた本に気を取られているらしく、ほとんど無意識の仕草でグラスから一口飲もうとしたとき。彼はテーブル上の花輪に気づいた。
ゆっくりとグラスがテーブルに戻された。
気に入っていただけたかしら。
予想外なことに少々そわそわしつつも、ヴィオレッタは出迎えの挨拶を述べることにした。
「お帰りなさいませ、旦那様」
視線がヴィオレッタに跳ね上がる。
真っ白な髪。長いお髭。この国で持つ者はひとりしかいないだろう、背の高さほどもある、魔法使いの杖。
「メイユール嬢......?」
王国で最も強力な魔法使い、一代にして計り知れぬ功績を築き上げた偉大な臣民、そしてヴィオレッタがつい先ほど追放されたフォルティア学園の──
何を隠そう、ウォルター・カルフール学園長である。
びっくりねえ。